2019年9月15日 聖霊降臨後第14主日の説教「かけがえのないひとりとして」

「かけがえのないひとりとして」 ルカによる福音書15章1~10節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 今日の聖書の言葉は有名な見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ話です。ルカによる福音書の15章には、このふたつの話と、11節からの放蕩息子のたとえ話の3つのたとえ話があります。この3つのたとえ話をルカ福音書の見失ったシリーズとして覚えている方もおられるかと思いますが、この3つの例え話に共通していることは、天にある喜びであり、神様が喜んでいるということです。見失った一匹の羊が見つかった、見失った1枚の銀貨が見つかった、放蕩の限りをつくしていた息子が返ってきた。いずれも大きな喜びを顕にしているのが、羊飼いであり、銀貨を見つけた女主人であり、父親なのです。私たち人間の喜びが語られているのではなく、神様の喜びが語られている。その天の視点から主イエスは私たちに福音を語っておられるのです。
 
 この天の視点から福音を語りだしたきっかけは、2節にありますように、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」という彼らの不平に対するものでもありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちという神様の掟を忠実に守り、社会貢献をし、上席に座ろうとする敬虔で立派な人たちは、罪人や徴税人という神様の掟を守らない人たちが、主イエスと共にいて、交わることが許せなかったのです。まず、自分たちに対して神様の救いという私たちへの喜びを語るべきではないか。私たちは熱心にあなたの掟を守って、敬虔な日常生活を送っているのだから、罪人や徴税人たちとは違うのだ。私たちが模範であり、彼らは私たちの姿に習うべきではないか。その私たちの思いを主イエスの口から言ってくれることを期待しているのに、主イエスの行動は全くの的はずれであり、私たちをないがしろにしている。そういう不平不満があったのでしょう。
 
 不平があった。そう、彼らは喜べないのです。喜んでいないのです。罪人と徴税人が救われることを心から喜ぶことができないのです。主イエスよ、まず私たちが喜べるようにはしてくださらないのか。
 
 そんな彼らの不平に対して、主イエスはたとえを話されていくのです。ただ、このたとえを話されている対象は、3節で、「そこで、イエスは次のたとえを話された。」とあるように、罪人、徴税人、ファリサイ派の人々、律法学者たち、全員に対してではありますが、実は口語訳聖書やカトリック教会が出しているフランシスコ会訳聖書を見ますと、彼らに次のたとえを話されたという一文になっています。彼らにという言葉があります。それで、原文の言葉を見てみますと、彼らに向かって、例えを話されたとあります。より、対象が絞られていることがわかります。彼ら、それは確かに、そこにいた全員を指すものではありますが、具体的にはファリサイ派の人々、律法学者たち、もっと踏み込んで言えば、その彼らの不平に向かって、主イエスはたとえを話されたという構造になります。ただ神様の喜びを語ろうとされるのではないのです。彼らの、人間の不平に対して、主イエスは神様の喜びを語る。あなたがたの不平はみっともない、そんな嫉妬深い考えはだめだと言って、拒絶しているのではないのです。そんな彼らの、私たち人間の不平不満ですら、包み込んでしまう神様の喜びを主イエスは力強く語られるのです。ですから、不平を言っている彼らは拒絶されているのではなく、むしろ招かれているのです。主イエスが語る神様の喜びに。だから、彼らに向かって主は語るのです。
 
 その神様の喜びをふたつのたとえは顕にします。一つ目のたとえ話、100匹の羊を飼う羊飼いが、見失った1匹の羊を探すために、99匹のことを気にかける余裕がないほどに、この一匹のために、一生懸命になって探します。1匹をないがしろにするわけではないが、手元にいる99匹はどうするのか。まずその99匹を狼などの獰猛な動物から身を守れるように、安全な場所に移さないだろうか。1匹のために、99匹を犠牲にすることは損害であると私たちは考えるでしょう。しかし、見失った1匹が超レアもので、プレミアムな羊であれば、話は変わるかもしれません。99匹より、その一匹の方が、価値があるから、大切だと思うかもしれません。1匹か99匹か、目に見える価値でどちらを選択するのかということがこの世の価値判断です。
 
 しかし、この一匹の羊の特徴は何も描かれていません。小さいのか、大きいのか、強いのか、弱いのか、それはわからないのです。99匹の中にいた、彼らと同じ普通の羊なのでしょう。もし、そうなら、数の差で99匹のことをまず気にするはずです。しかし、この羊飼いの眼差しは、最初から見失った一匹の羊に向けられています。何が何でも探し続けるのです。一匹だけいなくなったのではなく、一匹が、その一匹という存在そのものがいなくなった。羊飼いはもはや、そこにひとつの群れとして見ることができないのです。1匹でも欠けてしまえば、それはもう群れではない。その一匹一匹が、100匹いて、100匹いて、その内の一匹は100匹と同じなのです。100匹でひとつだ。これが一匹のために、命をかけて探し回る羊飼いの眼差しです。だから、その一匹を見つけた時の喜びは、運よく見つかったという次元のものではなく、喜び以外には顕すことができない天にある喜びなのです。
 
 ふたつ目の、銀貨を10枚持っている女性が、無くした一枚の銀貨を必死になって探すたとえ話も同じです。実は、女性はこの銀貨を財布の中に入れて持っていたというわけではなく、飾りにして持ち歩いていたと言われています。首飾りか頭飾りか、それは嫁入りの時の飾りだと言われています。女性にとって、その飾りは、自分がこれから生きていくための持参金であり、大切な思い出の込もっている飾りなのです。そして、10枚の銀貨はその全部がひとつなぎになっている飾りだと言われています。だから、羊のたとえと同じように、10枚でひとつであり、ひとつの飾りなのです。一枚でも欠けてしまえば飾りではなくなってしまうわけです。
 
 だから、一匹の羊も、一枚の銀貨も必死になって探し続ける。99匹や9枚の安全を確保する以上に、その一匹が、その一枚が今どういう状況にあるのか、こうして見失っている間、どんな思いでいるのか。気が気でないのです。心を煩わすほどに、気にかけているのです。
 
 こういうお話を聞いたことがあります。ある学校の先生が生徒を遠足に連れて行きましたが、現地で一人の生徒が迷子になりました。先生と、他のクラスの先生は必死になって探すのですが、その生徒はなかなか見つかりません。大切な一人の生徒です。交番のお巡りさんにも探していただくのですが、そのお巡りさんがその生徒の特徴について先生に訪ねます。どんな服を着ていた、どんな靴を履いていた、リュックサックは何色ですか、などなど。しかし、いざその特徴を聞かれた時に、その先生は答えることができませんでした。そういえば、どうだったか。さっきまで一緒にいて、楽しくお話しをしていたのに、その生徒の特徴が思い出せないのです。もちろん、先生の大切な一人の生徒です。見つかるまでずっと探し続けています。でも、そういった細かい特徴までは思い出せないのです。その先生が母親に連絡して、その生徒の特徴を聞きます。母親は全て知っています。ああいう服を着て、ああいう靴を履いて、何色のリュックサックをしょって、元気よく家を出ていった。今頃おやつ食べてるかな、お弁当食べてるかな、友達と遊んでいるかな、そうやって我が子のことを常に気にかけているのが親です。無事にその生徒は見つかるのですが、その我が子のことを常に気にかけている母親の愛によって、その生徒を見つけることができたのだと、その先生は思ったようです。
 
 一匹の羊が、一枚の銀貨が、主人によって気にかけられている。あんな羊だ、あんな銀貨だ。その思いは主人の愛です。それらの主人だから、一匹一匹の羊、一枚一枚の銀貨がわかるのです。だから見失ったら、探さないわけにはいかないのです。今、どんな状況にあるのか、常に気にかけている。危険を犯してでも一生懸命探すのです。そんな大切な存在が見つかったら、いるのが当たり前という感覚ではなく、いて良かった、見失って、悲しんで、苦しんだからこそ、思わぬ喜びが見出されるのです。
 
 今主イエスがこの天の喜びを語っているのは、罪人や徴税人、そして不平を述べているファリサイ派の人々や律法学者の人たち、ひとりひとり、そして私たち一人一人に対してです。いろんな人がいる、いろんな立場の人がいる。でも、それは神様にとってのひとつなのです。ひとりひとりは神様の愛における絶対的なひとつの存在なのです。だから、一人でも見失ったら、神様はこの私のためにどこまでも探し求めてくださる。迷いの内に有り、喜べない自分のために、神様は命をかけて私を、あなたを探し続け、同じ迷いの淵にたって下さるのです。あなたがそこにいた、見つかって良かった。あなたを見出すことができた神様の喜び、この喜びの内に、私たちの新しい歩みは始まるのです。
 
 主イエスにある群れ、教会とはそうやって見出された一匹一匹の羊が加えられていくように、一人ひとりが主によって見出され、作られていく群れなのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの12章26節から27節でこう言います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」キリストの体である教会とはこうで、こうでなくてはならないということではないのです。あなたがたこそが、私たちこそがキリストの体であり、キリストの愛と命の内にあるのだと言われます。そこまでキリストは私たち一人一人のために近づいてきてくださった、迷いのうちにある私たちを探し求め、見出してくださる方なのです。あなたは他の何者でもない、私の大切な存在であると。だからあなた一人が苦しめばキリストの体全体が苦しみ、あなた一人が尊ばれれば、キリストの体全体が喜びに満ちるのです。
 
 私たちに価値があるとか、知識があるから、キリストの体に、教会の中に入っていけるということではないのです。あなたそのものの只中に、キリストの方から来てくださったのです。このキリストによって、野の草のようなこの私でさえ、丁寧に私の人生を、喜びをもって装ってくださっています。そうやって、ひとりひとりの人生を気にかけ、喜んで装ってくださる方が共にいてくださるのです。そのように神様の喜びは私たちのための喜び、私たちの不平不満をも包んで下さる寛大な喜びなのです。だから私たちも共に喜びましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。