マタイによる福音書5章38〜48節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
神学生の時に、1995年アメリカで制作され、上映された「デッドマン・ウォーキング」という映画をDVDで借りて見たことがあります。こういうお話です。
アメリカの貧困地区で働くシスターのヘレンは、強姦殺人の容疑で逮捕され、死刑宣告を受けた死刑囚マシューと、刑務所で出会います。ヘレンはマシューのスピリチュアルカウンセラーとして、彼と幾度となく向き合っていきますが、マシューは傲慢で横柄で、人をからかうような態度を彼女に向け、自らの無罪を主張し続けます。結局彼の主張は裁判で通らず、死刑は免れることができなくなるのですが、死刑執行日が近づくにつれて、彼の態度は変わります。彼は死の恐怖に怯え、犯した罪に怯え続けるようになるのです。ヘレンは彼に寄り添い、その思いを受け止めつつも、彼に罪の告白をするように解きます。そして執行日の直前に彼は罪を認めて、自分が殺人を犯したことをヘレンに打ち明けました。そして彼は彼女にこう言うのです。「僕を愛してくれてありがとう」と。そして迎えた死刑執行日の時に、独房から執行室に連れて行かれるマシューの後ろからヘレンは彼に聖書の言葉を聞かせ、彼に慰めの言葉を語りながら同行します。同行が認められない場所まで来たとき、最後の別れの瞬間に、ふたりは「I Love you」と互いに言って、別れます。執行台に縛り付けられたマシューは、死刑執行の直前に、被害者の父親にこう言いました。「僕の死が、あなたにとっての癒やしになりますように、そして僕を赦してください」と。
どうあがいても死刑は免れない彼は、最後の最後で、罪の告白に導かれ、被害者の父親に、こう言ったのでした。彼が死の恐怖、罪の怯えから、言えた言葉ではなかったでしょう。そうではなくて、彼がヘレンに言った言葉「僕を愛してくれてありがとう」という、自分が愛されているからこそ言えた言葉だったのではないかと思います。ヘレンはマシューをひたすら愛し、彼に愛を与え続けたのでした。そんな彼女に対して、彼は最初、傲慢で横柄で、人をからかうような態度をとっていた。人から憎まれても、殺人を犯しても、何とも思わなかった。彼は愛する、愛されるということを知らなかったのです。「僕を愛してくれてありがとう」。彼の生涯は、死刑という形をもって終りを迎えますが、彼は最後の最後で愛を知り、愛されて終えたのであります。
今日も山上の説教から、御言葉を聞いています。主イエスは言います。「悪人に手向かうな(5:39)敵を愛せ(5:44)」と。私たちはこの有名な主イエスの言葉を聞くと、すぐに主イエスの教えなど守れるはずがない、実現不可能な教えであるとして、気にもとめなくなってしまうことがあります。主イエスは理想を語っているだけで、現実に生きている私たちのことなど全く分かっていないとさえ思ってしまうのです。主イエスはどういう思いをもって、このようなことを言ったのでしょうか。
まず、「目には目を、歯には歯を」という律法の教えが述べられています。(5:38)いわゆる「同害報復」の教えですが、よく勘違いされるのが、これは復讐を推奨している教えではなくて、相手の目、または歯に損害を与えたら、自分は相手と同じ損害を被らないといけないという、個人的な感情に根ざした教えではなくて、公的な立場に則っている教えです。目をやられたら、目だけではなく、目全体に手をだしてしまう。歯を折られたら、歯一本に収まらず、全体を折ってやらないと気がすまないという人間の思いがあります。そういった、限りない復讐の連鎖を断つために、設けられた教えでした。
しかし、と主イエスは言うのです。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(5:39―42)
復讐してやりたい、報復してやりたいという人間の感情を抑えなさい、それどころか、損害を受けたものは更に損をしろと言っているように聞こえるのです。相手から何かやられたら、相手にも同じ境遇を味わってもらう。自分が損したままに、相手と関わっていくことなどできるのか。そういう思いを抱かないでしょうか。けれど、主イエスは、相手から何かやられて損をしたら、その損害を相手に向けるのではなく、帰って、相手を生かすようにしなさいと言うのです。
そして43節、44節では、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
隣人というのは、ユダヤ人たちにとっての親交ある人たちです。その中に異邦人は含まれませんし、同胞のユダヤ人でも、徴税人や罪人は入りません。彼らは憎むべき敵として見なされているのです。しかし、主イエスは敵を憎むのではなく、むしろ愛しなさい、その人のために祈りなさいと言うのです。
38節から43節で、主イエスが言わんとしていることは、自分が相手から何をされようとも、相手を生かしなさい、愛しなさいということです。その対象に限度がないのです。目には目を、歯には歯をという、互いに損害を被る歩みではなく、また隣人を愛して、敵を憎むという自分の軸に焦点を当てた愛だけにとどまるなと言うのです。
目には目を、歯には歯をという相手との関係、隣人を愛し、敵を憎むという関係。これらは人間の愛に限られます。部分的な愛、断片的な愛とでも言えましょうか、これらの人間の愛には条件がある愛の関係なのです。合理的な考えに基づいているでしょう。あの人はこうしたから、あの人はこういう人だから、こういうふうに愛していく、こういうふうに関わっていくと、自分を軸にして、条件をつけるのです。
主イエスはこの人間の愛、条件つきの愛を打ち破るのです。人間がつけた雁字搦めの愛の縛りを解かれるのです。部分的、断片的な愛ではない、いやむしろ、愛とはそのように条件づけられたものなのか、都合よく解釈できる範疇にあるものなのかという問いに私たちは立たされているのです。また、隣人愛と言っても、たとえば親子の愛、男女の愛、友人との愛などが挙げられるかと思いますが、これらの愛も、どこかしらに部分的なものを感じるのです。どこかに破れがある、欠点がある。自分が条件をつけてしまう。その結果、明日には親しい人が敵になってしまうこともあるのです。
愛の破れの中で、敵ができるのでしょう。相手も自分を敵として、自分を憎み、復讐の対象とされています。されど、主イエスは敵を愛しなさいというのです。憎しみを抱いて、復讐心を抱く思いから、解放されなさいと言われるのです。敵は自分に対して愛することができず、自分もまた敵に対して愛することができない状態です。互いに愛を知らないのです。そのまま憎しみをもってして、その相手と関わっていくその結末は・・・。復讐心がエスカレートし、憎しみに心を奪われ続ける滅びの結末を迎えるのです。憎む方も憎まれる方も、互いに行き着く滅びの道であります。
主イエスはその結末を望まないのです。敵を憎むのではなく、愛しなさいという主イエスの御言葉。我慢しても、忍耐しても、そんなことができるのかという葛藤の中に立たされる私たちの姿があります。人から憎まれれば、そんな覚えはない、そんなことをしたつもりはないと弁解の余地に立たされます。自分の中で敵と味方を作ってしまうのです。
憎しみの心、互いに復讐の絶えない滅びの道を突き進む私たちを主イエスが見ておられます。滅びへと向かう私たちを見過ごされて、復讐を肯定、助長するようなその場限りの人間の都合を満たす思いには立たれないのです。主イエスは滅びへと突き進む私たちの憎しみの心、復讐の道、その果てにある滅びからの救いを私たちに示しているのです。主イエスの御言葉を通して、私たちの救いということが問題となっているのです。主イエスは私たちに救いを、敵をも愛するという救いの道を宣べ伝えているのです。
それは何よりもまず、敵味方関係なく、敵味方の只中にある私たちひとりひとりが神様から愛されているということを知ることから始まります。
デッドマン・ウォーキングで、マシューは愛を知りました。愛を知らずそのまま死刑を執行されていれば、事実上それは彼にとっての人生の滅びとなっていたでしょう。しかし、彼が愛を知り、愛されていることを喜び、被害者に悔いる言葉を言うことができたということは、同じ死刑執行にして死ぬということにおいても、人生の滅びというよりは、死の瞬間に救われたということが言えるでしょう。相手から憎まれるだけの、愛される価値のない者であると思っていた死刑囚が、愛を知ることによって、大きく変えられた。被害者の痛みに気づかされたのです。
主イエスは45節でこう言います。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」自分は悪人でしょうか、善人でしょうか、正しい者でしょうか、正しくないものでしょうか。あんな人でも神様が恵みを与えてくれる存在だから、大切にしなくてはいけないということでしょうか。それは自分を軸にした思いでしかありません。相手から見たら、自分は悪人であり、正しくないものであります。私たちはどの立場にも立たされているのです。されど、神様のみ前にあっても、自分の思いを軸としてしまう罪人である自分にさえも、神様はこのようにして太陽を昇らせて光を与えてくださり、恵みの雨を降り注いでくださるのです。罪人、それは神様から離れ、敵対しているこの自分こそを、神様は自分を憎むのではなく、愛してくださる。恵みを与えてくださるのです。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(5:48)私たちが完全な者となるとはどういうことでしょうか。神様みたく全知全能になれというのは不可能です。そういうことではなくて、天の父なる神様の完全さとは何かと考えたときに、父なる神様が私たちに何をしてくださったのかということです。それは罪人として敵であった私たちを愛してくださった、いや今も愛してくださるということです。だから、完全な者となりなさい、つまり魅力的な人間になりなさいという人間の完全さではなくて、神の完全さ、ようするに「愛する者」となりさないと、私たちを招かれるのです。
天の父なる神様が完全であられる、愛する方であるということ。その御心は、主イエスキリストを通して私たちに表されています。神様はその独り子を愛するほどに、この世を愛された方です。この愛の方の子供として、私たちも愛する者として生きるようにと招かれています。敵を憎む、敵から憎まれるという滅びの道ではなく、敵を憎み、敵から憎まれる私たちは、憎しみでは生きられないということを知るのです。敵味方、その只中にある私たちは、ひとりひとりを愛される神様の愛の只中で生かされているのです。この救いの道、神様の愛が示されています。この神様の愛に私たちは生きるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。