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2010年10月24日 聖霊降臨後第22主日 「人間の悩み、痛み、涙を・・全てを受け止める愛を・・」

説教: 五十嵐 誠 牧師

ルカによる福音書18章9〜14節

「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ころが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

久しぶりに講壇を担当しました。約二月ぶりです。あの夏の猛暑で体調を崩し、また、入院・手術などをいたしました。皆さんのお祈りとお見舞いの言葉を感謝します。有難うございました。完全ではありませんが、お会いできて幸いです。

さて、今日は先ほど読みました、イエスの譬えを学びたいと思います。有名ですから今さらという点もありますが、一緒に考えたいと思います。

今日の説教を理解するために二つの言葉を説明します。譬えに登場していた人物です。ファリサイ派と徴税人です。前者の言葉は日本語でも通用しています。よく「ファリサイ的人間」と使われます。むかしは「パリサイ的人間」でした。自分のことはさしおいて他人を厳しく批判する人を言います。

*ファリサイ派は「分離する者」の意。イエスの時代に盛んだったユダヤ教の一派。紀元前2世紀の後半に起こり、モーセの律法の厳格な遵守を主張、これを守らない者を汚れた者として斥けた。イエスはその偽善的傾向を激しく攻撃した。パリサイ派とも言う。

宗教というものは、時が経つと内容が変質して来ます。純粋な精神が薄れて・・中心がスポイル・俗化させる、失われて・・されて、形骸化します。ですから、時々、宗教改革が起きます。キリスト教にかぎらず、ユダヤ教や仏教やイスラム教にも起こります。日本の場合は「新~~~派」とか「~派~~~」となります。京都のお寺に行くと解ります。寺院の山号(寺院の名に冠する称号)でも理解出来ます。

ファリサイ派はイエスと強く対立したユダヤ教の一派で、偽善者というレッテルを貼られました。マタイの福音書の23章で、イエスは「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」、「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓だ」。「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と言いました。聞いたら目をむくような批判です。

また、その生活もこう言われています。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。要約すれば、宗教・信仰と生活が一致していなかった。信仰の形骸化になります。

 聖句の入った小箱とは「経札」といい、一辺が3センチのものから45センチのもの。ユダヤ人はこれをテフィッリーン(祈祷ひも)と呼び、身につける慣習を持っていた。出13916)。

「頭の経札」と「腕の経札」の2種類があった。子供は13歳になるまでこれをつけることは許されなかった。「シェマー・聞け」(申命記6:4)という聖句が入っていた。

偽善者と言うのは人にめったに言ってはならない言葉ですが、ギリシャ語・uJpokrithv”・フポクリテス・では「芝居をする人・俳優」を意味します。イエスは、外面的には敬虔に振舞いながらその実のない律法学者,パリサイ人などをきびしく戒められ、そう呼ばれた。(マタ23:27‐28)。彼らは、時には慈善家を気取り,またひたすら祈りに打ち込む姿を演じて、人々の賞賛を得ようとした(マタ6:2‐5)。しかし、全てのファリサイ派が偽善者で、型式主義者ではなかった。中には真面目なファリサイ派もいました。しかし、おちいりやすい弊害として、自画自賛・自己讃美や自己義認になります。今日のファリサイ人のようにです。

「徴税人・取税人」とは税金を集める者、今の税務署の役人です。当時の税金の徴収事務は請負制でした。請負とは一定の仕事の完成に対し一定の報酬をもらう約束で、仕事を引き受ける制度です。私が入った病院は手術は出来高払いでなく、請負制でした。健康保険ですが、ビックリしました。ローマ帝国は占領地の支配を、不必要な刺激を避けて、ユダヤ人の場合は比較的自由にしました。植民地からも税金は二つありました。直接税と間接税です。直接税は男子一人に付きいくらという「人頭税」です。ルカの福音書では、人口調査のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムに行き、イエスを生みました。

もう一つは通行税でした。主な道路に収税所を置き、通行する者から税金を徴収しました。この時代、その徴税事務をしていたのはローマの官吏でなく、「徴税人」と呼ばれるユダヤ人でした。ユダヤ人は収税所の権利を金で買い取りました。多額の投資をしましたから、その多額な投資金を何とかして回収しようとして、誤魔化したりして、規定以上の税金を手にしたようです。そのため、同じユダヤ人からは「罪人」というレッテルを貼られました。彼らの不正行為ばかりでなく、同じユダヤ人から、占領者のローマ帝国のために働いて、私腹を肥やしているとう理由で、人々からは嫌われ、ファリサイ派からは背教者と言われ、差別されました。

ある日、この二人が神殿に来ました。国中、エルサレムには多くの会堂・シナゴーグがありましたが、徴税人は入る勇気はなかった。彼は邪魔されずに入れる神殿の外側の、端にある庭に来たようです。そこは神殿に来る人達からも遠く離れた場所でした。

神殿とはユダヤ教の礼拝・祭儀の中心聖地です。祈るためですが、祈りは規定では朝の九時と午後の三時でした。ファリサイ人は意気揚々と胸を張って神殿に入り、堂々と祈りを始めました。「心の中で祈った」とありますが、彼は本当は全知の神の耳に聞こえるように、また周りの者にも聞こえるように、祈り・・いやしゃべったと言えるのです。自己義認と周囲の人達を見下す気持を持って祈りました。

祈りは短かった。前置きがあり、否定的な要素・・自分が他の人のようでないことを・

罪人でないことを感謝しています。次に自信過剰の要素・・自分の功徳(くどく)を列挙しています。

自分は必要以上のことをしている・・週二回・月と木に断食・・年に一回でいいのにです。(贖罪の日)。十分の一の献げ物・・信仰深いユダヤ人の義務でした。それ以上していたと思います。恐らく他にも多くしていたと言えます。「私」はと言う代名詞が輝いています。(前期のファリサイ人の祈りと同じく、日本語では代名詞I(私)は訳されません。原文や英文では、はっきりします)。

このファリサイ人の祈りの背後には、ある詩編の言葉がありました。詩編24:3-4です。イスラエルの王ダビデが歌いました。

「どのような人が、主の山に上り、聖所・神殿に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる」

どうして徴税人のような悪党が、あえて神殿地域に入ってくることが出来るのか。ダビデのこの言葉は、この徴税人を非難しないだろうかです。

一方、徴税人は全く違っていました。彼は、遠く離れて立ち、自分の目を天に上げようともせず、無価値な自分を知って、胸を打ちながら・・申し訳ないという心を持って・・祈りました。彼はたった一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」とだけ祈りました。この言葉は。あの有名なダビデ王が祈った言葉でもありました。(詩編51:1)。

*(ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たときに発した言葉)。

彼は「罪人」と言いました。英語では「The sinner」ですが、単なる「A sinner・罪人」ではなくて、Theが付くと用法で強勢が置かれて、本当の、最高の罪人と言う意味です。「遠くに離れて立ち」とは彼が罪の贖いの犠牲の献げ物をもって、祭司の所にいく勇気がなかったことを示しています。で、彼は「神よ、罪人のわたしを憐れんでください」と。

ある牧師はこう言いました。二人の人が祈りに行った。否、むしろ、一人はほらを吹きに行き、もう一人は祈りにいった。的を突いて射ます。

結論に行きましょう。明白です。「義とされて家に帰ったのは、この人・徴税人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。つまり、「自分の罪が赦されて帰ったのは、この徴税人であって、他の者ではなかった」です。

イエスは何をこの譬えで教えようとしたのかです。ある牧師は救いは行いでなく、自分は罪人であるという謙遜な心を持つことだと言いました。人間は功徳主義(くどくしゆぎ)・・自分は神の恩恵を受けるに必要以上の敬虔な行為・余徳があるという考えを捨てきれません。キリスト教の業によらず、無代価の救い・恵みによる救いを信じません。一人は聖徒として家に帰りました。一人は罪人として家に帰りました。立場が反転しています。

別の牧師は哲学者のキルケゴールの言葉を引用して、「この言葉はイエスが譬えを通して私たちに語っている永遠の言葉である」と言います。ファリサイ・パリサイ的な精神・自己義認・自己本位は、イエスの時代から今にいたるまで教会の中に陰に陽に続いているからであるという。そして、私たちはそれが危険だとは気づいていない。私たちは自分自身の小さなシオンに安住する教会人になる危険があります。神の言葉を鏡として見るならば、私たちは自分の生の中に、徴税人とファリサイ人を、垣間見ることが出来るのです。「神よ、精神的自己満足を取り去って下さいと祈りたい」と。

*キルケゴール:デンマークの思想家。人生の最深の意味を世界と神、現実と理想、信と知との絶対的対立のうちに見、個的実存を重視、後の実存哲学と弁証法神学とに大きな影響を与えた。「不安の概念」「死に至る病」が有名。

知人の牧師は言いました。「義とされて帰ったのは徴税人だった」と言う「義」は聖書では大事な言葉で、意味は神と親しい関係とか神のみ手に迎えられる、愛される、救われるという意味です。イエスはそう言う意味で言われたのです。牧師は、神は愛であるという福音を述べ伝えることを勤めとしています。神は悔い改める者を赦される方ですから、徴税人が赦されるのは分かると。

しかし、ファリサイ人の祈りは、ただ一点・・徴税人とは違うと言ったこと・を除けば、他は立派です。ファリサイ派の代表みたいです。

ではイエスは何を言いたいのかですが、イエスは「何を一番大事にされたか」だと思います。この譬えでは、当時の社会の価値観が逆転しています。いや現在の価値観とも反対です。普通は、徴税人のような者よりはファリサイ人は立派であると考えるのは当然です。

イエスは律法とか倫理でもって、人を判定する考え方・・ファリサイ派の信念です。それをイエスは否定したのです。イエスは人々が持っている・・持つように至った・・悲しみ、悩み、憂い、痛み、涙を踏みにじる方ではありませんし、裁く方でも、石を投げつける方ではありません。イエスは神の愛・・人間の悩み、痛み、悲しみ、涙を受け止める愛を・・アガペーを一番大切にしました。そういう愛の心がファリサイ派には欠けていたのです。いくら立派に生きていても、アガペーの姿勢を欠いては意味がない。それを教えるために譬えを話したと知人の牧師の言葉です。読みが深い。

私は50年前の神学校の小礼拝室の一枚の絵を思い出しています。それは大きな教会の礼拝風景でした。前方の祭壇は明るく、美しく整えられ、正面には十字架の像が掛けられています。大勢の出席者が礼拝をしていました。しかし、よく絵を見ると、礼拝堂の最後尾の薄くらい席に、遠く離れて座っている人の側に、一人の人物がいます。それは主イエスでした。私は、主は何処に居られるかを示していると思っていました。この譬えも同じだと思います。

イエスは私たちを、あるがままの姿で、状況で、受け止めて、愛して下さるのです。この譬えはそんなイエスを示しています。皆さんは、罪人として家に帰りますか、聖徒・赦された者として家に帰りますか。どちらでしょうか。

アーメン

2010年10月17日 聖霊降臨後第21主日 「神との格闘」

説教:安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書18章1〜8節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


日曜日の朝 礼拝前に礼拝堂の後部で祈りの会をしています。

祈りを共にする、このことから教会は始まります。

共に祈れないのであれば、教会とは言えませんし、祈らない人はキリスト者と言えるでしょうか。祈らないとの、祈れないのとは 違います。神は私たちが祈る前に、私たちの祈りを知っておられます。

そこで、祈りについて考えてみましょう。

あなたは祈りますか?

もし その答えが「いいえ」でしたら それは、洗礼を受けたクリスチャンとは言えないと思います。
あなたは人前でも祈りますか? もしそれが「いいえ」でしたら、それは是非人前でも祈るように勧めます。

他の人と共有している、神様への共同の感謝、讃美、願、があるはずですから、

それを言葉にすることにより、あなたの祈りがより堅いものになります。

祈りは神との対話です。

個人の密室の祈りに禁句や禁止事項はありません。何をどのように祈っても良いのです。

共同の祈りにはある程度のルールがありますが、それも、必ず守らなければならないルールではありません。具体的にはどのように祈るでしょうか。それは聖書では、主イエスがどのように祈るとかとの弟子の問いに答えて示されたのが主の祈りです。人前で祈る時の手本は「主の祈りが祈り」です

神への呼びかけ 「天の父よ」「神様」・・・

神への感謝 讃美

私たちの願:大きな世界の事から 最後は自分の事へと祈る

例 平和の祈願 世界の平和 アジアの平和 日本の平和 教会の平安

友人の平安 家族の平安 自分の平安

結び:キリストの名前により祈る 「主イエスキリストのみ名により祈ります」

そして 他の人の祈りに同意し、私もたしかに同じように讃美し、感謝し、祈願しますの意味で「アーメン」と唱和します。

今日の日課です。

不正な家令のたとえ話しの様にこの話しも皮肉な読み方をすると不愉快に感じる物語です。

イエスはこのたとえ話しで二つの事を示そうとしておられます。

第一は、祈りに於いて神に訴えるかぎり、その実現にどんな困窮にあっても、

疑いを抱かなくてよい、と 言うことです。

第二は、祈りの中心になるものは自分自身の権利ではなく、

神の権利、神の義である、ということです。

私達の祈りがすぐに神によって聞かれなくとも、その願いが拒まれたと言うことではない事が今日の聖書の箇所で示されています。

身寄りのない無力な女が絶え間無い懇願によって、法を守るより、その反対をしているような裁判官をして、彼女の権利の回復の処置にふみきらせた。

ましてや、神に属する者の願いを切り捨てる事はなさらない。

しかし、私達が祈るとき、ルターが述べていることに気をつけなければならない。彼は「主の祈りの講解」で、「我々は『愛する父よ、あなたのみ国に我々を赴かせて下さい』とは祈らない。それではまるで我々がみ国に向かって走っていかねばならないようだ。我々の祈りは、『あなたのみ国が我々に来ますように』である。私達が自分を主体として祈るのではなく、自分が神様のところに、あたかも赴くように祈るのではなく、神様が私達の所に来て下さるように祈るのです。それは、言い換えれば、自分が自分の力で変わるのではなく、自分が神の力により変えられる、と言うことです。

本日の第1日課よ見ましょう。創世記32:23-31

ヤコブはラバンの家に逃げて身をよせていましたが帰国を決心しました。エドムに住むエソウの所に帰ろうと旅を続けていました。いよいよヤコブは川を渡ってエドムにちかずいて時不思議なことが起こりました。ヤコブは一晩中、見知らぬ人と格闘しました、ヤコブはほとんど勝負に勝っていたようですが、最後に脱臼させられて終わりました。この物語も二つの事を教えています。

イスラエルと言う名の起源です。

もうひとつはペニエルという聖所の起源です。

ヤコブはまだだます者、おしのける者と言う意味を持っていました、GEN27:36

27:32 父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。27:33 イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」27:34 エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」27:35 イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」

27:36 エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」

27:37 イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」27:38 エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。

このかんばしからぬ名前から、神との格闘をへて新しい人に変えられました。

神と格闘したもの、イスラエルとなります。ヤコブが神と顔と顔を合わせて見たことから、神の顔お意味するペニエルと言う新しい聖所が生まれました。

神を見ると死ぬ、と言われたのに、ヤコブはモーセのように神を見ることをゆるされたのでした。古いヤコブが神との出会いにより新しいヤコブとされたように。神との真剣な祈りに於ける対面により変えられます。ヤコブが相撲して祝福を切にねがったように神との真剣な対面を切望し、祈りましょう。

2010年10月10日 聖霊降臨後第20主日 「この人はサマリア人だった」

説教:柴田 千頭男 牧師

ルカによる福音書17章11〜19節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」


ルカによると主イエスは、最後にエルサレムへ上られた時、サマリアとガリラヤの間を通っていかれました。その途上、ある村に入った時、十人の者たちがイエスを出迎えたのです。しかし彼らはイエスに近寄ろうとしません。ただ遠く離れて立ち止まっていました。今日の話はそこから始まります。彼らは全員重い皮膚病をわずらっていたのです。この病気にかかっていた者については、ユダヤ人社会では、徹底した規制がありました。レビ記13章45
節から、その規制が記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口髭を覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人はひとり宿営の外に住まねばならない。」彼らは他の健康な人に接することを禁じられ、社会からは隔離され、他の人と擦れ違う時には病気について黙っていてはならなかった。これがこの十人がイエスから遠く離れて、声を張り上げ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ理由なのです。彼らは、人間としての存在すら認められていなかった、と言ってもよい。そういう人々がイエスに出会ったのです。イエスはその彼らにこう言われました、「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」。これはレビ記の規制を守った彼らに、イエスもレビ記の指示に従って対応したということです。レビ記14章によれば、重い皮膚病を患った人の管理、監督をするのはひたすら祭司の役割でした。人がこの病気に罹っているか、どうか、またその病気が治ったか、治っていないか、といった判断の一切が司祭にゆだねられていたのです。彼らはイエスの言葉どおり、祭司のところへ行ったが、その途中で奇跡が起こったのです。彼らは突然自分たちが清くなり、病気から解放されたことを知りました。もちろん彼らはそこから引き返さず、清くなった体を祭司に見せ、清められたという判断を下され、夢にまで見ていたに違いない社会復帰を許可され、喜びに小躍りしたでしょう。ここまではイエスの奇跡の話です。しかしそれが終わりではなく、ルカはここから重要な本題に入るのです。

彼らは自分たちを社会から締め出していた憎むべき病から解放された。その喜びはいかばかりか。しかし彼等はその喜びと感謝を癒してくださったイエスに伝えようとはしなかったのです。それをしたのはたった一人、しかもそれはユダヤ人ではなく、サマリア人だったというのです。だからイエスは「清くされたのは十人ではなかったか」とおっしゃり、このサマリア人に対してだけ、「立ち上がって、いきなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。ここはよくよく注意しなければなりません。救われた、と声を掛けられたのは、このひとりの人間であって、他の9人病を癒されたけれど、救われたとは言われていないのです。病は癒された、しかし彼らはその癒し手イエスと無関係に生きる道を歩んでいったのです。

ヨハネ14章19節でイエスは言われている、「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と。これがクリスチャンの命の内実、内容です。イエス抜きでは、人は生きていても、それは死ぬべき命を生きているということが真相です。コリント第二の手紙の5章4節にパウロの、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」という言葉があります。これはまことに凄い言葉です。人は病気であろうが、なかろうが、100%「死ぬべき」ものとして生きているは否定しようのない事実ですが、その死ぬべきものが、最後に命に飲み込まれてしまう、とパウロは言っているのです。そういう考えられない逆転が起こる、と言っているのです。そういう死を飲み込んでしまう命はただ一つしかない。十字架上で人類の罪を全部引取り、死なれたイエス、しかもその死に打ち勝って復活したイエスしかない。それが死を飲み込む命なのです。そしてそのイエスのものとされることが本当の救いなのです。表面的にはこのサマリア人と9人のユダヤ人との間になんの違いはないでしょう。だが人生の内実がすっかり違ってしまったのです。イエスと共にあるか、ないか。それは天と地の違いです。ここをさらに考えていきましょう。

この人がサマリア人であったことがここでは特に強調されています。イエスも「この外国人」と彼を呼んでいます。これはどういうことでしょうか。このルカ17章から少し戻って9章に行ってみますと、驚くことがそこに記されています。エルサレムへ向かう決心をされたイエスのため、弟子たちが準備、恐らく宿泊の準備のためでしょうか、サマリア人の村に入ったという話が出てきます。ところがサマリア人たちは、イエスがエルサレムへ行く途中と知ると、イエスを迎えることを拒否してしまった、のです。弟子のヤコブとヨハネはこれに激怒して、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」というような、とんでもないことを口にしています。それだけ冷たくあしらわれ、腹がたったのでしょう。だがこれがユダヤ人とサマリア人の現実でした。エルサレムの神殿とサマリアのゲリジム山は敵対関係にあり、同じ神を信じながら、彼らの宗教は二分されていました。ご存知のように、この時代、聖書ですら三つありました。ヘブライ語聖書、ギリシア語の七十人訳聖書、それにサマリア聖書と言われるものです。なぜそのような分裂があったのか。列王記下17章によると、紀元前8世紀にアッシリアによりサマリアのある北の王朝イスラエルは滅んでおります。その時、アッシリアは人々を大挙連れ去り、そのかわり他民族をサマリアに植民したのです。その後、アッシリアが滅亡しましたが、この植民された人々はその地に残っており、当然しこりの原因になっていました。有名なヨハネ福音書4章のイエスとサマリアの女の話がそのあたりを語ってくれています。そこではイエスが女に水を所望していますが、女はイエスに「あなたがたユダヤ人はサマリア人とは交際しない」と9章で言っています。交際と訳されたスンクロマイσυγχρωβαιという言葉は本来一緒に物を使用する、例えば「同じ桶で水を飲む」といっている言葉ですから、ここではもう同じ釜の飯は一緒に食べない、という意味なわけです。だから隣合わせに生きていてもこれでは「外国人」です。それがサマリア人とユダヤ人の現実でした。

にもかかわらず、ここではこの現実に逆転が起こったのです。まずこの外国人に、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは宣言されたのです。これは「あなたはわたしの永遠の命にあずかったのだ」ということとまったく同じです。これが福音なのです。そしてこの福音が、人間がもたらした罪の現実に、価値の転倒をもたらすのです。ここではもう、重い皮膚病を病んでいるか、いないか、という区別も、ユダヤ人か、サマリア人かという区別も、身内か、身内でないか、という区別も無くなってしまう。信じるというだれでも可能な、平等の地平にすべての人が立つことを許されるのです。それなのに、そういう区別に固執するなら、その人はもうイエスが何であるか全然わかっていない人です。今日のこの話では、天から火を降らせ、焼き殺してもよい、とイエスの弟子ですら思ったサマリア人のひとりが、あなたの信仰があなたを救ったと言われたのです。これが福音なのです。

10月は宗教改革記念日の月です。信仰がすべてだ、という真理を再確認したルターが、その福音をかかげて教会の改革運動に乗り出したという出来事、厳密に言うなら、この原理への回帰運動を起こしたことを記念する月です。この真理を教義的には、信仰義認とパウロは呼びました。人間はイエスを信じることによってのみ、神によって義と宣言され、神に受け入れられるという真理です。この真理を教会が見失うなら教会は単なる建物か、親睦会のような人の集まりになってしまいます。なにを言おうと教会ではなくなってしまいます。しかし、この聖書の真理は、今の世界に対して、聖書の時代、あるいは宗教改革の時代と同じようなインパクトを持っているのでしょうか。最近、ある報道番組に本当に心をうたれた出来事がありました。いま敵対するイスラエル人とパレスチナ人との間に起こった出来事ですが、イスマエルというパレスチナ人の子供、アメフド君といいますが、その子がイスラエル兵に頭を撃たれてしまった。しかしその手当はパレスチナ側の病院ではどうしようもなく、アメフド君はエルサレムの病院へ運び込まれました。だがすでに脳死の状態になって治療はできない状態でした。そこで医師は父のイスマエルさんに臓器の移植はできないか相談を持ちかけたのです。父親は子供の死を無にせず、他の人を救うことになるのなら、といって臓器移植を了承しました。アメフド君の臓器は、なんとイスラエルの5人の人々に移植されたというのです。そして日本と違い、その移植を受けた女の子、サマハさんとその家族に、父親は会っているのです。元気になったサマハさんを囲んで、二つの家族がお互いに親族のように交わりを始めたというのです。互いに人間であるという共通の地平に立ち、憎しみの壁を超えた家族がそこに生まれたのです。この報告をしたのは医師の鎌田実先生です。これは政治ではない。これは愛の問題です。そしてそれこそ神は愛なり、神のわざです。信仰義認をかかげたパウロの信念は、イエスにあってもう男も女もない、ユダヤ人もギリシア人もない、自由人も奴隷もない、ということでした。なぜか。イエスはすべての人のために死に、そして復活し、それをすべての人に保証しているからです。これがまた、教会に委ねられている福音なのです。だから教会は信仰義認の声を上げ続けなければならない。なぜか。そこに現代の宣教もあるからです。

2010年10月3日 聖霊降臨後第19主日 「質か量か」

説教:安藤 政泰 牧師

ルカによる福音書17章1〜10節

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


信仰を「質」と捉えるのか、それとも「量」として考えるのか。

「信仰を増してください」この場合は信仰を量と考えるのではないでしょうか。

「信仰を強めてください」この場合は信仰を質と考えるのではないでしょうか。

All or nothing と言う英語の言いかたがあります。

丸ごと受け入れるか、 全然受け入れないか、 どちらかでしかなく、 その中間は無い、という意味です。

さて、今日の聖書の箇所に入りましょう。

主イエス・キリストはその弟子たちに罪と闘う備えをさせておられる箇所です。

詳細に見ると、1節〜4節 5節〜6節 7節〜10節と3つに分ける事が出来ます。

17:01 「イエスは弟子たちに言われた。つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

初めの部分は、イエス・キリストの直接の弟子たちでさえも、罪の堕落に落ちる可能性がある、ということです。そうした誘惑に対して主は神のみ心を知らせ、常に武装させておられるので、そのような罪をもたらすものは「災いである」と述べています。

17:02 「そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」

ましてや、その罪の誘惑者になる者は、あの石臼(いしうす)を首につけられ、海に投げこまれた方がましである、と記しています。

これは多分にパリサイ人を意識し、自分の尺度で人の罪を測たり、自分自身を義としたりすることを戒めています。神の尺度と人の尺度は違うということです。

17:03「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。

17:04 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

主イエス・キリストの弟子である私達は、自分一人でこの問題に対処する必要があるのではなく、一つの共同体、イエス・キリストにある共同体としてむかうべきなのです。私達はたとえ人の目には重い罪であっても、一度その人がその罪を神の前に告白し許しを乞うのであれば、それはゆるされる事を、共同体としての教会は示さなければなりません。しかし、その罪が認識されず、告白されないのであれば、悔い改めるまで、罪として断定される事も同時に示す必要があります。

人の尺度ではなく神の尺度である、ということです。1日に7度罪を犯し、7度悔い改めるなれ許せ、度々罪を重ねても、の意味です。

17:05 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、

17:06 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

弟子たちは信仰を増して下さるように主に願っています。信仰は増すことが出来るようなものでしょうか。信仰は、あるか、ないか、この二つしかない、と主イエス・キリストは示しておられます。

17:07 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。

17:08 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。

17:09 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。

17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

信仰によってイエスと共に生き、共に働く者は、だからと言って、特別の報酬を獲得する権利を得る事は無い、ということです。自分を召した主への謙虚な態度、献身・奉仕が実を結ぶのは、その自分の行為に対して何の要求も出さないときです。

神から与えられた信仰を感謝の内に自分の身に受け、イエス・キリストにある共同体としての教会の働きが出来るよう祈りたい。

他人を個人的には許せない場合も、共同体としては、客観的に許すことが出来るのではないでしょうか。それでも、意固地に、許さないとするのは、傲慢です。共同体が許しているのだから、許せないが許そうと勤め、主の導きを切に祈るなかで、生きるのが信仰者でしょう。