2013年12月1日 待降節第1主日 「救いの創始者」

マタイによる福音書21章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

教会の新年とも言えます、教会暦の始まりの時が私たちに与えられました。教会暦は救い主イエスキリストのご降誕を待ち望む待降節、アドベントから始まります。アドベントとは、アドベントゥスというラテン語から来た言葉で、「~に向かって接近する、近づくという意味です。」それは私たちの救いのために、神様が接近してくださる、近づいてくださるということです。その神様の御心を顕すために、御子イエスキリストがこの世に遣わされる、その時を待ち望むのがアドベントです。

この教会暦の始まり、待降節の第1主日に毎年私たちは主イエスのエルサレム入場の場面から御言葉を聞きます。福音書全体の後半部分、それはエルサレムでの伝道が展開されていく場面ですが、その旅路は十字架に向かっています。死への旅路であります。十字架へと赴く、この主のみ姿に、救いの始まりをもたらす、救いの創始者としてのキリストを見出す、教会暦の始まりに私たちが聞くべき大切な御言葉であります。

主イエスのエルサレム入場を迎える人々は活気に溢れていました。人々は主イエスのエルサレム入場を、歓呼の声を持って、歓迎したのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
(21:9)ホサナ、それは「主よ救ってください」という言葉、今すぐに救ってくださいという人々の期待が込められた声でした。主イエスご自身のことは既にエルサレム中に広まっていました。待ちに待った救い主がやっと自分たちのところにやってきた、人々は「自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」とありますように、旧約聖書に描かれている新しい王様を迎えるようにして、主イエスを、期待を持って迎え入れたのです。そして、その王様としての姿は、かつてのイスラエルの英雄であるダビデ王に重ねていました。ダビデ王がもたらしたかつての繁栄を再び垣間見ることができる。神様が約束してくださった救いとはこういうことだ、彼らはそう信じて疑わなかったはずです。しかし、期待の声は、数日後に裏切りの声に変わってしまうのです。「十字架につけろ」と。それは憎しみの叫びだけではありません。失望の叫びでもあり、諦めの叫びでもあります。こんなはずではなかったのに。あれだけ歓呼の叫びをあげた自分自身に失望する、後悔する、期待を裏切られるという体験をしたものの叫びです。現実を受け入れたくない叫びだけがむなしく木霊しているのです。

彼らは主イエスを王様として迎えた、そのイメージはダビデ王と重なりました。しかし、ダビデ王の繁栄の先には国の分裂、滅びが民に待ち受けていたのです。国も家族も財産も失い、彼らの祖先は囚われの身となったのでした。その最大の原因は、「偶像崇拝」という彼らの思い、心にありました。神様を信頼できなかったのです。力強く、豊穣をもたらす神様を求めた、期待が持てる神様を求めた。すぐにでも自分たちの苦しみを解き放ってくれる期待通りの存在を頼みとしたのです。しかし、それは自分たちの「期待」という枠にはめた制限された神様、ようするに人間が造った神様です。突き詰めれば、そこで立場は逆転している、人間が神様となっている、そういうことです。

自分の期待通りにことがはこぶ、それは喜び、楽しみだけがあるということでしょう。それだけが私たちの人生でしょうか。いやでも私たちは苦難や困難を経験しなくてはなりません。されど、その只中にあるからこそ、人生の意味が見えてくる、生きるという活力が生まれるのではないでしょうか。それを示してくださるのが、今まさに人々の前を行かれる、十字架へと向かわれる主イエスのみ姿にあります。ここに旧約の預言が記されています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21:5)そして、この預言が実現します。弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(21:6-7)馬ではなく、ろばに乗って、主イエスは入場しました。荷を負うろばです。馬に跨って、華麗に駆け巡ったのではなく、ろばに跨って、とぼとぼと歩まれた。馬に跨って、王としての威厳を人々に示したのではなく、ろばに跨って、荷を負うろばのように、重荷を背負われた。馬に乗り、爽快に駆け抜けるかのように、順風満帆な人生を歩んでいくということではなく、ろばに乗り、とぼとぼと一歩一歩歩む。それは様々な問題とぶつかり向き合いながら、決して思い通りにはならなくとも、その時その時に新しい発見があり、視点が与えられ、今までに見えなかった美しさが備えられていることに気づかされるということ。神様を受け入れられる始まり、それは期待通りの自分が造った神様ではなく、困難や苦難の中で、全てを失い空っぽになった自分の中に、受けいれられる隙間ができるから、その方を受け入れることができるということです。期待で胸がいっぱいだと、どこにも隙間がない、受け入れられる隙間がないのです。

今日は12月1日です。日本人の学生にとってはとても重要な日です。それは就活解禁日という日だからです。2015年の内定が決まる就職活動(就活)が始まった日です。そんな中、株式会社マイナビが「2014卒の学生を対象に就活時に受けたプレッシャーについてアンケート調査をした」というニュースの記事がありました。実に8割以上の人が就活にプレッシャーを感じたそうです。他にいろんな声がアンケートに載せられていましたが、その中で、「就活の失敗は人生の失敗」、「内定が取れないということは、自分は社会から必要とされていない、自分を否定されたと」いうアンケートの答えがありました。例年景気の悪化という状況の中で、就職活動に関する苦労話というのは日常茶飯事に聞きますが、この答えからして、自体は相当に深刻であるということを受け止めざる得ません。肉体的にも精神的にもきつい中で、頑張って就活しているのに、全然報われない、全く期待通りの結果にならない、就活生は全員というわけではありませんが、ほとんどの方がいやでもそのことを体験します。そして人生の挫折以上に、自分の人生全体に亀裂が走る、自分の存在すら危機的な状況を迎えるという深刻さを味わう。決してそれは大げさな声、思いではありません。本当に助けて欲しい、救って欲しいという切実な願いです。しかし、それは果たして仕事が得られれば、問題が解決する、救われるのかというと、そうではないということを私たちは知っています。そこで働いていけるという保証はどこにもないし、必要とされていたのではなくて、実は利用するために過酷な労働をさせるという話はいくらでもあるからです。そこでは人生の失敗では済まされない、人生の滅びという状況に遭遇するかもしれない、また自己否定ではすまされない、自己の消滅を招くかもしれないのです。ルカによる福音書9章25節に「人はたとえ、全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか。」という主イエスの言葉がありますように、たとえ期待通りの、順風満帆な就活ができても、現場に行って働いてみないとわからない、働く、働いていくという実存的な自分の土台を築いていけるという確証はないのです。されど、就職活動に限らず、人生の失敗、自己が否定されない安全な生き方などあるのでしょうか。むしろ、私たちは常に、そういった状況の中で、人生を歩んではいないだろうか、その只中でしかやり遂げられないことだってたくさんある、気づかされることはたくさんあるのです。

主イエスはろばに跨り、静かにゆっくりと、みすぼらしく十字架への道を歩んで行かれます。そして人々から罵られます。救い主としてのご自身の存在を否定され、歪められます。彼らの手によって、十字架につけられ、死を迎えます。彼らへの伝道が失敗したかのに、無駄であったかのように、壮絶な最期を迎えるのです。しかし、それで終わったわけではない。三日後に復活したのです。それは彼らの期待が答えられたのではなく、全世界の人が救われるという出来事が起こったということ、人生の終着点だと思われていた「死」が滅ぼされたのです。私たちの期待とか願望といった枠を破って、神様の御業が成就した。完成したのです。救いの完成です。死が否定され、生が、存在が根本的に肯定されたのです。その救いをもたらすために、救いの創始者として、主イエスは子ろばにまたがり、人生の失敗や困難、苦労を担いつつ歩む私たちと共に歩んでくださるのです。神様は近づかれた、救いは近づいているのです。

だから、救い主イエスは私たちの、まさにろばに跨り期待通りの順風満帆な人生ではない私たちの歩みの中にこそ来てくださったのであります。人生の失敗、自己を否定されつつも、神様は御言葉を通して、あなたに語り続けます。この価値観に縛られ、奴隷にならないようにと、新しい命、歩みに私たちを立たせて下さる。

旧約の預言は「ろばに跨る柔和な王」を記しています。マタイ福音書11章28~30節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という主イエスの言葉、招きの言葉があります。主イエスは柔和な方です。私たちを受け止めてくださる柔和、包容力のある方です。そしてわたしのもとに来なさい、わたしに学びなさいと私たちを招かれる。主イエスの軛を共に負わせていただく人生。その荷は軽いと言われます。苦労が減るとか楽な人生が歩めるとか、そういうことではありません。わたしたちが背負う重荷、困難、苦労です。しかし、私たちの重荷を真に重荷にしているのは、私たちが抱いているもの、期待するものです。それ故に、重たくなる重荷という重荷を背負う人生。その重荷からこそ主イエスは軽くしてくださるというのです。それらの縛りから開放してくださるからです。

日々忙しさの中に私たちの歩みがあります。重荷に押しつぶされてしまうほどのプレッシャーを感じます。結果だけを見つめて、真実を見失います。理想や期待の果てに疲れを経験します。そんな私たちを主イエスは招かれるのです。休ませて下さり、真実を語ってくださる。よけいな重荷を降ろして、生きるために必要な重荷を共に背負って下さる。御言葉を通して私たちにそう神様は語られる。少し荷が軽くなりませんか。期待通り、理想通りにいかないという重荷を手放して、主イエスという軽いくびきを共に背負い、共に歩んでまいりましょう。神様は近づいておられる。だから、あなたの救いのドラマはもう始まっているのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。