2011年1月30日 顕現節第5主日 「山の上にある町」

マタイによる福音書5章13〜16節
説教: 北川 逸英 神学生

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
マタイによる福音書5章13〜16節


「あなたがたは地の塩である」山の上でイエスさまは弟子たちに対して語られました。塩とは、一体、何を意味するのでしょう。料理にとって塩は大切なものです。私たちは塩気のない料理を味気なく感じます。しかしまた、塩気の強い料理は食べることが出来ません。塩味を決めることが、料理人の大きな仕事です。そのために料理人は、さまざまな塩を、その食材と調理法に合わせて選びます。海の塩、山の塩、塩はそれぞれ、色も味も多種多様であります。料理の塩加減は、食べる時の温度と、食材の口触り、そして食材全体の甘さや、辛さ、酸味、苦み、全体の調和で決まります。そして塩加減は、使う塩の種類によって、大きな違いが出ます。海から取られた塩でも、その海域や製法によって様々な味の違いがあります。岩塩も、その採取場所によって、色も味わいも様々です。料理人は作る料理に合わせて、ふさわしい塩を選び、適量を、適所に加えます。塩は素材に溶け込んで働きます。肉や魚に当てる塩は、味付けだけでなく保存の働きもします。塩は他の食材を引き立てる存在なのです。塩だけでは料理になりません。また塩は毒性も持っています。定量以上の塩を取ると、生物は死にます。しかし全く塩を取らなければ、また私たちは動くことが出来ません。塩は私たちの生命に深く関わるものなのです。

 

塩が大切なものであることはわかりました。しかし、いまや私たちはいながらにして、上はヒマラヤ山脈のマグマ塩から、下は死海の海底にある塩まで世界中のさまざまな塩を買うことができます。では「あなたがたは地の塩である」とイエスさまが言われている、地の塩とはどんな塩なのでしょう。どうも私は消費文化に毒されたようです。「地の塩」とは、商品ブランドのように、他と区別する言葉ではありません。イエスさまは地の塩を、世の光と並べて言い表されます。それはこの世のどこにでもある、しかし大切なものです。そして互いに個性を持ちながら、その場で用いられるために、神さまによって用意されたものです。そしてあなたがたはそれであると、イエスさまが私たちに語られたみ言葉です。

「地の塩」は特別などこかの場所で見つかるものではありません。どこの家にも置かれている、普通の塩壺に入れられた塩なのです。食塩は器に入れて置かないと湿気ってしまいます。そして使われる時に取り出されて、食材と混ぜ合わされるのです。ですから塩が料理に用いられる時には、塩が素材とよく解け合うことが大切です。それが塩の役目です。ですから「地の塩」であるとは、調和をあらわします。塩がいつまでも固い結晶のままでは、口触りも悪く、味も強過ぎます。塩は自らの形を消して、全体にまんべんなく行き渡らなければなりません。そして素材の中に染み込んで鮮度を保ち、その持ち味を邪魔することなく、引き出す働きが求められます。

しかし光は違います。光は闇の中をまっすぐに進みます。光が闇に溶け込んでいくことはありません。そしてそこに置かれた物とぶつかって、その形や色をはっきりと照らし出します。闇と光は混じり合うことはありません。光は闇に向けて放たれていきます。そして闇を切り裂いていくのです。ですから、ともし火は燭台の上に置かれて、すべてを照らし出します。当時のともし火はオリーブオイルの中に灯芯を置いて、火を付けていたようです。そしてこのともし火は燭台の上に置かれます。この世の光をイエスさまは「山の上にある町」と表現されました。そして「山の上にある町は隠れることができない」と言われるのです。山は聖なる場所です。人はそこで神と出会います。モーセもアブラハムも、山の上で神と出会いました。山の上にある町とは聖なる光のある場所、私たちのこの教会です。聖霊によって集められた教会こそが、山の上にある町なのです。

私がこの教会にはじめて来た時は夜でした。翌朝カーテンを開いてけやき坂を望んだ時、「ここは山の上にある」そのように思いました。この六本木教会こそ「山の上の町」であります。60年前、主はこの地を選んで、聖霊の働きによって人々を集められたのです。それは今ここにおられる方々皆様が、今日ここで読まれた「地の塩、世の光」となられるためです。「山の上にある町は、隠れることができない」そのように主は言われます。教会は隠れることができません。それは光を放って、輝いているからです。教会の中に灯された聖霊の火は、消えることがありません。

確かに私たちは今、試練の中にあります。様々な思いもよらない出来事が、私たちを取り囲み、私たちは不安になります。闇が周りを囲んでいる。いっそどこかに隠れようか。そのように思うことすらあります。しかし主は言われます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」

主は私たちに信仰をあたえて下さいました。主は私たちに希望を与えて下さいました。そして主は私たちに愛を与えて下さいました。私たちがともし火として、主によって燭台の上に置かれるのです。すでにみことばによって、信仰の火はともされています。私たちに新しい希望も示されています。私たち教会はいま互いに愛をもって仕え合うことを、主によって求められております。そしてこれこそが「家の中のものすべてを照らす」とイエスさまが、私たちに与えられた約束の言葉です。いま見える力が確実に働いて下さるのです。そして主は言われます。

「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」

私たちの光とは何でしょう。それは私たちのイエス・キリストです。私たちの立派な行いとは何でしょうか。それは私たちのイエス・キリストへの服従です。私たちのイエス・キリストの十字架による救いの業です。これにより私たちの主イエスは「あなたがたの天の父を、人々があがめるようになる」と言われています。私たちはこのみことばによって、もっと大胆に、私たちの光であるイエス・キリストを、人々の前に輝かせて行きましょう。私たちは塩のように、この世に溶けて行き用いられるのです。私たちの中心にはいつでも、イエスさまのみことばがあります。それを説き明かす説教と、見える形で分かち合われる聖礼典があります。私たちは今、屋根に輝く十字架の下に集まって、一つのテーブルを囲み、聖餐の喜びを共にします。主よどうかこの教会を祝してお守り下さい。私たちの教会がこの試練の時を乗り越えて一つとなり、さらに大きな発展を遂げる事ができますように、私たちに宣教の賜物をお与え下さい。私たちがただ、主を信頼し、いかなる時も、愛をもって互いに仕え合う群れとしてください。そして私たちのひとりひとりをあなたの道具として用いてください。あなたからの光をお与え下さい。