ルカによる福音書21章5〜19節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
先週の木曜日、私と山口さんと、澤田さんの3人で、元村さんのご自宅を訪ねました。退院されてから初めて元村さんとお会いすることができ、至ってご本人はお元気な様子で、交わりのひと時を過ごし、聖餐の恵みに共に与ることができました。この時に、また入院されている時も元村さんはこういうことを言っていました。「まさか自分がこんなにも早く、このような病にかかり、不自由な状態になるなどとは夢にも思いませんでしたよ。それに自分だけがそう思っていたわけではなく、周りの人からも、私は人一倍健康で、病とは縁がないのだろうと言われていましたから、尚更今の状態が信じられませんでした。健康な内は、自分はいつまでも健康で、何でもできて、好きな所に、好きな時に行ける。そんな自由があった。自分の肉体が思い通りになると思い込んでいました。しかし、今回このように病を患って、苦しみを経験して、自分の肉体を初めて知りました。いつまでも健康でいられると思っていたけど、それ故に、かなり無理をしていたのだと振り返れば思い起こしますね。今思うことは、今まで自分が守られ、支えられてきたのは、信仰のおかげだと思います。」元村さんが言われた信仰のおかげというのは、神様との関係において、その交わりにおいて自分が生かされてきたという感謝の思いから出た言葉だと思います。元村さんのこの言葉を聞いて、私は、自分の力でなくして、他者のおかげ、他の力において生かされている自分の存在というものに改めて気づかされました。自分の思い通りになっていると思える自分の肉体、自分の人生が、どれほどはかなく有限なものであるか。病を患ったり、傷ついて初めて知ることができる自分の欠けというもの。私たちは普段そういうことをあまり認識しません。認識できないのかも知れません。そうすると、感謝をしなくなる、祈らなくなる、物事の結果だけを見つめて、損得勘定に縛られる。うまくいかないと、そこに生じるのは不平不満が多く、理不尽さにばかり目が行き、なかなか自分を顧みようとすることができなくなってしまう。自分の欠けというものに気付くことができないものです。
どんなに立派で、どんなに美しく、どんなに力強く雄々しいものでも、形あるものはいずれ崩れ落ちる。私たちの目に見えるこの世界は有限なるものに満ちています。私たちはそのことを知っているようで、知らない。知る機会が非常に少ないのかも知れません。
今日の福音の冒頭で、ある人たちが、見事な石と奉納物で飾られている神殿について話し、それに見とれている場面があります。この神殿とはエルサレムの神殿です。彼らが見とれていたその時代の神殿は、クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王が増築し、立派なものにしたものだと言われています。イスラエルの王様としての立場と、その自らの権力と繁栄を象徴しているのが美しく装飾されているこのエルサレム神殿です。その神殿に見とれている人々に対して、主イエスの言葉は手厳しいものです。この立派な神殿も、あとかたもなく、崩れ去る日が来るだろうと予告するのです。この神殿も人間が造った有限なものの一部に過ぎないと言うことです。
彼らは戸惑いを隠せなかったでしょう。ただ事ではない、大変なことが起こる、そういった不安な思いから、主イエスに尋ねたことでしょう。「そのことはいつ起こり、どんな徴があるのですか」と。主イエスは予告します。天変地異があり、戦争があり、人々の間に混乱がると。だから、惑わされるな、怯えるなと言われます。しかし、主イエスがここで語っているのは「世の終りとはこういうことだ」ということではありません。世の終りはすぐには来ないというのです。世の終り、終末と聞けば、私たちは全てのものの滅びを想像します。それが天変地異や戦争などによって引き起こされるかと考えます。主イエスの言われる「終わり」とはそういうことではない、それらは世の終りに来る前の徴に過ぎないというのです。ですから、完全な滅びが「終わり」ではない、その先があるということです。
「終わり」という言葉ですが、英語ではEND。誰でも知っている簡単な英単語ですが、このENDは他にも「目的」という意味があります。ここで使われている「終わり」という言葉も、元の原語では「テロス」という言葉ですが、この言葉も「終わり、目標、目的」という意味があります。目標、目的があるのです。物事には終わりがある。終わりがあるのは始まりがあるからです。その目的は始まりからあります。どんな目的を持って、物事を終えるのか。様々です。世の終りという主イエスが言われる目的は何でしょうか。神様が創ったこの世界、そこに終わりが来る。神様が目的を持って、この世を愛するためにこの世界を創られたのですから、終わりにも意味があります。それは完全な救いです。主イエスキリストが再びこの世に来られて、死者が復活する。ようするに死が滅ぼされるのです。その救いが完成される、成就するということ、それがこの世の終わりです。神様の全き愛の内に、この世界にはじめと終りがある。ですから、終わりには希望が示されているのです。その希望を見据えて、今の私たちの生き方が問われています。しかし、先に希望があるから、もう安心だ、何もしなくていいとは、聖書は言わないのです。12節以降で語っている主イエスの言葉は、そういうことです。
世の終り、終末の徴の前に、迫害が起こる、牢に投獄される。家族と言う身近な人にさえ裏切られ、殺される者も出てくる。そんな嵐の只中に置かれている現状で、主イエスは19節で言います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」世の終り、終末の徴の前に、今の私たちに主イエスはこう語ります。忍耐するということ。私たちは忍耐を教えられます。忍耐を経験します。そういう時がある、でもそれは一時的なこと、特別なことで、普段は忍耐しない、そもそも忍耐なんて出来れば誰しもしたくないと感じるのではないでしょうか。重荷を背負いたいと思いますか。忍耐することを教えられたって、理不尽なことに遭遇すれば、忍耐するどころか不平不満がまず出る。なんで自分がこんな目に合わないといけないのかという本音が出る。今遭遇している環境を嘆き、自分の苦しみを知ってほしいと訴えたくなる。そういうことはよくあります。そして、忍耐できるとすれば、その先に希望があるという確信を抱くという理解があります。「忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉を聞いたことがあるかと思います。希望があるから、忍耐できる。教会も激しい迫害下の中にあって、彼らを支え、希望を与えたのは、主イエスキリストが再びこの世に来られるという希望を抱き続けたという側面もあるからです。
「忍耐」という言葉ですが、主イエスは19節で「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言いました。忍耐してとは言わず、~によってという手段です。逆説的に言えば、忍耐しないと、命はかち取れないということです。「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかりました。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということです。忍耐するということは、重荷を背負います。主イエスの名によって、王や総督の前に引きずり出されるということは、主イエスに名に留まる、忍耐するということです。
「命をかち取りなさい」、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。忍耐する、主イエスの御許に留まるということは、主イエスの復活の命に与るとも言えるでしょう。復活の命に与るということは、古い自分を殺すと言うことです。古い人に死に、新しい人に生きる。そうしますと、忍耐するということがどういうことなのか、具体的になってくる気がいたします。
昨日、私は、山口さんと一緒に、渡辺和子先生という、カトリックのシスターの方の講演を聞きに、立教大学まで行ってまいりました。以前説教の中でも、渡辺先生の本をご紹介したことがありましたが、渡辺先生は岡山県にあるノートルダム清心学園の理事長をされている方で、かなりの高齢の方ですが、未だに週4回ほど学校の授業を受け持ち、さらに年に50回ほどの講演をするために、全国を回っておられるお忙しい現役の先生です。昨日初めて先生の講演を聞く機会が与えられました。昨日の講演のテーマは「幸せのありか」という題でした。「幸せ」、一生をかけて模索する大きなテーマだと思います。また人の数だけ定義があるテーマだと思いますが、先生は御自身の体験を語られつつ、幸せになるということは、自分が変わることだと話されました。幸せになりたいと思うことは、今の境遇に満足できない、今の自分が不幸であると思う時かも知れません。自分の不幸を周りのせいにする、他人のせいにする。理不尽だと思い続けて、それさえなければ、その境遇から抜け出すことができれば幸せになれるという思いを抱くものです。先生も周りの環境における自分の立場に関して、不平や不満、理不尽さを抱いていたとご自分で話されていました。そんな時に、ある修道院の方から、「自分が変わらなければ、どこへ行っても同じだ」と言われ、そこで気付かされたと話されていました。自分から変わり、相手を幸せにするということは難しいことだと思いますが、周りに期待して、自分の幸せを待ち望むということを抱き続けることには先がないように思えます。幸せな生き方というのは何を持ってして幸せだと言えるのかはわかりませんが、やはりその与えられた境遇で自分自身が積極的に変わっていく、相手を受け入れるということにおいて、そこに留まることができるのではないでしょうか。
忍耐するということも、ただひたすら我慢して留まることではなく、欠けたる自分自身に気づき、変わる事だと言えます。自分のまわりは迫害だらけ、自分を傷つける人ばかり、そんな嵐の只中に私たちの人生があります。その嵐が過ぎるのを期待する以前に、既に自分がその只中で変えられていく。傷つけられ、困難を経験し、悲しみを担い、思い通りに行かない中で、自分を見出す。普段気付かない真の自分と言う存在。そして自分の欠けを見出すのです。主イエスの御許に留まり、新しい命に生きるようにと、私たちは招かれています。その新しい命に生きるということは忍耐すること、自分自身が変えられていくことです。
主イエスは世の終りにおける、救いの完成という希望を私たちに告げています。同時に、迫害の只中、人生の嵐の只中に生きる私たちに「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と語られます。この言葉もまた希望の言葉として受け取れるのではないでしょうか。忍耐する、不平不満、理不尽だらけの只中でこそ、自分が変えられていく、真の命を生きられるようにと、主は招かれる。主イエスキリストの再臨という世の終りにおける未来においてのみ主イエスがおられるということではなく、私たちの御許に留まり、忍耐できるその確信は「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主イエス御自身が言われた御言葉に見出されます。
本日は教会の大晦日と言われる聖霊降臨後最終主日。来週から新しい教会暦になり、主イエスを待ち望むアドベントに入ります。本日はその準備のために、教会の大掃除を致します。教会をきれいにするということは、救い主をお迎えするという新たな思いと重なりますが、この掃除のことで小杉さんとお話をしているときに、小杉さんはこうおっしゃってくださいました。「先生、今日の大掃除は普段私たちができない、見落としている箇所を重点的にやりましょう」。見落としている箇所、気付かないところの清掃。自分の欠けになかなか気付けない私たちも、御言葉を通して、普段気付かない自分と言う存在に気付かされます。自分を知るということ、しかしなかなか自分は変えられない、そして自分を清めることはできない。自分だけでは・・・。だから、私たちのところに救い主が来て下さる。世の終りまで共にいてくださるキリスト、この方を自分の中に迎え入れ、日毎に私たちを変えて下さり、清めて下さる。そのキリストに信頼して、終末に向けて、今を生きていく。キリストと共に、私たちは古い人(自分)に死に、新しい人(自分)に生きるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。