2013年12月8日 待降節第2主日 「荒れ野で叫ぶ者の声」

マタイによる福音書3章1〜12節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

待降節第2主日の礼拝を迎え、アドベントクランツに二つ目の火が灯されました。先週も言いましたが、アドベントとは「近づく」という意味です。今日の日課、洗礼者ヨハネの記事の冒頭でも「悔い改めよ、天の国は近づいた」とありますように、「近づく」という聖書のメッセージが記されています。ヨハネは天の国、すなわち神の国が近づいたと言うのです。天の国とはこの世の特定の時や場所を指すものではなく、神様のご支配、ご意志、その御心を指し示します。その御心は救い主イエスキリストを通して示されているのでありますから、キリストのご降誕を待ち望むこのアドベントの時に、聖書はヨハネを通して、天の国が近づいた、すなわち神様の御心であるキリスト(救い主)が近づいた、そのように語っているのであります。そして「天の国が近づいた」、このメッセージから、ヨハネの伝道と、主イエスのガリラヤでの伝道が始まったのです。何よりもまず神様の方から近づいてくださったというこの確信、救いの確かさを信じているからこそ、伝道していくことができる。私たちの伝道の出発点も、この救いの確かさを信じ、委ねるところから始まるのです。

天の国が近づいたという神様の先行する御心を聞いている私たちに、ヨハネとそして後に主イエスも言います。「悔い改めよ」と。天の国が近づいた、だからもう大丈夫だ、安心していいとは安易に言わないのです。「悔い改めよ」、と言われる。「悔い改め」、それは「方向転換」するということです。何からの方向転換かと言いますと、「罪」からの方向転換です。罪の悔い改めです。神様の方に方向転換する、立ち返るということであります。自分の所業を反省するとか、悪い習慣を改善していくという自分自身の出来事ではなく、自分の存在そのものを神様に向けていくということ、生き方そのものが変えられていく、180度思いが変えられていくということです。そのような壮大かつ厳格な神様からの中心的なメッセージを、ヨハネは「荒れ野」で説いたというのです。荒れ野という場所は、砂漠ではありませんが、旧約聖書の記述によれば、草も木も作物も実らない荒涼とした土地を指します。そして「荒れ野」とは、「寂しい、人里離れた」という意味がありますように、人々が全然住んでいない活気のない場所でもあります。ですから、この荒野とは、命の兆しというものをほとんど感じない、人が避ける場所、伝統的に悪魔が住む場所とされてきた所、闇であり死の象徴を指し示している、まして神様の恵みなどなく、神様など存在しないかのような雰囲気に満ちた場である、そう言えるでしょう。しかし、ヨハネは3節で「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』という旧約の預言者イザヤの預言をここで語るのです。荒れ野という命の兆しとは皆無な、まして神様の存在などほとんど見いだせないような場所で、ヨハネは神様の言葉を、叫び続けたのです。私たちは自分の住まいを考えるとき、または商売をされる方は、その土地を徹底的に調べます。立地の良い場所を探します。人が集まるところ、交通の便が良いところ、買い物が便利なところ、または作物が豊かに育つのどかなところ、いづれも荒れ野とは無縁なところに住みたい、お店を出したいと考えます。人々が賑わう場所、作物が豊かに実る場所に神様の恵みを感じます。神様がそこにいてくださると感じます。神様との出会いがそこにあると感じることがあります。しかし、神の御言葉は、ヨハネの叫び声を通して、荒野で響いているのです。人々が関心を持たない、この世で価値を見いだせないような場所でこそ、神は語られる、神様との出会いがそこにあるのです。そのためには私たちが荒野に行かなくてはなりません。荒野に目を向けなくてはなりません。荒野という闇、死を覚える、さらに自分たちもその只中で歩んでいる、この世の価値観とは異なった、いや全く逆の世界に目を向けるのです。私たちの思い、イメージからかけ離れた神の世界です。そこに立ち返れとヨハネは言うのです。

不思議なことに、このヨハネの叫び声を聞いて、パレスチナとユダヤ全土、ヨルダン川の地方一帯という広範囲における人々がヨハネのもとに来たのです。その中には、神様の律法を守り、敬虔な信仰生活を送っているファりサイ派やサドカイ派の人もいたのでした。罪を告白し、悔い改める人々にヨハネは洗礼を授ける一方で、大勢のファりサイ派やサドカイ派の人に対して、ヨハネは厳しい言葉を投げかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。(7―9節)このヨハネの言葉は、彼らの思いをそのまま露呈していると言えるでしょう。彼らの思いの中には「悔い改める」ということがなかった。自分たちは神様から選ばれた神の民イスラエルの民であり、神様の怒りからは遠く免れている。アブラハムという信仰の父を祖先に持つのだから、自分たちは神様から近い、救われるに値する者だと自負していた。彼らにとってヨハネの洗礼は水という清めの徴、神様の祝福というイメージだけがあったのかもしれません。だからヨハネは彼らに迫った、いやむしろ彼らのその思いの中にこそ、罪深さがあると、彼らの罪を指摘したのです。場所は荒野でも、彼らの思いは、荒野にあらず。もう神様の救いが自分たちの中で自己完結している、ヨハネから洗礼を授かっている人を日和見しているかの如く、自分たちを特等席に置いた。ヨハネは彼らのそんな思いを打ち砕くのです。神様は荒れ野に転がっているその辺のちっぽけな石からでも、アブラハムの子ら、すなわちあなたがたをいともたやすく作られると言います。それはすなわち、アブラハムという信仰の父を祖先に持とうと持たなかろうと、あなた方は信仰深いという存在どころか、その辺のちっぽけな石、信仰なんて全く持っていない存在であるとヨハネは言うのです。さらに、ヨハネは神様について語っています。石からも作られる、すなわち「創造主」であるということ、命の神であるということを証ししているのです。ヨハネがここで証ししている創造なる神様ということは、当然彼らを含めた私たち人間は神様の「被造物」ということでありますが、それは大きな意味があります。それは関係するということです。神と人との関係です。神様と一人一人との関係です。関係する神、交わる神が証しされている。関係する、交わるということは、時間的、場所的な有限性というものはないのです。信仰の父、アブラハムの子孫であるイスラエルの民、選ばれた神の民ということは、それはもう救いが約束されていて、安全が約束されている、だから神様から自立していくということではない、絶えず神様との関係において、共に歩んでいく、その過程において、救いが示されている。だから絶えず神様の元に立ち返れとヨハネは言うのです。救われるということは、ただ一回きりの神様からの恵みを受けるということではなく、神と共にある今の自分、神に従う今の歩みの中で、体験している出来事、すなわち信仰の旅路、救いの道への只中で経験していくことなのです。

繰り返しますが、天の国が近づいた、ヨハネも主イエスもこの言葉をもって、宣教を開始しました。しかし、ヨハネはその神様の御心を10節で「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と受け止めたのです。斧は既に木の根元にあり、いつ切り倒されてもわからない、こう譬えられるように、神様の裁きはいつきてもおかしくないと、それほどまでに激しいことを語られているのです。自分が授ける水の洗礼が救いの徴となるとは言わない、だから次の11節でヨハネは「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが」、とここまでしか語らないのです。悔い改めに導くとまでしか言わないのです。だから大勢のファリサイ派やサドカイ派の人に対して、悔い改めにふさわしい実を結べというのです。実を結べということも、まだ実がなっていない、悔い改めになっていないというのです。ヨハネは自分が、キリストでない、救い主ではないと断言しています。だから、11節の続き、「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。」そしてヨハネは、救い主の御業について「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と預言します。真の洗礼を授けられる方、聖霊と火における洗礼、真の洗礼は、実った麦は倉に入れられ、使い物にならない殻は火で焼き払われるように、神様の裁きというふるいにかけられる。使い物にならない殻、それは神様に悔い改めない罪人はその火で焼き払われる、とこう言うのです。しかし、この差し迫る神様の裁き、火で焼き払われるように、十字架の死を遂げたのは、「天の近づいた」と自ら宣言なされた救い主イエスご自身に他ならないのです。

天の国が近づいた、ヨハネは悔い改めに導く洗礼を私たちに伝え、主イエスご自身は、十字架の死という自らの御身をもって、罪の贖いという救いの完成を実現されたのです。そのキリスト、その救い主こそが私たちが待ち望む主イエスであります。今この時を待つ私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様に悔い改める時でもあるのです。それは荒野において、闇に覆われた只中で、自らの罪と向き合いつつ待ち望むという時であります。

私たちは、この礼拝に招かれ、罪の告白を通して、洗礼という恵みを日毎に思い返します。まだ洗礼を受けておられないかたは、神様が今あなたを招いています。洗礼を受けてからも、わたしたちは神と共に歩む、悔い改めにふさわしい実を結んでいく、それは絶えず神と共に歩む、神に対して生きていくということなのであります

昨日は大高芭瑠子姉の納骨の祈りが執り行われ、次の御言葉が与えられました。
イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネによる福音書11章25~26)
この御言葉を聞き、死という闇の只中で、まさに荒野の只中にある私たちに、復活の光、希望が神様から示されました。そして納骨の際に、骨壷や写真だけでなく、おふたりの洗礼章がいっしょに収められたのです。私はそのときローマの信徒への手紙6章1節~12節の、言葉を思い起こしました。ここでは罪に死に、復活のキリストに生きるという新しい命に生きる、その出来事が洗礼であるということをパウロが語っているところでありますが、6章10―11節の言葉にこういう言葉があります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
キリストに結ばれて、神に対して生きている、肉体的な死を遂げた後も、神の側では生きている。神に対して生きているという慰めの言葉が同時に与えられました。私たちが自分の洗礼を思い起こすということは、日毎に悔い改めて、神様の方に向き、神に対して生きていく、そういうことであります。逆に言えば、私たちが神様と共に歩み、神様に対して生きていくということは、悔い改める、神様の元に立ち返っていくということの繰り返しであります。

神様の御言葉は「荒野」で叫び続けられています。私たちも闇を経験し、人の死を経験します。命の兆し、その輝きを見失う時がある。生きる希望を失う時がある。そこは荒野です。荒野の中を歩んでいる私たちの姿がある。そこにこそ神様の御言葉が聞こえてくる。そして、クリスマスの時、あのみすぼらしい「飼い葉桶」というところで、そこもまた荒野に象徴されるように、夜、闇という暗闇の中で、神様の御言葉が肉体となった救い主イエスキリストが降誕されたのです。「荒れ野で叫ぶ者の声」が救い主となって実現する、今その希望を抱いて、このアドベントのひと時を共に過ごしてまいりましょう。天の国は近づいたのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。