「見出される希望」マタイによる福音書11章2~11節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
アドベントクランツの3つ目のロウソクに火が灯り、待降節の第3主日を迎えました。クリスマスの喜びが間近に迫っております。改訂聖書日課に従い、今日の福音書の箇所も変わっておりまして、マタイによる福音書11章2節~11節から、先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの物語から御言葉を聞きました。
洗礼者ヨハネは、荒野という作物があまり育たない人里離れた寂しい場所で、神様の言葉を宣べ伝える預言者であり、伝道者でした。その荒野で、禁欲的な生活をし、神様との交わり、歩みに集中するために、障害となるものを取り除く生活をしていました。彼の教えは非常に厳しいものでした。人の罪深さ故に、神様の裁きは差し迫っているから、今こそ悔い改めて、神様の方に向きを変えなさい。あなたがたの生き方、生き様について、自分中心の生き方ではなく、神中心の生き方に方向転換しなさいとヨハネは人々に神様の言葉を叫び、宣べ伝えました。宗教指導者たちに対しても容赦はしませんでした。自分たちの宗教的熱心さに陶酔し、神様の御心、正しさではなく、その熱心さ故の自分の正しさ、信仰深さばかりを追い求める彼らを糾弾しました。さらには、時の権力者であるヘロデ王に対しても、躊躇することなく、彼の罪を指摘しました。彼は自分の弟の妻を自分の妻とする罪を犯し、そのことをヨハネは指摘し、糾弾したのです。その結果、ヨハネはヘロデによって捕らえられ、地下牢に幽閉の身となってしまいました。ヨハネは牢獄で、自分の身に起こった理不尽さを嘆いたのではなく、ヘロデの罪が勝利し、己の権力を行使して、人々の生活を圧迫させ、恐怖と不安に陥れていた罪の現実を嘆いていたのでしょう。このヘロデの罪に対する神様の御業を、裁きの御業がもたらされることを望んでいました。その御業をもたらす救い主を彼はずっと待ち望み、そして、主イエスの中に、その救いの御業を見出し、希望を見出したのです。主イエスはヨハネが捕らえられた時期に、伝道の旅を始められました。その出来事をヨハネの弟子たちを通して、逐一聞いていたのでしょう。
ヨハネは主イエスの活動、出来事を全てキリスト、すなわち救い主のなさったこととして理解していました。神の言葉を伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、人々と寄り添い、人々の現実世界に踏み込まれて共に歩むようにして、主イエスは伝道活動をしていました。しかし、主イエスは人々の罪に差し迫っている神様の裁きについては、触れることがありませんでした。その裁きを起こそうとされる気配もありませんでした。自身の罪故に、ヨハネを捕らえ、人々を圧迫しているヘロデ政権が打ち倒されようとされる気配が全くないのです。神様の下に立ち返ろうとしないヘロデに、キリストは神様の裁きを下し、キリストによって神様の正しさが真理となって顕になることをヨハネは信じていたのです。主イエスはそういうキリスト、救い主ではないのかと。
それで、彼は遂に弟子たちを派遣して、本人に直接訪ねることにしました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」この言葉にはヨハネの疑いとも失望ともとれる気持ちが伝わってくるかもしれません。来るべき方、何が来るかと言うと、神様の正しさ、神様の真理です。その正しさ、真理が、キリストである主イエス、あなたそのものに現わされている。あなたの伝道活動、あなたの生き方、歩みそのものが神様の正しさ、真理ではないのか。故に、あなたこそが真に私たちの来るべき方ではないのですか。ヨハネの中には疑いや失望もあったかもしれませんが、この言葉の中には彼の真剣な思いが込められています。違うのであれば、尚、他の方を待ちづける必要があるのでしょうか。これも真剣な問いです。
主イエスはヨハネの弟子たちに答えました。その答えは、主イエス自身に向けたものではなく、あなたがたが見聞きしていることであると。主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」これが、あなたがたの只中に来られた来るべき方の徴。神様の真理であると。もしかしたら、ヨハネの弟子たちはこの方々にお会いしたのかもしれません。来るべき方がどういう方であるかということを、この方々を通して顕にされているのだと。
先週の聖書を分かち合う会では、詩編145編を読みました。145編はユダヤの民たちが日常の祈りとして、とても大切にし、常に祈られていた詩編ではないかと。またキリスト教でいう主の祈りに近いものであると解説いたしました。この145編の8節と9節にはこう記されています。「主は恵みに富み、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え/造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」ここにはユダヤ人と異邦人の区別はありません。神様に造られたすべての人、私たちひとりひとりを憐れんでくださっている主のお姿が、神様の真理があるのです。そして、神様は罪故に私たちを裁いて滅ぼす方ではなく、忍耐して、慈しむ方であるとのことなのです。神様が忍耐されるのです。このことは、ヨハネの理解を越えています。そして、私たちの正しさ、期待をも超えています。私たちの不平不満を聞いて、私たちの正しさに立ち、私たちの期待通りに神様は御業を行う方ではないのです。
忍耐され、すべての人を慈しみ、憐れみをもってして、私たちを愛し、養ってくださる方が神様であり、来るべき救い主なのです。私たちの罪、小ささ、弱さ、病、欠けているところ、そのひとつひとつを排除して、完璧な人にされるのではなく、それらに憐れみをもってして接してくださり、癒し、心を満たして、立ち上がらせてくださり、共に歩んでくださる方なのです。来るべき方がもたらす神様の御業、真理は、私たち一人ひとりが主の目に値高く、かけがえのない大切な存在であると言うことです。そのために、神様は惜しみなく、私たちに与えてくださる方であり、満たしてくださる方なのです。貧しい人は福音を告げ知らされている。福音とはグッドニュース、喜びの知らせです。ある人は解放の知らせとも言いました。囚われているところからの解放の喜びです。私たちの叫び声、飢え渇き、心の闇の只中に来られ、ひとりひとりを慈しみ、憐れまれて愛することを止めませんでした。止まることなく、躊躇することなく、また上から押し付けて裁くためではなく、惜しみなく、私たちを愛しぬくために、来るべき方は来てくださるのです。
行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。このことはヨハネに、そして私たちに告げられています。私たちも見聞きしていることを伝えていくのです。主の慈しみと憐れみに満たされている自分自身の救いの体験を伝えていく。何か難しい教理を解説することではなく、私の人生の只中に来られ、共に生きて歩まれ、喜びも悲しみも共に担ってくださる主イエスキリストの福音を伝えていくのです。だから、教会の伝道は、私たちの救いの体験そのものなのです。先日Kさんと話しをしていた時に、Kさんが伝道とは生き様であるとおっしゃっていたことが印象に残っています。本当にそうだと思います。何か活発なことをしたりすることではなく、根本は私と神様との関係におけるひとつのひとつの出来事によるものなのです。
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、」。私たちが待ち望む救い主は私たちに喜びと解放をもたらしてくださる方です。私の思いや期待を越えて、主の憐れみは深く、恵みに富んでおられます。その来るべき方を、私たちのためにキリスト、救い主となってくださった方を、喜びをもってして迎えたいと願います。ヨハネによる福音書にはこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネによる福音書3章16~17節)裁くためではなく、一人一人を愛するために。これが神様の真理、私たちを立ちこしてくださる来るべき方がもたらしてくださる希望の光なのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。