ヨハネによる福音書10章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。
ヨハネによる福音書10章1〜16節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
復活祭後の第三主日は、中世以来、「良い羊飼いの主日」と呼ばれて、この聖書個所が読まれてきました。私たちはその伝統を受け継いで、毎年、この日にはイエス・キリストが「良い羊飼い」であるという福音を聞きます。復活していまも生きておられるイエスさまと、今のわたしたちとの関わりを、羊飼いと羊の関係の比喩を助けとして、より深く味わおうとするわけです。
《わたしは良い羊飼いである。》
イエスさまは11節と14節でこう繰り返していますが、「わたしは○○である」というイエスさまの自己紹介は、ヨハネによる福音書にいろいろ出てきます。6章に「わたしはいのちのパンである」とあり、8章に「わたしは世の光である」とあり、11章に「わたしは復活であり、いのちである」とあります。まだほかにも、14章の「わたしは道・真理・命である」とか、いろいろな表現が出てきます。これらは、単なる自己主張ではなく、そのときそのときの出来事に即したイエスさまの自己紹介であり、そのイエスさまに出会った人々の信仰告白でもあるのです。
《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。》
羊飼いと羊の比喩では、羊飼いの羊たちに対する愛情、羊たちの羊飼いに対する信頼が、つまり相互の親密な交わりが表されています。羊飼いと羊の群れはパレスチナの人々には身近な光景で、その比喩の意味することはすぐに分かったと思います。ところが日本では羊が飼育されることは少なく、なじみのない話になってしまいます。犬好きと犬、猫好きと猫との関係に置き換えてみたら、その親密さ想像できるのではないでしょうか。それはともかく、この比喩は当時の羊飼いの実際の姿が背景にあって話されたものです。
当時のパレスチナでは、羊は広い牧場の柵の中で飼われていたのではありません。羊飼いは遊牧生活でありまして、50頭から100頭の羊の群れを、草のあるところを求めて旅していくのでした。羊は弱い動物なので、羊飼いは野獣や盗人から守りながら、草のあるところに導くのでした。夜になると、各地に設けられた囲いの中に入れます。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊たちが混じって夜を過ごしたということです。朝になると、囲いから出すのですが、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いの方でも、一匹一匹の羊を見分けることができたそうです。
羊飼いはラテン語でパストールと言います。それは、「家畜に餌を与える人」を意味しています。それがのちには、教会で牧師に対する呼び名となり、ひとの魂を配慮する人を意味するようになりました。
羊飼いは羊の群れを導く強い指導力と一匹一匹の羊の状態を見分けで世話をする愛情を表す象徴です。それゆえ、古代オリエントでは、政治的な指導者、王は自分が羊飼いとして表されることを好みました。旧約聖書でも王や指導者を指す場合が多いですが、また先ほど交読した詩編23編のように、羊飼いは神さまを象徴することも少なくありません。そのように神さまを象徴する言葉を、イエスさまに適用しているのが、この個所です。
《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》
イエスさまが良い羊飼いだという根拠は、イエスさまが神さまと愛と信頼の関係において一体であることにあります。この一体の関係に基づいて、イエスさまと信徒たちの愛と信頼の関係が作られるのです。良い羊飼いは他にもいるかもしれませんが、神との一体のゆえに、イエスさまは唯一無比の良い羊飼いだと言えるのです。
《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。》
15節にもありましたが、11節にも羊のために命を捨てるのが良い羊飼いだということが言われています。これは、イエス・キリストの十字架の意味を知らないと理解できない言葉だと思います。実際の羊飼いは、強盗に殺されてしまっては、羊を守れません。ですから、これは、イエスさまの死が、羊たちの運命をより良くしたというイエスさまへの信仰が根底にあって言われているのです。
《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》
これは、マルコによる福音書10章45節の言葉ですが、弟子たちが、イエスさまは私たちのために死んでくださったのだと信じたことを伝えています。
《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。》
これはコリントの信徒への手紙一15章3~5節の言葉です。あとからクリスチャンになったパウロは、先輩たちから、「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と教えられたと言っています。
《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。》
長い引用になりましたが、これは、ローマの信徒への手紙3章21~26節の言葉です。イエス・キリストの十字架上の死という謎を、イエスさまの弟子たちは、古代世界ではどこででも行われていた動物犠牲の祭儀にかたどって理解し、それはわたしたちの救いのためであると受けとめたのです。
このような信仰を背景にすると、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という意味が分かってくるでしょう。
《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》
マルコによる福音書6章34節には、こういう言葉があります。良い羊飼いであるイエスさまは、飼い主がいない羊のように、道に迷ったり、危険にさらされたりしている私たちの有様を見て、深く憐れんでおられます。
《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》
イエスさまは、私たちが羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いに従うように招かれています。教会は、イエスさまが私たちを彼と共に生きる羊にしてくださることを知るところです。この良い羊飼いイエスさまを自分の人生に迎え入れてください。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン