2014年3月9日 四旬節第1主日 「自我の復活」

マタイによる福音書4章1〜11節
藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

「自分」という存在、自我について考えたことがあるでしょうか。一般的に、自我が目覚めるのは幼児期、およそ3歳頃で、自我が確立するのは、思春期を迎えた時だと言われています。しかし、自我の確立は個人差があるらしく、最近では「アダルトチルドレン」と言って、身体は大人でも精神的にはまだ自我が確立されていない人のことを指す人がいるそうです。このアダルトチルドレンのケアに携わった方がこういうことを言っています。「自我の確立に必要不可欠なもの、それは親の愛である」と。子供の成長に大きく影響するのが親の愛情であり、子供は親の愛情を通して情緒的に安定し、「どんな自分でも愛されている、受け入れられている」という確信をもって、初めて自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができるということです。逆に子供が親の愛情を十分に受けることができないと、肉体的には成長していっても、常に親の愛情を求め、なんとか親から愛されたい、受け入れてもらいたいと無意識のうちに考え、行動し、子供はなかなか自分自身の人生を自我の確立をもって歩み始めることができないそうです。

ですから、自我の確立というのは、決して自分自身の力だけで確立できるものではないのでしょう。外からの力、支えが必要だということです。それが親の愛であると言います。大人になって独立しても、本当の意味で自分は自分らしい、自我をもった人生を歩んでいるのか、親からまたは他人から愛されたい、受け入れてもらいたいという思いは誰しもが抱くことではありますが、そのことにばかり束縛されて、思い悩み、親から、他者から愛されるために、受け入れられるために、自分を偽って、自分自身の人生を歩んではいないだろうか。自分の人生を自分らしく歩めてはいない、そんな自分自身の姿がどこかにあるのかも知れません。

親の愛、それは様々な愛情表現があるかと思いますが、やはり真の愛というのは「どんな自分でもありのままに愛されている、受け入れられている」ということが軸にあるかと思います。愛するということでありますから、それは決して親が子供のわがままを聞いて、甘やかすということではなく、子供と真剣に向き合い、時には叱りつけることもあるでしょう。でも、絶対に子供のことを見捨てない、見放さないのです。それが、子供自身が感じる親への愛です。親への信頼です。

ルカによる福音書に、有名な放蕩息子のたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいて、次男の方はある日、父親がまだ生きているにも関わらず、財産の半分を分けて欲しい、相続して欲しいと願い出ます。父親が次男に財産を与えると、次男はもう一人でこれからは生きていける、誰からも束縛されない自分らしい人生を歩んでいけると思うかのように、旅に出るのです。父親を残して。話の結末はもう皆さん知っているかと思いますが、結局この次男は父親のもとに帰ってきます。放蕩の限りを尽くして、何もかも失い、世間の厳しさを存分に味わい、ぼろぼろな状態で帰ってくるのです。この時の父親と次男の再会の場面は印象に残ります。次男は自分が許されるとは思っていません。もう息子とは思われない、親子の縁を切られてもしかたないと思います。しかし、彼の予想を遥かに凌ぐ出来事が起こります。彼の姿を見た父親が遠くから走り寄って、彼を出迎えるのです。彼の姿を見て、大いに喜び、彼を愛する息子として受け入れるのです。父親は彼を家に迎え、ご馳走を出し、立派な衣服を与えました。もう生きてはいないかもしれないと思っていた息子を、愛で包んだのです。

この息子は真の親の愛をここで知ることができ、自分という存在が受け入れられたことを知ったのです。親の財産を相続し、独立して旅立っていった息子は、自我が確立されていたかのようで、しかし、放蕩の限りを尽くして誰からも相手にされなくなった時に、自我を見失っていたのだと思います。自分という存在、自分の価値は、親からの相続財産という目に見える金銭的なものにしか彼の周りの人たちには映らなかった。それでは生きていくことができないと彼は悟ったのです。彼は父親との再会、ありのままに自分を受け入れてくれる父親の愛によって、自分の存在価値を見出した、見失っていた自我が復活したのです。

今日の福音書は主イエスが荒野で悪魔の誘惑を受けたお話です。主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた直後に、この荒野で試練を受けました。それは「霊に導かれて」とあるように、この霊というのは神様の御心でありますから、父なる神様によって、主イエスはこの場所に導かれたのです。その理由は、主イエスが洗礼を受ける際に言われた言葉「正しいことをすべて行う」ためでした。この正しいこと、それはすなわち十字架につくということです。この十字架につくための道を歩んでいくということに繋がる出来事、それがこの荒野での試練です。

主イエスは40日間の断食をしました。空腹を覚えたというのですから、過酷な試練の時であったでしょう。空腹で弱り果てていた主イエスを悪魔は3回誘惑し、試します。この時悪魔は「神の子なら」と言います。これは事実を前提にした言い回しでありますから、悪魔は主イエスの正体を知った上で誘惑しているのです。「神の子ならばどうだ」という具合に、そのままに理解できるかと思います。

神の子である主イエスは、最初の誘惑であれば、石ころをパンに変えることは造作もなかったでしょう。しかし、主イエスは全て神様の御言葉にたって、御言葉に委ねてこの悪魔の誘惑を退けたのであります。ただひたすら父なる神様への信頼を置いた姿勢を貫いたのです。私たちはこの主イエスの姿にあやかれるのでしょうか。悪魔からの誘惑、試みというのは例外ではありません。それは私たちが、私たちの弱さ、弱点を突いてくる現実的な問題と向き合わされているということです。それに打ち勝つほどの信念、または信仰というものがあるのかどうかということが問われている、そう考えるかも知れません。けれど、結局私たちが行きつく結論は、悪魔と同じ言葉を使うかもしれません。主イエスは神の子だから、だから試練に耐えることができた、誘惑に打つ勝つことができたのだと。私たちは神の子じゃない、生身の人間だから無理だという具合に。

第1の誘惑の内容は特に切実な問題です。食物に関するからです。3節と4節を読みます。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」」人はパンだけで生きるものではない。こう聞きますと、すぐにこう思わないでしょうか。人はパンがなければ生きてはいけないのだと。どんなに綺麗事を言われても、どんなすばらしい徳のある生き方を示されても、食欲には勝てない。食べなければ死んでしまう。ただそれだけのことではないか。まずは食欲を満たさなければならない、そう思います。ですから、尚更、悪魔の言葉に納得してしまうのです。神の子なら、石をパンに変えたらどうかという言葉。そうすれば世界の食糧問題は一気に解決する。問題はなくなり、人類は生きながらえる。私たちも悪魔の言葉に同意するというより、そのような私たちの思い自体が悪魔の言葉になっているのです。

しかし、ここで主イエスが言う「生きる」とはどういう意味でしょうか。ただ食欲を満たすだけの肉体的なことだけを指しているのでしょうか。主イエスは決してパンのこと、食糧のことを無視しているわけではありません。拒絶しているわけではなく、それだけでは生きられないというのです。私たちを真に活かす真の糧があると言われる、それが神の御言葉であると言われます。神様の御言葉とはどういうことでしょうか。この4節の言葉には元の言葉があります。申命記8章3節の言葉ですが、前後の2節から4節にはこう書いてあるのです。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。」

この40年の旅というのは、モーセに率いられた旧約の民、イスラエルが経験した40年の旅、神様が与えてくださる約束の地に向けて彼らが歩んだ旅のことです。この40年の旅は、実に誘惑と試みだらけの、主イエスとは違い、その誘惑と試みに翻弄されたイスラエルの過酷な歴史です。この旅路の中で、神様は天からマナという食べ物を降らせて、人々に与えました。彼らを飢え死にさせるようなことはしなかった、その日に必要な糧を与え続けたのです。私たちが主の祈りにおいて「必要な糧をお与えください」と祈るように、私たちにはパンが必要です。けれど、このパンは石ころからたやすく変えられて手に入るパンではない、ただ食欲を満たすだけのパンではなく、人として、私が私として生きていくために必要な糧です。

イスラエルの人々がこの過酷な旅路の中で、誘惑に翻弄され、弱く、もろい姿を神様の前でさらけ出すように、私たちもそのような姿をさらけだして生きています。神様の目に留まる姿は、彼らイスラエルの民となんら変わりはないように思えます。主はこの私たちの弱さを、苦しさを見つめておられるのです。私たちに本当に必要な糧は何であるのかということを見つめておられる。だから御言葉が私たちに示されています。私として生きていく命の御言葉を。

神様の御言葉によって生きるとは、この恵みを頂いて、生きる、感謝して生きていくということです。そして、神様の御言葉によって私たちは生きるということは、神様の御言葉になんとかして与ろうと求める以前に、先に御言葉は語られているということなのです。それがマナという目に見えるパンという糧を頂いているということ、すなわちこの神様の御言葉、それは神様と私たちの交わりであり、神様が私たちを愛してくださるということにほかならないのです。神様の愛によって真に、人として生きていくことができる、ありのままの私として生きていくことができる。なぜなら、神様の愛は私たちを見捨てないからです。ありのままの私をそのままに愛されるからです。ここに、私たちの自我があります。自我をもって、そのままに私として生きていくことができる道があるのです。

パンだけで生きていけるでしょうか。ここに放蕩息子の姿が重なります。彼は財産を手に入れて、もうそれだけで生きていかれると思ったのです。父親は必要ないと思ったかもしれません。食べ物、着るもの、お金、生活に必要なものはすべて揃っていたでしょう。父親から独立して己の道を突き進む、自我をもってして自分の道を突き進むのです。しかし、彼はすべてを失って、誰も助けてくれる人がいない、受け入れてくれる人がいないことに気付かされます。もはや自分という存在は失った財産と共に消え失せてしまったかのように。自分の存在を見失ったら、自我を見失ったら、本当の意味で生きられないのです。私の自我を自我として受け止めてくれるもの、その拠り所が必要なのです。パンそのものは、その拠り所とはならないのです。

彼の自我を復活させたのは父親でした。父親の愛でした。息子の自我の拠り所はそこにあるのです。だからそこで生きられるのです。私たちは一人では生きていかれないからです。自我を確立するというのは、独立して好き勝手に生きていくことではない、むしろそこでは生きられない、自分の存在を根底から受け止めてくれる土台がないと、生きられないのです。

私たちは神様のみ前にあって、不信仰に陥ることがたくさんあります。誘惑に陥りそうなことがたくさんあります。信仰者といっても、神様のみ前にあって、信仰のアダルトチルドレンとしての私たちの姿があるのか知れません。信仰者であっても、信仰を見失っている時がある。本当に私は信仰があるのか、そういう不安がある。パンだけで生きようとする姿があります。だから私たちは毎週の主日ごとに、帰ってくるのです。この教会、キリストのみ体のもとに。放蕩息子のように、この世ではすべてを失い、疲れ果てているこの私を、主は迎えてくださるのです。主の御言葉こそが真に私たちを生かしてくださる。神様の愛を知り、キリストに繋がっているという平安が与えられます。この平安を知るからこそ、真に私は私という自我をもって新しい一週間を生きていくのです。それが信仰をもつということ、神様の愛に信頼して生きていくということです。キリストと共に、父なる神様の愛に支えられて歩みましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。