「射し込む命の光」ルカによる福音書24章1~12節 藤木智広牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
イースターおめでとうございます。復活の喜びを喜びとして受け止めるようにと、私たちは四旬節、受難週を過ごしてまいりました。死の闇を受け止めて、復活の光を知るのです。光が闇の中で輝くように、主の十字架と復活は決して別々のものではなく、切っても切り離せないものなのです。死の闇の中で、命の終着点と思われるところで、キリストの復活を通して、新しい命のありかとなりました。私は復活であり、命である(ヨハネによる福音書11:25)。死者の復活のために、キリストが神様によって復活させられたということです。そして、パウロの言葉を借りれば、このキリストは「復活の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」方であり、(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:20)私たちもこのキリストに結ばれることによって、復活の命に与るということが約束されているのです。また、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:14)とも言いました。だから、このイースター、復活祭はキリスト教教会の最も重要な祝祭で、一番古い祝祭なのです。このイースター、復活祭を中心に、クリスマスやペンテコステなど祝祭と教会の暦が作られていきました。
さて、今年はルカによる福音書から、復活の物語を読みました。ルカ福音書には、多くの婦人が描かれています。10節には「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」とあります。名前の記されている3人の婦人たちは、前の8章1節から3節に登場しています。そこにはこう記されています。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(8:1~3)この女性たちも主イエスと出会い、主イエスと共に、神の国を宣べ伝える途上にありました。自分の持ち物を出し合って、主イエスと弟子たちを助けていたのです。しかし、主イエスが捕らえられ、十字架上で死なれたことによって、神の国を宣べ伝える宣教も頓挫してしまったかのように思われました。
また彼女たちは、逃げてしまった弟子たちとは違い、主イエスが十字架上で死なれたその一部始終を見届けていました。すぐ前の23章にこう記されています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。」(23:55~56)」愛する主の無残な死を見つめ、さらに翌日が安息日ということで、ちゃんとした埋葬もできないまま、墓に葬られてしまいました。そのことがより一層彼女たちの悲しみを大きなものにしていたでしょう。
ですから、「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」もうだいぶ日が経ってしまったけれど、やっと香料を塗ってあげられる、愛する主が死に、その死に報いるように、埋葬してあげられるという思いが顕されているのです。
しかし、墓に着いた彼女たちは、衝撃的な光景を目の当たりにします。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」(24:2~3)他の福音書とは少し描き方が違いますが、彼女たちはその時途方に暮れていました。主のご遺体はどこにいったのか。そしてルカ福音書が描く状況から察すると、墓が荒らされ、誰かにご遺体が持ち去られたのではないのか。そのように彼女たちが考えてもおかしくはないでしょう。香料を塗ってあげられるどころか、ご遺体すらない、主の面影そのものが全くなくなってしまったのです。もうどうしていいのかわからなくなっていたでしょう。
彼女たちが途方に暮れ、絶望する中で、神様の御言葉が聞こえくるのです。ふたりの神様の御使いが現れて、神様の言葉を告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(25:5~6)。ここというのはお墓ですが、ご遺体があるところ、人生の終着点、命の終着点と言われるこの墓にはいないというのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」、それは見当違いの場所を探しているということを意味します。あなたたちはなぜそこを探しているのかというこの御使い、主の言葉の問いかけは、もうだめだ、もうここにしか行き着くところがない、もうこの手段しか思い浮かばないという私たちの歩みに、私たちの目を真に開かれるきっかけとなります。神様、もうこれしかないではないですか、ここにしか自分たちのたどり着くところはないではないですか、その私たちの問いに、神様は、180度違う視点、見える世界の限界を超えて、見えない世界に触れさせようとするのです。今あなたが描いている全く真逆のところに答えは示されている。それがあなたを生かす道となり、糧となる。そのように主は私たちを導かれ、私たちの目を見開かれるのです。
御使いはこうも言います。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」。(24:6~7)ガリラヤ、それは先ほどお読みした8章の場面で、彼女たちが主イエスと出会った場所です。神の国の宣教を共にしていた時です。そのガリラヤで既にお話になっていたこと、それは「十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということでした。十字架と復活のことが既に予告されていました。神の国という福音、その本質は実は、主イエスの十字架と復活であるということ。十字架の死によって、神の国の宣教が頓挫したのではないのです。十字架の死を通って、復活の命が明らかとなったのです。
神の国は神の愛に満ちているところです。この神の愛は十字架と復活を通して完成しました。神の愛は死んだのでなく、今も生きているのです。またそれは、婦人たちに、そして私たちにも「思い出しなさい。」とみ使いは言います。それはただ過去の出来事をなつかしむのではなく、主が絶えずあなたがたと共にいるということをくり返し思い起こしなさいということを伝えているのです。既に神の愛の只中にあったこと、そして今もその中にあるということを受け止めることです。それは主イエスが今も生きているからに他なりません。生きていて、彼女たちのことを忘れてはいないのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。・・・・その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。」(ルカ1:47~48、54)とマリアの賛歌は歌います。身分の低い、取るに足らないこの私にも目を留めて慈しんでくださる神の愛は、決して忘れ去られるものではない。この時も、今も神様の愛と共に、自分は生きている。生かされている。罪のとりこに苛まれ、立ち直れなくなってしまうものたちに、主の復活はそのものたちを、再び神の愛の希望の内に立ち上げてくれることを意味するのです。
聖書は旧約聖書、新約聖書と言います。約というのは、約束の言葉です。神様の約束の言葉が記されているのが、聖書であり、神様の御言葉です。ただ、道徳の本や、歴史の書、教訓の書という類のものではないのです。一見理不尽に感じることも書いてあります。しかし、これらはすべて神様の愛の約束が記されており、それはひとりひとりを慈しみ、忘れることのない神様のご計画が表されているのです。だから、打ちひしがれ、傷つき、倒されてしまっても、それで終わりではないということなのです。今私たちは、その神様の愛の約束を「思い出したい」。主が今も生きて私たちと共にいてくださるからこそ、私たちは絶えず、主の愛を思い出し、繰り返し繰り返し、主の愛に立ち返ることができるのです。主の復活は、神様の愛を明らかにした神様の私たちへの答えです。だから、この神様の愛は決して死ぬことはないのです。私たちは忘れ去られてしまうことはなく、主の愛の中にあります。主は生きて、私たちと今も共にいてくださるからです。神の国の宣教は続いています。神の愛は死なず、今も生きているからです。私たちの宣教も、主の復活と共に、再び始まったばかりなのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。