マタイによる福音書20章17〜28節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
東日本大震災から3年が経ちましたが、今も26万7419人の方々が避難者として、仮設住宅での避難生活を余儀なくされています。加えて、原発問題、復興問題、防災の問題、または風評被害の問題などが山積みです。これらの現実的な課題を祈りつつも、先日の11日にルーテル救援活動の拠点でありました日本福音ルーテル教会仙台教会で、東日本大震災記念礼拝が執り行われ、同時中継で、東京のルーテルセンター教会でも記念礼拝が執り行われました。私はこの仙台での記念礼拝に出席し、その後続けて行われた紀伊半島沖の震災、所謂「南海トラフ巨大地震」に備えた防災に向けての実務研修に参加して参りました。実にたくさんの驚きと気づきが与えられた実りある研修でありました。防災に向けての教育、防災対策に取り組むことの大切さは、無論承知しておりますし、教会単位で皆さんと一緒に考えていかなくてはなりません。
しかし、今回の研修では、いづれ来る巨大地震に向けての防災対策ということだけでなく、東日本大震災において、ルーテル教会が被災地で活動した記録を辿り、ルーテル教会がなぜ救援活動をするのかという根本的な理念、または神学について考えさせられる研修のひと時でもありました。私は研修の中でこのことが一番印象に残っています。
なぜ教会が救援活動をするのか、皆さんはそのように聞かれたら何て答えますか。単純に、目の前で困っている人がいたら助けるのが普通だと思う方が多いかと思いますし、聖書の言葉を思い浮かべながら、答える方もおられるでしょう。ルーテルの救援活動、その活動の母体名は「ルーテルとなりびと」です。他の支援団体と同じように、物資を送ったり、支援活動をし続けてきましたが、まず第1にルーテルとなりびとは、被災に遭われた方々のとなり人、隣人となるということであります。被災者の方々と共に寄り添い、共に生きていくということです。それは他の支援団体とどう違うのか、何ら変わりはないではないかと思うかもしれません。されど、今回の研修で学んだことの中で、支援と言っても、様々な支援のあり方があるということです。その中でルーテル教会は隣人として被災者の方々に支援していく、というより被災者の方々と共にあって、彼らに仕えていく、いわゆるディアコニアの働き、奉仕していくということです。奉仕する者、奉仕者というのは今日の福音書にも記されていますが、「ディアコノス」と言います。
主イエスは26節から27節でこう言われます。「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」先程も言いましたが、仕える者というのは奉仕者「ディアコノス」という意味で、僕というのは「奴隷」という意味です。ルターはキリスト者の自由の冒頭で「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する」と言い、また最後の命題のところでは「キリスト者は自分自身においては生きないで、キリストと隣人とにおいて生きる。キリストにおいては信仰によって、隣人においては愛によって生きるのである。」と言っています。隣人に仕えるということが愛するという時、それは仕える側の意志によって「自分は隣人に仕えている」というのではなく、「仕えられる他者」が主体であり、他者が仕えてくれていると思ったときに、奉仕ということが現されてくるのであります。ですから、奉仕者というのは他者主体であり、自分の意思とは関係なく、他者の僕として仕えていくということに他なりません。
主イエスがこのように語られた背景には、ゼベダイの2人の息子、すなわち主イエスの弟子であるヤコブとヨハネの母親の願いがありました。主イエスの3度目の受難と十字架の死、復活の話は12弟子だけが聞いたことでしたが、ヤコブとヨハネはふたりの息子からその詳細を聞いた彼らの母親はいてもたってもいられなくなったのか、主イエスに願い出ます。主イエスが王座に着くときに、自分のふたりの息子をそれぞれ王座の近いところに着かせて欲しいと。主イエスはきっぱり言います。あなたがたは何を願っているのかわからないと。そして、これから私が飲むことになる杯を飲むことができるか。主イエスが飲む杯、それは来る受難と十字架の死を受けいれるという苦しみの杯です。あなたがたもこの杯、十字架に従うことができるのかと問うのです。母親もふたりの息子も主イエスの言わんとしていることを理解できなかったでしょう。しかし、主イエスと共に歩んでいく、従っていくということに迷いはない。弟子として立派に役に立ちたい、誰よりも主イエスの王座、すぐ近くにいて、仕えていきたいという思いが彼らの中にはあったのかもしれません。
けれど、他の弟子たちは彼らに腹を立てます。自分たちだけ抜け駆けして、偉くなろうとしている、目だとうとしている。ましてこれから先のことを願っていると聞けば、気にしないわけにはまいりません。自分たちだって、主イエスのそばにいて、主イエスに従っていきたい、共に歩んで行きたいと願うからです。立派に奉仕したいと思う。彼らのそんな思いに際して、主イエスは26節から27節で、弟子としての新しい生き方を示されました。主イエスは「偉くなりたい者は」と言います。この「偉い」という言葉は、「大きい」という意味です。弟子として、神様に仕える者として、また人々の中で精力的に活動する者として、大きくされたい、人々から注目されたい、弟子としての様々な願いがあったかも知れません。
偉くなりたいと直接そのように思う人は少ないかもしれません。人に偉そうに振る舞えば当然ひんしゅくを買うことはわかっているからです。でも、自分の人生は大きなものでありたい、充実した人生を歩んで、自分という器を磨いて、大きくなりないと思うのは誰しも抱くことです。ほどほどに偉くなりたいと思う自分もあります。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるかもしれません。しかし、主イエスが語る「大きさ」というのはそういうことではないのです。26節から27節で主イエスが語る大きさというのは、仕えなさい、僕となりなさいということ、それもここで主語になっているのは「皆に」ということ、すなわち「人々に」仕える、「人々の」僕ということです。じゃあ、人に仕えていれば、頭を下げていれば、自分は偉くなれる、大きくされるのかということでしょうか。
人に仕えるということは、その人の僕になるということです。自分はこうこうこうして、この人を支える、この人を支援するという自分の思いは二の次であります。目の前にいる人がこうして欲しい、こういう状況であるという声にまず耳を傾けるのです。自分がどんなに相手よりも見識が豊かで、器が大きくとも、相手が自分に求めることは、相手にしかわからないのです。そのような大きい器を重ね備えた自分だからこそ、相手を助けることができる、支援することができると考えるよりも先に、相手に仕える、僕になるということは、自分がどのような器を持っていようとも、相手の心、魂の中に自分という存在を、その相手の枠に入れていくのです。
ですから、およそこの世では、仕えるということは、自分が大きくされるどころか、小さくされるものであると言えるでしょう。この世の賞賛など全くない、みじめな姿になる。その人と同じ立場に立たされる、むしろその人よりも小さい存在になるかも知れません。だから主イエスは25節で「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われるのです。異邦人の間、すなわちこの世では・・・・支配者たちが偉い大きい存在なのだということです。支配者たちはその大きな力をもってして、その力に頼って人々を支配し、国を治めるのです。そして、この後の主イエスの言葉は、全くの逆転が起こっているのです。主イエスが26節でいう「あなたがたの間では・・・」この言葉によく注目して欲しいのです。この世ではなく、あなたがたの間、あなたがたの世界では、弟子たちの間、もっと具体的に言えば「教会」ではということです。さらにもっと具体的に言えば、「御国では」ということです。神様の支配されるあなたがたの間(世)では、・・・とこうなります。ですから、ここで大きくされるということは、この世の価値ではない、神様の眼によってということ。皆に仕えるあなたは大きい、大きい者として映るのだということであります。神様のご支配の中において、ここに生きる私たちは、私たちの存在を大きくする方は、主において他にはないということ、大きくされることを望むのは、主であります。
28節で主イエスは「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言います。人の子、すなわち主イエスは人々に仕えるために来られたのだと言います。人々が受けなくてはならない杯を主イエスが一身に引き受けてくださる、すなわち十字架の死を遂げるように、私こそ、あなたがたに仕える、主がまず私たちに仕えてくださると言うのです。私たちの何に仕えてくださるのか、それは私たちの人生においてです。もっと言えば、命を与えてくださる贖い主としてです。キリストが仕える者として、真に小さな者となられたのです。そして私たちの支えとなってくださるというのです。だから、共にいる、共に生きようと招いてくださるのです。
私たち人間に仕えてくださる神様として、キリストは私たちの只中に宿られました。私たちもまた苦しみの多い人生を歩んでいます。こうして欲しい、この「苦しみの声を聞いて欲しい」と願います。主は私たちの祈りを聞かれます。主が何よりもまず私たちの隣人となってくださった、この真実において、私たちもまた仕える者として、隣人と共に歩みなさいと招かれているのです。
被災者への支援、それが隣人として仕えていくということは、被災者の方々の人生に関わるということ、一時的な支援物資を指すことではないのです。本当に長丁場です。でも、彼らは支えを必要としています。支援物資という支えでしょうか、本当に必要とする支えは、その人が一人で歩み始めていくための道を整えていくということです。それは被災者の方々だけでなく、私たちにも必要な支えです。私たちも主によって、日々助け起こされているのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。