2010年10月31日 宗教改革記念日 「真理はあなたを自由にする」

説教: 五十嵐 誠 牧師

ヨハネによる福音書8章31〜38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館の銘板に書かれています。この図書館の「真理」とは「存在と思惟の一致としての普遍妥当的知識,あるいは存在と行為の一致としての真実の」ことを言います。哲学的な真理です。アリスとテレスは「在るものを在ると言い、在らぬものを在らぬと言うことが真理である」と言っています。。

しかし、聖書では・・旧約聖書では、ヘブル語では「真理」または「真実」「まこと」などと訳されています。真実であられる神の御性格(詩57:10,117:2)を表し、また、神のみことば(詩119:160)、神の戒め(または仰せ)(詩119:151)、神のさばき(詩19:9)の真理性、真実性を表現しています。新約聖書では、ギリシャ語ですが、・・真理は救いのために啓示された神のみこころとしての「福音そのもの」を意味しています。「福音の真理があなたがたの間で常に保たれる」(ガラ2:5)ように書いています。また、「真理はイエスにある」(エペ4:21)。真理はイエスの中にあるのです。さらに、このイエスにある真理に私たちを導いてくださるのは「真理の御霊」(ヨハ14:17,15:26,16:13)である聖霊でもあります。さらに,この救いを宣べ伝える教会の正しい教義が真理と呼ばれています。(ヘブ10:26,Ⅱペテ1:12)、教会が「真理の柱また土台」(Ⅰテモ3:15)とも呼ばれています。所で、イエスの言う真理とは何かです。

私はイエスの「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」から、私は「イエスご自身とその言葉」であると思います。それが人々を自由にすると言うのです。

自由とは何か。自由を巡って議論があります。哲学、社会、政治、経済、文学、宗教での論議もあります。辞典を引きますと、勝手気まま、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと、個人の権利(人権)が侵されないこと、自身の立てた規範に従って行動すること、自分の思いどおりにできることなどです。私たちの自由とは、何ものにも束縛されないで、自分の思い通りに出来ることが大きいと言えます。中世から近代へは人間の束縛から自由でした。宗教的な束縛からの自由でした。近代人とは神を脇に追いやるものでした。人間中心です。イエスの譬えの、あの放蕩息子のように、自分の思う通りに生きるのが自由と思います。いわゆる、自主独立を果たした人間が、自由人だと言います。

イエスの言う自由とは・・「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」・・イエスが、イエスの言葉が与える自由とは何であろうか。ユダヤ人たちは誤解して、自分たちはアブラハムの子孫だ、神に選ばれた民だ、律法や儀式制度もある、自分たちはイスラエルの民で、神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は自分たちものである」(ロマ9:4)と言って、「今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」と言う民族的な誇りが、イエスの言葉に耳をふさがせる結果になりました。

*アブラムという意味については,アブは「父」を意味し,アブラハムとは「多くの国民の父」という意味で、カナンの地目指して生れ故郷であるカルデヤのウルを出発した。ユダヤ人の祖先で、信仰の父として尊敬されていた。

イエスの言う自由とは、そういう「 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢(ごうまん)、誇りと言う「罪」・・人間に巣くっている強力な、支配の力からの・・からの自由・解放」

を意味しています。この罪の束縛からの解放をもたらす方としてイエス・キリストが示されています。

パウロという使徒は罪についての自覚を語っています。私たちはそれほどには感じない点があります。彼は「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。「自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。彼は叫びます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。そして、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。と言い、救いがイエス・キリストから来ることを確信して、神に感謝を表しています。(ローマ7:14ー25)。

今日は教会暦では「宗教改革記念日」です。世界のプロテスタントの教会の、そして特別に、ルーテル教会の記念日です。世界史で学んだと思いますが、プロテスタント教会がローマ・カトリック教会と、教義の相違から、分かれたことを覚えて守ります。主人公はマルチン・ルター(ルーテル)というドイツの神学者で牧師でした。時は1517年10月31日ヴィッテンベルクの城教会の扉に、あの有名な「95箇条の提題・・贖宥(しよくゆう)の効力を明らかにするための討論」を張り出しました。その日がルターの改革の第一歩になりました。ルターは「免罪符」の発売を取り上げて、真のキリストの救いの福音を回復しようとしたのでした。

*しょくゆう・贖宥(indulgence)。カトリック教会で、すでにゆるされた罪の長期的な償いを、教会の権能をもって免除すること。

*免罪符・・贖宥しょくゆうのしるしとして中世カトリック教会が発行した証書。ローマのバチカンの大聖堂を修理するために売り出されたのが免罪符。贖宥状。賽銭箱にお金が入り、チャリーンと音がした瞬間、死者の魂は直ちに、天国に入るという宣伝文句が有名。

世界中におおくの宗教と信仰があります。千差万別・いろいろな種類があって、その違いもさまざまです。しかし、ただ、二つの宗教・信仰しかありません。世界の聖典・教典を翻訳したマックス・ミュラーという学者はこう言いました。それは「これこれを行いなさい。そうしたら救われます」と、「信じなさい。そうしたら救われます」だと。前者を「律法の宗教・業の信仰」といい、後者を「福音の宗教・信仰の宗教」と言います。つまり、「律法」と「福音」です。もちろん、キリスト教は唯一の福音・信仰の宗教です。じゃ、なぜ宗教改革が生じたかですが、当時のカトリック教会が福音を変えてしまったからです。問題は、どうしたら、その恵みの神を持つことが出来るかですが、・・この問は今月の31日の「宗教改革記念日」の中心テーマでした。マルチン・ルターは「如何にして私は恵み深い神を見いだすこと出来るであろうか」(Wie Kriege ich einen gnadigen Gott?)と言う問を抱いていました。ルターは修道院で、救われるためにはキリストのようになるように努力し、夜も眠らず、断食をし、祈り、自分の体を折檻し苦しめて、自分が忠実にかつ簡素に生き続けるように努めた」のでしたが、こんな方法ではキリストを見いだすことが不可能であり、キリストは、なおも、「あなたは罪と死に留まっている」と言われることに気がついたのでした。ルターは苦しみました。

*マックス・ミュラーという宗教学者は「東洋聖典全集」51巻)と言う東洋の宗教の教典を翻訳した本を出しました。彼は教典を訳して分かったことは、宗教には「これこれをせよ!そうしたら救われる」というのと「信じなさい、そうしたら救われる」とう二つしかないことだと。つまり、「律法」と「福音」です。

16世紀のカトリック教会は救いの道をコンクリートできっちりと固めていました。天国への階段を整えて、救いのシステムを作りました。信者の天国への保証を三つ階段で設けました。難しくなりますか簡単に言いますが、第一段は自助・selfhelp・すなわち善行による救いでした。「天は・神は自ら助ける者を助ける」です。第二段は「聖人の功績」でした。聖人とはカトリックでは特に信仰と徳にすぐれた信徒として崇敬され、自分の救いに必要以上の善行を果たした者で、その余得は教会で管理し、必要に応じて分配されるものでした。第三段は神と人が神秘的に合一することでした。日本にも「われ主に、主われに ありてやすし」という賛美歌があります。(旧賛美歌361)。これ以上のさいわいはない。

しかし、ルターはこの三段で悩みました。第一はどれだけ善行・よい業を充分に積まねばならないかでした。ルターは厳格に戒律を守ったので「自分は天国に入れただろう」と言いましたが、しかし、彼は充分な善行を確信できなかった。だから、彼は「キリストは恐ろしい方」と言っています。第二は聖人の余禄を受けるためには「懺悔」をすることが必要でした。しかし、ルターは人は果たして、自分の罪を全部知ることが出来るか、そうすると「懺悔」から「赦し」の道は閉ざされてしまいます。救いの保証はありません。絶望です。第三は「果たした罪深い被造物の人間が、全能の神と一つになれるか」という疑念でした。ルターは絶望した。ルターは良心的な人間で、罪に対して鋭い感受性を持っていました。そんなかで彼は、教会が失っていた宝を・・福音を再発見することになります。それは何処に?

福音の再発見。それは聖書でした。彼は聖書を深く学び、遂に「イエスを信じる信仰」と言う宝を回復しました。その中で、一つの出来事が起きました。それは「免罪符」問題

でした。聞いた言葉でしょう。免罪符は正式には「贖宥状(しょくゆうじょう)」と言います。英語では(indulgenc・ラテン語indulgentia)です。それはシステムの第二段の「聖人の功績・余得」から考えられました。ローマのヴァチカン・聖ペトロ大聖堂の増改築と修理で発行されました。その余得を原資に売り出されました。「贖宥状」とは「罪を赦す札・書面・証明書」です。ルターがこれを批判して「宗教改革」が始まりました。ルターは95箇条27条に当時のカトリック教会の「あなたの金が、賽銭箱に入り、“チャリン”と音がしたとき、煉獄(天国の手前で苦しんでいる)の魂は天国に入る、さー、さー買った」という宣伝文句を書いています。驚くべきことです。さらに、今までの罪ばかりか、これからの罪も、全部帳消しになるのだと説教しました。お金が救い主です。これは売れますね!

ルターが聖書から(再)発見し、ルーテル教会が宗教改革の精神としている三大原理があります。「信仰のみ」、「恵みのみ」、「聖書のみ」ですが、この教会の正面の壁面にあります。イスの背中のタイルにもあります。ラテン語で「Sola Fide」、「Sola gratia」、「Sola Scriputura」です。英語では「Only Faith」、「Only grace」、「Only Scripture」です。ルターは「律法の行いか信仰か」に対して、律法の行いでなく、信仰によるというのは、「信仰のみ、恵みのみ」ということであり、それは「聖書」しかも「聖書のみ」に由由来すると言ったのです。

ルターはキリストを小さくしたり、キリストを無視することに反対しました。ルターは聖書から見い出した教会の宝・福音を示しました。それが今朝の第二聖書日課のパウロの言葉「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義・神の愛と救いです。わたしたちは、人が義とされるのは(救われるのは)律法の行いによるのではなく、信仰による」の福音です。福音とは喜びの知らせです。パウロはローマ人への手紙3:22以下でも同じように書いていますが、今日は分かりやすい意訳(原文の一語一語にこだわらず、全体の意味に重点をおいて訳す)した文章を紹介します。リビングバイブルという翻訳ですが。「しかし今や、神は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神のおきてを守ろうと努力するような道ではありません。神は どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです」。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義(救い)であって、すべて信じる人に与えられるものである」私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、恵みにより、無償(無料・信仰)で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです」。この福音をルーテル教会は受け継いでいます。それで、宗教改革記念日を守るのです。

ルターの再発見した福音は救いのシステムを簡略化したと言えます。ローマカトリック教会が築いた救いのシステムを破壊しました。イエスは救いの近道を造りました。カトリック教会はイエスを非難しました。パソコンでショートカットというアイコンがあります。それはそのアイコンをクリックするだけで、ソフトが立ち上がります。イエスは救いの近道・ショートカットを・・信仰による救いという道でした。それは証拠があります。

イエスが十字架に」付けられた時、二人の犯罪人も一緒に付けられていました。「ルカ24:39-43」です。十字架は三本です。状況は以下のようでした。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた」。

イエスが同僚をたしなめた犯罪人に「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いましたが、そのことによって「救い」を直ちに保証したのです。犯罪人は「御国においでになるとき」という言葉で、イエスがメシア・救い主であることを認めていたからです。(*「み国と「神の国」です)。このイエスを弁護した犯罪人は、心を入れ替えて善行に励んだから、救いを保証されたのではないのです。この犯罪人は証人です。人間は神に立ち帰る時、それは悔い改めてですが、罪が赦され救いに招き入れられることを、彼は証ししているのです。美しい場面です。その証し聞きたいと思います。

今朝、イエスは「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われています。自由にする・・自分は思い通りに生きていると思っています。信仰なんか関係ないとも。在る学者は宗教は要らないとさえ言います。しかし、宗教が示す人間の生き方・人間を人間として生かす宗教は必ず必要なのです。生きると言うことは実に多種多様な経験をするものです。信じる宗教を持つことは、どんな時でも、恐れず、真実な生き方が出来ると思います。

難しいことは言いませんが、人生を生きるとき、どんなときでも、信仰を持ち、信じて生き、希望を持って、自由な喜びを与えるのは「律法」か「福音・イエス」かを、見つめる日としていただきたいと思います。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」と言われました、その真理をどこにみいだすでしょうか。

「真理」を考え、見いだす日となるように祈ります。

アーメン