2014年1月26日 顕現節第4主日 「「自分」を明け渡す」

マタイによる福音書4章18〜25節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

私がこの教会に遣わされて、約10ヶ月が経ちました。様々な人との出会いが与えられてきました。その中で、少人数ではありますが、キリスト教に関心があるから、教会に行ってみたい、礼拝に行ってみたい、勉強したいという人たちとの出会いも与えられて、感謝でございます。しかし、日曜日働いていて、主の復活日であるこの日曜日の礼拝にお越しになれない方も多くおられます。むしろ、今や、職種を問わず、日曜日に働いておられる方は私たちの周りでも、多くいます。日曜日の主日礼拝に来られない方を前にして、私たちの伝道、宣教活動の中に、何が求められているのでしょうか。

けれど、そのような困難な伝道、宣教活動を求められている中にあろうとも、私たちが神様の福音、愛を伝えていく上で、大切なことは、神様は全ての人を招いておられるということを確信することです。そして、その神様の招きとはどこで起こるのかということについて考えるかと思います。それは果たして教会という場所に限られるのでしょうか。日曜日教会に来て、礼拝に出たことによって、神様がその人を招くということ、神様の招きが教会、礼拝、または祈っている時の中にしか起こらないということなのでしょうか。

今日私たちに与えられた福音は、決してそうではないということを私たちに教えています。主イエスがガリラヤで伝道を開始され、最初に行ったことは、ペトロたち漁師を弟子として迎えたということです。彼らを招いたのです。その時の彼らの状況について聖書は「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。」と記しています。ペトロとアンデレという兄弟は漁師で、湖で網を打っていた、漁をしていたということです。彼らはせっせと働いていたという日常の出来事がただここに記されているだけです。彼らは会堂で礼拝を守っていた、またはお祈りをしていたわけではありません。どこか特別な場所で、特別な時間を過ごしていたのではなく、ただ働いていたのです。私たちと何ら変わらない、彼らの日常がそこにあるのです。

主イエスは漁をしているふたりの兄弟を「ご覧になった」とあります。このご覧になったという言葉ですが、元の言葉を調べて見ますと、「目や心を向ける」という意味があります。またさらに「訪問する」という意味もあるのです。ただ視覚的に彼らの姿を捉えたということではなく、主イエスのまなざしは彼らのもっと奥深いものを見つめていたのです。彼らの心、彼らの内面、強いて言えば、漁師としての彼らの日常、彼らの人生を見つめておられたということは、主イエスは伝道の旅路の中で、たまたま彼らの姿が目に映ったということではなかったということであります。

そして、主イエスは彼らをご覧になる、それは単に目に留まったということではなく、「訪問する(された)」彼らの深い内面、彼らの人生を見つめられ、その人生の只中に主イエスが入って行かれた、踏み込んで行かれたのです。

そして「わたしについてきなさい」と彼らを招きます。主イエスについていくとはどういうことでしょうか。この「ついてきなさい」というのは「さあ、来なさい。おいでなさい」という意味を持つ言葉です。ここに来なさい、私の下に来なさいと主イエスは言われるのです。ついてきなさい、それは私のペースについてこいとか、何かつらいことがあっても、何が何でも私についてこいということではないのです。主イエスがついてきなさいと彼らを招く時、彼らの心境を無視して、私についてこい、後に従えということではなく、彼らの心境の中に立ち、主イエスがそこで留まりつつ、待ちつつ、さあ、おいでなさいと主イエスの御許に、彼らを、そして私たちを招いてくださる、私たちの日常の只中で、招いてくださるのです

ヨハネの福音書で、主イエスはご自身が良き羊飼いであると言います(ヨハネ10:14)。私たち人間は羊にたとえられます。羊は臆病で、自衛力がなく、迷いやすい動物であると聖書で言われています。ですから、羊飼いが羊たちの世話をしないと、羊たちは生きていけないのです。羊飼いが羊たちを導いていかないと、羊たちは迷い出て、狼などの獰猛な動物に食べられてしまうのです。これは神様と人間の関係を主イエスが喩えたお話ですが、ルカによる福音書15章1―7節には、見失った羊の譬え話があります。一匹の羊が99匹の羊の群れからはぐれてしまいます。羊飼いは自分について来なかった、またはついて来られなかったその一匹の羊に愛想をつかして見捨てたのではなく、一匹くらいどうでもいいと思ったのでもなく、その見失った一匹の羊のために、命懸けで必死に探し回るのです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と主イエスは話したのです。

主イエスがついてきなさいと私たちを招かれるとき、それは確かに主イエスの後についていく、主イエスが私たちの歩みを導いてくださるということですが、それでも羊のように、主イエスが招かれる主の道を見失い、迷いでる私たちの姿があります。主のみ後についていけない私たちを、主イエスは、見捨てはしないのです。私たちをひたすら招き、迷いでる私たちを見出してくださる主の愛が、「わたしについてきなさい」という呼び声に現されているからです

ペトロとアンデレはすぐに主イエスに従いました。「すぐに」ということが強調されているように、その場で網を捨てて従っていったのです。同様のことが、このすぐ後に記されているヤコブとヨハネのふたりの漁師にも起こりました。彼らもまた、主イエスに招かれ、父親と船を残してすぐに主イエスに従ったのです。

彼らは漁師という生活の支えとなるものを捨て、父親という家族を残して主イエスに従っていくのです。主イエスに従うとはこういうことだということストレートに私たちに伝えている物語です。キリスト者として、クリスチャンとして生きていくとは、主イエスの弟子となり、神様の家族として、新しい人生を歩んでいく。捨てるとありますが、家族と縁を切って、漁師という働きをもう二度とするなということを言っているわけではありません。けれど主イエスに従うことを第1として歩んでいく、そう言えるでしょう。そのように私たちを招くのは、何か特別な時や場書には限らず、私たちの日常生活の只中で起こっていることであるということを私たちは聞いてまいりました。

主イエスに従う生き方、それは人生の転機であるとも言えます。また悔い改めるということです。悔い改めるとは方向転換する、180度価値観が変わるということです。自分ではなく、神様の方を向いて歩んでいく、神様のご支配の中に生きていくということ、自分が神様のものになるということでもあります。その新しさに生きていく。「自分」という存在を主イエスに明け渡すという出来事が起こっているのです。

けれど、「自分」という存在を主イエスに明け渡す、それはどうしてできるのでしょうか。ペトロたちは特別な人間だったのでしょうか。主イエスに従うだけのすばらしい賜物をもっていたからでしょうか。決してそうではないことを私たちは知っています。それはこれから先の、福音書を通して彼らの言葉や言動を見れば一目瞭然です。一言で言えば、彼らは主イエスに叱られてばかりいるのです。主イエスの思いとは全くかけ離れたことばかり(思いをもっている)している。挙句の果てには主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう、主イエスの十字架に従うことはできなかったのです。

ですから、彼らが主イエスのことを本当に理解していたから、主イエスに従うことができたということではないのです。主イエスが彼らをご覧になっていたのは、具体的に言えば、彼らの心に目を向けていたのは、人生の只中にある彼らのもろさであり、弱さであり、小ささそのものです。羊としての彼らの迷いそのものを見つめていた、その只中にこそ入って行かれたのです。そして、そのもろさ、弱さ、小ささのままに、主イエスは招かれる、私たちを招かれる。私のもとにきなさいと呼びかける声があるのです。

羊の如く、迷い、不安の只中を歩む私たちの人生があります。世の中の世情についていくのが精一杯、いや、むしろついていけているのだろうか、世の中から見捨てられてはいないのだろうか。そういう不安を抱えている、出口のない思い悩みを抱いて歩んでいる姿がどこかにある。はたまた、そうではないと自分を偽っている、強がっている姿がどこかにあるのではないでしょうか。主イエスはそんな私たちをご覧になっている。ついていけないから、価値のない者、捨てられる者であるというのではなく、全ての人を主は招かれる、探し出してくださるのです。私たちを招かれる主の声は時代を超えて、私たちひとりひとりに向けられているのです。

主に招かれたペトロは、後に同じマタイ福音書の中で、「あなたはペトロ。私はこの岩の上に教会を建てる」(マタイ16:18)という主イエスの言葉をいただいた人物です。教会が具体的に現されてくるのはペンテコステの時でありますが、この教会という言葉はギリシャ語でエクレシアと言います。その意味は「信仰の共同体」という意味がありますが、他には「呼び集められた者たち」、または「召し集めた群れ」という意味があるのです。まさにペトロをはじめ、弟子たちの群れは、主の声を聞いて、集められた者たちひとりひとりなのです。教会とは単純に建物や組織のことを指しているのではないのです。私たちが教会に来る動機は様々にあるかと思いますが、ここに集められたおひとりおひとりは、主イエスによって招かれた者たち、呼び集められた者たちなのです。

主が私たちの日常、人生をご覧になっています。この方は十字架に向けて歩んでおられます。私たちの弱さ、もろさ、小ささ、はたまた苦しみ、悲しみ、迷いを担って歩まれ、そのまま十字架にかかられました。この十字架のみ姿の中に、私たちの小ささが表されています。私たち人間には負うことできないような苦しみが表されているのです。私たち人間ではなく、神様が担って下さるのです。

主イエスに従うとは、何よりもこの十字架に従うことができない自分を知るということ。もはや自分がつよがって、弱さを隠すのではなく、弱さのままに招かれる主のみ前に、私たちは自分の心を開いていけばよいのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。