マタイによる福音書4章12〜17節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日私たちに与えられました福音は、主イエスがガリラヤで伝道を開始する物語であります。このマタイ福音書とマルコ、ルカ福音書の3つの福音書が共観福音書と言われる理由のひとつは、3つの福音書が主イエスの伝道がガリラヤから始まり、エルサレムまでの途上伝道、そしてエルサレム伝道という共通の伝道形態を成しているからであります。
主イエスが伝道を開始した発端は、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」(4:12)とありますように、洗礼者ヨハネが捕らえられたということでした。ヨハネを捕らえたのは、今日の福音書には直接書かれてはいませんが、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスだと言われています。クリスマス物語に登場するあのヘロデ大王の息子の一人です。ヘロデには既に妻がいましたが、彼は自分の兄弟の妻のへロディアを妻として迎えたいという願望があり、へロディアを妻として迎えていました。ふたりの間に生まれた娘がサロメです。洗礼者ヨハネの首が欲しいと父親のヘロデにねだったのは、このサロメでした。
さてヨハネは、このヘロデとへロディアの不正な結婚を糾弾します。怒ったヘロデは彼を捕らえてしまうというのです。ヨハネが捕まったことは、彼の弟子はもちろん、ガリラヤ中の人々に大きな衝撃を与えた事件でした。彼に期待し、彼を支持していた人は多かったのです。ヘロデからしたら、大物を捕まえたような心境だったでしょう。
イエスはこの情報を聞いて、ガリラヤに退かれたのですが、なぜガリラヤの領主であるヘロデの支配地域に退いたのでしょうか。「退く」というからには、方向が全く真逆ではないのか、むしろ敵地に向かってはいないのかという疑問が思い浮かびます。
マタイ福音書から、これまでの主イエスの足取りを考察しつつ、この「退く」という言葉を調べてみますと、少し前の2章13節から23節には、幼子イエスを抱いて、エジプトに逃亡するヨセフとマリアの姿が描かれているのですが、ここでエジプトを「去り」という言葉があります。この退くと同じ言葉です。事実、ここでもヘロデ大王による幼児大虐殺から逃れるために、エジプトへ逃げるのですが、この時のヨセフの行動と、主イエスの行動は共に、逃げたということでした。目の前の権力者の勢力に対して、ヨセフも主イエスも無力だったわけであります。ヨセフは夢のお告げ、すなわち御言葉に導かれて、難を逃れました。ヨセフと共に主イエスも幼子として、エジプトに去っていった(退いた)。そして、今ガリラヤに退いていくのです。
幼子の時と同じ足取りで歩まれる主イエスですが、しかし、退いたその先はガリラヤです。逃げ込む場所では到底ありませんが、13節から14節には「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」とありますように、イザヤを通しての神様の御言葉が主イエスを導いたのであります。
主イエスの伝道は、それこそ退きから始まった。準備万端に方向性を定めて、開始したというわけではなかったのです。退かなくてはならないという絶望的な状況の中でのスタートだったのです。しかもその場所はガリラヤ、ヨハネと同じように捕まってもおかしくない状況です。しかし、主イエスもまた一人の人間として、伝道を開始するですが、それは主イエスの独断でもひとりよがりでもない、主の御言葉が導いた、神様の御業が先行したということなのです。
伝道、宣教、それは人間の業ではなく、神様の御業であると言います。私たちの思惑を超えて、神様が動くのです。教会がその使命(ミッション)を担っていく大きな母体でありますが、実にたくさんの大きい教会、小さい教会があります。それらの教会に対して、小さい教会はもう教勢が伸びそうにないから、閉じてしまおう、または大きい教会は教勢がまだまだ伸びそうだから、こちらに伝道、宣教の力をより大きく注いでいこうという人間の思いは無意味なのであります。私たち人間は先に神様によって撒かれた御言葉の種を育てていくという技に仕えていくのであって、御言葉の種は全世界に撒かれているのです。この御言葉の種を成長させるか、枯らしてしまうかという私たちの信仰が求められているのです。
伝道、宣教が神様の御業であると分かりつつも、私たちは、教会は何千年という歴史を経ても、人間の思いに蹂躙されてきました。ある時は教会が戦争に全面加担し、キリストの平和を見失うという事態に陥ってまいりました。清貧で貧しさを尊重する修道院が、思わぬ富を手にしてしまったことで、修道院の教えが歪められ、腐敗していった歴史もあります。人間の思いが先行してしまい、御言葉の種を枯らしてしまうということは、現代の私たちが直面する課題であり、この六本木教会も例外ではないのです。
大きい教会があろうと、小さい教会があろうと、御言葉の種は全世界に、一人一人の心の中に撒かれているのです。神様は一人ひとりに救いの手を差し伸べている。人種や民族という隔たりなどもないのです。クリスチャンであろうとなかろうと、全ての人に対してです。だから小さい教会であろうと、教勢の伸び悩みだけを意識して、思い煩うのではなく、私たちは御言葉の種を巻かれる神様の御心を信じて、神様がこの教会を必要とされるという約束と導きに従って、胸を張って主の伝道、宣教の御業に参与していくのです。小さいものには小さいなりに、いやむしろ小さいからこそできることがある。教会の伝道、宣教とはただ単に教勢を伸ばすこと、利益を生む出すことが根本的な使命ではなく、どこまでも主に必要とされている、時代を超えて、価値観を超えて、主が導かれる、その導きの中で、神様の愛を伝えていく、仕えていくのであります。
さて、主の伝道、宣教に参与する私たちはどのような思いをもって、これに仕えていくのでしょうか。日本基督教団の牧師である深井智朗(ふかいともあき)先生という方が書かれた著書に「伝道」とい本がありますが、この中に、伝道についてこういうことが書かれていました。
伝道を語ることは美談や成功例を数えあげることではありません。また悲観的な分析を続けることでもありません。伝道の技術を説明し、伝授することでもありません。私たち自身の救いを語ることでしょう。この私たちの人生にキリストがどのように出会ってくださったのかを語るのです。証言するのです。
深井智朗『伝道』日本キリスト教団出版局 2012年 P19
深井先生は私たち自身の救いを語ること、人生におけるキリストとの出会いを証言することこそが伝道であると言います。私たちが考え、行っていく宣伝やマーケティングというよりも、私たちの救いの体験、さらには信仰告白が基軸となっているのです。
主の救いと主との出会い、おひとりおひとりに体験があることでしょう。また今その主に招かれている方々もおられるかと思います。それは決して過去の出来事に限られません。今まさに、神様の救いを体現している私たちの姿にあります。だから、私たちの伝道、宣教も変わっていく、変えられていくのです。今新たに、私たちは御言葉を通して、神様の救い、神様との出会いを受け止めるのであります。
主イエスが伝道を開始したガリラヤとは15節と16節にこう記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」とあります。マタイはイザヤ書の言葉を引用して、ガリラヤという地名と背景について詳しく記しているのです。
ガリラヤはイザヤが生きた紀元前8世紀の時代に、イスラエルが他国との戦争に負けて侵略され、戦争の傷跡が残る荒廃とした土地になってしまいました。その只中で生きる人々は暗闇に生きていたと言うのです。希望を失い、絶望と混乱に満ちていた人々はまさに死の陰が忍び寄る土地の上を歩んでいたのです。
暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民、死の大地、それはまた私たち自身の奥深いところに存在するのではないでしょうか。このガリラヤという闇を隠そうと、私たちは光を求めて生きていますが、暗闇、闇というのは根深いものであります。私たちの身近に忍び寄ってくるものです。私たちの心を閉じさせる力があるのです。
イザヤは、ガリラヤという地に芽生える暗闇にこそ輝く光を預言したのです。闇の只中を生きる民は必ず光を見ると。マタイ福音書はさらに、この光が闇に射し込むという表現を用いています。闇の只中を生きる者は、私たちはただこの光を見るということに収まらない、私たちの奥深い闇に光が射し込むように、今主イエスキリストという大いなる光は、闇を抱える私たちの人生の真っ只中に入り込んでくるということであります。
異邦人のガリラヤ、それは死の陰が忍び寄る土地、光など射しもしない奥深い闇、それは私たちが抱える闇でもあります。私たち自身が光を拒んでいるのかも知れません。誰にも見せられないような奥深い闇との葛藤を抱き続ける私たちの下に、主の伝道は始まるのです。闇にうずくまっている者を放置せずにはいられない神様の愛が迫っています。
神様の救い、神様との出会い、私たちの救いの物語は闇の只中において、主イエスが来てくださったことにおいて始まったのです。主イエスの光は、私たちの伝道、宣教の光をも射し出る導きの光でもあるのです。私たちの闇を貫き通す一条の光として、主イエスの伝道は始まりました。私たちの伝道はこの光に照らされて、初めて主の御業として形になってくるのであります。形として具体的に示されてくるのです。主イエスの伝道開始は、私たちの救いの物語の始まり。主はすべての人を訪れます。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。