2004年6月27日 聖霊降臨後第4主日 「涙の意味」

ルカ7章36~50節

 
説教  「涙の意味」  大和 淳 師
 今日の福音書が、何よりこの物語を通して語ろうとしていること、わたしたちに伝えようとしていること、それは「罪の赦し」です。「罪の赦し」、それがイエス・キリストの福音であり、もっと言えば「罪の赦し」とはイエス・キリスト、イエス・キリストが罪の赦しそのもの、そう言ってもいいでしょう。この女性、「罪深い女」と呼ばれているこの人、恐らくは娼婦であったと推定されているこの人は、そのようにイエス・キリストが「罪の赦し」であるが故に、この方のもとに近づいていったのです。

 ところで聖書が「罪」、そして、その「赦し」を語るとき、わたしどもは注意しなくてはならないことがあります。「罪」、そして、その「赦し」とは、まったく<わたし>の罪、そして、<わたし>の「罪の赦し」なのだ、ということです。つまり、わたしどもは、「罪」というとき、ほとんどそれは「他人」のそれなのです。あるいは自分についてであっても、全くどこか他人事のようにそれを考える自分がいるのです。このファリサイ派のシモンがこの方から離れて立って「これを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った」(39節)と言う、そのようにわたしどもは、他人の罪にはまったく敏感です。まったく他人の罪はよく見える、そう言っていいかもしれません。そうして必要以上に他人を裁いてしまうのです。

 離れて立って。もちろん、自分の罪に真剣に悩む人もいる、いやそういうときがある。どうしようもない重荷、自分の罪をかかえて生きている、そのことに苦しむ。しかし、ここにも危険があるのです。それは、いわば必要以上に自分を裁いてしまう罪、あまりに深刻に捉えてしまう罪です。

 いずれにせよ、わたしたちの中には、しばしばこの深刻である、そのことが判断、行動のいわば基準となってしまうのです。だが、問題が深刻であるということと真剣であるということは必ずしも同じではありません。深刻であるというのは、問題の重大さに心が深くとらわれているということです。このあるシモンのように。その彼の思ったということ、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、それは、主イエスが、この女の罪をまったく深刻に考えていない、そういう風に言っていると言い換えていいでしょう。この女の罪がどれほど深刻か、この人はそれが分からない、だから預言者ではない、と。こういうことは皆さんも経験があるのではないでしょうか。

 たとえば、大体夫婦喧嘩などは、わたしがこれほど深刻に悩んでいるのに、この人はちっともそれが分かっていない、そう非難を始めるわけです。でも、たとえば夫婦揃って、本当に何かの問題に深刻になってしまったら、恐らく解決は見つからないかもしれない。誰かが、やはり冷静に考え判断できなければ、それこそ一家心中というような悲劇となってしまうでしょう。それは極端だとしても、しかし、この深刻になるとき、わたしたちは、いわばそういう風に深刻になっているということに、いわば酔ったように、それだけ自分は正しく判断しているんだ、まともなんだ、そう思い込んで、他人を裁いているわけです。だから、深刻に振る舞わない人を裁く。しかし、むしろわたしたちは問題を負おうとしない、逃げ出したいからこそ、深刻になるのだ、とそう言えるかも知れません。本当に問題を負っているなら、深刻になる先に、既に行動している、その方が真剣である、そう言えるかも知れません。この女のように。あるいは、そこで本当に自分とは違う意見、理解に、このシモンのように腹を立てたり、非難することなく真剣に耳を傾けることができるのです。

 それで、先ほどのファリサイ派の人、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」、そう思った、それは「これを見て」、そう思ったと書かれていることに注意したいのです。その「これを見て」というのは、この「罪深い」と呼ばれてるこの人の主イエスへの行動、態度を見てということですが、しかし、主イエスは、後で、その彼にこう言う訳です、「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。『この人を見ないか・・・・・・・・』」(44節)。「この人を見ないか」と。これは大変不自然です。主イエスは「女の方を振り向いて、シモンに言われた」、つまり、主イエスご自身はこの女を見つめて、しかし、その言葉はシモンに、しかも「この人を見ないか」と言われたのだ、と。それはシモンは、この人を見ていないのだ、ということと同時に、この方はまたこのシモンそのもの、ありのままを見ておられるのだ、ということです。と言うのも、この主イエスが、そのシモンに語られた言葉を見てみますと、大変具体的に事細かに繰り返し「あなたは・・してくれなかったが、この人は・・してくれた」と言われています。主イエスは、この人、この罪深いという女だけではなく、このシモンという人、この人にもまたそのもの、ありのままを見ておられるのです。つまり、しばしばわたしたちは誤解してしまうのですが、主イエスは、決して一方的にこの女の人の側に立っているのではないのです。言うなれば、この女の人の方が、シモンより深刻なんだ、そういう風に同情を寄せているわけではないということです。実は、あたかも、主イエスはシモンよりこの女の味方なんだ、そんな風にわたしどもが思ってしまうのは、ちょうど、このシモンが、この女の人を「罪深い女」なのに、そういう風に見ている、それと同じように、今度はわたしたちが、「この人はファリサイ派の人なんだ」、とそういう眼で見ている、つまり、やはり、わたしたちも「この人」そのままを見ていないわけです。しかし、本当に、誰であれ主イエスはありのままに見て、そして、ありのままに受け入れておられるのだ、そう言うことが出来るわけです。本当に誰に対しても真剣に関わるお方なのです。

 けれども、問題は、そのありのままということ、主イエスがありのままに見てくれているということです。そのありのままのわたしたちとは?そのことがここで主イエスは譬えで語られる訳です。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンの借金があった。そういうところからこの譬えは始まっています。わたしどもは、この額の大きさにどうしても注意がいきがちです。やはり、五百デナリオン、その方が深刻である、と。そして、更になるほど、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」、この問いに「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」、そうシモンは答えると、主は「そのとおりだ」と言われているからです。

 けれども、まず第一に、この主イエスの問いは、すでに「二人のうち、どちらが多く罪があるか」、そうは決して問うていません。そうではなく「どちらが多く愛するか」、そう問うておられる。そして、もっと肝心なこと、それはこの譬えの中心は、「二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった」、ここにあるということです。つまり、五百デナリオンであれ五十デナリオンであれ、ともかく、二人ともそれは返せなかったのだ、ということ。いわば、金貸しの立場から言えば、どちらも借金を返せない、つまりどちらも罪を負っているわけです。しかし、この金貸しは、何と驚くことに、二人とも「返すことが出来ない」、ただそれ故、帳消しにしてやったのだ、というのです。わたしどもは、比べれば、五百デナリオンの借金のある人の方がよほど深刻だ、つまり、五十デナリオンの借金の人よりよほど貧しい人間のように思ってしまうわけですけれども、「二人には返す金がなかった」、これが事実である限り、この金貸しから見るなら、むしろ、五十デナリオンの借金の人の方が、何と言っても額が少ないのだから、本当なら五百デナリオンの人間より返し易いはずなのですから、それなのに返せないということは、むしろ五十デナリオンの借金の人の方が五百デナリオンの人間よりもっと貧しいとも言えるわけです。つまり、どっちが深刻かで言えば、どちらも劣らずそうだけれど、その五百デナリオンから比べれば、その十分の一の五十デナリオンも返せない人間の方が今、この今よっぽど深刻な状態にいるのだ、と言えるかも知れない。しかし、主イエスはそういうことは一切問わない。ひたすら、どちらも返せなかった人間、そして、しかし、それが故に、赦されている人間として、つまり、まさにそれがありのままのわたしであるということ、そしてその罪、欠けもひっくるめて、いやむしろその欠けのゆえに自分を愛してくれる、そのようなお方としておられるのです。  だから、この女の人、だから、この主イエスのそばに近づこうとした。近くにいることを願い、それがかなって泣いた。この主イエスの傍らで自分自身である悦びを味わったのです。「生きる力」は、生きる喜びからしか得られません。そして生きる喜びは、自分自身である悦びなしに味わうことはできないのです。そして、生きる喜びとは、結局のところたった一つ、愛することができる悦びです。「この人を見ないか」とは、シモンへのその喜びへの招きなのです。

 星野富広さんのこんな詩があります。「いのちが 一番大切だと/思っていたころ 生きるのが苦しかった いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった。」短い詩ですが、改めて読みますとまず「いのちが 一番大切だと/思っていたころ」という一言にはっとさせられます。「いのちが 一番大切だと思っていた」、当たり前のように、日々そう生きようとしている自分がいるからです。そして、「いのちより大切なものが/あると知った日」、「いのちより大切なものがある」、このことが更にまたハッとさせられるのです。「いのちより大切なものがある」、わたしどものこの日々、「いのちより大切なものがある」、「いのちより大切なものがあると知った」、星野さんはそう歌います。わたしは本当にそのこと、いのちより大切なものがあることを知っているだろうか、と。しかし、それよりもっと大事なのは星野さんは「いのちが 一番大切だと思っていたころ」、それは「生きるのが苦しかった」と言っていることです。だが、「いのちより大切なものがあると知った日」「生きているのが嬉しかった」。星野さんのこの詩は「生きるのが苦しかった」、そして「生きているのが嬉しかった」、「生きる」と「生きている」と言葉が変わるのです。それは自分の命が一番大切だと、自分で生きていると思っていたとき、生きることは苦しかった、しかし、「生きている」、「いのちより大切なもの」によって生かされている、そのことを知ったとき、その傷だらけの自分、一人で生きているのではないその自分が「生きているのが嬉しかった」、そういう思いが伝わってきます。これが、この女の人の涙の意味なのです。わたしにいのちより大切なものがある、既にある、それによって、あなたが既に生かされている、喜びがある。

 もう一つ、「この人を見ないか」とシモンに言われておられること、そこで見逃してはならないもう一点があります。それは、この女のしたことにしろ、そしてまた、シモンのしなかったことにしろ、そこで挙げられているのは、「わたしにしてくれた」「わたしにしてくれなかった」こと、つまり、ともかく一切、この方、主イエス・キリストに対してしたこと、またしなかったであるということです。したことにしろ、しなかったことにしろ、そのわたしたちの一切はことごとくこの方にしたこと、しなかったこと、そのようにわたしに相対しておられる方なのです。そうだとすれば、どんな小さなことでも、この主イエスの感謝として、悦びつつしていく、わたしたちのこの人生、生活に一切無駄なものはないのです。主が必要としてくださるのです。

 主イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる・・・」、そう言われています。主イエスを愛する、それはまことに「いのちより大切なものが/あると知った日 生きているのが嬉しかった」ということ、つまり、主を愛するとは、また自分に対して希望を持つことだ、そう言えるでしょう。今自分たちが置かれているまわりの状況がよいから生きているのが嬉しいのではない、希望を持つのではない。それは良いときも悪いときもある。いや、実際にはいつもそれが混在している、そう言えるでしょう。暗さもあれば明るさもある。「いのちより大切なものが/ある」、つまり、わたしはこれほどに赦されている、愛されている、その信仰を欠いたとき、いつも暗さだけを感じる夕方の生活となる、「生きるのが苦し」くなる。しかし、「いのちより大切なものが/ある」、わたしは赦されている、愛されている、その信仰に立てば、朝、まだ暗い、しかし光があるように、朝のように生きる。主を愛するとは、そういうことです。それで、最初に、問題を深刻に、必要以上に深刻に考えてしまうということを少し申しましたけれど、このことから言えば、それは実はわたしたちにとって申告なのは問題の大きさというより、結局は信仰の、いや不信仰の大きさの問題である、そう言い換えていいでしょう。

 主イエスは最後にこの女に、「『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた」と言います。宮沢賢治が、死ぬ10日前に友だちへの手紙に残したというこんな言葉を思い起こすのです。彼はこう言うのです、「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか、月々働いたものの中から五円だけ(これは大正時代の五円ですが)家族を助けるとか、このようなことは、できる人にとってはなんでもないことのように思われるでしょうが、すでにそれができなくなった人間にとっては、神わざのように思われます。そういうことがわからないようでは、人生がわかったとは言えません。どうかあなたの生活をたいせつにしてください」。  赦されていることを知るとは「いく時間も続けて大きな声で話をするとか、風が吹く野原の中を歩き回るとか・・・」、そういう何でもないことができるということに涙が出るほど、本当に大切に思える、そういう風に自分の生活をたいせつにしていく。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」、それは、あなたにはこれからも良いときも悪いときもある。いつもそれが混在している。暗さもあれば明るさもある。嬉しいこともあれば腹の立つこともある。けれど、何よりまずあなた自身がこれほどに赦され、愛されている、だから安心して、どうかあなたの生活をたいせつにして行きなさい、そういうわたしたちへの約束なのです。自分の生活をそのように大切にできる人間こそが、また他者を愛する、たいせつにできるのです。あの人もこの人も、額の違いはあれ、でも等しくただ返すことができないが故に愛されている、赦されているのですから。

2004年6月20日 聖霊降臨後第3主日 「もう泣かなくても」

ルカ7章 11-17節

 
説教  「もう泣かなくても」  大和 淳 師
11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 短い小さな物語を今日ご一緒に読みます。イエスがナインという町の門に、弟子たちや大勢の群衆と一緒に近づかいていかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死に、棺が町の門から担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。そういう情景が語られています。
  母親は泣いていました。涙が止まらなかった。彼女は既に夫を亡くし、そして今また一人息子を亡くしたと言うのです。それは彼女にとって天涯孤独の身になったというだけでなく、彼女を養ってくれる扶養者をも失ったということを更に

物語っています。だから、その棺に付き添っていたという大勢の町の人々も一層悲しんでいる、それは人々の大きな泣き声に包まれた一団であったでしょう。

  その死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から郊外の墓地へと向かっていこうとしたそのとき、正反対の方向から、主イエスが、彼の弟子たちと大群衆と共に歩き進んできました。そのイエスの一団と葬儀の一団が、町の門、そこで出会ったのです。物語はそこから始まります。
  聖書はこの出来事をまことに見事なそのコントラストをもって描き出します。一方から、棺、死者を中心とした死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、その反対方向からイエス、命の群が町の門の中へとやってくる、その出会い、死と命、滅びと救い、絶望と希望がまるで衝突するかのように ― この鮮やかなコントラストは、しかし、この直前の百人隊長のしもべの癒しの物語から引き継がれているのです。

  このすぐ前の物語、それは、ヘロデの傭兵であった百人隊長、彼の従卒従卒が病気で死にかけていたというところから物語は始まっていました。その百人隊長は、しかしイエスのことを聞いて、町の長老に頼んで、その僕を癒してもらおうと彼らをイエスのもとに遣わした。そうしてイエスはその彼のもとへと向かったのですが、その一方で死は刻一刻と近づいていたのです。一方で、死が、しかし、他方から今やイエス、命が接近してくる ― そういう中で、この人、百人隊長は、主イエスに直接お出で下さらなくてもいい、主に直接その手で触れてもらわなくてもいい、ただ主イエスの御言葉、それだけで十分なのだという大胆な信仰に立つことが出来た、イエスが感心するほどのその信仰に立つことが出来た、そういう物語でした。

  つまり、こういうことです。死は最早この命である方、主イエスに勝たなかった。それどころか、いや何と言っても、この命、イエスが近づいてこられるとき、死は、この隊長、その心、彼自身を屈服させることもできなかった。その時、もうどうにもならないのだ、どうしようもないではないか、死はそう彼に語りかけていた。おまえは、いくら会堂をイスラエルの民のため、神のために捧げようとも、つまり、どれほど良い、立派な行いをしようとも、それは最早無駄だ、この死の前で何になろうか、と。しかし、この隊長は、イエスが近づいてこられる、その接近の中で、その無力、ちっぽけな、取るに足らない者であるがままに、死へと屈服するのではなく、イエス・キリスト、その権威に従った、すなわち真の自由を得た、そういう物語であったのです。

  そしてまた再びこのナインという町で同じように、死の悲しみに包まれた人間の群が町の門から出ようとしている、しかし、イエス、命をを中心とした群が町の門へと向かってくる、福音とはこの出会い。そのような人生の時に出会うこと。福音書は繰り返しそう語るのです。つまり、こういうことです。この葬儀の行進に、イエスと彼の一団、それはいわば結婚式のような喜び、生の喜びに溢れ、輝いているその行進、命が訪れるのだ、と。

  町の門、それは単なる町の出入り口ではないのです。古来、町の門、それは町の中心であり、会堂があり、またそこで勿論市も立つし、裁判も行われる、このように葬儀の舞台ともなれば、花嫁、花婿が晴れやかな姿を見せる。深い悲しみに暮れるようなときには、そこに座って、そこに伏して人々は嘆き悲しみ、祝いの時のは、そこで歌い踊る。それは人が泣いたり笑ったりする、会堂と共に人間の生活の中心、生活そのものであったのです。

  それ故、ここで福音書が語るのはこういうことです。町の門、広場、そこでこの死と命は、そのまますれ違って行くのではなかった。この死の群と命の群、その中心にイエスがいまし給う。イエスがその中心におられる、この二つの群の、この町の門、すなわちわたしどもの生活、生の中心となられた、と。つまり、ここでこの主がおられなかったなら、その中心、そこで力をもち、わたしたちを支配するのは、まったく死の力、その現実です。死 ― 命の何もかも飲み込む死、町の広場を真に支配するのは、そこでわたしたちが実感するのは、この葬儀、泣いている喪主、この母親、その死の生のリアリティーであると言っていいでしょう。

  聖書はそのことを、あの百人隊長の物語でも、ここでも、そのようなわたしたちであることを、その現実をありありと描きます。だが今や、悲しみが支配しているその中、その中心に主イエスがいまし給う。今わたしたちの町の門、生においても、イエスが、中心であり給う。すなわち、この死の群に対しても!

  問題はその主イエスが中心となられた、それは、どのようにこの方はわたしたちの生、その中心となられたもうか、です。つまり、主イエスがわたしどもの中心となられたとき、一体、どういうことがわたしたちにもたらされているのか?

  単刀直入に聖書はこう記します。「主はこの母親を見て、憐れに思い」(13節) ― 他の誰でも、何にでもない、その母親、彼女に、悲しみ、苦しみの中心に真っ直ぐに目を向けてい給う、と。そこで悲しんでいる人間に。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。主イエスは深く憐れんだ、共に悲しんだ、そのようにして、イエスは、この死の群に対しても中心となり給うたのだ、と。「彼は彼女を深く憐れまれ」た。つまり、この物語、その一切の中心は主が憐れんだ、「彼女を深く憐れまれ」た、そのことにあります。あのヨハネ福音書の復活物語において、天使たちが、そして更にこの復活したイエスご自身が、イエスを失った悲しみに泣いていたマリヤに繰り返し「なぜ泣いているのか」(ヨハネ20章13、15節)と語りかけたように、ここでも母親に「もう泣かなくともよい」と言われ給うのです。

  「もう泣かなくともよい」、神の憐れみが一直線に、この一人の人の悲しみの底、苦しみのどん底にある一人の人に向かって、もうすべてを失ってしまったと思っていたこの人に向かっていくのです。泣きながら、死んだ者によりすがるようによろめきながら歩く、死の行進を続けている人間、その悲しみをイエスがすくい取られるのです。その死の行進、誰も止められない、また止められるはずもなかった死の行進を、この方が、この方こそが止め給うのです。

  そして、なるほど、聖書はここでまるで信じがたいことを記します。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めたので、彼は彼をその母に与えた。」(13-14節)

  「すると死者は立ち上がって、そしてしゃべり始めた」、しかし、それはここで起きていることの全く外側のことに過ぎません。それは事柄の周辺的なこと、ものごとの影のようなことなのです。ここで、聖書が心をこめてここで語り伝えていること、それは「彼は彼をその母に与えた」、この一言なのです。主イエスは、彼女の唯一人の息子を彼女に与えた、彼女は自分の人生を、新たにもう一度与えられた、聖書は、さりげなく、しかし心をこめてそのことを語るのです。いわば神の真心、神の命のぬくもりを伝えているのです。
  みなさんは旅行などに行って、たとえばガイドさんが「今日は雨で見えせんが、晴れていればここからきれいな湖が見えるんですよ」と説明されたとき、そんなありもしない湖なんか信じるもんか、そう思うでしょうか?そうか残念だな、そう思って、心の中で、その見えない湖のこと、あるいは見えない山を思い浮かべるのではないでしょうか?第一、そんな湖はあるもんか、そう思っているとしたら、その旅は決して楽しいものでも意味あるものにもならないに違いありません。人生というこの旅もまったく同じです。

  言ってみれば、聖書は私どもに、ちょうど、そのガイドのように伝えているのだ、と言っていいかも知れません。つまり、長い人間の歴史の中で、まさに本当に快晴の日々があった、そのとき、本当に一点の曇りなく、神様のみ業が現れ、そのとき、聖書の人々はそれを目の当たりにしたのです。しかし、残念ながら、わたしどものこの時代は、その日のように晴れているのではなく、ちょうど今梅雨の季節ですが、そのように日々雲がかかり、時には全く一寸先も見えない霧に包まれたりする。しかし、たとえ、今眼に見えなくとも、この主イエスの憐れみは、わたしたち一人ひとりに、神の愛はわたしたち一人ひとりに注がれるのだ、と。だから、天候の如何にとらわれず、その目に見えない愛を信じて、旅を続けるのだ、と。

  そして、これが事実であるとしたら、つまり、このように、イエスは、わたしたちの死への行進の中に、踏み込んでこられ、私の悲しみに真っ直ぐに目を向けておられる、そしてそれをご自分のものにされている、そして、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」 ― すなわち、立ち上がれ、このわたしと共に、あなたよ、起き上がれ、そのように言われ、その力をもって臨まれている、そのことが、このわたしの生、人生、この生活において事実であるとしたら!

  16節、こういうことが最後に記されています。「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」
  「大預言者が我々の間に現れた」、偉大なる預言者、わたしたちが思いがけない力をもった方があらわれた。これは文字通り直訳すれば、「偉大なる預言者が我らのもとによみがえった」、復活した、イエスは、わたしたちのもとに、わたしたちの中に復活した。そして、「神はその民を心にかけてくださった」、これも文字通り直訳すれば、「神はその民を訪れた」。神はわたしたちを訪れてくださった。

  神はわたしたちを訪れて下さった、なるほど、死が訪れる。だが、その死の群の中にいるわたしたちに、神は訪れて下さる。棺、死者、死がその中心であったこのわたしたちの生、その傍らで、さめざめと泣き悲しんでいる母親がいる、そのように、この生の中心に、そのような悲しみ、不安をどっかりともっている、そこから波紋のように、この悲しみが、不安が群全体を被っていくように、そしてその行く先は、まったくもって墓場、死である!生の終わり、この命の崩壊、それが迫っているこの群、この生活。このわたしの見えるところのこの事実!

  だが、思いもかけず、神はわたしたちを訪れて下さっていた。十字架の主が、わたしたちの真ん中となられていた。この方の憐れみ、いつくしみが、それにも関わらず包んでいる。本当に信じられないことに、思いがけないことに、そして恐れずにはおれないほどに、それがわたしたち、このわたし自身であると言うこと。
  だから、わたしたちも起きあがる、あなたも立ち上がることができる。イエスは息子をその母親にお返しになったように、あなたは、あなたにとってかけがえのないもの、あなた自身を取り戻す。だから最早泣き続ける必要はない、「泣かなくてもよい」、そのような人間としてここにいる。なるほど、わたしたちは確かに泣き崩れる人間。人知れず涙を流して生きている。そしてこれからも人には言えない悲しみを、苦しみを抱いて、この町の門、人生の広場を歩むかも知れません。だが、たとえそうだとしても、その悲しみの向こう、その涙の向こう、遠く彼方にイエスはおられるのではない。だから、わたしたちは、今やあたかもその悲しみの向こうにイエスを見るのではなく、あなたのその悲しみ、その苦しみの真ん中に、キリストの十字架、この方のよみがえりがある。希望!このわたしの中にではなく、わたしの傍ら、わたしの希望はこの主イエスにあるということ。

  だから、「もう泣かなくてもよい」。涙を拭いて、立ち上がることの出来る人間として、この方と共に涙のしみの付いた顔で、神はわたしたちを訪れて下さった、と笑うことができる。イエス、この方が近づいてこられる。だから、あなたは、そしてこんなわたしでも「もう泣かなくてもよい」、主は言われる、「もう泣かなくてもよい」、だが、きっとそのあなたをみつめてい給う主の眼は、真っ赤な眼をして、涙で溢れているのです。そしてそのあふれる涙の中で叫び給うのです、「もう泣かなくてもよい!」みなさん、みなさんも分かるでしょう、この「もう泣かなくてもよい!」は、また涙を知っている、その悲しみを自ら負っている人、涙を流す神だけが語りかけることのできる言葉であることを。

  梅雨、うっとうしい天気 ― でも、わたしたちは、この梅雨がやがて明けることを知っています。今は晴れていなくても、その空が見えなくても、再び空は、青空を、太陽を取り戻すことを知っています。しかし、聖書は告げるのです。それ以上に、あなたの人生に明けない梅雨、曇り空、雨はない、止まない嵐はないのだ、と。あなたはもう一人ではない!あなたはあなたであれ!

2004年6月13日 聖霊降臨後第2主日 「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」

ルカ7章 1-10節

 
説教  「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えて」  大和 淳 師
 先週、わたしたちは詩編からみ言葉を聴きました。今日、再びルカ福音書に戻り、わたしどもは福音書の「百人隊長」の物語を通してみ言葉を聴くのですが、その書き出しは「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」(7章1節)、そのように始まります。以前に申したと思うのですが、福音書、とりわけルカは、大変注意深く、一つひとつの出来事、物語を伝えるのに言葉を使っておりました。とりわけ、こうして新しく物語るときは、こういう書き出しは大変大切にしているわけです。ですから、この「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えて・・・」ということ、そこにはルカ福音書にとって大きな意味がこめられているのです。そのことを念頭に置きながら、もう少し前置きみたいなことを述べたいのですが、それで、この物語の舞台となっているカファルナウムは国境の町で、関税を徴収する当時その地方の領主であったヘロデ・アンティパス王の取税所があり、そのヘロデ王の軍隊が常駐していました。つまり、この百人隊長は、ローマ兵ではなく、そのヘロデの傭兵で、歴史家によれば、ガリラヤ人以外に世界中からシリヤ人、トルコ人、ゲルマン人などがこのヘロデの傭兵となっていたそうで、この百人隊長も、何人であるか分からないけれど、そのような異邦人であったろうと言われます。聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではないという意味ではなく、言うなれば、神を信じない、あるいは神無き民、すなわち野蛮人というニュアンスを含んだ言葉です。

  さて、この無名の百人隊長のひとりの部下が重い病気、死にかかっていたと聖書は伝えます。彼はその部下を重んじていた、そう訳されていますが、単に部下として重んじていたというより、この百人隊長にとって、その部下はかけがえの無い者のひとり、いわば家族同然の者、我が子のような存在であった、そういう意味が込められた言葉が使われています。

  そして、主イエスが、その彼の住むカファルナウムにやって来たのは、この前の章、6章20節からのみ言葉、マタイ福音書では「山上の説教」として知られているみ言葉を、すっかり語り終えてからであった、とこの7章1節で言われています。「すべて話し終えてから」という描写には、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」(6章30節)、そう語り始め、そして、その神の国にわたしたちが今や生きている、み言葉となって、わたしたちのもとにある、その一切をことごとく、語るべきことをすべてお語りになった、そうしてカファルナウムの町に入られたのだ、ということです。今や、み言葉がすべて放たれた。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来たのです

  そうして、カファルナウムの町に入られた、やって来られた。既に夕暮れであったでしょう。日は傾き、やがて夜の帳が訪れるのです。そこに、その町に愛する者が死にかかっている、その死の床で、その夜の暗闇を迎えようとしているひとりの男がいた。異国の町で、愛する者が刻一刻と死に向かっていく、その傍らで、この人はどれほど孤独を感じていたことでしょう。その瀕死の彼の部下もまた、この百人隊長と同様、遠い異国からやって来たのでしょう。深い孤独が彼らを包んでいます。長い夜がやって来る、夜が近づいているのです。

  だが、そのとき、彼はイエスのことを聞いた。闇の中でただ一つ希望の光が差し込んできたのです。彼は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(3節)。イエスのもとに使い、使者を出す、なるほどそれは、「百人隊長」という地位にある人ならではの発想と言えるかも知れません。使いを出して癒してもらう、少なくとも福音書の中にはそのようなことは他に例はありません。しかも、その使いは「ユダヤ人の長老たち」でした。言うまでもなく「ユダヤ人の長老たち」は、彼の部下ではありません。この人がもっている権限、地位とは関わりなく、今やこの人は、ただ助けを必要としているひとりの人間、無力な人間なのです。ここに、わたしのもとに、愛する者のためにイエスに来ていただく、彼はこの異国の地でなし得る精一杯のことを考え、実行するのです。恐らく、その「ユダヤ人の長老たち」に、彼は丁寧に事情を話し、丁重にことを頼んだのでしょう。その長老たちがイエスに語ることから、そのことが伺えます。彼らは言います、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4節)。もしも、この隊長が自らの地位と権限を嵩にして、彼らを呼びつけ、命じたのなら、あるいは「自ら会堂を建て」たことを恩に着せてのことなら、彼らは、たとえ「会堂を建ててくれた」人であったとしても、こうは言わないでしょう。しかし、彼らは、自分の言葉で、自分たちの思いを、つまり、まさしくそれはまた彼ら自身の心からの望み、意志であることを伝えるのです。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」と。

  福音書において、この異邦人とユダヤ人との関係がどのようにあったかを思うとき、この彼らの言葉は心を打つものがあります。真に心が通い合っているのです。考えられないようなことがそこで起きているのです。主イエスがその日、すべて語られたことが、既にその夕暮れに起きているのです。そうです、この方が語られたこと、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい・・・・・」(6章27節以下)。そのように今や異邦人とユダヤ人、その垣根を越えて、彼らは一つなのです。ただ一つのことに心を合わせている、合わせることができたのです。もちろん、彼らは、いわばこの主の言葉を行おうとして、そうしたのではありません。そして、これらのことは、この隊長の人格、人柄、つまり恐らくは常日頃、この人は、本当に優しい眼の持ち主だった、それが他人を理解し、受け入れる力となっていったと言うことももちろんできるでしょう。
  しかし、わたしどもは、ここで忘れてならないのです。今や、その彼らの中心に、いわば、たった一人の死の床で苦しむひとりの人間のために、そのように心を一つにしているその人間の中心に、この方、主イエスがおられるのです。この方は既にすべての言葉を語られたのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」、ヨハネ福音書がそう語る、その言であるお方が来ておられるのです。

  そもそも愛とは、わたしは愛そう、愛さなければならない、あるいは、わたしは愛の行為をする、している、そうして行い得るものでしょうか?敵をも愛する愛とは、むしろ、この彼らのように、そうしているとは思わずして行っている、行わずにはいられないことなのではないでしょうか?彼らは、彼らがなし得ることを忠実に、心をこめて行ったに過ぎない、いや、せずにはいられなかったのです。愛の行為とは、わたしどもは知らずにそれをするのだ、させてもらうのだ、そう言ってもいいでしょう。大事なことは、わたしどもは知らなくてもいいのです。もし知れば、あるいはわたしが意識すればするほど、わたしどもは傲慢になります。自己満足に陥るでしょう。何より、知らず内にそこに、その彼らに、今や主イエスがおられるのです。あの「ユダヤ人の長老たち」を通して、主イエスが既に働かれているのです。

  さて、主イエスは、そのユダヤ人たちに伴われて、夕暮れの道を、彼の家へと辿ります。しかし、出来事は思いもよらぬ展開を迎えます。「ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき」(6節)、聖書はそう告げます。つまり、もうすぐそこまで主イエスは来ておられたのです。ところが、まことに不可思議なことに、この百人隊長は、再び使者を出して、この主イエスを制止したというのです。待っていれば、直ぐにもこの方は来られるのに、もう直ぐそこまで来ておられるというのに。わざわざ友人を遣わして引き止めたのです。一体何が起きているのでしょうか?

  わたしたちは、この友人の言葉に耳を傾けなくてはなりません。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6b、7節)。まず、友だちはそう伝えます。ここで気づくことがあります。先のユダヤ人の長老たちは、いわば自分たちの言葉でとりなすようにイエスに話しました。それはそのまま、彼ら自身の思い、真心でした。しかし、この友だちは、自分たちの言葉というより、この隊長の言葉をそのまま、自分たちの思い、考え、感情をはさまず伝えているのです。それが故に友人なのです。ここにも自らのなすべきを知り、忠実に果たす人々がいます。まさにそれ故に友だちなのです。ここで、彼らが隊長の、この人の代わりをつとめてしまってはならないのです。彼のためにできること、それは、彼の言葉をそのまま伝えることなのです。恐らく、友であれば、彼のために、できることなら、自分の知っている彼のことを伝え、どんなに彼がよい人なのか、どれほど大切な友なのか、伝えたかったでしょう。だが、自分のしたいことではなく、自らのなすべきことを果たす、できるだけ正確に友の言葉を、この主イエスに伝えようとする、ここにも、そのようにして一つ心を通い合わせている人間がいます。聖書は、まさに活きた人間のドラマを伝えているのです。これら一人ひとりが生きているのです。つまり、み言葉は生きて働いているのです。

  さて、先ほどの問いの戻りましょう、一体この人に何が起きのか?聖書は直接にそれについて語りません。ただ、わたしたちはこの百人隊長がその友人を通して語ること、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」そして、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」、そのように言っていることから考える以外にないでしょう。

  この人、この百人隊長は、その彼の愛する部下の枕もとで、恐らくは、彼は今か、今かと、まだ来ないのかとじりじりするような思いで主イエスを待っていたのかも知れません。尚、深い孤独の中に、彼もまたいたことでしょう。しかし、そのような推測以上に全く確かなことがあります。それはこの出来事は、一切、この主イエスが来られた、そうして、この百人隊長に迫って来られていた、その中での出来事だということです。

  それは、彼の部下が刻一刻と死に向かっていく、いや、むしろ真実は、死が彼らに刻一刻と近づいてくる、まさにその死の力に対して、何という無力、ちっぽけな取るに足らない者であるか、現実的にこの人はそれを味わい、心底そうであることを実感せざる得なかった、その中で、であります。彼は揺り動かされます。しかし、その死の力に抗して彼に迫るものが今や彼にある!それはこの方、このイエス!このイエス・キリストは大胆にその死の力の中へ、そして、このちっぽけな、取るに足らない、まさに何ものにも「ふさわしくない」わたしたちのもとへ今、あのわたしたちを脅かし、恐れさせる死の力、その力を押し返すように、近づいてこられる、この隊長、この人は、まさに死の中にありつつ、しかし、このイエスの近づき、イエスの迫り来る中に、生命の力の中にいたのです。主が一歩一歩、ひとりの人間の生の中に来られる! それが「イエスは、これらの言葉をすべて話し終えた」ということなのです。聖書、みなさんが今聴いているみ言葉、そのみ言葉が引き起こす出来事なのです。パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力」(1コリント1章18節)である、というみ言葉の力、神の力なのです!

  それ故この物語では、「ただ一言言ってください」という願いにもかかわらず、その一言が語られることはなく、ただ使者たちが帰ってみると、彼の部下は癒されていた、そのようにして終わるのです。今や、み言葉がすべて放たれているからです。主イエスの言葉が地上に満ちる時が来ているからです。

  聖書の中で異邦人というのは単にユダヤ人ではない民族というだけではなく、神を信じない、あるいは神無き民のことである、最初にそう申しましたが、その神無き人、神から最も遠いその場所に今や真っ先に救いが訪れたのです。もう一度、この百人隊長が言うことに心を留めましょう。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。・・・」

  ともかう「ふさわしくない」、彼が徹底して言っていることはこのことです。キリスト、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間、「ふさわしくない」場所にこそ向かうのです。このルカ15章で語られるあのわたしたちがよく知っている主イエスの譬え ― 九十九匹を残して、迷子になった一匹、つまり「ふさわしくない」たった一人を捜し求める羊飼いのように、あるいは、父の財産を放蕩に使い果たし、挙げ句の果てに家畜同然となった、つまり父に「ふさわしくない」弟息子を、その父親は待ち続け、帰ってくると走り寄って迎えるように、キリストは、そのみ言葉は、まさにその「ふさわしくない」人間にこそ与えられのです。

  今、その「ふさわしくない」人間であることにどんなに苦しんでいる、苦しめられている人がいることでしょう。会社や仕事、学校で、いやそれどころか家庭、家族の中で「ふさわしくない」人間であることに・・・。そして、教会は、どうして、それらの人を素通りできるでしょうか。わたしたちは、それらの人びとに何を語り、何をしてあげることが出来るのか、隣人として、友人として。

  それ故、わたくしは、何よりみなさんにこう語らなければなりません。ここにいるみなさん一人ひとり、みなさん、あなたがたもまた何よりことごとくこの「ふさわしくない」人間なのだ、ということを。あなた方自身何より、全く頭の先からかかとまで、ことごとく神に、このキリストに、したがって、この場所に「ふさわしくない」、それがありのままのあなたであり、わたしなのです。しかし、そうであればあるほど、ふさわしくなければないほど、神は、主イエスは、み言葉を通してそのあなたに、わたしに近づいてくる。あの羊飼いのようにどこまでも捜し求めくださったのです。あの父親のように、あなたを抱きしめて接吻してやまないのです。それがこの神、イエス・キリストなのです。だからこそ、「ひと言おっしゃってください」、すなわち、み言葉をください、み言葉を信じる、いやみ言葉だけを信じる、それが教会なのです。だから、大胆にみ言葉を求め、信じていいのです。今や肝心なこと、そのみ言葉に突き動かされて、わたしども一人ひとり、知らずうちに隣人となり、友人となっていくのです。キリストは、わたしたちの知らぬ前に、知らずうちに既に働かれるからです。

  この主イエス・キリスト、すなわち、「十字架の言葉は」、いや「十字架の言葉」だけが「わたしたち救われる者には神の力」なのですから。

2004年6月6日 三位一体主日 説教「幸いの道」

詩篇第1篇

 
説教  「幸いの道」  大和 淳 師
 私たちの想像できないことは全て変ってしまうということです。例えば今日はとても良いお天気です。太陽が照っていることは、私たちの好みはこのような風景でしょう。太陽も無く、月も無くなる、私たちの知っている宇宙もなくなると、まず寂しい思いになります。そこで主イエス様がまったく太陽のようにわたしたちを明るくして下さると共に私たちも明るく輝くものになって、もう太陽は要らないほど明るくなっているでしょうと考えられます。そのような中で私たちは、主イエス様がどう私たちを審判してくださるか心配ですが、こっちへ行くか、あっちかと、天国か地獄かとそれを決めてくださるのですから、それはちょっと心配ですが、でも、神様の約束の言葉は決して変らないと、全てのものが無くなっても神様が私たちに聞かせてくださったことは、絶対に変らないということを私たちは聞かされて、安心できるのです。

 イエス様はいちじくの木の話をなさっておられますが、その葉っぱが大きくなってきたら、実がなってくると、私たちはそう期待できるのです。一年で暖かい一番気候の良い夏が来るとそのようになると、先のことを思うことが出来るのです。それをイエス様が私たちに聞かせておられるのです。全てが無くなっても絶対に神様の教えられたことは、

すなわちわたしたちが主イエスさまを信じていれば必ず天国へお連れくださると言うことは変らない。私たちは罪を赦されて、イエス様が贖ってくださったから罪の無い人と、これは私たちが自分を見て考えますと考えられないほどの素晴らしいことです。罪が無い、欠点が無い、完全なものになっている。今のところ、私たちはどんなに一生懸命にしても、何かちょっと欠かしたり、忘れたところがあったりで、充分でないことばかりを経験して、「これは人間的である」と言う言葉を使うのです。自然にちょっと足りないところが必ずある。聖書の言葉でしたら罪人であると言うことでしょう。私たちがこのようなものあっても神様は愛してくださって、わたしたちのために主イエスさまをこの世に送ってくださって、なお、最後のときには私たちを迎えに来てくださるのです。「おいで」「こっちへいらっしゃい」と。あっちではなく。あっちとは恐ろしい所ですがね。わたしたちは限りなく、一時ではなく、いつまでも、永遠に立派な者に、病気もしない、痛いところも無い、お腹も空かない、充分に生きる事が出来る状態になるのです。勿論、その逆もあるのです。イエスさまを信じない者、また自分勝手に天国へ行くためにその道を決めて、何をしたら行けるかを決めた人たちはきっと失望するでしょう。失望だけではなく、恐ろしいことにあいます。その恐ろしさが永久に続くものだということです。神様はあまり聖書の中で、私たちを脅して天国へ行かせようとしておられません。でもはっきりと罪のために捨てられた人たちは大変だと仰るのです。そんなに数はないのですが、その苦しみをわずかの言葉で描いておられます。おもに、私たちが救われたら、どんなに楽しいかを私たちに聞かせておられます。本当に私たちは今どんなに努力してもほとんど失敗に終わる事が多いでしょう。あるいは一生懸命にやってもこれが出来る限りの良いものだと思っても、誰かそれを見て批判することが出来るのです。完全ではないのです。でもその完全でない私たちのために主イエスさまを神様が送りなさった。その御独り子、一番親しくしておられた方を救い主として送られたのです。主イエスさまは本当に大変であったでしょう。私たちも出来るだけ良い人間として努力していたら、それほど努力をしていない人を見たらちょっと嫌な感じがするのです。完全な方が汚い私たちをご覧になったらどう思われるでしょうか。心配しますが、でも、神様はこのような私たちであっても愛してくださっておられます。

 ただイエスさまを信じるだけですね。イエス様のなさったことをわたしたちが有難く思っていたらそれだけでよろしいのです。完全なところへまで神様が連れて行ってくださる。これが私たちの信仰ですね。神様がそう約束なさったのですから、その通りになるのです。
  「これらのことがみな起こる今日、日課を離れて、詩編交読の詩編第1編から、み言葉を聴きましょう。
  「いかに幸いなことか・・・・」、マタイ5章の主イエスの山上の祝福「心の貧しい人々は、幸いである」と同じ祝福でこの詩編は始まります。「幸い」です。恐らく誰もが思う「幸い」、その幸いの道、聖書の語る「幸い」とは、歩まない、とどまらない、座らないと、具体的ふるまい、生き方の問題です。わたしたちが、如何なる者、どんな人間であるかより、どんな人であれ、神の御前でどう生きていくか、生きようとするかにかかっているのです。わたしたちは誰も人生の幸いを願います。人生は、しばしば旅にたとえられますが、詩篇は、わたしたちを旅人のように見ていると言っていいでしょう。旅には、いつも危険があります。苦しみもあり困難が続くこともあります。思わぬ災難が、身に降りかかってくる。だからこの人生の旅の無事を願わずにはいらないわたしたちです。しかし、聖書の語る「幸い」は、そのような危険、災難、苦難がない旅が幸いであるというよりも、何よりわたしが危険、災難、苦難のときもどう生きるかを指し示すのです。ですから、わたしたちは、単に「何事もなく無事でありますように」とただ単に祈るのではない、むしろ、もしそれが避けられないのなら「たとえ、どのようなことが起ころうとも、わたしが、あなたの御前でこう生きられるように・・・・」、そのように祈るものだと言っていいでしょう。

  さて、その出発点、最初にまず「神に逆らう者の計らいに従って歩ま」ない、まずは「神に逆らう者の計らい」から始まります。この「計らい」は、要するに「唆かし」、「誘惑」です。聖書は、そのようにわたしたちがたえず「誘惑」を受ける者であることを知っています。罪の道は「誘惑」から始まるのだと。誰も最初からあえて間違ったことを平気でする者はいない訳です。よく「ほんのできこごろで」というように、誘惑される。本心ではないけど、つい何かの誘惑に負けて、そしてだんだん深みにはまっていく、そして、結局どうにもならないようになっていく。ある人は、この1節は、次第に高まっていく罪人の3つの段階を表していると言います。「誘惑」からやがてその道を次第に「歩き」始め、そこに「とどまり」、ついには、どっぷりと腰を落ち着けて「座る」、浸ってしまう、そういう段階です。聖書は、そういうわたしたちの弱さを、本当によく知っている訳です。その第一歩は、「計らい」、「誘惑」から始まる。主の祈りを想い起こしましょう。「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」(マタイ6章13節)。この詩篇は、その主の祈りの祈り、キリストの祈りなのです。

  わたしたちが幸いな道を歩む、それは何よりそういうわたし自身の弱さ、本当に誘惑に弱いものであるということ、そのことから出発するのです。自分はそうではない、わたしは道を一人歩んでいける、そういう人はない訳です。むしろ、そんな弱さをもった自分を受け入れない、それが、この最終段階の「傲慢な者と共に座る」ことなのです。自ら誘惑を克服し得るような強い意志、力をもっているから、幸いなのではない。むしろ、弱い、本当に弱いものなんだ、それを受け入れる、そこに幸いの道があるということです。

  だから、わたしたちは幸いを願うけれど、その背後にはいつも不安があるのだと言っていいでしょう。本当に大丈夫だろうか、もしかしたら、と言う恐れがある。そしてまさにこの「神に逆らう者の計らい」とは、その不安、恐れに働きかけてくる。そして「計らい」、「誘惑」ですから、決して、わたしたちには、それが「神に逆らう道」であるとは、決して見えない。巧妙に働きかけくる訳です。(創世記3章の、あのエバに働きかけた蛇の巧妙な言い回しのように)むしろ、そっちの方が、どう見ても真実だ、確実安全に思えてくる、いやそれしかないと、確かに思えてくる、そういうものです。しかし、決して真実ではない以上、本当には安心を与えない、確かなものではない、それ故、だんだんと、まさにこの詩篇が語るように、深みにはまっていく、次から次へと、どうにもならないかのように、抜き差しならず罪人の道を歩んでいく、そして、遂には、「傲慢な者の座に座る」、つまり、「傲慢」な者の仲間になるというのです。

  そうするとどうなるのか。「傲慢な者の座に座る」、いわば、虚勢を張る以外にはない。人間、居直る、居座る訳です。しかし、それは決して本当の強さ、確かさではないのだと詩篇は語ります。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻」と4節に言われるように、いくら、虚勢を張っても所詮虚しい道であると言うのです。もみ殻のようにはかない、これは強い言葉です。しかし、現実のわたしたちの目には、「神に逆らう者」の道、その方がいつも強く、立派でもあり、確かなものであるように見えるものだということを忘れないようにしましょう。

  どんな人でも裸のわたし、ありのままの自分というのは、本当にみすぼらしいのです。不安の中にあり、たえず恐れ、おじまどうあまりにも弱々しく思える(だから「神に逆らう者の計らい」の方がよく見える、頼もしく見えるのですが)。しかし、この詩篇の力強さは、まさに、その裸の自分を、ありのままにみつめることから来るのです。あの誘惑の前に、その道に対して自分自身をみれば何もない、そのような裸のわたし、しかし、詩篇は、そのような自分の弱さ、そこにこそ、主の道が開けていることを語ります。

  何故なら、6節「神に従う人の道を主は知っていてくださる」、主が知っておられるからです。主に知られているのです。主がわたしたちを知られるとは、単に知っているということではなく、この知るは、あなたを守り、支え、導き、あなたと共にいるという、そのように知ることなのです。つまり、神は、わたしたちをインマヌエル、神我らと共にいます方、イエス・キリストを通して知られるのです。何より、ご自身、飼い葉桶の中の裸のあかんぼうになり給い、本当にみすぼらしく、あまりにも弱々しくなられたきリスト。そのようにして、わたしたちの低みまで下り、わたしたちのために苦しみを受け、十字架におかかりになったキリスト、このお方がわたしたちを支え、わたしたちを導いて下さる。このキリストが共におられる、このキリストと共に歩む、それを示してくれるのが聖霊の力ですが、父、子、聖霊の神のもとで、その者は「なんと幸いなことか」と詩篇は呼かけているのです。

  聖書は、決して人はひとりでは生きるものではないと一貫してみています。わたしたちは、常に何かに従って生きるものだ、と。何かと共に生きずにはいらない存在なのです。そういう人間理解を、現代の人間は失いかけています。と言うのも、やはり、自分は、自分で生きている、自分が主人公のようにして生きてしまっている訳です。だから、納得がいかない、理不尽な訳です。自分の思い通りということが自由であると思い込んでいる訳です。しかし、よく考えれば、人は、常に何かに支配されている、ということはそれでも分かる訳です。自分の人生の選択、たとえ、自分で自分の人生を選んだと思っても、たとえば、やはりお金がなければとか、良い学校でなければとか、力がなければ、と、そういう考えそのものには、自分の本来のものではない、価値観とか世界観、そういうものに従っている訳です。はっきり言えば、他人の眼の中で生きている訳です。そこには自分が自分を、本当にどう見るか、ということがない。最近そんなCMが流れていますが、結局は他人に左右されている。だから内にはいつも不安、恐れがある訳です。

  ですから、神を信じないという人も結構星占いとかのようなものをもてはやす、あるいは、縁起をかつぐ。私たちの周囲は、この縁起の固まりみたいなものではないでしょうか。勿論、中には生活の知恵と言ったものがありますが、とにかく縁起から始まって、縁起で貫かれていく。これは、やはり、自分の人生は、確かに自分で選んでいかなければならないという一面、その人生そのものが、自分以外のものに選ばれていく、そういう面があることを物語っている訳です。運命と呼ぶ、宿命と呼ぶ、そういうものです。

  それで共同訳では、「神に逆らう者」となっていますが、そういう風に訳するのは、大変分かり易いのですが、しかし、ここで「神に逆らう者」と訳され、また「罪ある者」、あるいは「傲慢な者」というのは、決して、信じない者という意味ではない。神を信じない者という意味ではないんです。むしろ、彼らも彼らなりに「神を信じている」のだと言うべきでしょう。ルターは、その人の心が拠り所にしているところのものが、その人の神なのである、そう言っています。神を持たない人間はいないのだ、と言っていい。誰もが自分の神を持っている。その意味では、誰が「神に逆らう者」であるか否かは見分けがつかない。しかし、ただ一つあるのは、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、そのことだけが、いわば、眼に見える決め手だと詩篇は言うのです。

  この「教え」とは口語訳では、掟と訳されていたように、ここでは律法、戒め、つまり十戒ですが、その掟を愛する。この「愛する」というのは、もともと「慕う」とか「喜ぶ」、「求める」、そういう意味の言葉です。そのようにして生きる人、その人こそ幸いであると。ただ、それを聞いただけで、わたしたちは、何か不自由な、固い凝り固まった生き方を想像してしまうかも知れません。しかし、聖書は、そういう生き方こそ、本当に自由で、活き活きとした生き方、「流れのほとりに植えられた木」のようだと歌っている訳です。それは、どういうことか。

  十戒を、ここで思い出して戴きたいのですが、あの十戒は、「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、その第一戒から始まって、「・・・・してはならない」、この詩篇と同様ほとんど一切否定形、否定、禁止です。つまり、主なる神は、人間、わたしたちに「否定」「禁止」をもって臨む神なのです。その神の否を「愛する」ということ。しかし、わたしたちが、わたしたちが自分の心のままに神と呼ぶのは、決して否を言わない。何故なら、自分が主となっているからです。その限り、それは偽りである、つまり、人間、自分が主となっているそれが預言者たちが厳しく糾弾した偶像、偶像礼拝ということの罪、問題なのであり、そして、その道は「滅びに至る」のです。何故なら、その主人公たる自分、それは、たえず不安の中にある、裸の人間というのは、人はひとりでは、本当に弱いもの、脆い者であるからです。その限り、滅んでいくしかない者になってしまう訳です。ですから、最後に「傲慢」、強がり、あるいは、開き直りというか、居直りの道を歩むしかない。そういう風にして、人は、自分の中にこもってしまう、それが神を失ってしまった姿だ、そういうことをこの詩篇は、明らかにしている訳です。そうして、結局人は神のみならず、他人、隣人をも、何より自分自身を見失っていくのです。

  「傲慢」というのは、「脅え」の裏返しです。いらいらしている、たえず、流されていく生き方です。一皮向けば、どうしたらいいか、本当は分からない、諦めている、そういう生き方です。この第1篇の言葉は、注意深く読むと、本当に慎重に言葉を使い分けているのですが、5節「神に逆らう者は裁きに堪えず」と言う、その「堪えない」という言葉はもともと「立てない」、立ち続けることができないという意味であり、1節の「傲慢な者と共に座る」という言葉にちょうど対応するようにまさに「座り続ける」ことが強調されているのです。立ち上がることができず、最後に崩れ込んでしまう。へたっている、そう言ってもいいでしょう。

  しかし、「神に従う者はそうではない」のだ、と詩篇は高らかに告げてくる。立ち上がることができるんだ、「流れのほとりに植えられた木のように」、立つことができる、葉を青々と繁らせ、すくすくと伸びていく、自分の弱さ、脆さ、そういうものに崩れ落ちることはない、何故なら、「主が知っていてくださる」、主が、その弱さの中から、不安と恐れの中で、共にいて下さり、それのみならず、立ち上がらせ、必ず「幸い」を備え、そこへと導いて下さる。それが、「主の教えを愛する」、「昼も夜も口ずさむ」ということ、そういうことです。

  苦しみがある、災いがある、そういう中で、本当に暗澹たる思いの中で、途方にくれてしまう、苦しみに耐えがたいように思ってしまうのがわたしどもです。しかし、そういう中で、この「主の教え」、神の否は、たとえ、どれほどわたしに困難が大きいように思えても、わたしを救うのは、この主である、その他のものは何も頼りにならない、わたしが、あなたの主である、わたしがあなたを導く、そのことを、わたしどもに知らせるわけです。だから、あの十戒「あなたは、わたしの他なにものをも神としてはならない」、「あなたはいかなる像も造ってはならない」、その「あなた・・・・してはならない」は、結局、「あなたは、わたしの他なにものをも神とする必要はない」、「あなたはいかなる像も造る必要はない」、殺す必要はない、姦淫する必要はない、もう盗まなくていい、そういうことなのです。

  それだから、この「主の教え」を「昼も夜も」心に止めていく、詩編はそう語ります。ルターは、それはいつも中心、生、命の中心に留まることであり、そして、その生の中心とは、イエス・キリストであり、「昼も夜も」心に止めていくということは、この中心、キリストによって揺り動かされていく、つまり、座り込んでいた、あるいは座り込もうとするそこから新たに立ち上がっていくことだ、というのです。み言葉こそ、わたしたちを立ち上がらせる力を持っている、いや、み言葉だけが、わたしたちを立ち上がらせる力なのだ、と。

  しかし、このことは、決して自明のことではありません。絶えず、先に申しましたように、誘惑にさらされるわたしたちであるからです。だから何より神の否を、わたしたちは、それ故、昼も夜も聞くのです。「神に逆らう者の計らい」、「誘惑」、その「慕い求め」から、あらゆる自分の思いに逆らって、み言葉に耳を傾ける、即ち、キリストに全存在を委ねることです。この「昼も夜も」は、ルターは、単に絶えず、ということだけではなく、「悪い時にも、良い時にも、恵みの時も、罪の時も、健康な時も、死に瀕する時も、働く時も、休息の時も、安全である時も、危機にある時も、いつ如何なる時も、どんな大きな困難であれ、いや、自分にとってささやかな危険に見える時も、いや、それどころか、全く危険がないと思える時も、主のみが助けである、そのことを心の中心とすることだ、そのようにして、大胆に主のみを信頼することだ」と述べるのです。更にルターはローマ書講義の中で「希望に反して希望するcontra spem spero」と、わたしの希望に反しての希望をわたしは持つ、そしてそれが本当の希望なのだ、と教えています。

  それが「流れのほとりに植えられた木のよう」であると言っていいでしょう。命の流れ、キリストの命、「まことのぶどうの木」につがれるのです。それは、「すべて、繁栄をもたらす」。詩篇は、そのような木は「すべて、繁栄をもたらす」と言い切ります。「すべて」「ことごとく」です。神さまの恵み、祝福、キリストの救いに、万一、例外は決してない、ということです。このわたしは、主の恵みに決してもれることはない、ということです。したがって、わたしたちは、自分の弱さにもかからわず、いや、何もないにもかかわらず、そこから、必ず立ち上がっていくことができるということです。愚かに見えても、貧しく、みすぼらしく見えても、しかし、わたしたちは、窮することがないということです。この詩篇に溢れている力強さは、まさしく、そこから来るのです。主は共におられる、インマヌエルの光です。わたしは、ひとりではないのです。

  だから、パウロは2コリント 5章11節で「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」と述べている、それがこの詩篇の心、そして、神にはありのままに知られていことこそ「さいわいの道」なのです。