ヨハネによる福音書9章13〜25節
藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
春の日差しが心地よくなってまいりました。この礼拝堂の正面の障子を開けますと、麗しい桜並木に思わず目を奪われます。心地よいこの春の日差し、新しい年度の歩みに向けての希望の光であるかのように、私たちを照らしています。
ですが、本日の第2日課エフェソの信徒への手紙5章8節から9節の中で、パウロは光についてこう言うのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」「以前に」と「今は」という状況が語られています。以前は暗闇、闇だった。見えなかったのだ。でも今は違う。今は光となっている、光が見える。それも、その光は「ただあなたがたを照らしている」と言っているのではなく、むしろ「あなたがた自身が光となっている、だから光の子として歩みなさい」とパウロは言うのです。闇から光への転換。ここに主との結びつきがある。私たちは主に結ばれて光とされているということです。私たちが自然に光とされているということではなく、主の御心が、暗闇に輝く光であるキリストとして、このキリストに結ばれることによって、私たち一人一人がキリストの光を反射して生きていると言えるのであります。主に結ばれて、私たち自身が希望の光として、光の子として歩んでいく、新しい年度を歩んでいく。主はそのようにして、私たちを新しい歩みへと遣わされていくのです。
そこで私たちは、以前は暗闇だった、暗闇の中に自分の存在があったと言うことに、耳を傾けたいと思います。主に結ばれて光とされたのなら、暗闇の中にあるということは、主と結ばれていない、主から離れていたと言えるでしょう、ようするに罪の中にあったというのです。
今日与えられています御言葉、ヨハネによる福音書9章全体は盲人の癒し物語が記されています。主イエスと盲人との出会いが、最初の1節に記され、次の2節で弟子たちが盲人について、主イエスにこう言うのです。「生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」弟子たちは盲目の原因を訪ねているのです。それも罪が原因なのではないのかと、因果方法的な概念で、この盲人の盲目について弟子たちは主イエスにこう言うのです。ユダヤの社会でもこの因果応報的な概念、それは罪故の様々な災害、悪い出来事について人々は原因をそこに見出していたようです。何か原因がある、それはその人が罪深いから、だからそういうことが起こる。致し方のないこと、もっと悪く言えば、罪深いそれは自業自得だ、自分の責任だ。弟子たちのまなざしは冷たいものですが、それはまた私たち人間のまなざしでもあるのです。
主イエスは弟子たちの言葉をはっきりと拒絶されます。「罪を犯したからではない。神の業が顕されるためだ」と、実に印象的なことを言うのです。原因ではなく、意味があるのだと主は言われるのです。もちろん原因を探ること自体が悪いということではありません。原因がわからなければ、病気にかかっても治療ができないというのはあたりまえのことだからです。原因を探るのは必然のことでありますが、主イエスが言われる「神のわざが顕れる」という意味は、その盲人との関係性について述べているのです。弟子たちは原因を探るだけで、それ以上はこの盲人の思いに立つことができないのです。この盲人が抱えている盲目という闇、それは本人にしかわからない真に深き闇です。されど、この盲人の盲目の原因について尋ねる弟子たちの姿、それを罪に起因させる彼らの姿は、実は自分たちでもどうしようもないことが起こっているというあきらめの境地、生まれつきの盲目と聞いて、その人が目に光を宿すなんてことは不可能だという思いがあったのではないでしょうか。だから罪に原因を見出す、罪を犯したから、もうどうしようもないことが起こったのだと考えてしまう。そして、そのように主イエスに尋ねる彼らもまた、暗闇の中にあったということです。盲人が盲人の道案内をすることができないように、彼らもまた信仰の盲人なのです。主イエスと盲人との関係、この出会いは、神の御業があなたに顕されるという癒しの宣言、慰めの言葉が先にあります。それは「~のため」という意味、理由があるということ。罪が原因だから、あなたはこうしないとだめだ、こういう生き方をしないとだめだと、主イエスは言われない。なぜなら、それは主イエスがこの盲人の深き闇の只中に、入って行かれたからです。神の御業があなたに顕されるために、あなたは闇の中にある、闇を知っている。その闇の中でこそ、神様の御業が暗闇を照らす光として顕されるのだ。暗闇を知るからこそ、あなたは光を見出す。主イエスはそのように盲人を招かれるのです。
盲人は目が見えるようになって、人々の前に帰ってきました。癒された盲人の姿を見て人々は当然驚くのですが、そこにはなぜか喜びがないのです。生まれつきの盲目が治った、目が見えるようになった、光を灯した。これほどの喜びがあるのに、誰も彼と一緒に喜んでくれないのです。人々が関心を持っているのは、この盲人ではなく、盲人に起こった出来事、この人々もまた原因を探り、主イエスの所在を彼に尋ねているだけなのです。
そして今日の福音書の場面へと繋がるのですが、人々はファリサイ派の人々のところに、彼を連れて行きます。ここで、あたかも裁判が行われるかのように、彼らは彼を尋問します。意見が分かれ、挙句には両親までも呼び出されて、原因を探ります。そぜなら、ファリサイ派の人々は、彼に起こった出来事を深刻に受け止めていたからでした。まず安息日に癒し行為という労働が行われたこと、そして、22節で「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。」と言われている通り、主イエスに対する殺意が芽生えていたということでした。自分たちの目の行き届かないところで、そのような奇跡が起こったことに、彼らは胸を痛めているのです。
「ファリサイ」というのは「分離する」という意味を持っています。彼ら自身がそのように名乗っていたわけではないそうですが、何からの分離からと言いますと、他の不信仰者たちからの分離です。自分たちこそが、神様の教えとユダヤの伝統をしっかりと守っている信仰者だ。人々の模範となる信仰者としての自覚と、その責任が彼らにはありました。この癒された盲人の証言から、どのようにして癒しが行われたか、まして自分たちが敵視している主イエスの行為ということであれば、ただ事ではない。そのような状況の中で、彼らが胸を痛め、恐れているのは、自分たちの信仰が歪められることへの不安です。そして彼の両親も不安を覚えていました。彼らファリサイ派の権威を恐れて、「もう大人ですから、本人にお聞きください」(21節)と息子を突き放すようなことを言うのです。
そしてファリサイ派の人々を含むユダヤ人たちは、彼に最後の宣告をします。「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」」(24節)神の前で正直に答えなさいとは「神に栄光を帰しなさい」という意味です。神様のみ前に立って、神様を讃美しなさい。讃美するということにおいては、嘘偽りなどあろうはずがない、してはならないことである。神様を冒涜できるのか。だから正直に答えなさい。あなたはどうやって癒されたのか、主イエスは何者なのかと、それは彼らが自分たちの都合が良いように答えなさいと、彼に迫っているようなものです。彼は答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」(25節)見えなかった目が、「今は見える」というただ一つの真実、この唯一の真実に込められた彼の思いは、弟子たちから罪の原因を訪ねられ、人々から喜ばれず、ファリサイ派から尋問され、両親から見捨てられたという様々な苦しみ、誰にも理解されず、受け入れてもらえないという孤独な状況に置かれても、主の御業への信頼、今も自分のために主が顧みられ、主が自分の目に「光を宿された」という喜び、暗闇の只中に光を灯してくださった光の主に真の栄光を帰している彼の姿が垣間見えるのです。
今日の福音書はここまでですが、この後も彼らファリサイ派の尋問は続きます。彼らは癒された盲人を「お前は全く罪の中に生まれた」(34節)と最後に言います。神様の恵みから最も離れていたであろうこの人がなぜ、癒されたか。終始彼らはその疑問に納得が行かず、思い悩んだことでしょう。
けれど、ファリサイ派と同じように、神様の教えを遵守し、非の打ち所がないと言われ、徹底的にキリストの教会を迫害していたパウロもまた、ダマスコの街道で主イエスと出会い、そして回心し、後にテモテの手紙1の1:14-16節でこのように語るのです。「そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」このように語るパウロもまた、あの盲人、罪の中に生まれた者と同じ立ち位置に立っているのです。罪人の最たる者、これはパウロ自身の言葉ですが、彼は主イエスの救い、神様の真実な恵みを受け取ることができていたのです。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」。パウロはこのただ一つの真実を語るのです。
様々な不条理な出来事が起こる人生の中で、その原因はわからないけれど、自分の理解を超えた想定外のことだが、ただ主の救いは、神様の御業はここに示されている。こんなどうしようもない、罪の中にある自分のところにもしっかりと顕されているのだ。自分は神様としっかり結びついている。それがわかった。かつてはわからなかった自分がいる。盲目で、闇の只中にあり、神の救いなど自分にはもたされない、もたされる資格などないと思っていた。因果応報故の、当然の報いだった。そのように思ってしまう自分の姿があるかもしれません。しかし、主イエスキリストはその人間たちの固定概念、その縛りを打ち砕くのです。それがあの十字架の出来事、全ての罪人の赦しを願って、ただあなたのために、あなたが大切だから、私は十字架につく。あなたが赦されて、神様の救いを知ってほしいと、主イエスは願ってくださるのです。その神様の御心が、主イエスを通して、私たちに示されている。私たちはこの救いを知るとき、私たちの目は見開かれていくのです。私の目に光が宿る。主イエスという光を宿して、私たちも光の子として、主イエスという救い主が私たちの眼に宿られ、この光を反射して、この世で歩むように主は私たちを導かれます。
されど、なお私たちを盲目にさせる、不信仰という盲目が私たちを襲います。暗闇が迫ってくることがあるのです。されど、主イエスは私たちの暗闇に入って行かれる方です。インマヌエル、共にいてくださる神様として、どんな暗闇、罪の中にという絶望の中にあっても、キリストの光は絶えない。あなたに向けられています。希望の光として、あなたを照らし続けます。暗闇の中にあっても、そう信じられるのであれば、私たちは既に見える者となっているのです。それが私たちがただ知っている一つの真実、暗闇という夜は明けたのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。