2019年6月2日 昇天主日の説教「ああ、大丈夫なんだ」

「ああ、大丈夫なんだ」ルカによる福音書24章44~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  主イエスキリストの昇天。本日私たちは、主イエスがこの地上でのご生涯を終えられ、天の神様の御許へと上って行かれた昇天主日の礼拝へと招かれております。ですから、本日の礼拝では「昇天主日」としてキリストの昇天を覚えますが、教会暦で定められている主イエスの「昇天日」は数日前の5月30日の木曜日であります。教会手帳にもそのことが記されております。

ドイツではこの昇天日に教会の鐘が一斉に鳴り始め、キリストの昇天をお祝いするために、この日は国で祝日と定められているそうです。彼らはキリストの昇天を記念日としてお祝いしています。お祝いということですから、そこには喜びがあるということです。日本の教会にはあまりない習慣です。キリストの昇天が喜びだということ、そのことは何よりも昇天を目撃した弟子たちが証ししているのです。

さて、このキリストの昇天という出来事。聖書をよく見てみますと、主イエスは天に上ったのではなく、天に上げられたということが記されています。主イエスを天に上げた方が天におられる。すなわち父なる神様です。天とは父なる神様がおられるところ、ご支配されているところです。そこは天の国とか神の国といわれるところでありますが、私たち人間が空間的、時系列的に捉えることのできる場所ではないのです。しかし、私たちに全く無縁の場所でもない、それどころか、私たちの故郷とも言えるところなのです。フィリピの信徒への手紙でパウロが「わたしたちの本国は天にあります」(3:20)と言っているとおりです。ですから、私たちのこの世での生の営みには、ちゃんとゴールがあるのです。私たちはそのゴールを、すなわち天の国、神の国を目指して歩んでいる旅路の最中にあるのです。しかし、ただの旅ではありません。マタイによる福音書の山上の説教の中で、主イエスは「神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と言われました。神の義を求めるということ、すなわち、自分自身を絶対化するのではなく、神様の御前に自分自身を相対化して、神様に従う歩みをすることです。だからこの旅路は「信仰の旅路」とも言われるのです。この旅をしている群れは「教会」であり、その旅人は「証人」と言われるキリストの民であります。

だから、私たちの生きているこの世の世界と、天の国は全く無関係な、並列的な関係ではなく、2つの世界は神様の下にある。神様は天の国も、この世もご支配されている方です。そのことは、神様の御子であります主イエスキリストがこの世にご降誕された出来事と、そして今日の昇天された出来事を通して明確になったのです。

さて、主イエスの働きは、この地上での世界だけのものだったのでしょうか。地上でのご生涯を終えられ、天に上られてそれで終わってしまったのでしょうか。決してそうではないのです。今日の第2日課でありますエフェソの信徒への手紙にこう記されています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」(12021天に上られた主イエスは、この地上の世界の支配者となって、今も私たちと共にいてくださるということなのです。私は世の終わりまで、あなたがたと共にいるというインマヌエルの神様が共におられるということ、ですから、私たちの信仰の旅路はこのキリストと一つになるということなのです。この旅路の群れである教会はキリストの体として、わたしたちとつながっているのです。だから、私たちは信仰告白をするのです。「三日目に死人の内よりよみがえり、天に上り、全能の父なる神の右に座した給えり」。この使徒信条の告白は、現在の私たちの告白です。キリストの昇天によって、私たちと永遠にいてくださるようになり、今も生きて働いてくださる主イエスへの信頼の告白の言葉なのです。このことが明らかになったのが、主イエスの昇天の出来事なのです。

さて、弟子たちは、今この信仰の旅路を旅するための準備を、主イエスによって、整えられているのです。復活した主イエスの御姿を見て、彼らは喜びに満ち溢れていました。主イエスを裏切り、ユダヤ人たちから逃げまどい、不安の只中にあった弟子たちの前に再び現れて下さり、それも亡霊のような不確かな存在としてではなく、共に旅をしてきた自分たちの主であり、教師である主イエスが肉体をもった自分たちと同じ人間の姿として、今目の前に現れてくださったからです。この時、主イエスが真っ先に弟子たちにしたことが「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36)、口語訳聖書では「平安あれ」という言葉を通して、彼らを祝福されたことでした。それも真ん中に立って、一人一人と向き合ってくださったのです。再び弟子たちを召してくださった、弟子としてくださったのであります。彼らはここから復活の主イエスの弟子として、新しい歩みを成して行くのです。それはどのような歩みか、「キリストの証人」としての歩みです。そのために主イエスは彼らの心の目を開いて、聖書を悟らせました。モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄、すなわち旧約聖書全体の神様の約束が主イエスによって成就したということを彼らに悟らせたのです。旧約聖書の成就、すなわち長年に渡る約束、待望のメシアが彼らの前に現れてくださったことが明らかになった瞬間でした。彼らの抱いていたメシア像、ダビデ王のような目に見える力に満ちていたメシアではなく、人々の罪のため、咎のために苦しみを負われ、十字架の死を受けられたあのイザヤ書53章に出てくる苦難の僕としてのメシアです。しかし、このメシアは三日目に復活された。罪の代償としての死を滅ぼし、救いの御業を完成されたメシアが彼らと共にいてくださる。彼らがそのように信じることができたのは、心の目が開かれ、聖書を悟ったからでありました。また、弟子たちは主イエスから「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という約束の言葉を聞きました。高い所からの力、すなわち聖霊の力です。それが彼らに与えられるという約束。覆われるということは着るということ、すなわち洗礼を受けて、新しい命の中を歩むものとして、彼らは召し出されようとしているのです。それが聖霊における洗礼において与えられる新しい命であり、「キリストの証人」としての歩みであります。このようにして、主イエスは彼らを再び弟子として召し出し、彼らに全てを語り、与えたのであります。

しかし、主イエスは彼らをベタニアに連れていき、彼らを祝福しながら天に上って行かれました。彼らと共に宣教の旅路に向かうのではなく、天に上って行かれたのです。弟子たちにとっては、この地上での主イエスとのお別れとなりました。もう主イエスと直接語ったり、触れたりすることができなくなる。私たちも人との別れを人生において何度も体験します。嘆き悲しみ、涙にくれます。もう会うことができない、永遠の別れ。しかし、この時、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ったと福音書は記しています。主イエスが天に上って行かれ、もう姿が見えなくなるに、彼らは喜んでいた、いやむしろ大いに喜んでいたのです。別れるのに喜ぶ。そんなことがありえるのか、いやそうではないのです。別れだけれど、別れではない。むしろ、永遠の出会いだということを。どういうことでしょうか。それは、主イエスが地上における人間の姿として、語ったり触れたりするという目に見える制限された中でしか、主イエスと出会うことができなかった彼らが、天に上られ、神の右の座から、永遠に自分たちとつながっていてくださるということを確信したからであります。肉体的な制限を受けずして、彼らはいつでも主イエスと出会うことができるという希望を抱くことができたのであります。聖霊の力を通して、いつでも自分たちを祝福してくださるということに実感をもつことができたからに他なりません。目に見えなくても、いやむしろ、目に見える制限された出会いではないということ。共にいてくださるとは、空間的、時系列的なものを超えた永遠の出会いだということなのです。別れが別れではなくなったということ。私たちとの永遠の出会いだということを示してくださったキリスト。ですから、キリストの昇天、それは私たちを喜びの希望へと招くのです。

彼らは主イエスが自分たちを祝福されながら、天に上っていかれたのを見つめていました。その時彼らはひれ伏していた、すなわち礼拝をしていたのです。祝福しながら、絶えず自分たちを祝福しながら天に上り、常に自分たちが祝福の共同体として恵みを頂けるということに大きな喜びを抱いたのです。そして、一番最後の53節で、彼らは神殿の境内にいて、神様をほめたたえていました。このほめたたえるとは、実は祝福するという言葉と同じ言葉が使われているのです。ですから、彼らも神様を祝福していたのでした。変なニュアンスかも知れません。神様を祝福するというのは。だから、日本語の聖書では、ほめたたえていたと訳されているのですが、彼らの想いは神様への祝福に満ちていたのです。それは神様への讃美であり、喜び、感謝であります。祝福の共同体の中心には、常に私たちを祝福してくださるキリストが共におられるのです。

ヨハネによる福音書15章1節から17節で主イエスがご自身のことを「ぶどうの木」であると弟子たちに言われた箇所であります。そして、弟子たちは「その枝である」と主イエスは言われました。ぶどうの木である主イエスを離れては、あなたがたは何もできないと主イエスは弟子たちに言われました。そして、「わたしの愛にとどまりなさい」と弟子たちに言われたのです。このたとえから聞こえてくるのが、わたしの命につながっていなさいということではないでしょうか。キリストの命につながるということ、すなわち「キリストの愛にとどまる」ということ。パウロはローマ書8章39節でこう言っています。「他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」その愛につながっているのが、ぶどうの木であるキリストに連なるぶどうの木の枝としての私たちの存在なのです。たとえ目には見えなくとも、私たちはつながっているのです。神様に愛され続けているのです。祝福されているのです。だから「互いに愛し合いなさい、祝福しないさい」と言われるのです。ここに礼拝をする教会があるのです。教会はキリストの証人として呼び集められた者たちの、祝福の共同体なのです。弟子たちはこの神様の愛に包まれて、喜んだのです。私たちもこの祝福の共同体の中で、神様の愛に結ばれて生きているのです。ここには大きな喜びがあるのです。絶えず、神様をほめたたえる共同体として、今私たちの信仰の旅路は始まったのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。