「証しをする機会」ルカによる福音書21章5~19節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
本日は聖霊降臨後の最終主日、教会の大晦日と言われる教会歴の最後の日です。来週からの待降節、アドベントから教会暦は新しく始まるのです。新しい暦、新しい時を迎える前に、終末、世の終わりについて今日の福音書から聞きました。いずれの出来事も、もはや私たち人間には手に負えないことばかりです。本当にそのようなことが起こるのかどうかもよくわかりません。また、聖書から聞かなくても、世の終わりについての教え、あらゆるものが崩壊するという教えは、聖書以外にもたくさんあります。様々な終末についての教えがある中で、聖書では、主イエスが気を付けないさいと警告しつつ、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」と、そのような慰めを語っておられます。終末が避けらない、故に終末の只中を生きていく私たちに、終末は全ての滅び、単なる終着点ではないということを語っておられるのです。
終わりというのは、英語でENDと言い、このENDというのは「目的、成就、完成」という意味の言葉です。ただ終わるのではなく、目的があり、その目的が成就し、完成するという意味があるわけです。この終わりを通して、終わりの只中を生きていく私たちに、神様は滅びではなく、救い(の目的)を明らかにされていくのです。これが聖書における終わりを迎えることの本質なのです。
主イエスが世の終わりについて語られたきっかけは、5節、6節で「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」ということでした。この神殿というのはエルサレムの神殿で、ユダヤ教の中心的な祭儀、礼拝が行われていたところです。多くの人々が巡礼に来て、賑わっていました。ローマ帝国の力を借りて、当時ユダヤを支配していたヘロデ大王が実に約46年もかけて、この神殿を豪華絢爛に造り変えたと言われています。「見事な石と奉納物で飾られている神殿に見とれるほど」に、その偉大さが伝わってきます。この神殿は権力の象徴だけに留まらず、ユダヤ人にとっても自分たちのアイデンティティーとも言える象徴、拠り所となっていた所でした。彼らにとっての目に見える確かなところ、信頼できるものであると言えるでしょう。
彼らの言葉と思いに対して、主イエスは「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とはっきり言われました。そして、終末の徴について語り始めたのです。今ある確かな目に見えるもの、それに頼って生きている彼らの姿は、現代の私たちの姿と変わりはないかと思います。むしろ、より目に見えて便利な世の中になっているので、それらがいずれは崩さってしまうなどと、想像することもできないでしょう。ただ、いずれは終わりが来るということを私たちは知っていますし、主イエスが語られる戦争や環境問題、天変地異の前触れの中に、世の終わりを想像することが多くあるかと思います。それらがいつ起こるかはわからないけれど、その只中にあっても、神様の目的は変わることはないのだと主イエスは約束されているのです。
主イエスは天変地異の前に起こることを12節から言われます。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」このルカによる福音書が書かれた時代は、迫害の只中にあり、多くのキリスト者が殉教した生と死の隣り合わせの時代でした。ここで言う証しとは、殉教という意味の言葉からきています。証しをするとは殉教することなのかと考えると、恐ろしくなるかもしれませんが、それはただ死ぬことを目的としているのではなく、キリストのために生きて、その命に自分を委ねて生きていくことであると言えます。神と共に、他者と共に生きていく姿であると言えます。単に自分を犠牲にするということではないのです。
主イエスは最後に「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」と言われました。辛いけれど、我慢しろということではなく、これは積極的な待つ姿勢を意味します。ある人は忍ぶという字と、耐えるという字を次のように説明しています。「忍ぶは上からの愛で、覆う、かばうと言った姿、耐えるは下から支える、持ちこたえる姿である」と。これはどちらも自分ひとりではできない、耐えられない姿です。上からの愛によって生かされ、下からの土台、砦となる支える力によって、地に足をつけて歩んでいくことができるのです。それで、ここでの「忍耐」という言葉を原語で調べますと、ふたつの言葉から成り立っていることがわかります。ひとつは「重荷の下で」、もうひとつは「とどまる」という言葉です。合わせて「重荷の下で留まる」ということです。主イエスがぶどうの木のたとえ話で、「私にとどまりなさい」と言う招きの言葉を私たちに語っています。ぶどうの木である主イエスに、枝として私たちが結びつく、そこに留まるということです。主イエスが共におられるということは、忍耐するということでもあり、それが証しをするということになります。重荷のある現実の只中で、このキリストの愛に覆われ、愛の下に留まって、共に生きていくのです。
また「命をかち取りなさい」という、この命は「魂」とも訳せます。単なる肉体的な命のことだけを指しているわけではなく、私たちの生き方、人生そのものと言えるかもしれません。私たちは昔の教会の中で起こっていた迫害を経験することがないかもしれませんが、この魂を蝕む様々な出来事が現代でも起こり、このことを経験しています。飢え渇きを覚え、希望を見出せない闇がこの現代社会の中でも蔓延っています。故に、目に見える確かなものに信頼を置き、時にいともたやすくその確かだと思っていたものに裏切られる経験をしています。命を、魂をかちとるために、何に信頼して生きていくのか、何を指針として己の人生の導き手とするのか。私たちはそのことを模索しています。
その私たちに、主イエスは世の終わりの出来事を通して明らかにされていく神様の目的、神の愛の完成を示されました。根本からの支え、ぶれることのない神の愛こそが私たちひとりひとりの命、魂を支え、決して滅びることはないと約束してくださいました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリント13章4節、7節)とパウロは言います。この神の愛を、それぞれが与えられた賜物を通して形にしていくために、私たちは証しをして、他者と共に歩んでいくのです。来週からの新しい教会暦を、この終わりに向けての神の愛の完成を約束してくださっている主に喜びと信頼をもって、共々迎えてまいりたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。