「神の憐れみに覆われて」 マタイによる福音書2章13~23節 藤木 智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
2019年最後の主日を迎えました。この一年間の歩みも神様のお恵みとお導きの中にあったことを感謝します。世間はお正月の準備で忙しさの中にありますが、教会の暦では降誕節と言われ、1月6日の主イエスキリストの顕現日までがクリスマスであります。ですから、まだクリスマスは終わっていませんので、クリスマスの飾りつけもまだ片付けないのです。2019年最後の歳末礼拝からクリスマス物語の福音を聖書から聞いてまいりたいと思います。
ヘロデ大王による幼児虐殺事件が記されているクリスマス物語から御言葉を聞きました。クリスマスを喜びの内に迎えた私たちに驚きと戸惑いを覚える内容かと思います。ここにはクリスマスの喜びとは真逆に、現実の人間の悲しみや苦しみ、暗さ、闇深さが際立つ出来事が記されています。しかし、主イエスが飼い葉おけというみすぼらしい所にご降誕されたこと自体が、クリスマスの意味を明確にしているのです。クリスマス、主イエスがご降誕されたところは、私たちの悲しみ、苦しみ、嘆きの只中であり、そのことは主イエスのご生涯の目的、十字架の出来事へと結ぶついている出来事だと言えます。それは、天使がヨセフに告げた「この子は自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)という福音のメッセージが明らかになることなのです。
それで、この幼児虐殺事件ですが、イブ礼拝の時に、ルカによる福音書に記されている皇帝アウグストゥスによる大規模な住民登録が、具体的な歴史的根拠がないと学説では言われていると言いましたが、このヘロデ大王における、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」出来事も、具体的な歴史的根拠はないとされているようです。ただ、このヘロデ大王は、そのような大虐殺に近い政争を行ってまで、自分の地位を守ろうとした支配者像が記録されているそうです。
ヘロデ大王はローマ帝国にうまく取り入って、パレスチナ全域の支配権を認めてもらった当時のユダヤの王でした。彼が成し遂げた大きな功績と言えば、エルサレムにある神殿を大規模に改装して、豪華絢爛なものに仕上げたということでしょう。しかし、それはユダヤ民の信仰生活に貢献したということではなく、自らの権力の繁栄と安泰を願った象徴的なものでした。また彼は、自分の地位を守ろうとするために、政敵を排除し、そのためには身内をも次々に手をかけていきました。自分の妻や3人の子供たちも殺害したと言われている王様でした。都合の悪い邪魔者は容赦なく消していくのです。
主イエスの誕生は彼の地位を脅かす存在として映ったのでしょう。彼は自分にとって代わる救い主の誕生を恐れ、救い主誕生の知らせを3人の博士たちから聞いた後に、ひそかに排除しようと目論んでいました。しかし、博士たちがヘロデにそのことを知らせなかったので、彼は怒り、確実に主イエスを消すために、幼児大虐殺の命令を下してまでも、自分の地位を守ろうとしたのかしれません。ですから、ヘロデはただ残酷な人間というだけでなく、内心は自分の身を守るにはどうすればよいか、不安に不安を重ねた生き方をしていたのではないでしょうか。マタイの福音書はこの悲劇を敢えてここに記しました。
そして、マタイ福音書はヘロデ王による幼児虐殺事件を、17節から18節に記されている、預言者エレミヤの言葉と重ねました。もう一度お読みします。「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き/慰めてもらおうともしない/子供たちがもういないから。」ラケルとはアブラハムの孫のヤコブの妻の一人です。彼女はヤコブより先に亡くなり、ラマの地に葬られました。ベツレヘムがこのラマの地ではなかったのではないかという学説もあります。エレミヤは主イエスより600年も前に活動した預言者でした。当時イスラエルは北と南の2つの王国に分裂していて、この時代に南のユダ王国はバビロニアという外国に攻め滅ぼされてしまいます。その際、多くのユダヤ人、イスラエルの民がバビロニアに奴隷として連れて行かれてしまいました。いわゆる「バビロン捕囚」と言われる出来事です。バビロニアに連れて行かれる時の通過点がラマでした。もう故郷には帰ってこられないイスラエルの子孫たちの姿を、墓の中から先祖のラケルが嘆き悲しんでいると、エレミヤは言うのです。もう子供達、子孫は戻ってこないのだから、慰めてもらっても仕方ない、慰めすら拒否をするという真に深い嘆きであります。このラケルの慰めすら届かない深い嘆きを、マタイはここに記しました。
怒りと自己弁護に執着する権力者と、小さきものの深い嘆きの只中に主イエスはお生まれになり、この只中をヨセフに背負われて、移動し、ナザレでお育ちになり、宣教へと旅立たれていくのです。このヨセフも主イエスをおぶって、苦難の只中を歩まれました。いつ見つかって殺されてしまうか、おかしくない状況でした。ヨセフを導いたのは、天使のお告げであり、神様のみ言葉でした。主イエスもただヨセフに背負われているだけなのです。二人を導いたのは神のみ言葉のみでした。
幼児大虐殺の悲劇、権力者の前で、幼子イエスは無力です。しかし、それはこの世の力の前に力で対抗していくことではなく、この後、主イエスは人々と出会い、人々の苦難を、嘆きをご自分の苦難と嘆きとして担われ、最後は十字架にかかって殺されることに結びつけられているのです。今日の第一日課のイザヤ書63章8節から9節にはこう記されています。「主は言われた/彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった。彼らとは直接にはイスラエルの民を指しますが、それはまたヨセフであり、また現代に生きる私たち一人ひとり、そして現実におこる嘆きや苦難そのものである言えるでしょう。救い主はその現実から遠ざけると言うのではなく、それらを負い、担ってくださる方であると言うのです。マタイ福音書は幼児大虐殺と慰めすら届かない深い嘆きという現実の闇を描いています。そんな現実の闇の只中に、闇の中で光り輝くように、この現実の闇を背負われ、共に生きて歩んでくださる救い主イエスの姿を記すのです。
さらに、このマタイ福音書には、インマヌエルという言葉が最初と終わりに出てきます。「神は我々と共におられる」という意味の言葉です。ヨセフに告げられた天使の言葉と、復活の主イエスが弟子たちを宣教へと遣わされていく時に、世の終わりまで共にいると約束された言葉でした。主イエスは現実の苦難と嘆きを背負って、十字架に殺されて終わったのではなく、その先にある復活の命を明らかにされ、神はこの時にも生きて働いているおられるということを明らかにされたのです。
だから、嘆きは嘆きのままに、苦難は苦難のままで終わらないのです。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ15章55節から58節でこう言います。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しようわたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
主に結ばれる、それは主と共にあるということです。クリスマスは神と人とが結ばれる喜びの物語なのです。そのために主イエスが、インマヌエル「神は我々と共におられる」救い主として、私たちの只中に宿られ、幼子として、この世の中に、慰めなど見いだせないような現実の嘆きと苦難の只中に来てくださいました。
クリスマスの挨拶言葉として、私たちはメリークリスマスと言います。メリーとは古いアングロサクソン語から来ている言葉で、「傑出した」、「強力な」、「勇敢な」という意味の言葉だと言われています。強力な現実の苦難、嘆きがあります。マタイ福音書はこの厳しさをこのクリスマス物語を通して、私たちに伝えています。けれど、尚この強力な厳しさにも勝る神の救いの恵みと祝福を尚、マタイは描くのです。この幼子イエスの中に。その厳しさ、現実から逃れる救いではなく、この方こそが共に負われ、共に担ってくださる私たちの救い主であるということを。どんな嘆きや苦難の中にあっても、決して私たちを見捨てない神の愛と憐れみに私たちの人生は覆われているのだということを。私たちの現実の只中に、神の救いは主イエスを通して介入しているのです。その真実への信頼の内に、私たちはメリークリスマスと挨拶することができるのです。悲しみのクリスマス物語の只中にあって、主イエスは私たちと共におられ、共に担われ、負われ、歩んでくださる幸いを私たちに伝えています。新しい年を、そのような喜びと希望をもって、主イエスキリストに全てを委ねて共に歩みながら、迎えてまいりたいと願います。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。