2019年8月18日 聖霊降臨後第10主日の説教 「精錬された言葉」

「精錬された言葉」 ルカによる福音書12章49~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。
 
 しかし、ヨハネによる福音書14章27節で、主イエスはこう言われるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」平和を与えると言われる。しかしそれは「世が与えるように与える平和」ではないということ。平和の君として、平和をもたらす者であり、この世の平和、人間が造り上げる平和ではないということです。ではなぜ、キリストの平和の内にあって、分裂が生じるのか、対立が生じるのかということが私たちの率直な疑問であります。主イエスは真の平和とは言わず、むしろ分裂だと強調するわけです。
 
 この分裂を生じさせるきっかけが、火を投ずると言われた主イエスの言葉にあります。この火がきっかけになるわけです。この火とは何でしょうか。聖書には神様の臨在を表し、また神様の裁きを表す言葉として多くの箇所に記されていますが、今日の第1日課のエレミヤ書に注目すると、23章29節にこうあります。「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」(エレミヤ23:29)わたしの言葉、神様の御言葉は火であるというのです。それは岩をも打ち砕く槌のような力です。それが神様の御言葉、聖書の言葉であると言えます。火のような激しさがあるわけです。
 
 このエレミヤ書は主イエスが生まれる約600年前の預言者エレミヤが書いたものですが、神様に罪を犯し続けるイスラエルの民には、神様の裁きが迫っていました。預言者はその神様の御言葉を人々に伝える責務があったわけです。しかし、エレミヤと同じ時代に生きていた預言者たちは、人々を安心させるために、神様が言ってもいないことを人々に語り伝えるのです。23章16節~18節で神様はこう言われます。「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。」(23:16~18)自分たちにあるのは神様からの平和や祝福であって、災いではないということです。ようするに人々に都合のよい神様の御心、人々から絶賛され、人々を満足させることを、あたかもそれが神様の御言葉であると言わんばかりに、預言者たちは人々に語り伝えていたわけです。それが、「主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」ということです。預言者自身も神様の言葉に聞かなくてはならないのに、それを自分の都合のよい解釈にしてしまい、神様の御心からかけ離れた人間の都合に置き換えてしまっていたわけです。
 
 先ほどの29節の言葉には「岩を打ち砕く槌のようではないか」という表現があります。火のような神様の御言葉が岩をも打ち砕く槌であるというのです。この岩というのが、私たち人間の思い、こうであってほしいという自分の思いと都合を表しているものではないでしょうか。または、岩のような自分自身の頑固さです。岩は硬いものです。なかなか打ち砕かれるものではありませんし、打ち砕かれたくないというのが、私たちの姿ではないでしょうか。
 
 そのような自分の岩のような頑固さ、自分中心の思いを神様の御言葉は火のように激しく打ち砕かれるのです。安易な平和や平安を願う、その心地よさだけでは生きてはいけないのです。私たちを真に生かすために、神様の御言葉は今の自分に必要なこと、安易な慰めや喜びではなく、人生の本質を私たちに問うているのです。主イエスが言われる「平和ではなく分裂である」ということは、それ故の分裂であります。火のような御言葉によって、自分自身の中に分裂が生じる。その分裂は、神様なぜですか、なぜそのようなことをされるのですかという自分からの問いかけもあるでしょう。自分の頑固さを打ち砕き、本当の自分を見いださせようとする御言葉の火を、私たちにもたらされるために、主イエスは私たちの只中に来られたのです。
 
 しかし、主イエスはこう言われます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」洗礼とは一度溺死して、生まれ変わるということです。主はそれをどんなに苦しむことかと言われました。その苦しみ、人々の頑固さ、それ故の罪を担って、主は十字架によって死に、そして復活の命に与るということです。それが、主イエスが受ける洗礼であり、十字架と復活を通して、御言葉の火は私たちの中に灯されるのです。
 
 自分の頑固さ故に、心地よさだけを求め、変わらない自分に対して、主は火を投じられます。それは厳しいものでもあるでしょう。しかし、それは自分自身を滅ぼす火ではないのです。私たちを真に生かし、再び新しい歩みへと立ちおこし、導いてくれる火であります。この主が投じる火を通して分裂が起こり、自分の岩のような頑固さが打ちくだかれて、本当の自分がそこで見出されるのです。主イエスは、その自分の人生を、そのままに御言葉を通して導いて行かれるのです。平和ではなく分裂だ、それは本当の自分が主イエスにもたされる主の愛の火によって、本当の自分が灯され、この火によって生かされていくことにおいてなのです。
 
 ルカによる福音書にエマオの復活物語があります。二人の弟子がエマオへの道の途上で、復活の主に出会い、共に歩くのですが、最初は気づかないという物語です。主イエスの姿が見えなくなった後、彼らはこのように語っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。聖書、つまり御言葉を聞いていた時、彼らの心は「燃えていた」というのです。その火は、焼き尽くす滅びの火ではなく、「心が燃えていた」誠に彼らを生かす火であります。
 
 主イエスは御言葉と言う火を投げかけられました。それは、焼き尽くす滅びの火ではなく、誠に生かす火、永遠の命という火として、私たちの心の中に燃え盛る火であります。私たちがこの世の価値観に激しく揺れ動されていようとも、この火は消えないのです。火のような神様の御言葉という土台は揺れ動くことがないのです。この火が主イエスキリストとして、私たちの只中に宿られ、御言葉として、つまり私たちは聖書を通して、主イエスと出会うのです。
 
 主イエスは火を投ずるために、来られます。それは永遠の命という誠に私たちを生かす火として、来られる。この主イエスに心を開いて、激しく人間の価値観が変動する混乱の只中に、真実を見つめていきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。