ルカによる福音書14章7〜14節
説教: 粂井 豊 牧師
ルカによる福音書14章7〜14節
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
始めまして。札幌にあります札幌中央ルーテル教会の牧会の責任を負っています、粂井です。多くの方々が、初めてお会いするか、または、どこかでお顔を会わせていても、言葉を交わす機会をあまりもてていない皆さまがほとんどと思いますが、主にあって兄弟である皆さま方と、初めてこのようにして共に、礼拝をすることができることをうれしく思います。
今、この六本木ルーテル教会は、専任の牧師がいません。責任教職者である江本牧師を中心に、定年後の安藤牧師や五十嵐牧師のお手伝いをいただき、役員の方々や会員のみなさまの支えによって、毎週の礼拝が守られていることを、主にあって感謝いたします。教会の中心は、安息日を覚えてこれを聖とすることです。神さまは、モーセを通して十の戒めを与えられました。その戒めの一つに、安息日を覚えて聖とするようにと教えています。専従の牧師がいない中にあって、礼拝を守り支えていくことは大変なことと思いますが、毎週の礼拝を休むことなく続け、み言葉に生かされた歩みをしていただきたいと願っています。
さて、今日の福音書の日課は、イエスさまが招待受けた客が上席を選ぶ様子をごらんになって、その方々にたとえ話で語りかけられた内容の箇所です。
たとえは二つ語られていますが、ふたつとも、話としては、それほど難しいものではありません。
一つは、日本人には、むかしから教えられている、謙遜の美徳の精神に通じるお話しです。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て『この方に席を譲ってください』と言うかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。・・・・・・・・・。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と綴られているイエスさまのお話しは抵抗なく聴き取れます。
二つ目は、“招いてお返しできるような人々を招かないで、お返しできないような、身体にさまざまな不自由がある人々や、貧しい人々を食事に招きなさい”という無償の精神を示そうともしているように受け取れる話です。多くの人たちが、スムーズに聞き取り、良い考えだと思う話だと思います。けれど、実際に実行することは、なかなか困難なことです。イエスさまは、何故、このような話をされたのでしょうか。このような歩みをするようにと、教訓を語ろうとしたのでしょうか。人は、とかく、聖書の言葉を教訓として聴き取ろうとしがちなのですが、聖書は、私たちに教訓を示そうとしていません。
イエスさまを招待した人や、そこに招待された人たちの多くは、ファリサイ人や議員たちであると、今日の日課の前のセンテンスに記しています。いわゆる、社会的に立派であり、神さまのことを大切にし、それ故に、律法を大事にして歩んでいる人たちでした。彼らは、神さまが与えてくださった律法を忠実に守り、神さまに従って行くことによって、自分たちの国を再び復興できると真剣に思い、律法を守る事を実行していた人たちです。今日の聖句の後に記されている(18章)箇所では、一週間に二度断食し、神さまに従う正しい歩みを誠実に行うことができている事を感謝する、と祈っているファリサイ派の人の話しがあります。彼らは、そう祈るように、実際に、そのように歩んでいたのです。口先だけでなく、そう祈ることを実行する歩みをしていたのです。ある意味で、上席についてもおかしくない人たちです。その彼らに向かってイエスさまは語られています。
それは、上席に着くことを問題にしておられるのでなく、上席についてもおかしくないと思う、彼らの心の問題を問題にしておられるのです。彼らが、律法を誠実に守り実行しているという、自らの信仰による自己正当化と、それによる他者断罪に陥っている彼らの心の奥底にある傲慢さに矛先が向けられているのです。マルコ12章39節以下で、「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席に座ることを望み、云々・・・」と、記しているように、律法を守り、神さまに従う歩みをしているうちに起こってきている、傲慢さに囚われた律法学者たちの罪ということを問題にされているのです。
しかし、このファリサイ派の人や、律法学者たちの中に起こってくる、罪という心の問題は、彼らだけでしょうか。ルカ22章24節-27節を見ると、弟子たちも、自分たちのうちで、誰が一番偉いだろうかと議論した話しがあります。弟子たちでさえ、自分のことの評価にふりまわされたように、人は、皆、自分の中にある自分の中の、傲慢という罪の問題をもっているのです。
上席に着く、着かないという問題に対して、たとえ、末席に座っていたとしても、それは、末席に座る謙虚な人だと思われるためのものであって、心の奥底には、自分が他者に敬われようとする心に振り回されているのです。
私たちは、謙遜でありたいと思って、へりくだる中にあっても、自分を良く見せようとする欲に振り回されています。そのような驕る罪に振り回されていることさえも分からないでいるのです。
まことの謙遜の中で生きられるのはイエスさまだけです。私たちは、まことの謙遜の中に立っておられるイエスさまに出会い、そのイエスさまを通して、自分が、真の謙遜の中で立ち得ない、自分の欲に振り回される存在であることに気づかされるのです。そんな罪に囚われている私たちを、神さまは赦してくださっているのです。神さまに赦されて生きる中で、神さまに赦されているだけでなく、人にも赦されながら生きていることに気づかされるのです。
イエスさまは、“謙遜になりなさい、無償の愛の中にいきなさい”と、教え諭しているのではなく、まずは、まことの謙遜の中で生き得ない私たちの罪を明らかにされながら、その私たちを裁くのではなく、まことの謙遜の中で生きる者へと導こうとされているのです。