2013年12月22日 待降節第4主日 「神の偉大を知った者の歌」

ルカによる福音書1章46〜55節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

アドベントクランツの4本目のキャンドルに火が灯りました。本日の礼拝後にクリスマスの祝会を致しますが、教会暦では待降節第4主日、最後のアドベントの週を迎えたので、本日は待降節第4主日の日課から、福音を聞いてまいります。

本日の福音として与えられましたルカによる福音書1章46~55節、これは伝統的に「マリアの讃歌」と言われている箇所でありますが、この歌はラテン語で「マグニフィカート」と言いまして、「大きくする」という意味です。47節の「あがめ」、崇めるという言葉が「大きくする」という意味から取られているものです。すなわち、主を崇めるということは、主を大きくすると、このように歌われているのです。

このマリアの讃歌ですが、そのタイトルの通り、マリアが歌ったと言われる歌ですが、マリアはこの時、ナザレという田舎町に住む14~15歳程度の少女であったと言われています。ごく普通の農家の娘だったのでしょう、そんな少女が、このような神様を讃える歌を誇らしげに歌っているのです。特に後半の51節からは、私たち人間の価値観をひっくり返す、とんでもないことが主の御業として起こると歌われています。ようするに、主の御業の前には、人間の力、知恵、繁栄などといったものは、無に等しいということ、そんな人間の無力さがここでは同時に歌われている激的な歌、激しい歌がこのマリアの讃歌なのであります。

「マリア」と聞けば、主イエスの母親としての「聖母のマリア」、また、このように神様に対する絶大な信頼と力強さに満ちた歌を歌っている「信仰深い人」、「敬虔な信仰者」というイメージを持っている方が多いかと思います。確かにマリアは特別な人なのかも知れません。そもそもマリアに起こった出来事そのものが、この賛歌を歌ったという驚くべきことに結びついていると言えるでしょう

先週私たちはマタイ福音書から、マリアの夫のヨセフに起こった出来事を聞いてまいりましたが、その状況と重なるように、マリア自身も天使からお告げを聞きました。それはルカ福音書1章26節からの受胎告知と言われる場面であります。彼女も天使から、聖霊によって男の子を身ごもったことを聞きました。ヨセフと違い、マリアには言葉がありますから、そこから、その時の彼女の心情が伝わってまいります。天使のお告げに対してマリアは言います。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)こんなことは信じられない、この世の価値観、人間の常識ではありえないと彼女は言いますが、それは驚きだけではなく、彼女自身の不安と恐れがあったのです。なぜなら、このことは明らかにヨセフとの婚約生活に支障をきたしてしまう危機的な状況を生み出す出来事だったからです。

しかし天使は彼女の問いに答えます。「神にできないことは何一つない」と。その言葉を聞いた彼女は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」と言います。神様が全ての出来事を導き、働かれる、マリアはその確信を抱いたというより、信じて委ねたのでしょう。私たちはこのマリアの気持ちに疑問を抱くかも知れません。どうして、そう簡単に天使の言葉を受け入れることができたのかと。もう打つ手がないから、神頼みにかけたのでしょうか。神様に運命を委ねたのでしょうか。それとも単純な諦めでしょうか。

決してそういうことではありません。そうでなければ、またそんな思いからはこのような歌は歌えないでしょう。この歌は確かに神様の御業の絶大さを歌ってはいますが、それが自分にとってどのようなことなのかということがはっきりと歌われているからであります。神様から見て、自分とはどのような存在なのか、そんな自分のために神様は何をしてくださったのかということを彼女ははっきりと歌っているのです。まわりの状況が自分にとって都合よく、がらっと変わってくれたのではなく、自分という存在としっかりと向き合って、自分こそが変えられたということを、人間の力ではなく、神様の御力によって成されるということを信じているのです。彼女を取り巻く状況は変わっていない、現実そのものは全く変わっていないのです。でも彼女は魂、心の底から神様を讃美し、ほめたたえています。その理由が48節から記されています。

48節で「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と彼女は自分自身についてこう言っています。身分の低い主のはしため、はしためというのは奴隷という意味ですが、身分が低いというのは口語訳聖書では「この卑しい女をさえ」となっています。それは周りの人間から、ヨセフと同居する前に妊娠したという出来事を通して、彼女は卑しい女性だと見られていた。そういった現実そのものを表していると言えるかも知れませんが、彼女自身は神様のみ前で、自分はそんな存在ではないと弁明しているわけでもなく、卑下しているわけでもないのです。

この「卑しい」という言葉ですが、これは謙虚、謙遜ということではありません。最近ではあまり使われない言葉ですが、この言葉を広辞苑で調べて見ますと、たくさんの意味が書いてありました。源氏物語や伊勢物語などの古典文学にはたくさん出てくる表現ですが、これは忌み言葉です。身分や地位が低いという意味から始まって、他には「貧しい、みすぼらしい、とるにたりない、下品である、おとっている、さもしい、いじきたない」など、人間の惨めな存在として、この言葉は使われているのです。つまりマリアは、人間にとって、全く評価されない人、無価値な存在として、ここに描かれているのです。

主をあがめる、すなわち主を大きくするということは、自分自身は小さいのです。取るに足りない存在、卑しい存在なのです。ヨセフとの結婚生活さえ危機的な状況を迎え、普通の人としてではなく、卑しい存在となってしまったという境遇を通して、神様の大きさが見えてくる。神様からの大いなる恵みがわかるのです。神様は彼女の卑しさそのものに、目を留めてくださったと彼女は歌うのです。神様を讃えているのです。こんな私にも、こんな私でさえ、神様は見放さない、それどころか神様の方から目を向けて下さる、気にかけてくださる、私の存在を受け留めてくださると、彼女は言うのです。

そんな自分は幸いな者、つまり幸せ者だと彼女は言うのです。神様が彼女に目を留められた、受け止めてくださったということですが、実際に神様は彼女に何をしてくださったのかということが、49節の御言葉です。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」神様がマリアに偉大なことをなさったというのです。「偉大」という言葉もまた「大きい」という言葉が元となっています。他にも「広い、強い、重要な、立派な」という意味を総称して偉大となっているのでしょう。だから偉大というのは、単なる表向きな姿勢だけではありませんし、神様が人間を無視している行為でもない、卑しさを通して、真に重要なことを彼女に託したのであります。彼女を必要とした、それは偉大なことを成し遂げるために、まだ15歳にも満たない農家の少女が選ばれたのでした。彼女の卑しさの中に、救い主が宿ったのです。それは人間の卑しさの中で、神が生きて働いていかれるというご決断、人間が忌み嫌う場所で、神の子が宿った、それがあの悪臭漂う飼い葉桶に、真に実現するのです。

私たちは人間の卑しさ、この世の卑しさの只中で、生きています。けれど私たちは卑しさを嫌います。受け止めようとはしません。大きいとまでは言わなくとも、自分は清い存在でありたいと願うものです。しかし、時にこの世界に蔓延る人間の卑しさ故に、いつ自分が理不尽な目に会うのか、わかりません。突然愛する人を失うかも知れませんし、病気になるかも知れませんし、職を失うかも知れません。ヨセフとマリアに起こった現実は私たちの現実となりうるのです。信じられない事件が毎日たくさん、私たちの間近で起きています。ヨセフは密かに縁を切ろうと一大決心し、マリアはなぜそんなことが起こるのかと、それぞれに葛藤を抱きます。私たちも抱く葛藤であります。自分たちで何とかしようともがき苦しみます。そして自分の卑しさ、無力さに気づかされ、卑下する自分の姿があるのかも知れません。

しかし、人間の常識を超えて、また理不尽さを超えて、神は働かれる。奇跡と言っても言いのかもしれません。神はそうご決断されました。偉大なことをご決断された。マリアが選ばれ、救い主が宿られた。何の価値もない卑しい人の中に宿られたのです。私たちもマリアのように招かれ、選ばれてこの場におり、神の御言葉を、生きて働いてくださるキリストを心に宿すために、神様の愛によって目を留められているのであります。人間的な価値感という縛りを打ち破って、真の自由を人にもたらすために、神は我々と共におられる。共にいるものとして、私たちの人生に関わってくださる方として、この世に救い主が与えられるのです。だから、私たちは、その理不尽さ故に、どうしようもない状況の中で、自分を卑下して嘆きつづけるのではなく、自分の中にある卑しさそのものに神様が目を留めてくださっているという真実に目を向けて、マリアを通して救い主を与えてくださった神様の愛に導かれて、歩んでいけばいいのです。人間は卑しさに対して、嫌悪感を抱きますが、神様は卑しさに対して、愛をもって応えられます。まわりは変わらなくとも、あなたを卑しいままに愛される方は、あなたを導く、あなたを変えます。そしてあなた自身が変わるのです。

いよいよクリスマスを迎えます。毎年来るのが当然だと思ってしまう私たちのところに、神様は一人ひとりを目に留めてくださる故に、救い主を与えてくださいます。神様は卑しい者、無力な者に、偉大なことをしてくださる方です。神様の御心は主イエスを通して、私たちの卑しさに宿られました。そしてご自身は最も卑しい者となって、私たちと共にいてくださるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。