2011年8月7日 聖霊降臨後第8主日 「毒麦たとえ話」

マタイによる福音書13章24〜35節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

マタイによる福音書13章24〜35節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所です。このマタイ福音書13章には「天の国のたとえ」が集められていますが、きょうはその中から「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」の三つを読みます。最初の「毒麦のたとえ」はマタイ福音書にだけ見出されるたとえです。

「天の国のたとえ」といいますのは、これらのたとえは《天の国は次のようにたとえられる》というような出だしで始まるので、そう名付けられています。この福音書を書いたマタイ先生は「神」という言葉を大事にとっておくために、ふつうは「神」と使われるところを「天」と言い換えるという特徴があります。ですから、ふつうは「神の国のたとえ」と呼ばれます。

身近な物事を例にとって、よく知られていることにたとえて、神の国のことを伝えようとするのですが、イエスさまのたとえは、神の国と言っても、将来の天国の楽園状態を教えようというわけではありません。いま現在、イエスさまご自身がこの世に来られたことによって神のこの世に対する働きかけが始まっているということを伝えようとしています。きょうの福音の最後に《わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる》とありますが、この《天地創造の時から隠されていたこと》とは、イエスさまを通して神の救いの働きが始まっていることを指しています。「神の国のたとえ」を聞いて、そのことを悟るかどうかがカギになります。

さて、「毒麦のたとえ」です。毒麦とは、外見が小麦そっくりの雑草で、麦畑にはびこります。それ自体が毒をもっているわけではありませんが、毒をもった菌が付着するので毒麦と呼ばれます。このたとえ話の筋は、こうです。ある人の畑に、敵が毒麦をこっそりと蒔きます。僕(しもべ)たちが気づき、すぐに抜き取ろうとしますが、主人は《いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい》と、収穫の時期を待つよう指示します。すぐに抜けば根が絡んでいるので良い麦も抜いてしまうおそれがありますし、あまりよく似ているので毒麦のつもりで間違って麦を抜いてしまうかもしれません。しかし、生長しきったときなら穂の形で見分けがつくので完全に選り分けることができるのです。

麦と毒麦が共存している畑、これは私たちの暮らす社会の現実そのものです。どうにかしなければなりませんが、世の中は善と悪が白と黒にはっきりと分かれているわけではなく、グレーゾーンが幅広く占めています。それにそもそも、他人を善か悪か判断しようとする自分自身が麦と毒麦が混ざった畑であることも考えなくてはなりません。ある人を悪と決めつける私の視点は果たして正しく公平なものでありうるでしょうか。また毒麦は育つあいだに良い麦に変身することはありませんが、人は育つあいだに悔い改めて本心に立ち帰ることができます。人は変わりうるのです。ことわざにも「角を矯(た)めて牛を殺す」とあります。牛の角を直そうとしてあまりいじり回すと、牛自身を殺してしまうことになりかねません。西洋にも「産湯と一緒に赤ん坊を流すな」というのがあります。趣旨は同じで、あまりに熱心に改革や組織の改変や行動をしすぎると、不必要な要素を取り除くうちにどうしても必要な要素までもとりのぞいてしまうことになりがちです。

たとえの最後に、主人が《刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう》、と言っているように、最後には神さまの審判があることは確かですが、イエスさまの関心は、この主人の取る姿勢を述べることによって、ご自分の身を通して始まったいま現在の神の国の働きを伝えることにあります。いまは裁きの時ではない、いまは寛容の時、忍耐の時だと言っているのです。ここに、誰をも切り捨てない神の国のあり方、そして《徴税人や罪人の仲間だ》(マタイ11章9)と非難されたイエスさまご自身の生きる姿勢を見ることができます。私たちはどうしたら世の中を良くしていくことができるのか、いつもイエスさまの生き方の中にその答えを探していく者でありたいと思います。

ところで、このたとえは、教会を考えるときにも適用されて、500年ほど昔の宗教改革の時代には改革者たちを二分することにもなりました。一つのグループは、当時の社会と教会の道徳的堕落ぶりを否定し清めようとするあまりに、教会を否定し、幼児洗礼を否定して、自分たち真の信仰者だけからなる新しい教会を作ろうとしました。他のグループは、道徳よりも信仰の質の改革を目指しました。改革の旗印は「恵みのみ・信仰のみ・聖書のみ」ということでした。そして現世にある教会つまり目に見える教会は、麦と毒麦の、信仰者と不信仰者のまじりあった群れである現実に耐えていくべきと考えました。なぜなら、誰が信仰者であり、誰がそうでないのかは、神のみが知ることであるからです。《主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ》(エフェソ4章5)です。教会を割ることには反対でした。これがルーテル教会の立場です。

イエスさまの神の国運動に加わった人々は、世の権力者や金持ちではありませんでした。むしろ彼らはイエスさまの運動をつぶしにかかったのです。イエスさまと弟子たちは、貧しく小さな群れに過ぎず、神の国からほど遠い姿でした。そんなグループの運動が果たして世の中を改善することができるでしょうか。このような疑問に答えるのが、次の二つのたとえです。

《天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる》。からしは地中海沿岸原産で荒れ地などに自生している野草ですが、栽培もされています。種子を挽いて粉にしたものを料理用のマスタードとするほか、野菜またはハーブとしても利用されます。このたとえでは実際のからしよりも誇張されていますが、始まりの小ささと結果の驚くほどの大きさが対照されています。「空の鳥」は異邦人、異教徒を指しています。ガリラヤの片隅で始まった小さな運動を神さまは将来かならず外国人もが参加するように大きく育てるというイエスさまの確信、弟子たちへの激励です。

次のたとえも同じです。《天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる》。パン種とは、パンの製造に使用する酵母、イーストのことです。小麦粉にイーストを混ぜたならば、イーストは消えてなくなってしまうかのようです。私たちは吹けば飛ぶような小さな群れにすぎません。しかし、ほんの少量のイーストが粉に働きますとパン生地全体が膨らみます。3サトンは換算すると38.4リットルですから、ずいぶん大量のパンができあがることになります。これはたぶん、世界の東西南北から集まった救われた者たちの、天国における大祝宴に供されるパンを象徴しているのでしょう。

東日本大震災のような途方もない大きな出来事に直面したら、私たちの愛の業、募金や援助はまったく無力に感じられます。しかし、神さまが私たちの小さな努力を、神の国が成長していくことの中に用いてくださると信じてよいのです。イエスさまの「神の国のたとえ」は、そう私たちを励ましてくれているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン