マタイによる福音書3章13〜17節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日は主の洗礼日として、礼拝を守っています。主イエスの洗礼は私たちに何を告げているのでしょうか。16節から17節に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」と、ありますように、天が開いた、地に向かって開いた。天という神様の領域と地に住む私たち人間の領域が結び合わさった出来事、主イエスキリストを通して、神の救いが全世界の人々に告げ知らされる、そのときが来たという大いなる出来事を私たちに伝えています。
今、聖書を分かち合う会では創世記を読んでいますので、記録に新しいかと思いますが、アダムとエバは天のエデンの園を追放されたことによって、彼らは地に属すものとなりました。天が閉じたのです。ここから地に住む人間の歴史が始まり、それは同時に罪の歴史の始まりでありました。また、つい最近までノアの洪水を読んでまいりました。洪水の後、神様はノアと契約を結び、二度と洪水によって人間を滅ぼすことはしないと約束し、ノアを祝福します。その印として、神様は虹を置きます。神様はノアにこう言いました。「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」(創世記9:13)。わたしというのは神様であり、天であります。大地というのは私たちが住むこの地上、人間を指します。すなわち神様と人間の和解の印として、虹が置かれました。そしてこの和解の印である虹は、イエスキリストという真の神の子、真の人間として、私たちに関わるものとなったのです。
主イエスの洗礼の出来事は、天と地が再び結びついた壮大な出来事として語られているのでありますが、その真髄は何かということであります。天と地、神様と私たちの関係を結ぶ者として来られたキリスト、このキリストが神様の救いを人々に宣べ伝える前に、地上での最初の出発点をこの洗礼の出来事に記すとはどういうことなのでしょうか。
この主イエスの洗礼の記事は、4つの福音書に記されています。ヨハネ福音書は少し視点が違いますが、内容は重なります。この4つの中で、今日お読みしましたマタイ福音書だけには、洗礼者ヨハネと主イエスとの会話があります。主イエスの受洗は気まぐれでも偶然でもない、最初から目的をもっていました。その主イエスに対してヨハネは14節でこう言います。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
ヨハネにとって、このことは信じられない出来事でした。ヨハネは悔い改めの洗礼を授け、アブラハムの子孫で、自分たちは神様の救いから近いという認識をもっていたユダヤ人たちを激しく批判し、自分自身を含め、悔い改めて、洗礼を受けるべきであると人々に訴えていたからです。そして、ヨハネは、主イエスの存在を知っていました。いずれ自分より後から来る人こそがキリスト、真に洗礼を授ける資格のある方であると。
しかし、ここに福音の驚きとでも言いましょうか、価値観の大逆転が起こるのです。主イエスご自身が、ヨハネから洗礼を受けると。洗礼を受けるというその姿は、一人の罪人以外に他なりません。罪があるから洗礼を受ける、それは全ての人に当てはまる、洗礼を真に執行できる方以外、ヨハネを含め全ての人にあてはまること。それが洗礼であり、罪を告白して、神様の方向に自分の人生を方向転換するということであるとヨハネは考えていたのです。
ここにあの占星術の学者たちと同じものを感じます。それはキリストとはどういう方か、どういう救いを与えてくれるのかという人間側の思いです。占星術の学者たちがストレートに幼子イエスと出会うことができなかったように、救い主というキリストの本質を見いだせなかったのです。ヨハネもここでひたすら、主イエスの要求を思いとどまらせた、すなわち妨げたのであります。
マタイ福音書は特にこのことを強調しています。占星術の学者たち、ヨハネ、そして私たちもまた、地に属する者です。人間の思いを基軸として生きている者です。はたまたそれは自分自身の思いです。他者とは異質な存在であり、どこかしら誰とでも隔たりをもっているものです。立場が違うとまでは言わなくても、何か同じ場所に、自分と相手を置くことができない。人間関係の複雑さ、地球という同じ屋根の下に住む者同士でありますが、しかし、実は同じフィールには立っていない、ああ、あの人と私は違うんだなと、後ずさりしてしまうものです。
もちろんヨハネはここで、他の人と主イエスを同じ立場に置いているわけではありません。主イエスに対してあとずさりしているわけでもなく、主イエスに対して恐れ多いというか、ありえない心境を語っています。主イエスは異質な存在なのです。自分たち人間とは全く別の存在、天と地ほどの存在であると。しかし、主イエスはこういうのです。
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
正しいことというのは、「義」という言葉です。マタイ福音書には特にたくさんでてくる重要な言葉でありますが、義というのは、神様のめにかなう正しいこということです。神様のめにかなうということは、救われるということです。そしてここでいう正しいことというのは、主イエスが洗礼を受けるか否かということにかかっているのです。神様の目にかなうこと、神様の御心が成就するためには・・・・とヨハネにこう語っているのです。
ヨハネは、この主イエスの言葉に、福音を見出しました。主イエスが罪人、すなわち私たちと同じように、歩まれていくということのご決断。罪なき方が罪をまとっていく生き方をする。それは人間と生きていくということ、天に属する者が地に属する者となったという出来事です。地に属する罪あるものたちと共に生きていくという道を選ばれた。否、天はその道を望んだということです。地に属する私たち一人一人の罪の只中で共に歩んでいくということであり、わたしたちの罪の中に入り込んでこられたキリストであります。
そして、主イエスが洗礼を受けると、天が開いたのです。地が天に近づいたのではなく、天が地に近づいたのです。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえたのです。主イエスという天の者が地に属する者として歩むこと、それは神様の御心に適うものであると言います。この方を通して、天と地は再び結びついた。神と人間がひとつになることを望まれた。その妨げとなっている罪を取り除くために、主イエスは天と地を結ぶ使者、キリストとして、その罪を負われるのです。罪の重石に苦しむ私たちの苦しみを担うかたとして、私たちと同じフィールドに立たれました。主イエスの宣教は、この立ち位置、地に属する罪人たちの立ち位置から始まるのです。
皆さんはダミアン神父というベルギーのカトリック司祭をご存知でしょうか。彼は1864年から、ハワイの宣教師として活動していましたが、当時この地では多くのハンセン病にかかった人々がいました。当時ハンセン病は伝染病だと言われ、ハワイ政府はハンセン病患者たちをモロカイ島に移住させ、他の人々との交流を一切絶たせ、彼らは誰からの世話も受けることがなく、死ぬまでその地で過ごさなくてはなりませんでした。社会と家族から見捨てられ、肉体的にも精神的にも、どん底の状態だった彼らの中には、多くのカトリック信者がおり、彼らは、ハワイの司教に司祭を送って欲しいと手紙を出します。彼らの願いに対して、同地に派遣を願い出たのがダミアン神父でした。彼は単独モロカイ島に渡り、同地の宣教師として、彼らの世話をし、生活を助け、次第に交わりをもつことができたのですが、島の人々は唯一健康な彼を、心から受け入れることはできませんでした。ダミアン神父自身も、その隔たりに胸を痛めており、ミサの説教の時には「患者であるあなたがたは・・・」という言い方しかできなかったそうです。
しかし、患者と直接触れることをためらうことなく、彼らと関わる生活を続け、ある日、ダミアン神父は足に湯をこぼしても熱さを感じず、手首に黒い斑点が表れたのを見て、ハンセン病のしるしだと思い、翌朝のミサの説教で彼は「患者であるわたしたちは・・・」と、心から喜びにあふれて人々に語りかけたそうです。
彼は数年後にハンセン病を発症し、1889年49年の生涯を閉じました。ハンセン病を研究する学者の見解によると、彼がハンセン病にかかった原因はモロカイ島で患者と毎日直接触れていたことだけでなく、彼自身の免疫状態が発病に感染しやすい環境を作っていたそうです。
主イエスは「わたしたち」として、わたしたちと歩まれるのです。主イエスがわたしたちと関わってくださったから、主イエスが人間となったのではなく、天に属している時から、この世を愛するがために、人となる御心があったのです。人として、心から喜ぶことを教えてくださいました。共に生きるということの喜びです。共に生きてこそ、同じ立ち位置に立ってこそ、知りえることができない深い喜び、神秘がどれほど私たちの周りにあることでしょうか。ダミアン親父はその出来事を経験したのではないでしょうか。今日の福音もまたその大いなる喜び、神秘を私たちに伝えています。天が地に近づいた、天と地がひとつとなったそれは人間が神様のものなり、愛されるということです。それはわたしたち同じように、洗礼を受けられたこの主イエスを通して、真実となったのであります。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。