マルコによる福音書13章24〜31節
高野 公雄 牧師
それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
マルコによる福音書13章24~31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
毎年11月に入りますと、礼拝の主題は「世の終わりは近い」ということになります。そして、教会の暦では新しい年を迎えて待降節に移ります。そこでの主題は「キリストの到来は近い」ということです。聖霊降臨節と待降節は、暦の上では一年の終わりと始まりという大きな区切れ目ですが、礼拝の主題はなめらかに続いているのです。
きょうの福音は、マルコ13章です。これは、イエスさまの受難の出来事が始まる直前の場面で、弟子たちにまとまった教えを説く最後の機会となりました。
エルサレム神殿の建つシオンの丘の東側にオリーブ山が向かい合ってあります。イエスさまは最後の一週間、その山のふもとのベタニア村に宿をとり、毎日、そこから神殿に上って、そこで出会う人々と対論をしたり教えたりしました。それもこの日が最後で、弟子たちが神殿を見納めする場面から、13章の話は始まります。
《イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」》(1~2節)。
このように、イエスさまはこの壮大な建築物である神殿の崩壊を予言します。神殿の崩壊は、ユダヤ人にとって宗教と民族の滅亡を意味するものでした。神殿からの帰路、オリーブ山に差し掛かったとき、イエスさまに最初から着いていた四人の弟子たちが尋ねます。
《イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。・・》(3~5節)。
イエスさまは弟子たちに答えて、偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、飢饉、そして神殿の崩壊などが起こると答えます。そして、最後に起こることとして話されたのが、きょうの個所です。
《それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」》(24~27節)。
この世が終わり、人の子が再来すると言うのです。このような話は現代の私たちにとって、荒唐無稽な話、別世界の話という印象が強いのですが、イエスさま当時の人々やマルコ福音が書かれた当時の人々にとっては、これは現実的な話でした。
《憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。》(14~16節)。
こう語られる出来事は、イエスさまが話したときには将来のことでしたが、マルコが福音書を書いたときには直前に起こった生々しい出来事でした。この同じことを、ルカ福音はもっと直接的に紀元70年の出来事として描いています。ルカは神殿崩壊を神の裁きと見ています。
《エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい》(ルカ21章20~21)。
「ユダヤ戦争」は、紀元66~70年に起きました。当時ユダヤを支配していたローマ帝国に対してユダヤ人たちが一斉に武装蜂起して独立戦争を仕掛けたのです。イエスさまの言葉に「そこから立ち退きなさい」とあるように、イエスさまを信じる者たちはこの戦争に加わらず外国に避難したのです。ユダヤ人にとってそれは神と祖国への裏切りであり、この戦争を機に、イエスさまを信じる者たちは正式にユダヤ教の会堂から破門されることとなり、キリスト教という別個の宗教として歩み出すことになったのです。
これは民族の存亡を懸けた壮絶な戦いとなりましたが、ついに最後の砦であったエルサレムが攻め落とされ、イエスさまの予言にあったように、神殿は西壁(「嘆きの壁」と呼ばれます)を残すのみで、跡形もなく破壊し尽くされました。生き残ったユダヤ人たちは所払いとなり、以来二千年祖国のない流浪の民となったのです。
この時代、キリスト教徒にとっても存亡の危機を迎えていました。ユダヤ戦争が始まる66年までには、ペトロとパウロはローマで殉教死していました。このころまでにはイエスさまの直弟子たちは世を去り、いなくなってしまったでしょう。そして、ユダヤ教の会堂からは破門されて迫害を受け、ローマ帝国からは非合法宗教として迫害の対象となりました。マルコが避難の地シリアでイエスさまの伝記の形で福音書の書いたのは、こういう危機の時に、それを乗り越えるようキリスト教徒を励ますためでした。
ユダヤ人にとって敗戦と祖国の喪失は、世の終わりと思うような出来事だったでしょう。日本人にとっても先の大戦における爆撃や原爆投下は世の終わりと感じられたことでしょう。東日本大震災も被災地の人々には、そういうものと思えたかも知れません。しかし、《慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・これらは産みの苦しみの始まりである》(7~8節)、そして、《いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない》(28~29節)、こうイエスさまは諭されます。
《「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。い。」》(32~37節)。
家の主人が旅に出たのに似て、私たちは今イエスさまが目に見える姿では不在の時を過ごしています。そして、世の終わりとキリストの再臨の時がいつであるかは神のみぞ知ることであって、私たちには分かりません。しかし、その時が来ることは確かなことですから、私たちはまどろんだりしてないで、気をつけていなさい、目を覚ましていなさい、とイエスさまは言われます。
気をつけている、目を覚ましているとはどういう意味でしょうか。ルターの言葉として知られている言葉に、「たとえあす終末が来ようとも、きょう私はりんごの木を植える」という言葉があります。あす世界が終わりになってしまうなら、きょうリンゴの木を植えても実りを得ることはできません。にもかかわらず、あす世界が終ろうが、自分の命が尽きようが、明日への希望を持って日々の務めを果たしていく。私はそうしているところで、再臨のイエスさまにお会いしたい。この言葉は、そういう心を表わしているのでしょう。気をつけている、目を覚ましているとは、こういう姿勢で生きることを意味しているのだと思います。
この関連で、アメリカの神学者ラインホールド・二ーバーの「平静の祈り Serenity Prayer」が思い出されます。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。
きょうはマルコ福音を読み継いできた最後の日曜日、来週からは待降節に入り、ルカ福音を読んでいく年に替わります。きょうはマルコ福音の読み納めになります。そして、きょうの福音、マルコ13章は、いわば、ご自分の死を目前にしたイエスさまの弟子たちに対する遺言です。そういう意味で特別に注意して聞くべき教えが書かれていたと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン