2019年4月28日 復活後第1主日の説教「燃える心」

「燃える心」ルカによる福音書24章13~35節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週のイースターにおきまして、主のご復活の喜びを皆で分かち合い、お祝いできたことを嬉しく思います。先週も言いましたが、パウロが「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である」(コリントの信徒への手紙Ⅰ1514と言うように、主の復活がなければ私たちの群れは存在しません。キリストの復活によって、私たちの思いと心はひとつにされるのです。

復活物語は弟子たちの不信仰の物語とも言えます。弟子たちは婦人たちから主が復活されたという証言を聞きますが、彼らはその証言をたわごとだと言って、信じることができなかったのです。彼らは主を失い、自分たちの歩みもこれで終わりだと思っていました。また、ユダヤたちを恐れて、身を隠していました。そのような絶望の只中にあって、希望を見出すことができなかったのです。しかし、先週のイースター、主の空の墓を見た婦人たちに、神様のみ言葉であるみ使いたちは、彼女たちにこう言いました。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」(ルカ24:6~8)思い出しなさい。過去にあった出来事を単に記録として呼び覚ますのではなく、それは必ず実現するという神様の約束でありました。その約束が今、彼女たちへの神様からの答えとなって明らかにされている。彼女たちの恐れ、動揺、弟子たちの不信仰物語と切り離されたところにある主の復活ではなく、その不信仰の只中に主の復活は明らかになったのでした。そこで復活の主イエスと彼らは出会っていくのです。

今日の復活物語は有名なエマオ物語です。多くの画家がこの物語を描き、私たちの心をぐっとつかむ見事な描写で描かれています。二人の弟子の暗い顔、目が遮られて、大切なものを見失っている姿。そこから、二人の目が開け、燃える心を宿していた。主イエスは最初からふたりと共にいて、共に歩き続けてくださっていました。時間はかかっても、主イエスはずっとふたりと共にいました。このエマオでの途上も、二人の弟子たちに対して、「思い出しなさい」という神様からのメッセージが、主イエスによって終始ふたりに語り続けられていたのです。

エルサレムからエマオまでの60スタディオン、これは約11キロ半という距離だと言われています。結構な距離です。かつてはこのような長い道のりも、主イエスと共に歩いてきたけど、今はもう自分たちしかいない。「この一切の出来事を話していた」彼らの心境が重い足取りとなって、この長い道のりを歩いていたのでしょう。そこに主イエスの方から彼らに近づかれて、彼らと共に歩かれていったのです。

彼らは暗い顔で、それまでのことを主イエスに話しました。自分たちが期待していた救い主が死んでしまったことと、婦人たちの復活の証言のことを。自分たちには何のことかわからず、信じることもできない。ただ大切なものを失い、それは目には見えなくなってしまったという現実だけを見つめて、受け止めている彼らの思いがあるだけです。そこで主イエスは彼らに言われるのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(2526節)彼らの後ろ向きの歩み、その闇深き思いに対して、主イエスは同情の言葉を投げかけたのではなく、むしろあなたがたは根本的にわかっていない、真実からそれていると言うのです。物わかりが悪く、心の鈍い者とはそういう意味です。根本的な真理から目を背け、目の前の事実だけに目を留めて、自分たちの思いだけに踏みとどまろうとすることです。彼らの目を遮っていたのは、自分たちの思いだけに踏みとどまっていたことでした。

弟子たちの思いに対して、主イエスは「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われ、ここでもこの弟子たちに、主の言葉を思い出しなさいと言われているようです。こういう苦しみとは、主イエスの受難と十字架の死です。それは彼ら弟子たち、そして私たちの苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きを我がこととして担われた十字架の死でした。それらの不幸を避けて神様の栄光、救いを顕そうとされたのではなく、まさにその只中を突き進んで、神様の救い、愛を完成されたのです。私たちが避けたい事柄、避けたい道、理不尽だと思うことからの救いではなく、そのただ中をこそ主が共に歩んで下さり、そのような荒れ狂う大嵐の中で舵取りをして、導いてくださるのです。主イエスは、力ではなく、苦しみの中にこそ、神の栄光を顕そうとされたメシア(救い主)だったのです。そして、その栄光は十字架の死で終わったのではなく、墓を打ち砕き、死を打ち滅ぼし、復活のメシアとして、私たちに示されたのです。主イエスはその神様の約束の言葉を彼らに語り続けました。

そして、エマオへの村に近づいた彼らは、主イエスを引き留め、一緒に食卓につきました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡すと、彼らの目は開け、そこでやっと主イエスだと分かったが、その時には既に主イエスの姿は見えなくなっていたと言います。主イエスとの食卓、聖餐の恵みを体現して、ここでもまた彼らは主の言葉を思い出しました。それが真実として自分たちに明らかにされていることを体現し、生きて働かれている主を見出し、復活の主イエスと出会うことができたのです。聖書の御言葉と聖餐の恵みによって、復活の主を体現したのです。今も生きて自分たちと共に復活の主がいてくださると。そのことを私たちは毎週の礼拝において確認し、復活の主との交わりをいただくのです。

弟子たちは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。主と歩いていた時、聖書の御言葉を聞いていたとき、彼らの心は燃えていました。気分が高騰し、熱狂的に燃え上がっていたのではなく、確かに命の鼓動を感じさせるような熱が自分たちに伝わってきたのだということでした。暗く、遮られていた彼らの心境、その闇の只中に光り輝くように、主イエスの復活の命の光が輝いていた。暗い顔をし、遮られていた目をしていた彼らの姿の中に、歩みの中に、既に主イエスは、彼らの心に神様の言葉、その約束は必ず実現するということを語り伝えていたました。彼らとは無関係の、冷めた言葉ではなく、彼らの歩み、命を生かす燃えた言葉となって、彼らの心、魂の中に燃えているのです。それは何よりも、このエマオでの途上で、一緒に歩き続けてくださる中で、主イエスご自身が彼らの心に復活の命の灯を灯してくださったのです。彼らのペースに合わせて、心境に合わせて、同情するわけでもなく、確信と愛をもってして彼らに寄り添い、これで終わりではなく、ここからまたあなたがたの歩みは始まっていくという神様の約束を明らかにしてくださったのです。

今日の詩篇交読は16編でした。この中でこういう言葉があります。主(しゅ)は右(みぎ)にいまし、わたしは揺(ゆ)らぐことがありません。」共に歩いてくださる主は右にいると言います。これはただ近くにいてくださるというだけではありません。右というのは、右腕と言われるように、信頼に足る存在だと言われます。そこに主がいてくださる。主が私たちの右腕となって保護してくださるのです。心が燃えるとは、目に見える事実からの心地よさ、感動ではなく、見えなくても信じて信頼できることです。今この時も、主イエスが私の人生を共に歩んで下さっている。主イエスが一緒に歩いてくださっている。主が私の右腕、私の信頼できるところに共にいてくださる。厳しい現実の只中にあって、私の歩みを共に歩いてくださり、確かに導いてくださる。主イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われた苦難の救い主だからです。どのような時でも、主が私たちの右腕となってくださり、自分ではつかむことができない命を、主はしっかりとつかんでいてくださいます。弟子たちの燃える心、そして私たちの燃える心の根拠は、信頼できるところに、常に主が共にいてくださることにつきるのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。