マタイによる福音書2章1〜12節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
新年最初の主日を迎えることができ、感謝でございます。新年を迎えるということについて、先日の新年礼拝で私は、ルターの言葉を引用して「主イエスのご降誕日こそが新年の始まりである」ということを申しました。それはただ1月1日という暦に限られたことではなく、主イエスが私たちの只中に宿られた、その喜びをもって、その喜びから新年を迎えるということです。無論、新年を歩んでいくという歩みの中には喜びだけがあるわけではありませんし、聖書も主イエスの降誕の喜びだけを語ってはいないのです。先週の降誕後主日に聞いたヘロデ王による幼児虐殺という悲惨な現実を、それが殺された子供の母親の心情を代弁するかのように、イスラエルの母親的存在であるラケルの嘆き声として木霊している、そういう闇、現実の闇を語っているのです。この現実の闇の只中に輝く光、この光を見出す喜びを聖書は私たちに語りかけています。
さて、新年最初の主日を顕現主日として守っています。この日は主イエスがこの世に生まれて最初に成された礼拝を記念しています。それも幼子イエスを最初に拝み、礼拝に招かれたのは、神の民であるユダヤ人ではなく、神の民からは程遠いと言われていた異邦人、それも占星術という星占いの学者たちでありました。聖書には9節から11節で「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とありますように、彼らは星の導きによって、幼子の下に止まった星を見て「喜びにあふれた」、口語訳では「非常な喜びにあふれた」とありますように、自分たちの力、知恵といった見解を超えて、この世では理解のしようがないほどの大喜びをしたというのです。そう、拝むこと、礼拝とは喜びです。喜びの出来事です。それが今起こっているのです。主イエスの降誕をもって迎える新年の喜びは、この礼拝において具現化していると言えるでしょう。
しかし、学者たちが喜ぶ喜びは一言で言えば、「見出される喜び」とでも言いましょうか、例えばルカ福音書15章にある3つのたとえ話には、共通して失ったものが見つかるという喜びがテーマとして語られています。この喜びは何か私たちが思い描く楽しげな、全てことがうまくいくような喜びではないのです。そしてこの喜びの背景には、「失った」ということもそうですが、やはり人間の挫折、苦難といった闇が語られているのであります。
学者たちは何を経験し、喜びを見出したのでしょうか。彼らは星を研究する占星術の学者で、エルサレムの東の方から来たペルシャの人だと言われています。後世になって、彼らは異邦の王様としてそれぞれ名前がつけられと言いますし、または東方から来た博士として、伝えられていき、今の私たちが知るところとなりました。彼らは専門家としての自分たちの知恵を働かせて、ユダヤの方に光る曙の星を発見します。ただならぬその星の輝きから、それが救い主が宿ったというしるしをみたのでしょう、彼らは早速その星を見に旅立ちます。今日の聖書日課にも記されていましたが、彼らがその星を頼りに、救い主に会うために旅立っていったというこの出来事は、相当な覚悟と決断があったのではないかと思いますが、彼らの胸の内は喜び勇んでいたことでしょう。けれど、彼らはそのまま救い主の下にたどり着くことはなかった、というより、できなかったのです。彼らが訪れたのは首都エルサレムのヘロデの王宮、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と人々に聞く彼らの姿、その心情の中に、あの飼い葉桶に宿ったみすぼらしい幼子を救い主として、喜びをもって見出すことなどは到底できなかったでしょう。
彼らはなぜストレートに幼子の下にたどり着くことができなかったのでしょうか。彼らが見た星はどこにいったのでしょうか。この時学者たちは星を見失って、迷子になったのだと言う人がいます。また学者たちは自分たちの知恵ばかりに頼ったから、ヘロデの王宮を訪ねてしまった、または彼らは不信仰に陥ったから、星を見失ってしまったのだと、様々な説を聞いたことがあるのですが、少なくともこの学者たちの旅、救い主を求める旅路は一度中断されてしまったということであります。
自分たちの研究で、まばゆく星の輝きを見つけたとき、それが救い主のしるしであるとして彼らは大いに喜んだでしょう、希望をもったことでしょう、覚悟と決断を伴ったこの旅路には、そういう彼らの心情があってもおかしくはないと思います。ある意味では、自分たちの長年の研究が功を奏し、報われた、これからはうまく行く、自分たちはとんでもない発見をしたんだからという自信もあったことでしょう。自分たちが求めていたものに出会える、見ることができる、そんな期待を抱いていたはずです。
私たちも人生において彼らのような体験を何回もしたことがありませんか。初めて教会を訪れようとしたとき、今まで忙しくて全然いけなかったけど、やっとその忙しさから解放されて、行く機会が与えられた。小さい頃から憧れていた教会のイメージ、素敵なイメージが頭に浮かぶ。きっと教会にいけば素敵な出会いがあり、幸せになれる。もちろん求めるものが教会だけに限った事ではありません。また、人生において、何かしら好機が訪れる、チャンスにめぐり合う、何かやりがいがある仕事にめぐり合う、そんな可能性がある。今やらなくてはいけない、今がまさにその時だと言えることだってたくさんあります。時、場所、内容など様々な次元の中で、小さいことから大きいことまで、私たちの人生は留まることを知りません。
しかし、私たちはまた途中で歩みを止めざるえない体験をします。挫折したとき、苦難に遭遇したとき、傷つけられて、身体的にも精神的にも動けなくなったとき、こんなはずではなかったと失望したとき、予想外の出来事など、たくさんあります。それらの出来事が、その時に良いこととして受け止めるか悪いこととして受け止めるか、どちらにせよ、そこで自分の歩みが一旦止まる。自分の考えが、思考が、計画が、止められてしまうのです。新年に立てた計画が機能しない、それどころか台無しになることがある。一見、何か目に見えない力が働いて、自分たちの歩みを妨害しているように思えてくる、そんなことがよくあります。けれど、そのことは果たしてメリット、デメリットという二択だけで処理できることなのでしょうか、受け止めることができるのでしょうか。
学者たちは、自分たちの研究で探し当てた星を頼りに、旅に出ましたが、それでは救い主に出会うことができませんでした。確かに彼らはそこで歩みを止めざるえなかったのです。そこに彼らが抱く救い主はいなかったのです。ユダヤ人の王として生まれた、あたかもそれはダビデやソロモンといった、力や知恵に満ちた王という救い主というしるしではなかったのです。彼らは確かに星を見失ったのかもしれませんが、見失う必要があったのです。その必然性に立たされのです。
そして、途方にくれていたであろう彼らを導いたのは、神の御言葉でした。「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(2:4~6)この御言葉は彼らが歩みを中断した、いや中断させられた彼らにこそ響き渡った御言葉だったのでしょう。御言葉を聞くと彼らはすぐに立ち上がって、あたかもその御言葉の力によって立ち上がったかのように、彼らの歩みは、旅は再会するのです。救い主を求めて。
星が彼らの目に止まりました。星は確かに彼らと共にあったのです。星が彼らを確かに招く、その確信を抱くことができたのは、神の御言葉です。歩みを中断し、己を無にして、心の奥底に御言葉を戴いた、すなわち恵みとして受け止めることができたのです。彼らの挫折から、思わぬ人生のブレーキがきき、自分の思いが打ち砕かれたとき、その時にこそ開かれる道がある、しばしの中断が時に必要だったのです。彼らは救い主を拝む、礼拝に招かれています。
そう、今の私たちと同じように。私たちもしばしの中断です。悩み事、心配事は尽きないかもしれない、何か解決策を考えているかもしれない。しかし、それらの思いをしばし中断して、一度今行くべき歩みにブレーキをかけて、神の御言葉、神の導きに思いを向ける。それがこの日曜日、礼拝に集う私たちに神様が呼びかけておられる声です。救い主を受け入れるためにも、幼子という小ささ、無力さ、そこに神は御旨を向けて下さるその声を聞くためにも、私たちは今この場に留まっているのです。救い主が確かに私たちの只中に宿ってくださった、その救い主が共におられるという真実、この神の真実こそが神の顕現です。神は無力さの中に、留まることを知らない私たちの人生、思わぬブレーキが働き、中断した時に、見えてくるものがある、聞こえてくるものがある。自分の無力さに打ち砕かれ、御言葉を聞き受け止めるときに、その自分の無力さの中に、救い主は宿る、顕れるのです。
学者たちはまた、夢のお告げ、すなわち神の御言葉に従って、別の道を通って帰って行きました。ブレーキがきき、方向転換していくように、神の御言葉が示す神の道へと方向を定める。この幼子イエスと共にある道。この幼子イエスは後にこう言います。「私は道であり、真理であり、命である」と。彼らが通っていった別の道、この新しい道こそが主イエスの道です。
新年を迎え、新しい道が私たちに広がっています。私たちに救い主の道が与えられました。救い主と共に歩む道です。この道の主は主イエスです。私たちが今立っているところは、御言葉が読まれ、聞かれるところは、星に導かれてたどり着いた幼子がいるところであります。学者たちが喜びにあふれたように、新年を歩んでいく私たちも、幼子の救い主に出会い、この喜びにあふれつつも、そこでまた立ち止まるのではなく、一度立ち止まった、中断したからこそ、御言葉が力強く幼子の下に、礼拝に招かれたという真実を受けとめて、喜びに見出される別の道、新しい道を歩んでまいりましょう。そして、自分の思いにかられ、この道をふみはずしそうになったときは、一度立ち止まって、中断して、神の御言葉に聞く時です。幼子の救い主の下に、礼拝に招かれる時なのです
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。