「復活の香り」ルカによる福音書24章36~43節 藤木智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今週の主日もまた主イエスの復活について、私たちは弟子たちや婦人たちの証言を通して、聖書の御言葉から聞いています。そして今日の福音は、主イエスの御姿を弟子たちが明確に目撃する箇所であり、いよいよ、主イエスの復活についての核心に迫っていくのです。
今日の福音の箇所を見る前に、改めてこれまでの弟子たちの心境と、主イエスの復活についての様々な証言について見ていきたいと思います。主イエスが捕えられて死刑に処せられ、そして死んだことを聞いてから三日後に婦人たちから驚くべきことを聞かされました。その時までは、おそらく彼らは主イエスが死んだことの悲しみと、自分たちも捕まってしまうという恐ろしさを抱いていたかと思います。そんな心境にある彼らにもたらされた報告、それは主イエスの遺体が、墓穴に見当たらなかったこと、そして、ふたりの神様の御遣いの言葉でした。それは『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という内容の言葉でした。それは生前の主イエスご自身が弟子たちに語られた御言葉であるということを私たちは思い浮かべると思います。今まさに、その御言葉が実現したという知らせだったのです。しかし、彼らは婦人たちの報告をたわ言だと思って、信じませんでしたが、ペトロは墓まで走り、遺体が見当たらないことを確認して驚いています。この空虚な墓の出来事、御遣いたちの言葉、ペトロはそれが嘘ではなく、本当に復活されたという思いを抱きます。
そして、次の復活の報告は、エマオでの出来事です。クレオパたちの前に現れた一人の人が主イエスご自身であったということ。彼らの目は最初、遮られていましたが、食事の席で主イエスが賛美の祈りを唱えて、パンをお渡しになると、彼らの目が開け、主イエスだとわかった。しかし、その姿は見えなくなってしまったという出来事。彼らは結局主イエスだと認識して、その姿を見たわけではありませんでしたが、聖書の説明を受けている時、自分たちの心は燃えていたという心境を語っています。そしてエルサレムにすぐ戻り、ペトロたちと合流して、彼らと分かち合います。空虚な墓、御遣いたちの言葉、エマオで現れたという出来事と、私たちは改めて主イエスの復活の経過を辿ってきました。どの出来事も、人間の業によるものではないことを私たちは知ります。
しかし、まだ私たちは多くの疑問を抱きます。主イエスの復活の本質は何であったのか、ただの象徴にすぎなかったのかと、考えてしまうかも知れません。弟子たちの証言は断片的で、現実性を帯びてはいないのです。弟子たち自身も、外見は主イエスの復活を理解しようとしていますが、実際はまだ復活した主イエスには出会っていなかったのです。彼らは復活したという出来事に喜んでいたのではなく、むしろ驚いているのです。その心境は非常に複雑で、冷静さを失って戸惑っていたのかもしれません。
さて、その心境にある彼らの前に、主イエスは現れ、彼らの真ん中に立ち、弟子全員がその姿を見ます。『あなたがたに平和があるように』と言って彼らを祝福されます。口語訳聖書ではただ一言『安かれ』といって、彼らを慰めています。主イエスは単に挨拶しただけではなく、まず彼らの複雑な心境を慰められたのです。その姿は、主イエスを見捨てた弟子たちに対する不信仰さを咎め、怒る神様としての姿ではなく、何よりもまず、彼らの心境を慰め、憐れんだ主イエスの愛の神様としての御姿だったのです。しかし、弟子たちはその姿が亡霊に見えて、恐れおののく、つまり取り乱しているのです。マタイによる福音書14章26節とマルコによる福音書6章49節でも彼らは湖の上を歩く主イエスが亡霊のように見えて、恐怖のあまり叫び声をあげています。その実体のない姿に恐れ、取り乱すのは、おおよそ主イエスがこの世の者ではないという印象があったからでしょう。まして、主イエスが実際に死んで埋葬された後にその姿を見れば、誰もが取り乱します。この世の者ではない、つまり生きていない者、死んだ者を認識することなど、不可能なのです。弟子たちの中には確かに遺体が見当たらない空虚の墓を見た者がいたし、エマオで現れた主イエスに出会ってはいましたが、今目の前にいる方が、墓に埋葬された遺体であり、エマオに現れた主イエスだという確証は全くないのです。死者がそのままでの姿で復活するとは彼らは考えもしなかったでしょう。それは彼らが死後の世界がはっきりわからないように、私たちにもわからないのです。死ぬことは人生の終わりであり、肉体は消滅し、お墓に埋葬される。霊だけの見えない姿になって、その後は天国とか地獄とかの別次元の世界にいき、生きている者たちの世界と切り離されていくと思うかも知れません。
私たちはそのように理解して、生きている者たちの世界と、死んだ者たちの世界を区別します。それはやはり、死後の世界がわからないがゆえに、私たちは不安になり、恐ろしくなり、また悲しくなるという心境からくるものでしょう。だから、お化けや幽霊などの実体がないものの話を聞いたり見たりしてしまえば、怖くなり、冷静さを失って取り乱したり、死んだ人間が生き返ったと聞けば、何か魔術的な力によるものであるとか、非現実的なことを連想してしまいます。しかし、主イエスの復活、キリストの復活は、実体のないあいまいな姿として恐れられる存在としての復活ではないのです。弟子たちと同じ肉の体においてではないが、生きている者なのです。主イエスは彼らに手と足を見せ、そして触らせます。肉や骨がある実体だからこそ、弟子たちは見ることができたし、触ることもできる。亡霊のような存在ではない。復活した体が本当にあったのです。弟子たちが恐ろしさのあまり証拠を確かめるために、主イエスを観察したり、触ったりして、確信したのではなかったのです。主イエス自身から、彼らを導いて復活の証を示したのでした。それによって、彼らの心境は一転して、喜びへと変わっていきます。喜びのあまり、信じられず、不思議がっている彼らですが、それは心を乱すような恐ろしさをもう抱いてはいないのです。ただ、今目の前で起こっている出来事に、本当に喜んでよいのかという戸惑いを感じるのです。まるで夢でも見ているかのように、目の前の出来事が都合よく突き進んでいくのです。
しかし、これらの出来事は全て、彼らにとっての能動的な動作ではなく、受動的な動作なのです。彼らの視点から見ると、見せられ、触らせてもらっているのです。そして、さらに主イエスは自ら一匹の魚を食べて見せるのです。手や足があることと、亡霊であれば、食事をすることなど、不可能であるということをはっきりと示されたのです。これらの出来事は主イエスが生前弟子たち共に食事をし、生活をし、共に旅に出た方であるということをはっきりと示されたということでした。主イエスが真の体を持っていること、食事をし、本当に生きていることを示したこの復活の出来事を、後に弟子たちは人々に宣べ伝えて行くのです。
主イエスの復活は、真に命ある体を持った姿であり、死者の中から甦ったことを、私たちに伝えています。『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている』という聖書の御言葉の実現は、そのようなキリストの復活へと焦点が向けられているのです。コリントの信徒への手紙1の15章20節ではこう記されています。『実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。』死後の世界では、キリストを信じる者が、初穂となったキリストと共に復活するのです。その時は終末の日であり、キリストが再臨し、キリストを信じ、キリストに属する者がよみがえることを示しているのです。ローマの信徒への手紙6章4―5節ではこう記されています。『わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からさせられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。』
私たちはいずれ肉体的な死は迎えますが、その死はすべての終わりを指すのではなく、むしろ、キリストが再臨する終わりの時に、新しい命をもって、霊の体をいただいて復活するのです。死後の世界において、その肉体が失われ、亡霊のような存在になるのではないのです。キリスト共に復活する時を待ち望むのです。その完成された日に向かって、私たちは死後の世界を恐れることなく、復活を信じて日々をキリスト共に歩んで行くことができるのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。