2013年12月29日 降誕後主日 「私たちの苦難を生きる神」

マタイによる福音書2章13〜23節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 2013年最後の主日を皆様とお迎えすることができました。感謝でございます。世の中は年末年始の慌ただしさの中にありますが、今はクリスマスの時期であります。

 御子イエスキリストが私たちの救い主として与えられ、その喜びを分かち合うように、祝会の時をもつことができました。様々なご事情があって、教会に来られない方とも、再会のひと時が与えられ、真に祝福に満ちた時を過ごしてまいりました。この喜びの只中に、真ん中に主イエスがおられるということではありますが、主イエスはあの飼い葉桶にご降誕されたのです。私たちと同じ人として、人となった神様である主イエス。それは布にくるまった幼子、無力な人間として、飼い葉桶という貧しさ、みすぼらしさの中に宿られた救い主であります。

 今日私たちに与えられた福音もクリスマス物語です。この箇所を読み、聞いた人は、悲しみに満ちたクリスマス物語だという人もいますが、神秘的で喜びだけに包まれているのがクリスマスではありません。クリスマスはこの世という現実、人間の苦難、闇をそのままに語っているのです。ここに大きな悲劇が語られています。ヘロデ王による幼児虐殺事件です。2歳以下の男の子が、理不尽にも権力者の手によって親から突き放され、彼らの手によって殺されていくのです。「ヘロデによる幼児虐殺」として知られる新約聖書の中でも、特に悲劇的な物哀しい出来事であります。その時の母親の嘆きの声が木霊しているかのように、17節から18節にこういう言葉が記されています。

こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」

 ラマという地名は諸説ありますが、ベツレヘム周辺の古代の町のことだと言われています。ここにアブラハムの孫にあたるヤコブの妻ラケルのお墓がありました。ヤコブは神様と格闘して、「イスラエル」という名前を神様から授けられた人です。イスラエルの12部族の祖先はこのイスラエルと言われるヤコブから来ているのです。そのイスラエルの妻であるラケルは、イスラエル民族の母親的存在とも言えるでしょう。このラケルが子供を失った母親の嘆きとして、エレミヤが預言しているのです。この言葉はエレミヤ書31章15節に記されています。こういう言葉です。

「主はこう言われる。
ラマで声が聞こえる。
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む。
息子はもういないのだから」。

 エレミヤは主イエスが生まれる約600年前のイスラエルの預言者でした。当時イスラエルは北と南の2つの王国に分裂していて、この時代に南のユダ王国はバビロニアという外国に攻め滅ぼされてしまいます。その際、多くのユダヤ人、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれてしまいました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。バビロニアに連れて行かれる時の通過点がラマでした。もう故郷には帰ってこられないイスラエルの子孫たちの姿を、墓の中から先祖のラケルが嘆き悲しんでいると、エレミヤは言うのです。もう子供達、子孫は戻ってこないのだから、慰めてもらっても仕方ない、慰めすら拒否をするという真に深い嘆きであります。

 マタイはヘロデ王による幼児虐殺事件をこのエレミヤの言葉と重ねました。ラケルが子孫のため、子供のために嘆き悲しんでいる。その声は今まさに聞こえてくるというのです。主イエスがお生まれになったこのクリスマスの只中で聞こえてくるのです。そしてこの嘆きの声が、今の私たちの世界でも木霊しています。イスラエルとパレスチナの対立から、多くの人が犠牲になり、子供たちが無残にも殺されています。それは遠い外国の出来事に過ぎないとは言い切れません。この日本を含め世界中で、不可解で、理不尽な事件に巻き込まれて、子供の命が失われている。子を失った親たちへの慰めなんてどこにあるのかと、叫びたくなるような出来事が繰り返し起こっています。ラケルの嘆き声は現代へ叫び続けられているのです

 幼子イエスは、救い主として、飼い葉桶に宿られ、このラケルの嘆き声が木霊する、すなわち慰めなんてどこにあるのかと嘆くこの現実の只中ですくすくと育ち、成長していくのです。この救い主を拒む敵対勢力がヘロデを筆頭に描かれています。この敵対勢力に対して、幼子は無力です。敵対勢力、いわば権力者に振り回されながら生きていていく。それは理不尽さの中で、人間の苦難を背負って生きていくということです。しかしそれは一種のあきらめというか、運命を受け入れていくしかないという生き方ではありません。この幼子、キリストの一生を一言で歌っているフィリピの信徒への手紙2章6―8節にこう記されているからです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 十字架の死に至るまでとありますように、キリストの生涯は生まれた時から十字架へと向けられています。それも人間としての弱さ、小ささを背負いながら、へりくだって、その道を歩まれていくのです。このキリストを十字架につけて殺したのは、ヘロデ王ではありませんが、あのラケルの子孫であるイスラエルの民、ユダヤ人たちがキリストを十字架につけるのです。

 この幼子、キリストもラケルの嘆き声が叫ばれるかのように、無残に殺されるのですが、このキリストの死は十字架の死、贖いの死です。ヘロデなどの敵対勢力に対して、武力でも神の子としての奇跡的な力をもってして反抗したのではなく、十字架をもってして、対抗したのでした。真にこの嘆き声の只中に、慰めなども見いだせないような闇の只中に、その身を置かれ、嘆きを受け入れた、すなわち死の嘆きを受け入れたのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者となられたのです。ただ泣き叫ぶことしかできない現実の私たちの世界で、神も共に泣き叫ぶ。神もまた嘆くのです。あの十字架上でのキリストの言葉を思い出してください。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」そう叫ばれたのです。そう嘆かれたのです。どうして私がこんな目に、どうして私の子供が、私の子孫がこんな目に合わないといけないのかと、私たちと同じように嘆かれました。

 しかし嘆きは嘆きのままで終わらないのです。十字架の死は復活へと続いているのです。パウロはコリントの信徒への手紙15章55節から58節で言います。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しようわたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないのです。主に結ばれる、それは主と共にあるということです。この世の理不尽さの中に、慰めなど見いだせようか、そのように嘆く私たちの姿があります。しかし、主イエスは私たちが抱く嘆き、究極的には嘆きの試金石である死を打ち破った、復活によって打ち破る救い主として、「神は我々と共におられる」救い主として、私たちの只中に宿られ、幼子として、私たちの前にみ姿を現されているのです。

 この救い主の父親として、幼子を抱いて、母マリアと共に、ヘロデから逃れるヨセフの姿があります。彼は夢で天使のお告げを聞いて、その言葉、すなわち神様の御言葉に導かれて、幼子と共に、ラケルの嘆きが絶えないベツレヘムの途上を歩み続けました。彼はマリアと共に、この幼子をおぶって、必死に逃げ続けました。幼子イエスはただこの父親であるヨセフに抱かれているだけなのです。幼子を抱いている、おぶっているヨセフの姿は私たちに何を示しているのでしょうか。

 今日の第一日課のイザヤ書63章8―9節にこう記されています。主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。

 彼らというのはイスラエルの民を指しますが、ここでは苦難を共にする者ですから、今の私たちの姿でもあります。わたしの民と主が言われるとき、それは私たちが神の子として招かれている、受け止められている、神の愛する子として、私たち一人ひとりを忘れることなく、憐れんでくださる神の恵みに他なりません。そのために私たちの救い主となられた御心は、私たちの苦難、嘆きを、ご自分のものとされるために、幼子としてこの世に宿られたということです。この幼子は神の御言葉に導かれるヨセフに抱かれ、逃げ続けます。神の御言葉がヨセフを通して働かなければ、幼子イエスは殺されていたでしょう。

 幼子は神の子です。しかし、人間の苦難をご自分のものとして生きていくと決断されたということは、目の前にある現実には、幼児虐殺という苦難の現実が待ち受けている。その苦難の前には、この真の人としての幼子ではどうすることもできない、それは私たちの人生と同じように、目の前の苦難を前にして、時にどうあらがっても、どうすることもできない現実の壁、苦難の壁を乗り越えることができないという状況にたたされること同じことです。幼子は神の子として、人間の苦難をそのままに、自分の歩みとして生きていかれる。けれどヨセフを、神の御言葉に導かれるヨセフなくして生きていくことはできないのです。だから、この幼子を抱いているヨセフ、神の御言葉に導かれるヨセフを必要するということは、この幼子が神の御言葉と共に生きていく、真の人として苦難の只中を生きていくというとき、神の御言葉こそが、自分を導く、働かれる、担われるということであります。ヨセフは幼子を抱いていますが、彼を導くのは神の御言葉であり、マリアとこの幼子との歩みを真に担ってくださるのは、神様にほかなりません。

 そして神の御言葉に導かれて、ヨセフが幼子を抱いて歩む姿は、主に従って歩んでいく、自分の十字架を背負って、主と共に歩んでいくということに映されています。もちろんそこには苦難があり、嘆きがあり、理不尽さが付きまといます。しかし、それらの困難と共に、むしろ私たちの苦難をご自分の苦難として、主は歩まれる、共に歩んでくださる。それがこの無力な幼子の姿に示されています

 キリストは私たちの苦難をご自分の苦難とされました。それが今、私たちの目の前に示されている幼子の姿に表されています。今年一年を振り返った時、思い出したくもない苦難があったかもしれない、また新しい年もどんな苦難が待ち受けているかわかりません。しかし、幼子イエスは私たちと共におられます。私たちの苦難をご自分の苦難とされる神様が共におられます。この悲しみの物語の中に、クリスマスの喜びは、この幼子を通して、私たちにはっきりと示されているのです。新しい年もまた、このキリストが共にいてくださると固く信じて、希望をもってこの救い主と共に歩んでまいりたいと節に願います。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。