マタイによる福音書17章1〜9節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日は変容主日です。弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネが主イエスに連れられて、高い山に登り、そこで彼らは不思議な体験をしました。弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わり、そこにモーセとエリヤという旧約の預言者が現れて、主イエスと語り合い、そして光り輝く雲に弟子たちは覆われて、天の声を聞いた。そして弟子たちが顔を上げて見ると、主イエスの他には誰もいなかったと言います。彼らは一体何を見たのでしょうか、そしてこの変容の出来事、物語は私たちに何を示しているのでしょうか。出来事が出来事なだけに、非常に難解な物語かもしれません。
けれど、この非日常的で、神秘的な出来事の目撃者、体現者であるペトロ、ヨハネ、ヤコブのことを、とてもうらやましく思えるのは私だけでしょうか。彼らは本当に特別な体験をした、第2日課のペトロ自身の言葉で言えば、彼は神の威光を目撃した「目撃者」であると言います。こんなに間近に神様の威光を、恵みを経験することができたと言うのです。(Ⅱペトロ1:16)普段と変わらない日常生活を送っている中で、その日が当たり前のように来て、当たり前のように過ぎ去っていくと感じてしまう私は、真剣に神様の恵みを受け止めているのだろうかと思うものです。自分自身も神様の恵みを受けて、今この時を生かされている。そのことを自覚することが既に、神様の威光、恵みの目撃者なのですが、やはりペトロたちのような体験を「特別な神体験」として見てしまうのです。目に見えることだけに縛られている私自身の愚かさであり、信仰の薄さであると感じます。しかし、ここで言われている「目撃者」という言葉。ペトロたちの体験、あの変容の出来事は、自分自身の愚かさ、信仰の薄さという次元では計りきれないほどのことだったのだと思うのです。
彼ら弟子たちが生きた初代教会の時代、それはローマ帝国のキリスト教会への迫害が特に激しかった時代でありますが、その苦難と困難の只中にあっても、この体験が彼らを、そして教会の支えとなったのです。「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」(1:18―19)この言葉から伝わってくるのは、厳しい迫害下の中で、時には不信仰になりかけ、時には希望を失い、いつ命を失ってもおかしくない、そんな暗黒に包まれた日々を送ろうとも、いずれ夜が明けて、明けの明星が登る時が来るのだ。私たちの心に輝く命の光、主イエスという光が輝く時が来るではないか。私たちは確かに天の声を聞いた。暗い所は暗いままではない、そこに輝く灯火を私たちは灯しているのだ。この灯火を消さないように、望みを抱いて生きていこうというペトロとその教会の人々の思いであります。彼らはそういう信仰、神信頼を基として、歩んでいったのでしょう。やがて、ペトロは捕まって、逆さ十字の刑に処せられたのでありますが、最後までその希望のともし火を消すことなく、後世の人々に主イエスの光を伝えていった人です。
この主イエスの変容の出来事は、弟子たちにとって、単なる良い思い出となった、記念となった過去の出来事には収まらないのです。その時代に生きた彼らの確固たる支えとなり、希望となったという真実であります。神様の威光、恵みの目撃者として、どのような状況にあろうとも、自分たちの生を真に生かしむる救い主を仰ぎ見ることができたのです。
話が少し戻りますが、この変容の出来事が起こる6日前、ペトロたちは深い絶望と悲しみの只中にあったかと思います。彼らは主イエスの受難と十字架、復活の予告の前につまづくのです。主の受難と十字架を受け止めることができないペトロは主イエスをいさめますが、主イエスから「サタン、引き下がれ」とさえ言われてしまったのです。(16:22―23)彼らからしてみれば、主と共に歩んできた宣教の旅がここで潰えてしまう、「主イエス」という希望が儚くも消え失せてしまう。その神の子の死。世の権力の前には無力なのか、どうしようもないのか。そういうあきらめの境地に立たされていたでしょう。私たちもあきらめの境地に立たされることがあります。様々な挫折、愛する者との死別。闇しか見えない。闇の先が見えないのです。だからあきらめようとする。もう無駄だと思う。自分たちの無力さに打ちひしがれてしまうことがあります。この弟子たちのように。彼らもまた、闇しか見えなかったのです。十字架の死へと続く闇の道、その先にある光、「復活」という光は見いだせませんでした。
そして、6日後です。主イエスは3人の弟子を連れて高い山に登ります。旧約聖書の時代から、山は神顕現の場所とされた、聖なる領域とされていました。日本にも「山岳信仰」という言葉がある通り、山には神様が住んでいる神顕現の場所として、特別な領域として人々に認識されてきた歴史があります。ここで突如、主イエスの姿が変わり、ふたりの預言者が現れて、主イエスと語るという光景を弟子たちは目の当たりにするのです。この時ペトロは思わず口を挟みます。「すばらしいことです」と。これは「美しい」とも訳せる言葉です。目の前には眩いばかりに、美しい光景がある。それを今自分目の当たりにしている。なんとすばらしく麗しいことであろうか。ペトロの心境は、秘境と言われる場所に遭遇した時の私たちの心境に似ているものでしょうか。とにかくそこは人間の支配など全く及ばない神様の領域、その支配の下で起こっている神秘的な出来事なのだと言うのです。そして彼は仮小屋を建てようとします。そこを記念とするのです。仮小屋というのは「天幕」という意味ですが、かつて旧約の民が神様の顕現、その御業が働いた場所を記念して、各地に至聖所を作って、祭壇を築いたように、彼はそのすばらしさ故に、神様の住まわれる場所、神顕現の記念として、仮小屋を建てようと提案しているのです。
されど、このことが、後に彼らが灯した暗闇の只中で灯された灯火だったのでしょうか。そうではないのです。世の支配が、闇が及ばない領域で、ペトロたちは安心して神様の領域だけに生きたのではないのです。記念とする場所だけにいたのではないのです。
今、目の前に姿を変えておられる方、主イエスのそのみ姿は、およそこの世の者ではないと、弟子たちは理解したでしょう。モーセとエリヤの存在がそのことを引き立てています。ようするに、受難と十字架の道を歩まれる主イエスの道はそこで終わらないということです。彼らに予告した出来事が、ここで起こっているのです。すなわち、十字架の死が終着点ではないということ、その先にある復活の光を彼らに向けているのです。だから、死の先にある復活の世界、この永遠の命という来るべき光は、来るべき時に到来する光なのです。この光を知るためにも、闇を知らなくてはならない。光が闇の中でこそ輝くように、受難と十字架という死、死の闇なくして、復活の命の光は輝かないのです。
だから、ペトロが話終わらないうちに、光り輝く雲が弟子たちを覆っていき、彼らの姿は見えなくなるのです。この時、雲の中から、声が聞こえたと言います。「これに聞け」。(17:5)その声を聞いた彼らは非常に恐れました。(17:6)顔を上げることができないのです。何が起こったのでしょうか。何が彼らを恐れさせたのでしょうか。
その声は天の声、天の声が響いている場に彼らがいる、すなわち彼らは主のみ前に立たされたのです。もはや仮小屋に収めて、記念とするという問題ではありません。恵みの主、栄光の主がそこにおられるからです。彼らの恐れは、恐れ多いという謙遜から来る思いではありません。顔を上げられぬ程に、主のみ前にあって、自分の罪深さに打ちひしがれ、恐れているのです。罪ある裸同然のままに、主のみ前に立たされているのです。その恐れです。
彼らを恐れさせた天の声は「これに聞け」。すなわち主イエスに聞けということでした。主イエスの言葉によって、すなわち御言葉に聞け、聞くということです。聞くことによって歩め、生きなさいと言われるのです。仮小屋を立てて、その記念の中に思いとどまるのではない。主の栄光、すなわち恵みは、あなたがたの目の前におられる主イエスにあるのだということです。主イエスの神の御言葉に聞き従うところにあるのだから、「これに聞け」と言われるのです。御言葉に聞き従う歩み、すなわち主イエスの道、受難と十字架への道に歩むということなのです。
主イエスは近づいて、彼らに手を触れて言いました。「起きなさい。恐れることはない」。主イエスの方から近づかれて、手を触れてくださったのです。恐れることはないと言います。自身の罪深さに打ちひしがれることはない、私があなたの罪を背負うから、担うからと言われんばかりに、その彼らの、私たちの救いのために、主イエスは十字架への道を歩まれ、私たちの贖い主となってくださるのです。主の真の栄光はそこにおいて現され、それだけではなく、三日目に復活する。確かにそう予告されたのです。モーセとエリヤと共に姿を変えられた復活の主がおられたのです。辛く険しい闇の道に見えるが、その目的地は復活の光が輝くところ。暗闇に勝る光であるということです。だから主イエスを信じて歩め、十字架の先にある復活という真の命に与りなさいと示される。先にある不安と困難ばかりが目に映ってしまうこの現実の只中で、そこで御言葉は響き渡っている。聞こえないのではないのです。私たちが聞こうとしないで、すぐに思い悩む、待つことができなくなるのです。思い悩んで、罪故に恐れを抱く。顔をあげることすらできない自分の姿がある。つまづいている自分の姿があります。そんな私たちを、助け起こし、「恐れるな」と言ってくださる主が共におられるのです。寄りそって、手を触れてくださる主のみ姿は、私たちへの愛です。私たちを決して見捨てない主の深き愛に他なりません。この深き愛は、結局最後は十字架に従うことができない弟子たち、それは私たちの姿でもありますが、それでも私たちを見放さない、私たちの小ささ弱さの只中にたって下さる主の愛です。
来週の水曜日は灰の水曜日です。この日から四旬節を迎え、日曜日を除いた40日後にイースターを迎えます。この変容の主日はちょうど顕現節から四旬節の間にあります。変容主日が独立して、この聖書の出来事を捉えているわけではありません。変容主日は顕現節と四旬節を結ぶのです。それは主の顕現が主の受難と十字架へと結ぶということであります。だから天の声は「これに聞け」、主イエスに聞け。主イエスのみ声に聞き従い、共に歩めと言われるのです。もはや仮小屋の中に、主の威光と恵みを留める必要はないのです。キリストこそ神様の威光、恵みそのものです。私たちが小屋を建てるのではなく、キリストという真の小屋の中で、私たちは生かされるのです。だから、恐れることはない。私たちもまた目撃者、主の恵みの目撃者なのです。今ここに生かされている故に。このことを信じて、四旬節を共に歩んでまいりましょう。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。