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2009年6月14日 聖霊降臨後第2主日 「新しい生き方を」

マルコ2章18節~22節

 
説教  「新しい生き方を」  大和 淳 師
さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人が断食していた。彼らは来てイエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのですか?」
イエスは彼らに言われた、「婚宴の間にいる子たちは、花婿が一緒にいるのに、断食することができようか? 花婿が一緒である限り、彼らは断食することはできない。
しかし、花婿が彼らから取り去られる日が来る.そうなれば、彼らはその日に断食するであろう。
だれも、縮ませていない布切れを古い衣に縫いつけはしない.そんなことをしたなら、継ぎ当てた新しい布切れは、古い衣を引き裂き、破れはもっとひどくなる。
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない.そんなことをしたなら、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋も駄目になる.新しいぶどう酒は新鮮な皮袋に入れるものである」。

  今日からまたマルコ福音書の御言葉に耳を傾けてまいりたいと思いますが、ここには断食ということが出てきます。そもそも旧約聖書のレビ記には、年に一度、贖罪日の時に断食することだけが規定されていましたが、イエスの時代の頃には、今日の箇所にあるファリサイ派の人々は週二度、月曜日と木曜日に断食していたようです。またルカ18章には、そのことを誇りとするファリサイ派の人々のことが書かれています。また同じく挙げられている洗礼者ヨハネの弟子たちもやはり厳しい断食していたようです。そもそも洗礼者ヨハネの教えは、何より悔い改めでしたが、その悔い改めの行為として、断食を行っていたのでしょう。これもマタイ11章18節を見ますと、その彼らの断食を評して、「悪霊につかれている」と人々が言っていたようです。つまり、正気の沙汰ではないと思われたほどであったのでしょう。

   ところが、イエスは、そのように断食を弟子たちに課さなかったし、自らも断食の習慣を持とうとはされなかったようです。それどころか、今日の直ぐ前の箇所にあるように、むしろ、食事を絶つのではなく、共に食事をする人でした。ですから、先のマタイ11章には、〈ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。〉、イエスについて、こう人々が評していたと記されています。ですから、ここで「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」、というこの問いも、非難の意味がこめられていたのかも知れません。つまり、弟子たちのことを取り上げつつ、しかし、そこには徴税人や罪人の仲間であるイエスに対する非難を遠回しにしているのでしょう。

   しかし、それに対するイエスの答え、それは、実に意表を突くたとえでした。〈イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。〉(19-20節)。今は、いわば結婚式、婚礼の真っ最中なんだ、このイエスと共にある人々は、その婚礼の客なんだ。だから、どうして、そんな時に断食する必要があるだろうか、と。そして、しかし、「花婿が奪い取られる時が来る」。その時には、嘆き悲しむであろう、と。

   この「花婿が奪い取られる時」とは、ご自身の十字架にかかられることであると言います。それは、この言葉はイザヤ書53章8節の「私の民の背きの故に、彼が神の手に掛かり、命ある者の地から絶たれた」の預言、この「奪い取られる」とイザヤ書の「絶たれる」は、ギリシャ語では同じ言葉なので、つまり、十字架にかかられたことを意味しているというのです。そこから、キリスト教が断食をするのは、キリストの十字架にかかられた日、聖金曜日である、マルコは、そのことを教えているのだ、と解釈する人もいます。しかし、ここで明らかなこと、それはこの主イエスの言葉は、断食をするかしないか、あるいは、いつするのかということではなく、何よりこのキリストと共にあること、共に生きること、キリストと共に喜び、そして、キリストと共に苦しむこと、それがご自分の弟子たちであることを語っている、そう言っていいでしょう。言い換えれば、わたしたちの喜びも苦しみも、このキリストから来るのだということです。パウロは、フィリピの手紙の中でこのことを端的に次のように言います。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1章29節)。苦しむことも、恵みとして与えられているだよ、わたしたちは、とパウロはそこで語りかけています。喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、と。

   しかし、苦しいときに、それは恵みとして与えられている、わたしどもはなかなかそう思えない、いえ、苦しみが恵みと思えないから苦しむだ、そう言っていいでしょう。だから、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている、とは到底思えない、かえってつまずく、そう言っていいでしょう。けれども、いずれにせよ、そんなわたしどもの思いは、いわば実は自分は変わろうとせず、言うなれば、自分ではなく、神の方を変えようとする、あるいはまた自分の周囲、他者や環境だけが変わることを押しつけてようとしているわたしであると言えるかも知れません。そして、この自分を変えようとしない、変えたくない、その背後には、実際自分を変えようとしても、なかなか自分の思うとおりには変われない、変わらなかった、そういう思いがあるからでしょう。

   だから、ここで主イエスは〈だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉、そう言われますが、この言葉を、決して変わらない、まだ〈古い革袋〉であるわたし自身が、み言葉、イエスさまという〈新しいぶどう酒〉を受け入れてもだめになるだけだ、そんな意味にしかとれないわけです。つまり、〈新しい革袋〉になれない自分なのだから、もし、このことを真剣に受け取るならば、どうしたら〈新しい革袋〉になれるだろうと悩み苦しむ以外にないわけです。しかし、それは、自分、わたしの思い通りに変わりたい、つまり、自分で自分の思い通りに変わろうとしているだけなのです。そうして、そのような自分の弱さ、貧しさ、惨めさ、それはわたし自身、わたしのものではない、そう思い続けているからではないでしょうか。

   ところで以前、渡辺和子先生の御著書からニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に残されているという、一人の患者が書いた言われるというこんな詩を知りましたが、これは紹介したこともあるので、ご存じの方もおられるかも知れません。

   〈大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと 病気を賜わった/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに/得意にならないようにと 失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いは すべて聞きとどけられた/神の意に添わぬ者であるにもかかわらず/心の中の言い表わせない祈りは/すべて叶えられた/私は 最も豊かに祝福されたのだ〉それで、この詩を記した人は思わぬ病や事故で体が不自由になってしまったのでしょうか。かつて健康を願い、成功と賞賛を求めたこの人の祈りは、求めたものは一つとして与えられなかったのに、しかし、神の意に添わぬわたしなのに、わたしの心の中の願いはすべて叶えられたと言うのです。それで、〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ〉というその〈新しい革袋〉とは、結局、わたしが想い描く立派な自分、有能である、常に正しく、あるいは強く、他から尊敬されるような、そういう新しい自分なのではなく、まことに弱さ、貧困、あるいは病気、失敗・・・そのようなわたしである、いや、それを通してこそ、神は恵みをわたしに与えてくださる、ということ ― 喜びも苦しみも、このキリストから来る、いやそれどころか、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている。だから、そのように自分を、わたしを変える、変えてくださるよう祈る、まことにそこにこの十字架のキリストが立っておられる。そのことが〈新しいぶどう酒は、新しい革袋に〉ということである、そう言えるのではないか、と思うのです。〈新しいぶどう酒〉、〈新しい革袋〉とは〈永遠に変わらないぶどう酒〉、〈永遠に変わることのない革袋〉、そう言い換えてもいいでしょう。と言うのも、聖書において、新しいということ、これはもちろん、今までなかったと言う意味で新しい、そのように使われますが、しかし、聖書がいう本当に新しいとは、もっと根本的に決して変わらないもの、永遠に変わらないもの、つまり、神ご自身のみ、あるいはその神から来るものだけなのです。

   それで、渡辺先生はこう言われていますが、先の詩を書き残した人も、直ぐにそのように受け止められたわけではないでしょう。きっと、眠れない夜を幾夜も送り、時に絶望し、嘆き悲しみながら、祈り求め続けたのでしょう。でも求めたものは一つとして与えられなかった、だが神さまは心の中の願いをすべて叶えてくださった、わたしの思いではなく、本当に意に添わないはずの、そのわたしに必要なもの、永遠に変わらないものをいつも与えてくださるのだ、心の中の願い、わたしがわたしである安らぎを与えてくださったと。だから、弱さを通してこそ、神さまはわたしに本当に必要な新しい革袋、決して永遠に失われることのない革袋を用意し、与えてくださる。それがキリスト者としての新しい生き方、このキリストと共に喜び、キリストと共に泣く生き方なのです。

   だから、わたしたちが経験する出来事のひとつひとつ、たとえ、それがどれほど辛い、悲しいことに思えたとしても、それらは無意味なものでも、不条理なものでもない。それも神が与えた出来事と考えられる時に、今は恵みとは分からない、思えないけれどもそれでも自分の人生として受け入れて生きていくことができるようになるということでしょう。わたしたちには、今恵みとは分からなくても、共にいてくださる神においては神のご意志、愛、み恵みが変わることなく貫かれている ― そのことを信ずることができるなら、あるいは、その愛、神のご意志が貫かれることを祈り求めるならば、その時にこそ、わたしたちは不安を乗り越えることができるのではないでしょうか。
そもそも、わたしたちは神の御手の中にある全体の一部を知っているに過ぎないのです。しかし、それは逆に言えば、神は全てを知っておられる、ということ。全ては神の御手の中にあるということ。その神の御手、ご意志とは、決して冷たい運命や宿命、あるいは暴君のようなものではない、このわたしをただひたすら愛するが故に、このわたしの全てをご存じである ― このことを信じる、この身に帯びていく ― そこに既に〈新しい革袋〉、新しい生き方が始まるのです。もっと言うならば、どんなことにおいても、喜びも、苦しみも神が与えてくださったことだと信じることが、私たちの人生を新しい、どんなことにおいても決して変わらない生き方にするでしょう。キリストが変わらずにそこに立ち、共にいてくださるのです。

   さまざまなことがあるでしょう。受け入れがたい現実に直面することだってあるでしょう。しかしこの試練も、自分の思いに反するようなことが続くときでも、この人生は神に与えられたものなのなのです。だから、あなたの人生は無意味であるはずがない、理不尽のまま、不条理のままであるはずはないのです。〈新しいぶどう酒は新しい革袋に〉、そういう生き方が既にわたしたちの中に始まっているのです。

2009年4月19日 復活後第2主日 「不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ― 」

マルコ16章9節~18節

 
説教  「不信仰物語 ― 新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti) ― 」  大和 淳 師
週の初めの日の朝早く、イエスは復活してから、まずマグダラのマリヤにご自身を現された.イエスはかつて彼女から、七つの悪鬼を追い出されたことがある。
彼女は、イエスと一緒にいた人たちが、悲しんで泣いている所に行って、報告した。
その人たちは、イエスは生きておられ、そのイエスをマリヤが見た、と聞いても信じなかった。
これらの事の後、彼らのうちの二人が、村へ入ろうとして歩いていると、イエスは別の姿でご自身を現された。
その人たちは行って、残りの人たちに報告した.しかし、彼らも信じなかった。
その後、十一人が食卓に着いていた時、イエスはご自身を現された.そして彼は、彼らの不信仰と心のかたくなさを、おしかりになった.それは、復活した後のイエスを見た人たちを、信じなかったからである。
イエスは彼らに言われた、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマされる者は救われる.しかし、信じない者は罪に定められる。
信じる者には次のようなしるしが伴う.彼らはわたしの名の中で悪鬼を追い出し、新しい言葉を語り、
蛇をつかむ.死に至る物を飲んだとしても、それは決して彼らを害さない.彼らが病人に手を置けば、病人はいやされる」。

 キリスト教会の古い伝統に、イースターからペンテコステ、聖霊降臨日までの毎週の日曜日に名前を付けて呼ぶ習慣があります。復活後第一主日の今日は、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日、そして来週第二主日は「主の慈しみ(Misericordias Domini)」の主日、その後、「喜べ(jubilate)」の主日、「歌え(cantate)」の主日、「祈れ(rogate)」の主日、そして昇天主日を経て、「主よ聴き給えの主日(Excaudi)」、そうして「ペンテコステ・聖霊降臨日」を迎えるのです。

人は大切なものは名前を付けて呼びます。子どもは自分の気に入った、毎晩一緒に寝る友だちとなった人形に、まず最初に名前を付けてあげるでしょう。あるいは、以前、俵真智さんの「あなたがおいしいと言ったから今日はサラダ記念日」という俳句が有名になりましたが、人は特別な日に、特別な名前を付けてその日を覚えます。そのように、イースター後の最初の日曜日、それは「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」の主日と教会は覚えたのです。
キリストの復活、その信仰、それは何より新しく生まれた子どものように生きることなのです。「生まれたばかりの乳飲み子のように」(一ペトロ2:2)生きる、でもそれはどういうことでしょうか?デートリッヒ・ボンヘッファーは、そのことを、こんな言葉で教えています。「キリストの復活の奇跡は、[今この世にある]わたしたちを支配している死の神格化[絶対化すること]を根底から覆すものである。死が最後のものであるところでは、現世のこの生をすべてとするか、それとも現世をまったく空しいものとするか、そのどちらかでしかない。しかし、死の力が打ち破られたこと、つまり、死が支配するこの世界の真中にすでに復活と新しく生まれる奇跡が輝いていることが受け入れられるところでは、人はもはや人生に永遠を期待することなどをしない。むしろ、人生がわたしたちに差し出すものを受け取るのである。そこでは、人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれるのである」(D.ボンヘッファー「倫理学」より)。
 わたしたちは先週イースターを共に祝いました。共に礼拝を守り、祝いのときを共にしました。でもその祝いで終わったのではないのです。また「新しく生まれた者のように」生きる生活が始まっているのです。この普段の変わることのない生活、その生活が「わたしたちに差し出すものを受け取」っていく。「そこでは、現世のこの人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく」生を生きるのです。復活、それは、キリストがわたしたちの生活の中へ踏み込んでこられることだからです。復活とは、ただ単にキリストが死んで、再びよみがえったことだけを意味するのではないのです。わたしたちがこのキリストによって新たに生きる、わたしたちの復活、わたしたちの始まりなのです。

  そのことが、今日の福音書においても具体的に記されています。それで、あらためて、少し注意深く読みますと、復活後の出来事が一見大雑把に記されているように見えるのですが、そこにも大切な意味が込められていることに気づきます。

  まず、マグダラのマリヤ、そして、12節の無名の二人の弟子、これらの人々にイエスは現れたということ。そのような人々、マグダラのマリヤ、彼女はルカ福音書7章によれば「罪ある女」と呼ばれた人でした。そして、この名も無き二人の弟子、つまりペトロやヨハネのような主だった弟子たちではなく、無名の人の口を通して、まず復活の使信は伝えられたのだということ。罪深いもの、弱い者、軽んじられている者、主はそのような人々に現れた、共におられた。それが何より復活のキリストであったことが伝えられています。

  しかし更に、もっとわたしたちの目を引くことがあります。実に繰り返し、「信じなかった」という言葉が出てくることです。それは言ってみれば、イエスの復活を決して信じなかった、信じられなかった物語なのです。そして、何と言っても驚くのは、最後まで弟子たちの内誰一人「信じた」とは記されていないことです。これらのことから言えば、弟子たちは誰一人結局、信ずることの出来なかったまま、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と遣わされていったのです。しかし、それが、聖書がわたしどもに伝える復活信仰、復活体験なのです。
 何より復活のキリスト、この方は、いつも信じない者の中心におられます。復活のキリストは、信じる者、敬虔な者たちの間にだけおられるというのではない。罪ある者、信じない、心のかたくなな人間の友、その中心となられたのです。復活信仰とは信じられない者の信仰なのです。何故なら、復活のキリストは、十字架のキリスト、十字架にかかったキリストだからです。この方の十字架、それは、まさしく信じない人間、それどころか、この方に敵対する人間、その真ん中にこの方が、その罪を担って立たれた出来事でした。まさに、ご自身、信じない人間の中の一人、その中心となり給うたのです。
 この聖書の箇所は、実はそのように信じなかった物語を記すことによって、信じられない者である自分自身への痛みと共に、しかし、この復活のキリストは、そのわたしを決して見捨てないのだという、初代の教会の人々の喜びに満ちた体験、深い溢れる感謝の思いが込められた信仰告白でもあるのです。われわれは信じなかった。信ずることのできないものであった。しかし、主はあらわれた、その信じないわたしどものために・・・、そう聖書は語っているのです。
 もちろん、不信仰がいいということではありません。その後、こういうことも記されているからです。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(14節)。イエスは、不信仰と頑なな心をおとがめになった、この「おとがめになった」というのは、要するに叱られたということです。叱るのは見限った、見捨てたからではありません。むしろ、これは端的に愛です。不信仰を受け止めつつ、その不信仰を克服されようとする愛です。親が子どもの成長のために、今し得る限りのことに全力を尽くしてなすような真剣な愛であると言っていいでしょう。
 もちろん、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」、そういう言葉もここには記されています。そして、わたしたちは、そのことを厳粛にそのまま受け入れるべきであり、決して割り引いたり、軽んじたりしてはならないでしょう。しかし、そうだからこそ、このキリストは、わたしたちのために、真剣に、不信仰を叱って下さるのです。何より、そのためにこの方は十字架にかかり給うたのです。それは、全くわたしたちの不信仰の故にということです。それをご自分のものとし、ご自分に担い、わたしに代って戦い、克服されるため、わたしたちが一人も滅びないためでした。それは確かにそれほどに、わたしたちの不信仰は絶望的なものだということです。しかし、叱ってくださる主イエスがおられるからこそ、わたしたちには希望があるのです。

  ですから、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(16節)、この言葉も、わたしたちは、いわば脅しのように受け取る必要はないのです。こんな信ずることの出来ないわたしは滅びの宣告を受けるかも知れないとびくびくしながら生きるのではない、あるいは、だから抱えた罪を、それを隠して生きるのではないのです。主はその全てを既にご存じであり、しかし、それに関わらず、何より、ここに先立ってあるのは、わたしたちへの救いの約束、このお方を通しての愛なのです。何より、滅びの宣告より先立って、救い、恵み、今この方の叱責・愛が、主ご自身がわたしたちにはあるのです。ただこの主に目を注ぐ、「新しく生まれた者のように」ただこの主に目を注ぐ、それがわたしたちのイースターの信仰なのです。

  そして、ここでは、そのことと直ぐに並んで、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15節)と言う主イエスの命令が記されています。福音を宣べ伝える、伝道、宣教が命じられています。わたしたちは、この命令もまた厳粛にそのまま受け入れるべきでしょう。しかし、わたしたちは、この伝道、宣教とは、いわば他の人を信仰者に変えるようなことではないということをここでしっかりと心に留めておきたいと思うのです。つまり、伝道とは、あたかも確かな信仰の持ち主、いわば救われた確かな者が、別の確かではない、信じていない人間を上から下へと救ってやると言うようなことではないのです。主は、信じない弟子たちをあるがままに伝道へと遣わされたように、あるがままのわたしを見てくださり、そして恵み深くわたしたちを用いてくださる、遣わしてくださるのです。もう一度、最初にご紹介したボンヘッファーの言葉を思い起こして欲しいのです、「人生がすべてか、それとも無か、というような生き方ではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方が生まれる」。それを、伝道ということに置き換えて言ってもいいでしょう。つまり、伝道とは、人生がすべてか、それとも無か、というようなことではなく、良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方、そこから生まれるのです。

 良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めていく生き方 ― それは言い換えれば、「あなたは、あたかも罪がないかのように、自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。何故なら、神は罪人を愛し、罪を憎み給う方だから」(D.ボンヘッファー「共に生きる生活」111頁)ということなのです。実は、これもボンヘッファーの「共に生きる生活」の文章からの言葉です。そこでボンヘッファーは、またこういうことを言っております、「自分の悪を抱いてただひとりでいる者は、全くひとりで孤立している。キリスト者が、礼拝を共にし、祈りを共にし、またともに奉仕することにおいてあらゆる交わりを共にしているにもかかわらず、互いにひとり孤立しており、交わりの最後の通路が開かれていないということがありえるのである。何故なら、かれらはそこで、なるほど信仰者として、敬虔な者としてはお互いに交わりをもっているが、しかし敬虔でない者として、罪人としての交わりを持っていないからである。敬虔な者の交わりの中では、何人も罪人であることは許されない。突然に現実の罪人が、敬虔な者たちの中に見出される時、多くのキリスト者の驚きは思いの外に大きいものがある。だからわれわれは、自分の罪を持ったままで、偽りと偽善の中に自分を閉じてひとりでいるのである。何故なら、われわれは確かに罪人だから・・・」(〃110頁)。

つまり、教会は、ややもすると、敬虔な者の交わり、正しい者の交わり、つまり、過つ者、破れたる者であることを許されなくなってしまうのだ、ということです。教会で、自分の罪の故に孤独でいることほど、この復活のキリストの真のお姿に相応しくないのです。そして、自分の罪を、自分ひとりでは克服し得ないのです。だから、わたしたちは、教会、他の兄弟姉妹が必要なのです。その中にキリストはおられからです。問題・罪のないキリスト者がキリスト者なのでありません。あるいは、問題のない教会が良い教会なのでありません。そして、罪に立派な罪もそうでない罪もないように、問題に立派な問題も、立派でない問題もないのです。教会が教会であるのは、共に重荷を、問題を担っていけること、あるがままのわたしを共に担ってくれる兄弟姉妹がいることです。ここに、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」ある教会があります。「良いことも悪いことも、大切なことも取るに足らないことも、喜びも痛みも受け止めて」いく、わたしたちの教会が。
そのような教会の中にある者として、「新しく生まれた者のように(Quasimodogeniti)」主と共に歩んでいきましょう!

2009年4月12日 復活祭 「わたしの福音書が始まる」

マルコ16章1節~9節

 
説教  「わたしの福音書が始まる」  大和 淳 師
さて安息日が過ぎると、マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメは香料を買った.それは、イエスの所に行って、油を塗るためであった。
彼女たちは週の初めの日の早朝、日が昇るころ、墓にやって来た。
そして互いに、「だれがわたしたちのために、石を墓の入り口から転がしてくれるでしょうか?」と言った。
ところが、彼女たちが見上げると、非常に大きい石であったのに、すでに転がしてあった。
彼女たちは墓に入ると、一人の若者が白い外とうに身を包み、右側に座っているのを見て、ひどく驚いた。
彼は彼女たちに言った、「驚くことはない.あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜している。彼は復活させられた.彼はここにはおられない。見よ、人々がイエスを置いた場所を。
行って、弟子たちとペテロに、彼はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる、と告げなさい。彼が告げておられたとおり、あなたがたはそこで彼にお会いする」。
彼女たちは震え上がり、驚いて墓から出て逃げた。彼女たちは恐ろしかったので、だれにも何も言わなかった。
週の初めの日の朝早く、イエスは復活してから、まずマグダラのマリヤにご自身を現された.イエスはかつて彼女から、七つの悪鬼を追い出されたことがある。

 「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」(16章1節) ― 今日、イースター、キリストの復活、それについて、わたしどもはまず今日の福音書の語るところに静かに耳を傾けましょう。それは、この三人の女性が、「安息日が終わる」、すなわち、それは土曜の夕方ですが、イエスの亡骸に塗るために香料を買ったところから始まります。
 実は、この女性たちについて、マルコ福音書は、この16章の前、15章のイエスの受難物語、その死を巡って語る中でそっと次のように記しているのです。「また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。」(15章40節~41節)そして、その受難物語、15章の最後に、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(47節)と。それゆえ、わたしどもは、それゆえ、そのように記したこのマルコ福音書の語ろうとするイエスの復活について知るために、そのイエスの葬りの場面から見ていかなければならないでしょう。

 その15章によれば、そもそも、イエスの埋葬は、アリマタヤのヨセフという人によって行なわれました。イエスの十字架の死は、安息日の前日、すなわち金曜日の午後3時でしたが、安息日には一切の労働は禁じられているため、ヨセフは、その葬りを、その日没と共に始まる安息日の前に済まさなければならず、したがって、あわただしく埋葬を行なわなければなりませんでした。愛する人の死に際し、人は出来る限り丁寧に葬りたいとするものです。ヨセフも、そうしたかったでしょう。それで「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」(42節)ここでマルコが具体的、詳細に記しているその葬りの様子は、ヨセフが精一杯、出来る限り心を込めてそれを行ったことと同時に、それでも当時埋葬の習慣であった香料の塗布が行なわれなかった、省かれてしまったことを物語っています。それは、限られた時間の中で、正規の手順を全て踏むことは出来ない、その中でもせめて、当時とても高価で貴重な「亜麻布」で、その亡骸を包む、そのことだけでヨセフは精いっぱいだったのでしょう。

  女たちは、その様子を見守っていました。そして「亡骸に香料が塗られなかった・・・せめて安息日が明けて、後からでも、自分たちの手で、それを塗ってあげましょう」、そう互いに決めたのでしょう、女性らしい細やかな眼で、その一部始終を見届けた彼女たちは、そうして、今や自分たちが出来る限りのことをしようとしたのです。

  しかしながら、イエスの遺体は、イスラエルの砂漠の風土の中では、既に腐敗し始めていたでしょう。そもそも、本来香料は遺体の腐敗を遅らせるために用いられたのです。丸二晩たって香料を塗ったところで、何の意味があるのでしょうか。けれど、女たちは、悲しみの中でそればかりを考えていたのでしょう。あくる土曜日の夕方、つまり、安息日が終わるや否や、真っ先に香料を買い求めて、朝に備えたのです。恐らく、この日曜の朝まで、彼女たちは一睡もせずに過ごしたのではないでしょうか。

  イエスの十字架の死、その一部始終を、ただ遠くから見つめていた彼女たちです。愛する者のその無惨な死、悲痛な姿を前にして、なすことなくたたずんでいなければならなかった女たちでした。「この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である」と15章41節に記された言葉がわたしどもの胸を打ちます。そのように仕えてきた故に、その愛するお方の最後、もっとも仕えたいその瞬間に、「遠くの方」にいなければならなった、それは、彼女たちの悲しみを幾重にも倍加していったことでしょう。

  安息日、それは本来聖なる日でした。主なる神の救いのみ業を覚え、それに従う日でした。神と人、民がひとつとなる日でした。しかし、彼女たちにとって、この安息日ほど辛い日はなかった。神から見捨てられた者のように、ただ悲しみの中に放り出されたのです。彼女たちにとって本当に何もかもすべて終わってしまったかのようです。この女たちは、十字架のイエスに仕えることはできませんでした。キリストは、ただ一人苦しみ、死んで行かれた。ですから、今香料を塗ることを思い立った彼女たちの思いは痛いほど分かるのです。そうしてそのイエスのためにできることを、やっとただ一つ見つけたのです。

  「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」(2節)。夜もまだ明けるか、明けないかのうちに、家を飛び出した彼女たちの姿が眼に浮かびます。しらじらと明けていく中を、イエスの墓に向かって急ぐ女たち・・・。次第に明るさを増していく日の光、彼女たちを照らす夜明けの光。たが、彼女たちの心は、自分のなしえることを見つけた喜びではなく、むしろ重く、暗い絶望の悲しみに沈んでいます。3節の言葉がそのことを物語ります。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」(3節)。彼女たちは道々、そう話しあっていた。それは非常に大きな石であったと4節に記されています。三日前、安息日の始まる金曜日の夕方、彼女たちは、その場所を見届けたとき、その大きな石がころがり、閉ざされたのを見たことを、この道すがら彼女たちは否応もなく思い出さずにはいられなかったのでしょう。

  今、改めてその墓へ行く道中、その石の大きさが、彼女たちの心にのしかかってきたのです。「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるでしょうか」、こんな朝早く、そうしてくれる男手があろうはずがありません。誰もいないことは分かっているのです。決して現実を忘れているのではないのです。とは言え、話し合ったところで、何の解決もないのです。ただ、よろめくような足取りで、それでも彼女たちは墓へ墓へと急ぐ。そのようにして夜もまだ明けるか、明けないかのうちに、家を飛び出した、神からも見捨てられたような彼女たち・・・まるで、幾重にも問題が重なり、この人たちを押しつぶそうとしているかのようです。「大きな石」が彼女たちの心を塞いでいるのです。しかし、彼女たちはそれでも、あきらめなかったのです。たとえそうであっても、光に吸い寄せられるように、墓へ墓へと急ぐのです。
このマルコの復活の物語において、男の弟子はひとりも登場してきません。すでに「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)のです。この女性たちが、その男たちとただ違ったのは、彼女たちは、ともかくその目前の「大きな石」から逃げなかったことにあります。たとえ、どれほど取るに足らない、小さなことであったとしても、尚、そのことを通してイエスに仕えようとしたのです。何故でしょうか?

  キリストは、あの十字架の上で、こう叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15章34節)。キリストは、今や、神から見捨てられた人間、見捨てられて同然のわたしたちの中に立ち、そのわたしたちの苦しみを負うてくださったからです。そのお方がよみがえったのです。主イエスの復活は、そのようなわたしたちの小ささ、おおよそ無駄なことの連続に思えるようなわたしたちのこの日常の営みを素通りして起こるのではないのです。むしろ、何と深く結びついて起こされたことでしょうか。翻って、このわたしたちの足取りもまた、言うなれば、一体こんなことをしていて何になるのだろう、人生に痛みを負いつつ、そのような嘆きを抱かなかった人、いや今この時もそんな痛みをもっていない人はいないでしょう。あるいは、もっと大事な、意味あることをしたいのに、結局これしかできなかった、そんな情けないような、空しい思いにかられる人生です。今、わたしたちの頭をいっぱいにすることは何でしょうか。一歩、ここから離れれば、のしかかってくる様々な問題、見通しのつかない現実・・・。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」、言い換えてみれば、「だれがこんなわたしのすることに、このわたし自身を認め、受け止めてくれるのでしょうか」、大きな石、現実にのしかかってくる問題にうちのめされながら、つぶやきたくなるようなわたし自身が重なります。

  「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」(4節)。「目をあげると・・・・・」うなだれていた女たち、現実に押し潰されてうつむい歩んだ彼女たちが、「目をあげると・・・・・」。あの、もはやどうしようもない、これ以外ありようがなかった問題、大きな石は、思いもかけず既にころがしてあった。自分たちを現実に苦しめている問題、わたしを押し潰してくる現実は、ころがされていた。確かに彼女たちが用意した香油を塗るという、いわば彼女たちの願い、思いがかなえられたのではない。思い通りには確かにならないのです。そして、それは一見無駄になったようにも思えるのです。しかし、福音書は息をもつかせず、この彼女たちに起きていることを伝えます。「若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。”あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる”と。』」(6~7節)。

  「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。この女たちが思いこんでいた「大きな石」の向こう側、墓の中にもはやイエスはおられない。わたしたちは、問題、苦しみの向こう側に神さま、主イエス・キリストを見ようとします。しかし、いわば既にキリストは、わたしの問題、苦しみとわたしの間におられる、つまり、わたしの問題、苦しみの中におられるのです。キリストがよみがえった、そのキリストは十字架のキリストなのです。悲しみの、涙の向こうに青空があるように、いや、嵐の中にも既に青空が広がっていたのです。たとえ今は分厚い雲が覆っていても、その上には太陽が照っている。わたしを支配しているのは、嵐ではなく、太陽、このキリストであると。苦しみの中に既に喜びが始まっている。今は見えないだけ。わたしたちは最早ひとりではないのです。

  それ故、この若者、天のみ使いの語ることに耳を傾けましょう、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。この女性たちはあらたな使命、生きる意味を与えられます。しかし、この女性たちばかりではありません。ここで「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と、ペトロの名がわざわざ付け加えられているのです。あの十字架の夜三度イエスを否んでしまったペトロ、あの夜、イエスを裏切った夜、激しく泣き続けたと云います。元漁師のたくましい大の男がおいおいとただ泣き続ける以外なかったのです。この時もどこかで悲しみ、耐えがたい痛みにただ泣き続ける以外にないペトロ、そんな悲しい一人の人間がまたそこにいるのです。生まれてこなければ良かった、そう思うような、眠れない夜を過ごした人間がそこにいます。しかし、その彼も見捨てられたのではなかった。それどころか、彼の名が特に挙げられたのは、そのような人間にこそ主は顧みてい給うことを告げています。もちろん、ペトロは、まだそのことを知りません。あぁ、また苦しみの一日がはじまる、そう思って、この空をながめていたかも知れません。しかし、彼もまた再びガリラヤ、すなわち彼の日常の中でイエスと共に生き、用いられていくのです。
まさにこの「ペトロ」もまた、外ならぬわたしのことです。御使いを通して、神は今わたしたちにこのように語りかけておられるのです。「あなたがわたしを見捨てても、わたしは決してあなたを見捨てない」と。行き詰まり、疲れはて、生きるのぞみを失って倒れてしまうようなことがあっても、それで終りではない。そこからもう一度起き上がる。そもそもギリシャ語で「復活する」とは、端的に「起き上がる」という言葉です。倒れた人間が起き上がって新しく歩み始めることを許されるのです。それがイースターのメッセージ、福音です。そもそも「新しくなる」ということは、わたしどもにとって最も信じにくいことです。どうしようもないもののようにこの世界、自分が行き詰まっているように常に思えるのです。そのとき、実は生きていてもわたしたちは本当には死んでいるような人間なのではないでしょうか。

  だが、復活、イースターとは、それは単にキリストが再び生きられたことではありません。このわたしたちが生きる、再び起き上がること、わたしの復活なのです。天使は言います、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と。すべては、キリストが先回りしておられるのです。その約束を告げて福音書は終わります。実は本来このマルコ福音書は、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」、この8節で終わっていました。今、わたしたちの聖書の9節以下は、聖書学上は後の初代教会による付加だとされています。それで、わたしたちの聖書では9節以下はカッコに入っているのですが、ということは、元々の福音書は、(8節)、女たちは驚き、恐れてしまって「だれにも何も言わなかった」という、実に中途半端な終わり方をしていることになります。これではいくら何でも、というので、恐らく、早い時期に後日談のように9節以下が付加されたと推定されているのですが、しかし、たとえ、中途半端でも、本来、マルコ福音書はここで終わっていたのです確かに、「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」、これでは、終わりになりません。未完結、まるで振り出しに戻ってしまうようです。

  だが、大事なのは、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」、この天使の約束です。そうです、マルコ福音書は、あえて白紙に戻すのです。つまり、これから先は、この福音書を聴くみなさん、あなたの福音書が始まるのです。そう、これから先は、あなたによる福音書だ、ガリラヤ、それはあなたのガリラヤ、あなたが、キリスト共に生きるところ、あなたの生活、今から、そこであなたと主イエスの物語が始まるのだ、と。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」、そう、始まりは、いつも正気を失うような恐れがある、不安がある。わたしたちは尚罪の中にある。でも、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」このキリストがなければ、墓は、わたしたちの命の終点です。しかし、今や、まったく墓を後にして始まる命、それが、あなたのガリラヤ、主と共にい給うあなたの福音書なのです。