2014年2月23日 顕現節第8主日 「必要なものを知らされて」

マタイによる福音書6章24〜34節
藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日は午後1時30分から、この六本木教会の教会総会が開催される予定でありますが、午後4時からは、日本福音ルーテル教会の東京教会で、神学校の夕べの祈りが予定されています。神学校から卒業していく者を送り出す行事として毎年守られてきた行事で、昨年は私も他の4人の卒業生と一緒に、この神学校の夕べの祈りに出て、礼拝の中で短い説教をさせていただき、皆さんから祝福と祈り、激励の言葉を頂きました。六本木教会からも何人かの方が来て下さり、お祝いの品を頂き、六本木教会で共に信仰生活をこれから送っていく、この教会で一緒に生きていくという証しを立てた時でもありました。あれからもう一年も経ち、懐かしく思います。

今年は卒業生がいないので、「召命」をテーマに、神学生たちが奉仕してくださるそうです。ふたりの神学生が説教してくださる予定です。説教の中で自分たちの召命感が語られるでしょう。彼らは自分たちの人生を振り返りつつ、その中で人生経験を語るかもしれません。しかし、その人生経験というのは、その人自身の経験の豊かさではなく、その人の口を通して語られる神様の恵みの豊かさであります。神様がその時、その場で私を捕えてくださり、用いてくださる。そういう出来事が起こった、真に起こったという恵みの体験です。されど、その時、恐れ、迷い、不安、思い煩いを抱いたかもしれません。自分があなたに仕える資格などあろうか、ふさわしい者であろうか。私ごとで恐縮ではございますが、私自身も牧師になるために、献身を決意し、神学校に入った後も、自分は牧者としてふさわしい器になれるのか、もっと人生経験を積んで、信徒として信仰生活を送って、教会を知り、様々な知恵をつけてからのほうが良かったのではないのか。目の前の課題、困難にぶちあたった時に、そのように思い煩うことはたくさんありました。

しかし、初代教会の発展に大きく貢献し、神様の福音を大胆に力強く宣べ伝えていたあのペトロやヨハネは、使徒言行録で、他の人からこう見られていたのです。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒4:13)大胆な態度というのは、自分たちに敵対する者たち、すなわち、主イエスの福音を拒もうとする者たちに捕まって殺されてしまうかもしれないのに、そのような不安。思い煩いなど全くないかのように、彼らは神様の福音を宣べ伝えるために、そこに立ち続けていたということ姿に見られます。彼らは「無学な者」、特別に知恵のある魅力的な人間ではないのに、人々は自分たちの心に響く福音が、神様の救いの御言葉が語られている、だから人々は驚いているというのです。彼らは自分たちの口を通して、神様の恵み豊かさを証ししている。さらに言えば、そこに神様の御業の働きが彼らの口を通して示されている。彼らの牧者としての偉大さが描かれているのではありません。

ヨハネ福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と主イエスが言われるように、ペトロもヨハネも、今日説教される神学生も、私も、献身者として、牧者としてただ、神様に選ばれたという先行する導きがあったという真実、それはまた洗礼に招かれた信徒の皆様、洗礼に招かれている皆様も、同じく神様の導きの下に、神様に選ばれた存在です。神様に選ばれた者が魅力的なのではなく、選ばれた人を通して、その人の存在を通して、生き方を通して、神様の恵みが溢れ出ている、神様の栄光が現されているのです。

神学校の夕べで説教される神学生の口を通して、神様の恵みが語られ、献身の喜びが語られるでしょう。その恵み、喜びはその人だけでなく、またその神学生を送り出した教会に限らず、教会全体、信仰者の喜びであると願います。是非とも、お時間のある方は、神学校の夕べの祈りにお出かけください。キリストに捕らえられ、キリストに生かされる者の恵みを分かち合うひと時となるでしょう。私たちは神様に選ばれた者なのです。

今日の御言葉もまた、恵みに満ちております。神様の愛が示されています。御言葉を通してこの世を生きる私たちに示されています。「思い煩い」に縛られている私たちにです。私たちに主イエスは明確に「思い煩うな」と言うのです。思い煩う必要などないと言わんばかりに、主イエスは空の鳥、野の花を通して神様の恵み、神様の養いの下に生きている命を、私たちに示しているのです。

思い煩う、思い悩みとは、元は「分裂する、分裂している」という意味です。思いや心を向けるべきひとつの方向に焦点が合わず、他の不安や悩み事に心を奪われている状態を言います。先程も私は牧者としての器、そのために必要な物として、人生経験やあらゆる知恵を身につけなくてはならないという、あれもこれも必要だという思い悩みがあったことを言いました。本当に大切な者、軸となる本質を見失っている状態とも言えます。皆さんそれぞれに、思い悩みを抱えておられるかと思います。

26節で主イエスは私たちに空の鳥、野の花に注目させます。あれらのようになれとは言いません。見なさいというのです。私たちは見て、何を感じるでしょうか。単なる自然現象に過ぎないのかもしれません。されど、主イエスは29節、30節でこう言うのです。「しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」ソロモンという偉大な王様と、見向きもされないような小さな花が比較され、野の花の方が美しく着飾っていると言われる。明日は炉に投げ込まれて、死んでしまうかもしれない野の草もまた美しく着飾っていると言われるのです。生きていて、命がある。それはそうです。しかし、この「着飾る」という言葉の中に、神様の特別な思いが込められています。

目に見えるような美しさ、人間の目に価値ある花や草のことを指しているのではありません。神様が着飾る装いとは何か。ソロモン以上の美しさとは何か。それは野の花、野の草が見栄を張って背伸びしているわけではなく、それらのものの命が神様の御手の中で生きながらえている、神様の恵みに生きているということです。その姿は、むき出しのその命の美しさは、ソロモンの偉業、その人間的な価値観に見られる美しさに勝るということです。

実に、単純なことを聖書は言っているでしょうか。楽観的なことを言っているでしょうか。野の草の命が保証されているということではありません。明日には死ぬのです。神様の恵みの中に生きるものはもう安心だとは言わないのです。野の草だけではありませんが、今より先に待ち構えている困難、労苦から逃れることはできないのです。

私たちは空の鳥、野の草花ではありません。ですから、目の前の苦労、困難と向き合うことも、逃れようとすることもできるでしょう。しかし、そこで思い煩うのです。思い煩いが、目の前の困難、苦労を悩みの種にします。思い煩いが、苦労や困難と向き合えない状況を作るのです。そこに私たちの生き方が問われるのではないでしょうか。喜びや楽しみだけではない人生、苦労や困難と向き合わなくてはならない、または回避しようとする。そこに働く思い煩い。困難や労苦と向き合っていく生き方の中心となるもの、その方向性とは何でしょうか。いや、中心は、方向性はあるけれど、それが明確にはならないという思いに立たされているとも言えるかもしれません。それは思いが分裂しているから、思い悩んでいるからです。何が必要で、何が大切か、そう突き詰めれば突き詰めるほど、思い悩み、不足ばかりが念頭に浮かぶのです。あれもこれも必要だと、思ってしまうのです。

このことは25節で主イエスが「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と言われる通りです。生きていく上で何が軸となるのか、基となっているのかよく考えなさいというのです。ここで命ということが示されています。この命とは「魂」とか「心」という意味の言葉です。単に肉体のこと生だけを言っているのではありません。その人の生そのもの、人生の基であります。苦労、困難を生きていく命です。自分の命のことで・・・思い悩んだところで、思い悩みはこの与えられた命を生かさないのです。真に生かされる命とは、困難、苦労の只中にあっても、実感をもって生きていく。人生の旅路として、そこで思い悩んで立ち止まろうとするのではなく、旅路としてその道を進んでいくことができる生の歩みです。この生の歩みが、主の恵みに生きていくということであります。

この命、与えられた生命を生かされるために、何が必要か。何が大切か。33節で主イエスは何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。と言われます。神様のご支配とその正しの中に、自分の命を委ねていく。信じていくということです。私たちの望むものが全て与えられるから、思い悩むなと言うのか。そうではなくて、私たち一人一人も、神様の養いのもとにあり、着飾られている。既に施されているのです。心も魂も、備えられているのです。だから、思い煩いの世にいつまでも心も魂も縛られる必要はない、神の国と神の義という神信頼の世界に、生きていく。私たちを真に活かされる創造主の御手の中にあって、私たちの思い煩いは無に等しいのです。

自分の人生の主は、もちろん自分であります。喜びも悲しみも、痛みも苦しみも、全て自分自身が体験するからです。されど、人生を歩むこの命は、この命を与えたのは、命の主は誰かと考えたときに、自分は被造物として、この世界で生かされているということを知ります。大いなる導きの中で、私たちの思い煩いを超えて、主は恵み深き御業をもって、わたしたちを選び、わたしたちを導かれます。労苦を労苦として、困難を困難として向き合っていく。この歩みは一人ではないということです。主は私たちを創られて、そのままにしているわけではありません。救い主イエスを通して、主が共に歩んでくださるということを教えてくださるのです。だから思い悩む必要はない。主は私たちの命、全人格、そしてただ私たちを創られただけでなく、全生涯に関わる方、人生の基であります。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。