2013年12月15日 待降節第3主日 「人となりし神」

マタイによる福音書1章18〜23節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの3つめのロウソクに火が灯り、待降節第3主日の礼拝を私たちは迎えました。アドベントも中盤を過ぎた今日では、各地でクリスマスコンサートが開催され、お出かけになって聞かれた方や、演奏された方がたくさんおられるかと思います。この六本木教会でも今年は実に多くの団体の方がこの会堂でクリスマスコンサートをされ、既に2つのコンサートが一昨日、昨日と行われました。また本日もハンドベルの皆様が礼拝の中で演奏していただき、また礼拝後にコンサートをしていただきます。
クリスマスの喜びを、コンサートで聞き、または演奏しつつ受け止めながら、この喜びをコンサートだけでなく、改めてこのアドベントの時を過ごす私たちは御言葉を通して、来るべきクリスマスの喜びを聞いてまいりたいと思います。

マタイによる福音書1章18節~23節が本日の福音として与えられました。最後の23節の御言葉「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」という救いのメッセージが記されている箇所であります。インマヌエル、神様が人間と共におられる、それが真となる、本当に起こる、それは人間の想像を超えた出来事、思いもよらぬ喜び、そして何よりも神様の決断という御心が真に示されている、全知全能の創造主なる神様が、被造物と共に歩む、そのような壮大なご決断をされた神様の御心がここで明確になっているのです。神が共におられる、それは神が真の人間となったという出来事に顕されています。共にいる、共にいてくれるということ。ひとりではない、孤独ではない。これは非常に嬉しいことです。詩篇もこう歌っています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1)そう、共にいてくれるということは、恵みであり、喜びであるということです。一緒にいてくれる存在と聞いてすぐ思い浮かべる人は、親、親戚、友人、恋人、またはペット(人ではありませんが)でしょうか。他にもいろんな仲間の存在を思い描くかと思います。しかし、常に一緒にいるのが当たり前だという感覚に私たちはついつい陥ってしまい、喜びとか恵みというものを見失ってしまうものです。あの放蕩息子のたとえ話に出てくる兄のように。でも、私たちを支え、助けてくれるという存在、共にいてくれる存在があって、今の自分がいる、今の自分が生かされているということに気付かされるのです。他者の存在が、わたしの存在理由ということです。それを共にいる、共に関わるということを通して、私たちは知るのです。そして神が共におられるとは、関わってくださるとは真にどういうことなのでしょうか。私たちはその真実において、どう変えられていくのでしょうか。ご一緒に御言葉から聞いてまいりたいと思います。

神は我々と共におられる。その救いのメッセージをヨセフは夢の中で、天使から聞かされました。それはヨセフがある大きな決断をした後の出来事でした。ヨセフはマリアと婚約していました。結婚の約束をしていました。しかし、まだ同居は許されていません。体の関係を持つことは禁じられていたのです。ふたりはいずれ一緒に暮らして、夫婦仲良く、幸せな家庭を築いていきたいと願っていたことでしょう。誰しも普通に願う人間の幸せです。ところが、ふたりが一緒になる前に、マリアが聖霊によって赤ちゃんを身ごもってしまったというとんでもないことが起こりました。「夫ヨセフは正しい人であった」とありますから、マリアと関係を持つということはなかったはずです。自分には全く身に覚えがない、ありえないことが起こった。「そこでヨセフはマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」というのです。マリアとのことを表ざたにする、つまり公にすれば、マリアが姦淫の罪を犯したことになり、マリアが罰せられる。社会的に抹殺されるというのです。公になればマリアは行きてゆけないことは確実です。それでヨセフは密かに縁を切る、離縁を申し出ようとするのです。申命記24章1節に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」という掟に従って、マリアと離縁する。そうすればヨセフは自分の都合でマリアと離縁した。マリアは子供を産みますが、再婚の可能性は十分にあるのです。ヨセフは正しい人だったので、という正しさは、社会通念としての正しさ、宗教的な正しさに縛られたものではなく、相手の立場にたち、相手を思いやった正しさ、すなわち愛するという正しさでした

福音書はヨセフの心情について何一つ記してはいません。たった2節しか記していないこの出来事の中で、ヨセフの苦悩は計り知れないものだったはずです。なんとか自体を収拾しようと、それもマリアを思って、本当ならマリアを疑ってしまうはずなのに、マリアを愛し、マリアを見捨てることなく、事を収めようとした。公にすることができないのですから、親にも友人にも言えない、本当に心の奥深くで悩み苦しんだヨセフの姿があるのです。親にも友人にも言えない、身近にいるものでさえ、言えない出来事、自分の思いを抱えていく。一人で抱えていく。正しい人、愛する人故に、正しさを全うするが故に、抱え込まなくてはいけない思い悩みをヨセフは背負っている、そして背負っていこうと決心したことでしょう。

このヨセフとマリアに起こった出来事、旧約聖書のヨブ記を連想させるかのように、真に理不尽な出来事だった。そう言えるでしょう。特に何か悪いことをしたわけではない、静かにひっそりと暮らしていた二人、普通の幸せを願っていた二人に突如襲った理不尽な不可解な出来事。そこには嘆きがあったはずです。誰にも理解してもらえないという嘆きです。私たちも嘆きます。自分を分かってくれない、自分の状況を分かってくれない、受け止めてくれないということに、嘆きます。本当に自分のことを助けてくれる人、共にいて寄り添ってくれる人、たとえその人が物凄く頼りになる人でも、本当に自分の心の奥深くにある闇を照らしてくれる光となってくれるのか、自分の闇を分かってくれるのかと悩みます。ヨセフの内面的な心情は定かではありませんが、彼は真に孤独だったでしょう。事を収めようと決心する傍ら、彼の心は深く傷つき、その傷を背負っていくこととなる。誰にも分かってもらえないこの傷を背負うという孤独感があるのです。

そのヨセフの内面的な心情、孤独を表しているかのように、主の天使は、彼の夢に現れて、御言葉を告げるのです。そこは彼の思いそのもの、深い深い彼の心に迫るものです。そこに御言葉が語られる。「恐れるな、マリアを妻として迎えなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿り、その子供をイエスと名づけよ。その子は自分民を罪から救うからというのです。そして乙女が身ごもって、男の子を産むという神の御業が告げ知らされる。旧約の預言がここに成就する、つまり神の言葉は必ず成就するという約束の御言葉でした。ここでもヨセフは驚きを隠しきれなかったはずです。しかし、今日の日課の後で、24節では天使の言われた通りに、マリアを妻として迎え入れ、主イエスの父親として、主イエスを迎え入れるのです。神は我々と共におられる、そのインマヌエルなる救い主が、今マリアの中に、宿っている。密かに縁を切ろうとして、孤独のただ中にあった自分の思いの中で、不思議なことが起こった。恐れるな、この神様の導きがヨセフを変えていったのです。真に孤独な只中で、神が出会ってくださる、共にいてくださる。そのしるしが真の人となりたもう神、神が人となり、私たちと同じように、汗を流し、血を流し、泥沼の中に自分の人生の中に宿られた。共におられる神として、救い主が与えられた。新しい生がヨセフに与えられたのです。

ルカ福音書にザアカイの物語(ルカ19:1-10)があります。もちろん彼はヨセフのように、「正しい人」とは記されていない「徴税人」と言われている人です。彼はその職業柄、人々から忌み嫌われていました。誰も彼に近づこうとはせず、彼を受け止める人はいなかったのかもしれません。彼も孤独でした。主イエスが来られても、彼だけは木の上から眺めるだけで、近づけなかった。人々と、そして神様との距離が彼にはあったのです。しかし、彼の下に主イエスが近づいていかれます。そこで主イエスは彼を更生させるような言葉でもなく、「悔い改めよ」と言われたわけではありません。彼にこう言ったのです。「ザアカイ、あなたの家に泊まりたい」。家に訪れたい、ただその一言です。しかし、その一言が彼を変えた。財産の半分を貧しい人に施し、だれかからだまし取っていたら、4倍にして返しますと、主イエスの前で約束するのです。今日、救いがこの家を訪れた。主イエスはそう言います。「家」、それは日常生活の場、自分の生活する場であり、そのまま人には見せられないものがある自分の住まいです。安心していられる場所であり、同時に最も奥深い自分のスペースです。その人の内面が示されているといっても過言ではない。その内面、奥深いところに主イエスは語りかけられた。訪れたのです。ザアカイの内面、孤独のただ中にこの主イエスが訪れた。そこにこそ救いが訪れたのです。主がザアカイと共にいてくださる、また、それだけではなく、ザアカイは変えられたということです。自分の富を隣人に、すなわち天に富を積むかのごとく、神様の救いの御業に、自分も巻き込まれていくかの如く、関わっていくのです。

ヨセフもそうでした。マリアを妻として迎え、主イエスの父親として、神様の救いの御業にヨセフ自身も関わっていくのです。ヨセフもザアカイも、もちろんマリアみたく直接主イエスを宿らせたというわけではありません。しかし、彼らの姿、その思いの根底には神様の御言葉を宿らせた人として、神様と共にいる人としての姿があるのです。コロサイの信徒への手紙3章16節で「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」という御言葉に示されている通りです。また20世紀の神学者であり、牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーは「共に生きる生活」という著作の中でこう述べています。
「神が、わたしたちの今日の生活の見守り手であり、参与者であることではなく、わたしたちが、聖なる歴史における神の行為に対し、地上におけるキリストの歴史に対して、心を傾けた聞き手となり、また参与者となることが重要なのであり、そしてわたしたちがそこにいる限りにおいて、神もまた今日、わたしたちと共におられるのである。」
「参与者」と言われます。それは「神が」ではなく、「わたしたちが」と、主語が変わっています。神が共におられる、それは生活の見守り手、お守りみたいな存在ではなく、神様と出会い、そしてわたしたち自身が変えられていく、つまり「神様と共に」自分たちも行動し、実践していくということ。神が共におられる、共に歩んでいくということがそこに示されている。インマヌエルなる神が私たちの歩みの土台となり、私たちを導いていかれる。困難の只中で、孤独の只中で「恐れるな」と言って、導かれるのです。

このマタイによる福音書は「インマヌエルの福音書」と呼ばれています。このインマヌエルの預言に始まり、そして最後の28章18―20節で主イエスご自身がこう言われるからです。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
あなたがと共にいる、だからあなたがたは~と招かれるのです。主イエスが共におられるという真実の下で、私たちも変えられていく、困難や苦悩、孤独に思えるような状況の只中でも、真に孤独ではない。恐れるな、私が共にいる、その確信の只中で歩んでいくのです。

アドベント、クリスマスの只中で、御言葉が聞かれ、ヨセフやマリアと言った人物に焦点が当てられている救いの物語が語られています。私たちも様々な思いを抱いて、時には人にも言えないような孤独の只中で、このアドベント、クリスマスに招かれています。私たちはただ外野に座って、好奇心だけでこの救いの物語を聞いているのではなく、私たちもこの救いの物語に巻き込まれていく、そして変えられていくのです。この物語は私たちのストーリーでもあるのです。2000年たっても変わらない一人一人のストーリーであり、神と出会う時であります。どうぞ、その思いを心に抱いて、共におられる神として、私たちのただ中に宿って下さる救い主を待ち望みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。