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福音書記者マルコの日

 マルコはパウロとバルナバと共にパウロの伝道旅行に従事した使徒で、新約聖書マルコによる福音書の著者であると言われています。使徒言行録ではマルコと呼ばれるヨハネという名で登場し、彼はバルナバの従兄弟にあたる人物です(使徒12:25)。

 マルコはパウロとバルナバ共にキプロスの宣教に出かけますが(パウロの第1回伝道旅行)、途中で彼らと別れて1人エルサレムに帰ってしまいます(使徒13:13)。そして、パウロとバルナバが再びエルサレムから宣教の旅に出かける時(パウロの第2回伝道旅行)、バルナバはマルコを連れて行こうとしますが、パウロは、過去に一人でエルサレムに帰ってしまった彼を同行させることに反対します。そして、マルコはバルナバと共に再びキプロスでの宣教の旅に出かけます(使徒15:35~39)。パウロはマルコとの宣教の旅を拒みましたが、後にマルコはパウロがローマで牢獄に入っていた時に、パウロと共にいて彼を助けています(コロサイ4:10)。そこで彼は自分の福音書(マルコによる福音書)を書いたと言われています。

 後に彼はアレクサンドリアに行ってそこで宣教し、教会を建設して司教となり、ローマ帝国の迫害によって殉教したと言われています。また9世紀頃に、彼の聖遺物がアレクサンドリアからヴェネチアに移され、ヴェネチアのサン、マルコ教会の中に治められたことから、マルコの名はヴェネチアの町とも関連があります。

2012年11月25日 聖霊降臨後最終主日 「キリストの到来」

マルコによる福音書13章24〜31節
高野 公雄 牧師

それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
マルコによる福音書13章24~31節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

毎年11月に入りますと、礼拝の主題は「世の終わりは近い」ということになります。そして、教会の暦では新しい年を迎えて待降節に移ります。そこでの主題は「キリストの到来は近い」ということです。聖霊降臨節と待降節は、暦の上では一年の終わりと始まりという大きな区切れ目ですが、礼拝の主題はなめらかに続いているのです。

きょうの福音は、マルコ13章です。これは、イエスさまの受難の出来事が始まる直前の場面で、弟子たちにまとまった教えを説く最後の機会となりました。

エルサレム神殿の建つシオンの丘の東側にオリーブ山が向かい合ってあります。イエスさまは最後の一週間、その山のふもとのベタニア村に宿をとり、毎日、そこから神殿に上って、そこで出会う人々と対論をしたり教えたりしました。それもこの日が最後で、弟子たちが神殿を見納めする場面から、13章の話は始まります。

《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」》(1~2節)。

このように、イエスさまはこの壮大な建築物である神殿の崩壊を予言します。神殿の崩壊は、ユダヤ人にとって宗教と民族の滅亡を意味するものでした。神殿からの帰路、オリーブ山に差し掛かったとき、イエスさまに最初から着いていた四人の弟子たちが尋ねます。

《イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。・・》(3~5節)。

イエスさまは弟子たちに答えて、偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、飢饉、そして神殿の崩壊などが起こると答えます。そして、最後に起こることとして話されたのが、きょうの個所です。

《それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」》(24~27節)。

この世が終わり、人の子が再来すると言うのです。このような話は現代の私たちにとって、荒唐無稽な話、別世界の話という印象が強いのですが、イエスさま当時の人々やマルコ福音が書かれた当時の人々にとっては、これは現実的な話でした。

《憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。》(14~16節)。

こう語られる出来事は、イエスさまが話したときには将来のことでしたが、マルコが福音書を書いたときには直前に起こった生々しい出来事でした。この同じことを、ルカ福音はもっと直接的に紀元70年の出来事として描いています。ルカは神殿崩壊を神の裁きと見ています。

《エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい》(ルカ21章20~21)。

「ユダヤ戦争」は、紀元66~70年に起きました。当時ユダヤを支配していたローマ帝国に対してユダヤ人たちが一斉に武装蜂起して独立戦争を仕掛けたのです。イエスさまの言葉に「そこから立ち退きなさい」とあるように、イエスさまを信じる者たちはこの戦争に加わらず外国に避難したのです。ユダヤ人にとってそれは神と祖国への裏切りであり、この戦争を機に、イエスさまを信じる者たちは正式にユダヤ教の会堂から破門されることとなり、キリスト教という別個の宗教として歩み出すことになったのです。

これは民族の存亡を懸けた壮絶な戦いとなりましたが、ついに最後の砦であったエルサレムが攻め落とされ、イエスさまの予言にあったように、神殿は西壁(「嘆きの壁」と呼ばれます)を残すのみで、跡形もなく破壊し尽くされました。生き残ったユダヤ人たちは所払いとなり、以来二千年祖国のない流浪の民となったのです。

この時代、キリスト教徒にとっても存亡の危機を迎えていました。ユダヤ戦争が始まる66年までには、ペトロとパウロはローマで殉教死していました。このころまでにはイエスさまの直弟子たちは世を去り、いなくなってしまったでしょう。そして、ユダヤ教の会堂からは破門されて迫害を受け、ローマ帝国からは非合法宗教として迫害の対象となりました。マルコが避難の地シリアでイエスさまの伝記の形で福音書の書いたのは、こういう危機の時に、それを乗り越えるようキリスト教徒を励ますためでした。

ユダヤ人にとって敗戦と祖国の喪失は、世の終わりと思うような出来事だったでしょう。日本人にとっても先の大戦における爆撃や原爆投下は世の終わりと感じられたことでしょう。東日本大震災も被災地の人々には、そういうものと思えたかも知れません。しかし、《慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・これらは産みの苦しみの始まりである》(7~8節)、そして、《いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない》(28~29節)、こうイエスさまは諭されます。

《「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。い。」》(32~37節)。

家の主人が旅に出たのに似て、私たちは今イエスさまが目に見える姿では不在の時を過ごしています。そして、世の終わりとキリストの再臨の時がいつであるかは神のみぞ知ることであって、私たちには分かりません。しかし、その時が来ることは確かなことですから、私たちはまどろんだりしてないで、気をつけていなさい、目を覚ましていなさい、とイエスさまは言われます。

気をつけている、目を覚ましているとはどういう意味でしょうか。ルターの言葉として知られている言葉に、「たとえあす終末が来ようとも、きょう私はりんごの木を植える」という言葉があります。あす世界が終わりになってしまうなら、きょうリンゴの木を植えても実りを得ることはできません。にもかかわらず、あす世界が終ろうが、自分の命が尽きようが、明日への希望を持って日々の務めを果たしていく。私はそうしているところで、再臨のイエスさまにお会いしたい。この言葉は、そういう心を表わしているのでしょう。気をつけている、目を覚ましているとは、こういう姿勢で生きることを意味しているのだと思います。

この関連で、アメリカの神学者ラインホールド・二ーバーの「平静の祈り Serenity Prayer」が思い出されます。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

きょうはマルコ福音を読み継いできた最後の日曜日、来週からは待降節に入り、ルカ福音を読んでいく年に替わります。きょうはマルコ福音の読み納めになります。そして、きょうの福音、マルコ13章は、いわば、ご自分の死を目前にしたイエスさまの弟子たちに対する遺言です。そういう意味で特別に注意して聞くべき教えが書かれていたと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年11月18日 聖霊降臨後第25主日 「貧しいやもめの賽銭」

マルコによる福音書12章41〜44節
高野 公雄 牧師

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章41~44節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、その前の段落でイエスさまが律法学者たちは「やもめの家を食い物にし」ていると非難している、その実例として記されていると見なされています。それで、他の教会では、きょうの福音を私たちよりも長く38~44節と、前の段落を含めています。きょうの福音が置かれている文脈を理解するために、前の段落の言葉を読んでおきましょう。

《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」》(マルコ12章38~40)。

イエスさまは、律法学者がやもめの家に行って、見せかけの長い祈りをして、謝礼金を巻き上げている、と律法学者の振る舞いを厳しく批判しています。しかし、イエスさまの批判は単に道徳のレベルにとどまりません。その批判はきょうの福音の次の段落を読みますと、神殿の崩壊を予言するまでに、ユダヤ教のあり方そのものを根本的に批判するものでした。こう言っておられます。

《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」》(マルコ13章1~2)。

前後にこういう聖書個所があるのを知った上で、もう一度、きょうの福音を注意深く読んでみましょう。

《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」》。

一人の貧しいやもめが神殿に来て、小銭二枚、金額にすると一クァドランス、つまり100円ほどを賽銭箱に投げ入れたのですが、イエスさまの見るところ、それは彼女の有り金のすべてであったということです。

前後の脈絡を頭において読みますと、この物語は、ふつうそう読まれているように、有り金全部を神殿に捧げた信仰深いやもめを称える美談であるというよりも、イエスさまはここに宗教が人間を疎外する悲劇を見ているようです。

やもめは有り金のすべてを神殿に献げました。それは死を覚悟してのことでしょう。その献金が何か有益なことに生かして用いられると良いのですが、イエスさまの見るところ、この神殿は間もなく滅びます。ならば、この献金は死に金、彼女の死は犬死です。イエスさまは彼女の行為を悲劇と見て嘆いているのであって、弟子たちに彼女のしたことを見習いなさいとは言っておられません。彼女は敬虔な振る舞いでもって生活に必要なお金を失いました。イエスさまは、彼女にこのようなことをする信仰を植え付けたユダヤ教の指導者たちを批判しておられるのです。

私たちは新聞やテレビの報道をとおして、繰り返して、宗教家に騙されて大金を奪われた人々の悲劇について聞きます。そのたびに、宗教っておそろしいものだな、宗教ってうさんくさいものだなという印象を深めています。にもかかわらず、人生に生・老・病・死の苦難があるかぎり、人は宗教に救いを、益を求めることを止めることができません。そして悲劇は繰り返されます。

聖書に描かれたイエスさまは、宗教よりも人間性を優先しておられます。信者から生活費を搾取するような宗教指導者ではありません。いくつかのエピソードを思い出してみましょう。

安息日(の律法)は人のために定められた、人が安息日のためにあるのではない、と宣言されました(マルコ2章27)。イエスさまは安息日に病人を癒されました。安息日の律法を破ってでも人道的な援助を優先させました(マルコ3章1~6)。善きサマリア人のたとえでも、宗教上の掟を守る同胞のユダヤ人よりも、傷ついた旅人を介抱する異教徒を弟子たちの身習うべき者とされました(ルカ10章25~37)。コルバン(神への供え物)の掟を優先させて両親の必要に答えない人々を非難しました(マルコ7章10~13)。

《とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる》(詩編146編6~9)。

これは、きょうの賛美唱の一節です。人を救うはずの宗教が、往々にして、人を抑圧する、人間性を阻害する原因となります。イエスさまはそういう宗教を改革しようとしたお方です。イエスさまはその言葉と行いにおいて、弱い人々に対する神の信実を証しされました。みなし子、やもめ、寄留の難民は、弱い人々の代表です。

貧しい人々は幸いだ、今飢えている人々は幸いだ、今泣いている人々は幸いだ、とイエスさまは神が彼らと共におられることを説かれます(ルカ6章20~23)。あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ず報われる、と弱者への愛を高く評価します(マルコ9章41)。何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと言って思い悩むな、天の父はその必要をよくご存じでお与えくださる(マタイ6章25~34)。あなたがたは神と富とに仕えることはできない、と神のみを愛する生き方を示されました(マタイ6章24)。

この物語を読むについては、以上のイエスさまの宗教改革の心をしっかりと受けとめ、私たちが人を軽んじるような間違った方向に引っ張られないように、その信仰を聖書のみ言葉の上にしっかりと立てる必要を確認したちと思います。

その上で、次に、この貧しいやもめの姿は、これから起こるイエスさまの死を賭した献身、十字架への道を前もって示すものでもあることに目を留めましょう。

この貧しいやもめは、その動機が絶望からか、何かの償いであったのか、注目されたいからか、または深い献身であったのか、何が本当の動機であったかは書かれていませんが、ともかく、彼女は持てる物のすべてを、生活のすべてを神殿に献げました。しかも、それはまったくの無駄になったように見えます。

イエスさまの場合も同じようです。イエスさまの動機は、人間に対する神の愛を極限までの実践で示すためでした。そして、それは十字架刑による死に極まり、すべては無に帰したように見えました。しかし、神は三日目にイエスさまを復活させて、人々にイエスさまの証しが真実であることを示されました。

このイエスさまの生き方をとおして、私たちは弱い者に配慮してくださる神を知りました。この神に私たちのすべてを委ねることができることを知りました。イエスさまが共に歩んでくださることを信じて、自分を神に委ね、神に献げて生き者となりたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年11月11日 聖霊降臨後第24主日 「最も重要なおきて」

マルコによる福音書12章28〜34節
高野 公雄 牧師

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

地上におけるイエスさまの生涯最後の週、日曜日にエルサレムに到着してから、金曜日に十字架に付けられるまでの六日間は、日付が書き入れられています。三日目の火曜日の出来事がマルコ11章20~13章31に描かれていますが、きょうの福音である律法学者とイエスさまの対話個所もこの日の出来事とされています。

《あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか》。一人の律法学者がイエスさまにこう尋ねることから、きょうの話は始まります。「最も重要なおきて」は何かとい問題は、当時のユダヤ教において大いに論じられていたものでした。これはキリスト教徒にとっても重要な問題であって、この出来事はマタイ22章34以下とルカ10章25以下にも書かれています。これらの個所は礼拝において毎年交代に読まれます。

《第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない》。

これが律法学者の問いに対するイエスさまの回答です。第一のおきてとされたのは、きょう旧約聖書の日課として読まれた個所の引用であり、第二のおきてとされたのは、レビ記19章18です。律法学者は「どれが第一でしょうか」と一つのおきてを求めたのですが、イエスさまは神を全身全霊でもって神を愛すべきことと、隣人を自分のように愛すべきことという二つのおきてでもって答えています。神への愛は「信仰」、そして、隣人への愛は「倫理」と言い換えることができるでしょう。イエスさまは、信仰とその具体的な生き方である倫理とは、次元の異なることではあるが、深く関係することであると見ておられます。

《わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(Ⅰヨハネ4章19~21)。このように、神への愛と隣人への愛は互いに別々の愛ではなくて、二つの愛は一つと言えるほどに深く関わり合っている。これが聖書の見方です。

そして、結びとして、「この二つにまさる掟はほかにない」と言います。聖書には、これこれをしなさい、あれそれをしてはいけないという教えがたくさん記されていますが、それらはみな、神と隣人への愛の下位にあるものであって、すべては二つで一つの愛のおきてのもとにあることを、イエスさまは明らかにしておられます。愛は、キリスト者の生活の本質であって、それなくしてはキリスト者でありえない必須の条件です。

第一のおきては申命記6章4~5節の引用ですが、第一朗読ではこれに続いて次の言葉を聞きました。《今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい》(申命記6章6~9節)。これでこのおきてがいかに大切にされていたかが分かります。これが最も重要なおきてであることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。

ところで、「愛しなさい」と言われていますが、神への愛は義務ではありません。神に愛されていることを知った者が、感謝して返す自発的な応答の愛です。聖書に証しされている神は、《わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない》(出エジプト記20章2~3)、と人々に自己紹介をしています。神は、エジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの民を憐れみ、強い力で救い出してくださいました。民は喜びと感謝をもって神への信頼をはぐくみました。そして、新約の時代になると、《実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》(ローマ5章6~8)とあるように、神はイエスさまの言行において、とくにも十字架の死において人に対する愛と信実を明らかに示してくださいました。人はこの福音を信じることを通して自分の救いを手にすることができます。その信仰は神に対して自分の愛と信実をもってする感謝の応答です。そして、その感謝が私たちを神のおきてを喜んで果たすことへと導き、神を愛するだけにとどまらず、隣人を愛すること、神のおきてを喜んで果たすことへと導きます。

次に、第二のおきて「隣人を自分のように愛しなさい」について学びたいと思います。このおきてはレビ記19章18の引用ですが、この章には自分の隣人をどのように愛すべきかという実例がいろいろと示されています。その中心となる考え方は、《主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である》(レビ記19章1~2)というものです。

このおきてについては、自分自身への愛をどう考えるかによって、二つの考え方があります。

ひとつは、宗教改革者たちが支持しており、いまでも有力な考え方なのですが、このおきては隣人愛だけを命じているのであって、自己愛は命じられていないと理解します。この場合、「ように」というのは、「同じ仕方で」という意味ではなくて、「同じ程度に」という意味だとされます。人は自分を深く愛して関心を持続し、熱心に幸せを求めます。自分には寛容であり、たくさんの言い訳をし、自分に多くの時間を費やします。このような自己愛は、愛の堕落した姿なのですが、このおきてはこの自己愛と同じほどの熱心さで隣人を愛することをと求めているという理解です。

もうひとつの考えは、これも昔からあった考えではあるのですが、とくに現代心理学の発達に後押しされて、現代人には受け入れやすい考え方です。隣人を正しく愛するためには、まず自分自身を正しく愛することを身に付けなければならない、という理解です。口語訳聖書の《自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ》という翻訳は、こういう考え方にもとづいています。この場合は、「ように」は、先ほどの場合と違って、「同じ程度に」ではなく、「同じ仕方で」という意味に理解します。このような「ように」の使い方はイエスさまもしておられます。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ5章48)。この「ように」は、「同じ仕方で」という意味だと考えられます。

どちらの考え方を選ぶにしても、イエスさまは、人は神と隣人とを愛する生き方においてこそ、自尊心を正しくもち、自己実現を成し遂げられると教えておられることは明らかです。

このおきてについては、パウロも《律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです》(ガラテヤ5章14)と述べていますが、イエスさまにはこれとは別に、黄金律(おうごんりつ Golden Rule)と呼ばれるイエスさまの言葉があります。《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(マタイ7章12)。この言葉の場合、「人にしてもらいたいと思うこと」つまり、人として何を本当に欲するべきことなのかを、イエスさまに従う歩みの中で見出していくことが前提となります。それが明らかになった上ではじめて、そのことは「何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉が、本当に意味ある教えとなります。私たちが独りよがりで自分勝手でわがままな願いを抱いたまま、この言葉を実行したとしても、それは決して本当に他者を生かし、共に生きていく救いの道にはつながりません。私たちは、イエスさまに聞き従う歩みを続ける中で、本当に欲するべきものを見定めていきたいと思います。

「正しく自分を愛する」ということについても同じことが言えます。イエスさまは弟子たちに《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか》(マルコ8章34~36)と諭されました。私たちは本当に私たちを生かすことの出来るお方、イエスさまと共に歩んで参りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン