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2018年11月25日 聖霊降臨後最終主日「目標を明らかに」

マルコによる福音書13章24~31節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 本日は教会暦の最後、その大晦日と言われます聖霊降臨後最終主日です。毎年、この最後の教会暦の時に、私たちはこの世の終りについて、終末について聖書から聞きます。今年はマルコによる福音書から聞いていくのでありますが、今日の福音の箇所を含めた13章全体が終末についての主イエスの言葉が記されています。まず、「終末」ということですが、ノストラダムスの大予言などに代表される終末予告が、私たちの記録に新しいかと思います。終末ブームとか言われていた時代もありますが、大半の人は、実は終末に対して無関心であり、本気で捉えるという心境には至らなかったでしょう。案の定、この大予言は実現しなかった。安心感を得たというよりも、むしろ当然の結果として受け止めた人が多かったでしょう。私たちは終末を、人間理解の中で捉える終末像として、認識している傾向があるかと思います。たとえばそれは地球の寿命を計算して、あと何年後かには滅ぶということを認識したり、環境の悪化や天候の悪化にその兆しを見出したりなど、それは人間理解の範疇の中でしかない終末像です。そこにはただ事実しての終末があるだけで、ただの滅び、破壊しか意味を為さないということです。それは終末の事実であり、事実は事実ですから、運命論的な定めに従わざる負えない。そこには希望も喜びもなく、ただ虚無感が支配しているだけです。ようするに、終末なんて私たちの日常生活、人生には何の意味も為さないということとして理解してしまうわけです。いずれ滅ぶかもしれないが、私たちはその事実を知る機会はないという具合に。しかし、私たちは個人的な死という終末を必ず迎えます。終末がただの滅び、破壊を意味するなら、死は全ての終りを意味することに他ならない。死んだらおしまいという虚無感だけが残る。しかし、聖書はこれらの人間理解に凝縮された終末理解を取り払うのです。

 主イエスが終末について語られている13章の中で、1節から23節と24節以降では、少し時系列的な時間軸があるのがわかります。1節から23節では、戦争や飢饉、地震、偽預言者、主イエスの名を語る偽メシアが現れ、また弟子たちが、つまり教会が迫害を受けるということを、主イエスは弟子たちに言っています。それは来る終末の徴であり、「生みの苦しみの始まり」と言うのです。その時がいつ来るのか、具体的な時間軸はわかりませんが、これらのことは既に世界中に現れている現象とも取れるのです。少なくとも、このマルコ福音書を書いたマルコの教会は、迫害や戦争などの只中で、生きてきたのです。彼らは自分たちが生きている間に、終末が来ることを確信していたでしょう。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉は、彼らマルコ教会の証しとも言えます。迫害や破壊の只中にある教会を慰め、希望を語る言葉として、後の時代まで語られてきた言葉です。私たちが生きている現代のこの世界でも、このようなことは起こっているのです。

 そして、今日の福音の箇所であります24節からは、天体の揺れ動きについて記されています。これは闇を表しています。世界が完全なる闇に覆われる。しかし、それは終わりを意味するわけではないということが、26節の人の子の到来へと結びつくのです。この人の子の到来は、世界が完全なる闇に覆われたと同時に、やってきてくださるというのです。それは「力と栄光」を帯びた姿として来られるということ。今日の第一日課のダニエル書もそうですが、旧約聖書にはイスラエルを救ってくれる救世主メシア待望の期待が「人の子」として実現されることを願っています。キリスト教と違って、ユダヤ教は今でもこのメシア待望を抱いているのです。新約聖書において、「人の子」はどのように描かれているか。今日の箇所の前でありますマルコによる福音書10章32節から34節で、主イエスはこう言われています。「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」」これは、主イエスが弟子たちに語られた3度目の受難予告の場面です。既に分かるように、人の子とは主イエスご自身のことであり、人々から受難を受け、十字架にかかり、3日目に復活する方なのです。それが人の子としての主イエスご自身であり、待望しているキリスト、メシアなのです。「人の子」が私たちの罪のために十字架に架かって下さったことが故に、私たちはどんな苦難や迫害の中にあろうと、最後まで耐え忍ぶことができるのです。その人の子が再びこの世界に、終末の時に来て下さる。この世界は未だに闇の只中にあり、私たちは終末の途上に生きているのです。

 私たちが生きる世界、現代は、初代教会のような迫害を経験することはなくとも、この世の様々な誘惑と戦っております。ストレス社会と言われる現代にあって、私たちは肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまうくらいに、忙しい日々を送っています。また「無関心」が私たちの周りにあります。この無関心は、私たちの目を鈍らせる倦怠感であり、私たちの力を萎えさせるものです。そんな思いを抱きつつも、この世界に終末が来ると言うことは確実です。終わりが来るのです。でも、それは私たち人間の理解という範疇に狭められた終りではありません。神様が定めた完全な終りでありますが、救いの完成としての終りが来るのであります。実に主イエスご自身が「私はアルファであり、オメガである」と言われるように、初めであり、終わりである人の子が救いの完成者として、この世界に来られるのです。

 私たちは、この世の終りにもたらされる完全なる救いを、聖書の御言葉から聞くのです。終末とは、先に約された救いの希望に他なりません。人の子がそれをもたらすのです。そして、何より、人の子は、肉体をもった「神様の言葉」である主イエスキリスト御自身であります。主イエスは言われます。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」私たちは、天地が滅びるその時に向かって歩んでいる者です。私たちの一生には死という限界があるように、この世界の有限なるものには限界があるということなのです。そんな滅びゆく定めにあって、主イエスは神様の御言葉を通して、私たちを導いてくださいます。自らが、終わりの者となって、救いの完成者として、私たちを招いて下さる。その約束は、今既に為されているのです。私たちも神様の御言葉に生きる者として、信仰の旅路を主イエスと共に歩んでいる途上にあるのです。その道中、私たちは、様々な困難や辛さをこれからも経験しますが、この旅路のゴール、目標は既に明らかになっているのです。今を生きる私たちは、この終末の救い、希望に目を向けて、歩むことが許されているのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年11月18日 聖霊降臨後第26主日「愛を信じて」

マルコによる福音書12章41~44節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 一人の貧しいやもめが賽銭箱に生活費を全部入れたという今日の福音書の物語は、献金について思いめぐらす箇所であるかと思います。神学生の時、ある教会で実習をしていた時に、教会学校の礼拝の中で献金のお祈りをしている子どもの姿を思い出しました。子どもたちは毎週こう祈っていました。「この献金を神様の御用のためにお使いください。」ストレートにわかりやすく、献金の意味するところ、献金の心を伝えている祈りだと思いました。神様の御用のために自分が捧げた献金が用いられるのであって、自分が捧げた献金の額によって自分を誇ったり、自分の貧しさに嘆いたりするのではなく、金額がいくらであろうと、それを神様が用いられるとういうことに全ての思いと心を向けていくのです。

 ただ、金額にはよらないと言っても、このやもめは適当な金額を献金したのではなく、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたと言います。このやもめのように献金しなさいと聞きますと、給料、お小遣いを全額献金しなさいと思うかもしれません。本当に主イエスはそのように私たちに教えているのでしょうか。一方で、皆は有り余る中から入れたという金持ちたちの献金の姿が描かれています。金額ではこのやもめよりも、大きかったのでしょうけれど、それは有り余る中からの一部の献金であって、自分には余裕がある献金であり、生活費の全てではありません。それでも、自分はこれだけの金額を献金した、献金することができたという自負があったのでしょう。逆に、やもめの献金は乏しさの中からの献金でした。有り余る中からの献金なのか、乏しい中からの献金なのか、この違いがキーになっていて、単に給料、お小遣いを全て献金しなさいと教えているのではないのです。

 この賽銭箱が置いてあったのはエルサレムの神殿です。神殿の中には13の賽銭箱が設置されていまして、それぞれの賽銭箱には用いられる献金の用途が異なっていたようです。また、一説には、献金する際に、賽銭箱の近くにいる係りに、献金の額と用途を伝えて、献金していたとも言われています。誰がいくら献金したのかということを記録するためでしょうか。その中で、主イエスは賽銭箱の向かいに座ってその様子を見ておられました。すると、多くの金持ちたちが多額の献金をする中で、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れました。夫に先立たれた、もしくは離婚して夫のいないやもめが一人で、または子どもを養いながら、生活していくのは大変なものでした。今の時代みたいにシングルマザーとして子育てをしていくという制度は整っていませんし、生活保護というしっかりした制度もありませんでしたから、その日ぐらしの生活で精一杯でした。だから、旧約の律法はやもめに対する配慮、やもめを大切にして保護しなさいと教えていますし、(申命記10:17~20)主イエスもナインの町で、ひとり息子を亡くしたやもめを憐れに思い、身体全体でそのやもめの痛み、悲しみを受け止められ、一人息子を生き返らせて、やもめに返してあげました(ルカ7:11~17)。初代教会もやもめに配慮することを大切な働きとしていました(使徒6:1~7、Ⅰテモテ5:1~16)。

 その貧しいやもめが献金したレプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスというのは、労働者の一日の賃金である1デナリオンの六十四分の一と言われていますから、ごくわずかな金額でした。しかし、それは彼女の生活費全部であったというのです。というのも、そのことを見ていた主イエスのまなざしから、それが明らかとなったのでした。主イエスのまなざしから、主イエスは弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」はっきり言っておく。これはアーメンという言葉です。まことにその通りですという意味です。それは誰よりもたくさんこのやもめは献金したということでした。そして、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と主イエスの言葉が続きます。乏しい中というのは、欠乏しているという意味です。少し余裕がある中で、それを全部入れたということではなく、欠乏している、要は献金できるものは何もないという意味合いで使われています。逆に皆は有り余る中から入れたというのは、献金として捧げるお金に満ち溢れているということで、それを捧げても自分の手元には十分お金が残るから、これだけ多くのお金を献金しましたという彼らの心の有り様でした。

 金額では明らかにお金持ちたちの方が多いですが、主イエスのアーメンという真実のまなざしは、やもめの乏しさにおける生活費の全てでした。生活費という本来の言葉の意味は、生活という意味の言葉です。やもめの生活、ようするにやもめの命そのものを指します。それが目に見える金額で言えば、レプトン銅貨二枚、ないし、一クァドランスというお金ですが、この額の少ない乏しい献金は彼女の命を表し、それを神様に捧げているということなのです。それは、このやもめが自分の力で生きていけない、命を永らえさせる根拠が自分にではなく、神様にしかない、神様により頼まずして、明日の命、いや、今この時の自分の命、生活は成り立たないということを主のまなざしは捉え、その彼女の思いを主イエスは受け止めてくださっているのです。自分の命は、生活は神様の御用の中で生かされている。その自分を養ってください、いやあなたの御用の中でわたしは養われ、生きていますという感謝と確信の中に彼女の献金の姿勢が示されているのです。

 先週は最も重要な掟の福音書の言葉を聞きました(マルコ12:28~34)。第1の重要な戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」というものでした。それは自分に力があり、余裕があるから、力を発揮して、主を愛することができるという意味ではありません。むしろ、自分にはそんな力はない。乏しい自分の姿があり、神様の養いなくしては生きることはできない。そんな自分を生かし、支えてくださる神様に信頼して、いっさいを委ねていく。そのいっさいというのが、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くすことであり、神様の愛の中に己の全てを注ぎ込んでいくことが神様を愛することであり、それが彼女の生活費の全てを捧げた姿に表されているのです。

 主イエスは山上の説教で「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5:3)と言われました。貧しいこと自体が幸いなのではなく、貧しさ故に、神様により頼んで、委ねていく心、姿勢が幸いなのです。このやもめの乏しさはその貧しい心を表していますが、それは全て神様に向けられている心、神様の愛の中に己を委ねている。生活費の全てを捧げたというやもめの姿勢が、神様への愛を大きく示しているのです。だから、彼女は他のどんな人よりも多く入れたのです。神様の愛を目掛けて、神様の御用の中で生かされている自分の姿が主イエスのまなざしの中に真実な姿として映し出されているのです。

 この物語は、主イエスのまなざしの中にあります。献金は主のまざなしの中で、真実に捧げられているのです。金額の大小ではありません。また余裕がある多く献金する、余裕がないから今は献金しないということを私たちに伝えているのではありません。全ての人が主のまなざしの中にあって、わたしたちがどんな状況にあろうとも、自分を見つめていてくださる主の愛のまなざしは変わることなく、わたしたちの捧げものを、私たちの主を愛する思いを喜んで受け止めてくださるのです。わたしたちは主の愛のまなざしの中にあって、献金をします。そこで自分を着飾ることはないのです。むしろ、このやもめのように、本当は何一つ誇って、捧げられるものはないほどに乏しいのです。しかし、それは惨めなことではなく、神様の愛の中に飛び込んでいく導きであり、そこにより頼んで、神様に捧げていくことができるのです。乏しくても、貧しくても、神様への信頼をもってして、すべてのものを神様に向けていく。それが神様への献金であり、その神様の御用の中で生かされている私たちの命のありかが示されているのです。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日 「はるかに大事なこと」

マルコによる福音書12章28~34節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 本日は礼拝の中で子どもたちの成長を神様に感謝し、お祝いする子ども祝福式を執り行います。子どもたちの成長には驚かされることもあるかと思いますが、使徒パウロはコリントの手紙で「成長させてくださったのは神です。」と明言しています。神様が一人ひとりを愛をもって育んでくださり、大切に育ててくださっているのです。それは命の根源が人にあるのではなく、愛をもって人を造られた神様にあるからです。その愛の証しとして、主イエスは子どもたちを祝福する際に、子どもについて、弟子たちにこう言われました。「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたと言います。神の国とは、神の愛が働くところであって、どこか特定の場所を指すものではありません。そして、子どものようにというのは、無邪気で純粋無垢な心を持つという意味ではなく、成長させてくださる方、養ってくださる方がいなければ、自分一人では何もできず、生きていけない者を指します。自分に何かができる、その自分の力や知恵によって神の国に招かれる条件となるのではなく、むしろ返ってそれらのものは神の国からは遠ざかる要因となるのです。ただ神様の御手の内にあり、主イエスに抱かれているものが既に神の国、神の愛の中に生かされているのです。

 ただもちろん、神の国に招かれているのは、子どもたちだけではありません。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと言われて、主イエスは宣教を開始されていったのです。悔い改める、それは自分から神様の方向に思いを向けて、神様の愛の中に立ち返ること、帰っていくことです。そうして全ての人が神の国に招かれているのです。

今日の福音書では、主イエスに質問し、適切な答えを言った律法学者が主イエスから「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。この人も神の愛、主イエスの祝福の内にあるのです。彼は前から主イエスと他の宗教指導者たちとの議論のやりとりを聞いていたのでしょう。主イエスに反発するものが多くいる中で、彼は主イエスの答えを立派なものとして受けとめていました。この立派という言葉は見事という意味もあります。単に理想高い立派さということではなく、見事な答えである、的を得ている答えであると受けとめているのです。主イエスを信じて今度は彼が質問しました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」掟、それは神様の教えである律法です。律法はかつて預言者モーセを通してイスラエルの民に与えられ、十戒をベースに、全部で600近くもある神様からの掟です。その多くの掟の中で何が一番大切かと質問しました。主イエスの答えは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』この言葉は今日の第一日課である申命記6章4―5節の言葉で、ユダヤ人は子供のときから、この掟を守るために、親からこの掟を教え込まれてきました。そして、全存在を込めて、この教えを守るように教えられているのです。常に神様との関係を大事にしなさいといいます。

しかし、主イエスは続けて第2の掟のことも話しました。『隣人を自分のように愛しなさい。』そしてこの二つにまさる掟はほかにない。」と言われます。これは旧約聖書レビ記19章18節にある言葉です。いずれも主イエスは聖書の言葉をそのまま引用して教えていますが、あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。という彼の質問に対して、ひとつではなく、ふたつの答えを言われました。神様だけを愛しんさいと言われたのではなく、隣人を愛しなさいとも言われ、それらは切り離せるものではなく、ひとつの他にまさる掟ではないと言うのです。

隣人のことについては、十戒にも書かれていますが、このレビ記19章を見ますと、9節、10節にはこう書いてあります。摘み尽くさないように、わざと残しておきなさいと言います。それは貧しい者や寄留者など、土地を持てない人のためだと言われるのです。その人たちのことを思いやりなさいということです。また13節、14節にはこうあります。ここでも耳の聞こえない人、目の見えない人の前に障害物を置いてはならないと言われ、その人たちを労わりなさいと言うのです。いずれもこれらの隣人に対して、愛しなさいという主イエスの言葉が示されております。そして最後には私はあなたたちの神である、あなたの神を畏れなさいと言います。隣人を愛することが神を畏れることであり、愛することであるいうことなのです。逆に、隣人をむさぼり、虐げることは、神をも虐げて、軽んじることでもあるということです。

だから、神様の掟である律法は、小さい者、弱いものを保護するための教えであり、全て神様の愛に根ざしているものなのです。ただ神様だけを愛し、人と比べて、神様の前に自分を誇ろうとすることは、返って、神様を軽んじることとなり、自分だけを大切にしている姿が映し出されるのです。

また、主イエスはただ隣人を愛しなさいと言われたのではなく、「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われたのです。自分のように愛するということは、自己愛のことを思い浮かべるかもしれませんが、自己愛はどこまで言っても自分中心の愛であり、それは他者中心の愛ではないのです。自分の都合のいいように隣人を愛しなさいということではないのです。それは神様との関係において、まず神様が自分のことを愛しているところから生まれてくる愛なのです。

ヨハネの手紙にこうあります。(ヨハネの手紙Ⅰ4:19―21)隣人を愛するということ、それは何よりも神様から自分が愛されていることを信じることであり、そこから隣人への愛が生まれてくるのです。

私たちは神の国から遠くないのです。神様の愛によって生かされている。その望みをもってして、主の愛の中にあって、共に助け合いながら、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2018年10月21日 聖霊降臨後第22主日「欠けているものが一つ」

マルコによる福音書10章17~31節  藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 アッシジの聖フランシスコという13世紀の修道士がいます。特に、彼自身の作ではありませんが、彼の精神をよく伝える祈り「聖フランシスコの平和の祈り」は、キリスト教会の中では有名でしょう。ちょっと読んでみたいと思います。
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。わたしに もたらさせてください……。憎しみのあるところに愛を、罪のあるところに赦しを、争いのあるところに一致を、誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。ああ、主よ、わたしに求めさせてください……。慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを。人は自分を捨ててこそ、それを受け、自分を忘れてこそ、自分を見いだし、赦してこそ、赦され、死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
前半は「憎しみのあるとこに愛を」、「絶望のあるところに希望を」と言った歌詞が続きますが、後半は「慰められるよりは慰めることを」、「理解されるよりも理解することを」、「愛されるよりも愛することを」と言った、難しく、重い印象を受ける歌詞が続きます。後半の歌詞は「自分からしなさい、自分から与えなさい」と続けて言っています。これらの内容を言葉通りに実際に守らなくてはいけないということを考えると、これは戒め以外の何ものでもないでしょう。好きな人にはできるかもしれません、しかし嫌いな人に対してはどうでしょうか。できるかと言われれば、できないと答えるしかないかもしれません。ですから、もうこれは修道士にしかできない、修道士だから守ることができる内容の祈りであり、自分にはとてもできないと思ってしまいます。

 この祈りのモデルになっていますアッシジのフランシスコ自身の、その生い立ちを見て見ますと、彼は元々裕福な家庭に生まれ育った人でした。彼は青年時代を、家の財産を使って、友人たちと遊びほうける日々に費やしていたそうです。ある時期から彼は好奇心あって、騎士になることを望み、各地の戦場に赴きましたが、大けがをし、病に侵され、闘病生活を余儀なくされます。その時から彼は不思議な声を聞くようになったそうです。彼はそれが神様の声だと知りました。そしてこういう御言葉を聞いたのです。「フランシスコよ、私の望みを知りたいのなら、まずお前がこれまで愛してきたものすべてを憎み軽蔑せよ、そしてこれまで嫌ってきたものすべてを喜びの泉とせよ」。彼はこれまで頼みとしてきた富を捨て、全く関心がなかった貧しい人々と関わり、施すことに喜びを抱きなさいという神様からの招きを受けたのでした。彼はそれから自分の財産を教会や施設に寄付し、積極的に貧しい人々と関わるようになったそうです。かつての友人たちは、そんな彼の姿を見て、嘲り、罵ったと言われています。そして、彼は、家の財産権、相続権、身分などを全て捨てて、家を飛び出し、方々を訪ねまわって、やがて修道院を設立しました。それが托鉢修道会である聖フランシスコ修道会です。彼はこの修道会の運営に携わりつつ、生涯、清貧を貫き、主イエスの生涯を模範としながら、貧しい人々に奉仕しました。その彼の精神が、それはキリストに仕える者としての姿が最初に読んだ平和の祈りに示されているのです。フランシスコの人生を一変させた神様の招きの御言葉、この招きの御言葉を、今日の福音から私たちも聞いているのであります。もちろん、私たちがフランシスコのような修道士になることは困難でしょう。しかし、彼のような業績を残すということはできなくとも、平和の祈りに記された「自分からしなさい、与えなさい」ということは、修道士ではない私たちと全く無関係なことではないということを受け止めていきたいのであります。

 さて、今日の福音でありますが、ある金持ちの人が、主イエスのもとに来て、永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいかと尋ねるところから始まります。主イエスはその人に問います。それは十戒の後半部分の内容でした。その人は答えます。「そういうことは、子供の時から守ってきた」と。子供の時から、神様の教えを守ってきたということは、もうユダヤ人の模範生ということができるでしょう。フランシスコも金持ちでしたが、彼は青年時代を遊びほうけて暮らした道楽者です。この金持ちの人とは、人生の歩み方が違うのです。子供の時から守り続けてきた神様の教え故に、どうすれば永遠の命を得て、救われるのですかと、彼は訪ねているのです。

 その真剣さは、主イエスの下に走り寄り、ひざまずく姿から十分に伺えます。当時のユダヤ社会においては、神様の律法を守り、富みにあふれる人は、人々の模範となるだけでなく、神様から特に祝福されている者として見られていたのです。ですから、彼のような人物こそ、真に永遠の命に与れる状況を造りだしていたと言っても過言ではないのです。彼自身、自分がそのような人物であり、そのような状況に置かれていたことを十分に把握していたことでしょう。しかし、同時に焦りと不安を感じていたことも事実だと思います。子供の時から守ってきた神様の教えを、今も守っているはずだが、しかし、本当の救いが自分には与えられていないのだと。何が足りないのか、何をすればよいのかと、彼は主イエスに訪ねているのです。彼は目に見える外面的な行為の中に、その条件を見出そうとしたでしょう。もう自分自身は、永遠の命を受ける近い立場にあるのだから。そういう確信がないと、とても神様の教えである十戒、すなわち律法を守ってきましたとは言えないはずだからです。

 そんな彼に「あなたに欠けているものが一つある」主イエスは彼の欠けているものを指摘しました。確かに足りないもの、欠けがあったのです。しかし、それは彼自身の内面的な問題でした。物を売り払って、貧しい人々に施し、私に従いなさい。これが主イエスの答えでしたが、彼はこの答えを受け入れることができず、悲しみながら立ち去ったと記されています。多くの財産を持っていたから、これが聖書に記されている答えですが、23節の主イエスと弟子たちとの会話の中ではっきりと主イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言っています。それはあたかも、試験を受ける前に、結果が出ているようなものです。主イエスは、金持ちの人の内面性をご存知でした。既に、彼が財産に囚われている姿を見出し、永遠の命、すなわち神の国を妨げている要因となっているものに目を向けていたことがわかるのです。金持ちの人は、確かに子供の時から神様の教えを守ってきたのでしょう。そうであれば、貧しい人に施しをしていたのかもしれません。しかしそれは、彼が財産を目的の手段として、用いていたからであって、財産を手放すということにはならないのです。いやむしろ手放すことはできないのです。私たちは、人が何か拠り所とする、頼れる物をそう簡単に手放すことができないということを知っています。それは執着心というより、それがないと不安だからです。生きていけないからです。それらを手放しなさいと言われたら、私たちもまた悲しみながら、主イエスの下を離れていくでしょう。私たちは「与える」ということの困難さを経験しているのです。

 それでは、私たちは金持ちではないから大丈夫だと言えるでしょうか。その言葉に表されているのがペトロの姿なのです。「私は何もかも捨てて、従ってまいりました」と。しかし、私たちはペトロをはじめ弟子たちが主イエスを見捨てて、逃げ出してしまったことをも知っているのです。彼らもまた主イエスに従うことはできなかった、具体的には「十字架」に従うことはできなかったのです。今十字架への旅路を進まれる主イエスと弟子たちの道は、同じ方向を目指しているようであって、目指してはいないのです。彼らもまた欠けたるものなのです。「それではいったい誰が救われるのか」、弟子たちのこの言葉は私たちの言葉でもあります。私の救いとは何かと。たとえ様々な自分の拠り所とする物、頼れる物に頼ってしても、それらでは解決できない問題、不安が私たちの人生にはたくさんあるのです。だからこそ、私たちも、この金持ちの人と同じように問いたくなるのではないでしょうか。何をしたら救われますかと。

 しかし、私たちは主イエスとこの金持ちの人との出会いを印象深く見つめることができるのです。いや、それ以前に、私たちが主イエスによって既に見つめられていることを知るのです。主イエスはこの金持ちの人を慈しまれた、具体的にこの言葉は「愛した」という意味なのです。悲しみながら立ち去る彼を、追い立てたのではなく、じっと見つめておられたのです。そのまなざしは弟子たちにも向けられていました。欠けたる者を責め立てるのではなく、ただ見つめ、愛したということなのです。どこを向いても、どのようなあり方であっても、この愛のまなざしを向けて下さるのは、今十字架への途上にある主イエスただおひとりなのであります。この愛のまなざしが自分に向けられていることを知るとき、その恵みを知り、その恵みのみによって生かされていることを知るときに、私たちはこの方に従うことができるのです。

 ヨハネによる福音書3章16節から17節には次のように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様の御旨は、愛する御子主イエスをこの世界を救うために遣わされたことに示されているのです。この愛する御子を信じる者に、永遠の命は既に約束されているのです。この恵みを私たちは受け取ればいいのです。欠けたる私たちでも受け取れるのです。なぜなら、主イエスが私たちを愛のまなざしで見つめてくださっているからなのです。

 そして、フランシスコの平和の祈りに記されている言葉も、私たちに道徳でも戒めでもない言葉として見えてくるのです。主イエスこそが私たちを慰めて下さり、理解してくださり、愛してくださる。そのためにご自身が十字架の死を身に受けて、復活の希望を成し遂げてくださった出来事が、福音として私たちに宣言されているのです。それが私のために為されたこととして、救いの確信を得ることができたとき、その恵みを隣人へと向けていくことができるのです。

 教会はまさしく、大きくても小さくても、与え合う者たちの群れであることを願っております。その姿を私たちはまず初代教会の時代に見ることができるでしょう。使徒言行録4章32節から34節にこうあります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。」主イエスがその愛のまなざしをひとりひとりに向けて下さり、心も思いもひとつにし、愛し合う群れとして、私たちの歩みを導いてくださる方として共にいてくださいます。その方に従う幸いを、心から願ってまいりましょう。

 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。