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2010年8月22日 聖霊降臨後13日 「救いの責任・・・神か人か」

説教:五十嵐 誠牧師

ルカ13:22ー52   マタイ7:7:21-23

◆狭い戸口

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同

に言われた。13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

 

我が国のキリスト教信者の数は、カトリックとプロテスタントを加えても100万ちょっと位ですが、聖書の言葉は結構浸透しています。日常見たり聞いたりします。「福音」「目から鱗が落ちる」「目には目を」「右の頬を打たれたら左をだせ」とかです。また今日の「狭い戸口からはいるように」は「狭い門から入れ」と同じように使われます。受験期には見かけます。先日会議がありました。面白い話が出ました。私たちの教団は二つの学校を持っています。埼玉県の飯能に「聖望学園」・最近は高校野球で甲子園に行きました。浦和のは小中高の「浦和ルーテル学院」です。結構人気があります。で、浦和で「狭い門から入れ」(マタイ7:13)という標語がだされました。ミッションスクールですから、さすが宗教教育が盛んだと思いましたら、それは大学受験生のための言葉だったそうで、ビックリしたというのです。クリスチャンにはそう映ります。

何故かと言えば、そこの先生のほとんどはクリスチャンでないのです。ですから、これはいい励ましの言葉だと思ってしたようです。目くじら立てることもないかなと思いましたが、キリスト教の言葉がそれだけ日本の社会に入ってきたのかとも感じました。ですから、ある牧師は日本のキリスト教にも未来があると言いました。どうでしょうか。

さて、今日の福音書の所で、イエスに付いてきた人が、こう質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。これは現代も質問です。日本にキリスト教がきてから、カトリックでは500年、新教・プロテスタントでは150年です。それで100ちょっと位ですから、だれでも「何故、キリスト教はすくないのか」と聞かれます。私もよく分かりません。と言ったら怒られそうですが。いろんな理由が挙げられます。先だって、ICUの先生が「何故日本にキリスト教は広まらないのか」と言う本を出しました。後で触れます。

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。と同じ言葉があります。マタイの福音書の山上の垂訓・説教の「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。(7:13-14)。です。少し違った観点から、マタイとルカは書いています。笑い話ですが、会うところで、講演会がありました。一方は「天国への道」。も一つは「天国についての講演」でした。多くの人が後者に「天国について」の講演会に入ったそうです。私たちはどうでしょうか。

この出来事は、ガリラヤの伝道の最中、エルサレムに向かっての途上の出来事でした。伝道したが、受け入れられなかったようです。何で救われる者が、少ないのかが関心でした。今の日本の状況と似ています。イエスはある時、「種蒔きの譬え」で、必ず、収穫はあるといいましたが、目の前は希望がなかったのです。(マタイ13:1-9)。イエスは答えは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」でした。その後、神の国の宴会に入る者は少ないと言いました。入る資格があると思って戸口に来たが、締め出しを受けるのです。ただ、一寸解りにくいが、マタイ福音書の方の言葉を見ると理解で来ます。(マタイ7:13以下)。

「狭い門」はルカでは天国の宴会ですが、マタイは「命に通じる門」です。共に神が与える「救い」を意味します。戸口に来て入れない人とはどんな人かですが、ルカは「一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。平行箇所のマタイの福音書では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。(7:21)になっています。ですから、両方から見ると、単にイエスと食事をしたとか、教えを受けたとかで天国の門をはいれないこと、単なるつき合いではだめです。また、単に口先で「主よ、主よ」と言う者です。結局、神の国の門は狭いが、滅びへの道は広いと言うことです。だから、口先だけの信仰ではなく、神の御心をしっかりと行うことで、狭い門を入るようにせよということです。

イエスの時代も付和雷同・一定の主義・主張がなく、他人の意見や行動にすぐ同調する人が多かったようです。大勢イエスの話をききました。5、000人もありました。しかし。ある者は「話を聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(ヨハネ6:60)と言って去っていきました。

日本では信仰とか宗教は余り生活に関係ないと言えます。外国で入国で書類を書きますが。「しゅうきょう宗教欄は大抵「なし」と書きます。宗教や信仰のことは個人に任されています。自由です。これを政教分離と言います。しかし、国によっては政教一致:神政国家があります。イスラエルやアラブ諸国に多い。彼らにとって宗教とは生活の基盤です。私たちには宗教とか信仰は感覚的なものですが、ユダヤ人にとっては身にしみているのです。全存在に関わるものでした。イスラエルという国ではユダヤ教が国の、民族の宗教ですから、個人の宗教・信仰です。旧約聖書を読むと、ユダヤ人は神に選ばれた民・民族であり、神が共にいつも歩き、守られたという先祖以来の信仰を持っているのです。

そういう観点から、狭い門の言葉を見ると、ユダヤ人がイエスの言葉を聞いて、狭い門を入らないことやイエス・キリストを救い主と信じて狭い戸口からは入り、神の国の宴席に参加しようとしないのがわかります。イエスの招きは持っているものを捨てて、狭い入り口から入りなさいと言う勧めです。私たちも持っているものを壊しても、捨てても、キリストを受け入れることで、私たちは神の救いの上に、より優るものを持つことが出来るのです。本当に私たちを生かしてくれるのは神・イエス・キリストなのです。

キリストの福音・・十字架にかかり、復活したイエスを述べ伝えていますが、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問は、今もあります。教会が悪いのか、信じない人が悪いのかと・・。冒頭に触れた本ですが、ICUの古屋安雄先生の「何故日本にキリスト教は広まらないのか」は、原因をあげていました。大きな理由は、教会の社会の状況の変化への対応の遅さでした。この先生は、人は20年くらいの周期で心理的変化をするから、時代の風潮に一喜一憂する必要はないと言いました。面白い意見です。20年くらいで、いい時と悪いときが繰り返すと言います。一理ありました。そんな悠長な事はいっておれませんから、先生いくつかの点を上げていました。

1,青年・学生の出席が少ないが、教会が学生の変化を理解していない。エリート大学か  らマス大学の変化です。青年活動の活性化に気づかない。知識から働きへである。

2,牧師中心と信徒の冷凍化。非民主主義的教会。

3,社会的な問題にコミットしない。キリスト教とナショナリズムを結びつける事。

4,教会の神学的な論争と分裂。日本キリスト教団の激しい論争があります。

5,新しい伝道方向のなさ・大衆化を考慮すること。

他に細かいことが多くありますが、牧師として強く反省をさせられました。

私はもう一つ考えています。それは日本化です。日本は外来宗教を日本的に変えると言います。日本的なものになったとき、その信仰は受け入れられるているというのです。そういえば、仏教はその例です。日本の仏教は、また、神道も本来とは違って、御利益信仰・宗教になっています。新年の初詣を見れば解ります。「家内安全」、「商売繁盛」、「病気平癒」、「満願成就」、「合格祈願」とか一杯です。そして、人々が押しかけます。お祈りする人達もそんなに固く信じている訳ではないと言えます。気安い、気軽な信仰心ともいえますが。変身させるのが、日本の特色です。

キリスト教は変身しなかったと思います。中には変身したキリスト教があります。日本の伝統的思想・考え方を取り入れたものです。キリスト教は変身しなかったのは何故かです。御利益宗教・信仰に変身しないキリスト教が正しいのか、それが伝道の妨げなのか、難しいことです。皆さんはどうでしょうか。意見を聞きたいと思います。

今は座して論議している時間かという意見がありますが、しかしながら、教会は福音を述べ伝えて行くのですが、人々が、ユダヤ人のように先祖伝来の信仰に固着していくならば、それは神にとって残念なことです。信仰なんて考えたことがないと人もいると思います。それならば、その人はイエスの所に来るチャンスです。イエスの所にきて、イエスの声を聞き、イエスと共に歩く喜び、安心を、生活の基盤にしてほしいと思います。イエスと共に歩く道は「冒険の旅」です。わくわくした道です。みんなと共に冒険の旅をして欲しい。

イエス・キリストは救い主であるということは、揺るがない事実であり、このイエスを避けては救いはないのです。聖書はいいます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス)のほか、人間には与えられていないのです」。(使徒4:12)。イエスも言いました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。(ヨハネ14:6)。

私たちは現在、信仰や宗教が、信じるか、信じないかで、生死を分けることのない世界に住んでいますから、昔のユダヤ人のように「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(ヨシュヤ24:15)とは迫られませんが、選ぶことは強制されませんが、選ぶ必要ないこととして、拒否してしまうな事にならないようにと、神は望んでいるのです。それを覚えて下さい。

イエス・キリストを信じて、揺るがない神の救いを土台としてもたれるように祈ります。 アーメン

2010年8月8日 聖霊降臨後第11主日 「あなたの富のあるところに・・神の前の豊かさ」

ルカによる福音書12章13-21節

説教: 五十嵐 誠牧師

◆「愚かな金持ち」のたとえ(ルカ特有)

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安があるように  アーメン

ここ数年、世界経済が混乱して、金融不安が世界中の人々を襲いました。アメリカ、ヨーロッパなどでは、また、日本でも、失業者の増大や経済格差の拡大や景気後退で、多くの人が苦労しています。世界の、日本の国の将来はどうなるのか心配をしています。人間の欲望が招いた不安ですが、どんな教訓を学ぶべきでしょうか。

先日、あるパンフレットをよんでいましたら、アメリカの牧師が「景気後退は何のため」という文を書いていました。彼はこの不況に神の目的があると言いました。私が考えたことないものだったので、面白いので紹介します。五つのポイントをあげていました。

1,わたしたちの隠れた罪を明らかにし、私たちが悔い改めて聖められるようにする。
2,経済が常に最悪の状態である発展途上国に生きる人達の悲惨な状況に対して、私たちの目を開かせる。
3,自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる。
4,人間の力が頼りにならないときこそ福音を述べ伝え、教会を成長させ、神の救いのみ業を前進させる。
5,傷ついた兄弟姉妹のケアをすることによって、神の教会の主にある愛を成長させる。

ルーテル教会の牧師は政治や経済について発言しない傾向があります。牧師も世間のことに発言することを教えられました。理解できる内容です。特に3番は(自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく、天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる)なんかは今日の福音書の「愚かな金持ち」の譬えに適用できる点があります。さらなる説教の必要ないかもです。

ここ十何年かを振り返ると、私たちはお金に、この世の富に、お金儲けに熱中しました。バブルの時代は思い出しても、すごいお金が、人々を引きつけました。日本人が7割くらい、自分は中流と思っていました。豊かさを追い求める人間でした。今は多くの人が、生活が苦しいと言います。思い出しても「エコノミック・アニマル」、「所得倍増」、「高度経済成長」という言葉が氾濫しました。私が横浜の教会の牧師の時、不動産バブルで、銀行が来て「先生、マンションを建てて、収益をあげたらいいですよ」なんて勧められました。また、横浜駅近くで、周りが地上げで立ち退き、後に高層ビルが建ち始めていましたので、「土地を売って新しい地に教会を建てたらどうですか」とも。一坪800万から900万円しましたから、200坪で、なんと18億円くらいになりました。一瞬、売って預金したら、金利で楽に食べていけるなとも思いました。でも、そんなことに乗りませんでしたから、今も教会が建っています。よかった。

今、アンケートをしますと、子ども達は「お金」というそうです。子どもばかりでなく、大人でもそういう回答が多いと思います。教会の背後のレジデンスに住んでいるライブドアーの堀江貴文社長が「お金があれば何でも出来る」と言いましたが、今もそうでしょう。金や物への執着は避けられない欲望と言えます。

先ほどのアンケートの3のコメントを、今日の説教のテキスト「愚かな金持ち」の譬え

にと言いましたが、「自分たちの持ち物でなく神の恵みに、自分のお金でなく神の憐れみに、世の富でなく 天国の富を頼りにするように、私たちの生き方をシフト・転換させる」。

別に言えば「本当の豊かさ・宝とはなにか」です。こんな時代だからこそ、立ち止まって考えるのもいいものです。

譬えは簡単です。遺産相続争いが発端です。いつの時代もあります。私も家内の遺産相続で弁護士に頼みました。争いではありませんが、遺産分割協議書を造るためです。最近は遺産相続で骨肉の争いが起きます。ラジオやTVの人生相談などでよくがあります。イエスは相談者の欲望を察知して・・争いがあったのでしょう・・人間の心の奥底に潜む欲望や貪欲を取り上げて、私たちにい真の・本当の富みとは、豊かさとはを示されたと思います。

譬えの内容を思い出して下さい。ある金持ちの畑が豊作で、多くの収穫を得るたが、しまうところがなかったので、古い倉を壊して、新しい、大きい倉を建てて、収穫物を全て治めました。そして、この金持ちは、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。安心だ。これからは食べたり飲んだりして楽しめる」と言って、喜びました。当然です。だれでもそう思います。

普通は、悩みは、金や物が有り余っているから悩むのではなく、足りないから、金も物がないから、悩むのです。ですから、この金持ちの悩みは「贅沢な悩み」です。人間は「贅沢な悩みを一回くらいしたいのかも知れませんね。

それに対して、神はこう言います。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われて、結びに「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言います。冷や水を浴びせています。悩みから歓喜の喜び、そして絶望と悲しみです。

お金や物が、どのくらいあったらいいのかと思いますが、いろんな統計があります。毎月の生活費が年金生活ですと一人月20万円とか、夫婦で34万円とかですが、生活の差がありますから、人によって多少上下があるようです。しかし、母子家庭や若者は年収200万円前後位とかあります。私は今老人ホームに入っていますから、後何年生きて、いくら必要か計算をしています。多くの人が苦しいながら頑張っている姿が見えます。

ユダヤ人はこんなことを言いました。旧約聖書の箴言です。30:7-9。知恵の言葉です。好きな言葉です。

「わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです」。

富むことは人間を傲慢・おごりたかぶって神を見くだし、ないがしろします。しかし、この中庸・行き過ぎや不足がなく、常に調和がとれていることは難しいのです。「足を知る」と言う言葉があります。意味は「十分である、満ち足りる」です。パウロは「私は、 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。(フィリピⅠ4:12)。 パウロは秘訣を授かっていると言います。パウロは富や貧しさによって支配されているのではなく、その両方を超えた満たされた心とどんな境遇でも生きられることのを可能として下さるキリストの力に支配されているのです。そんな心境を持ちたいと思います。

ところで、この譬えの意味を・・「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」を見ましょう。随分厳しいことばです。この世で金銀財宝をいくら積んでも、イエスは言います。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と。キリストの弟子テモテは、いみじくも言っています。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです」。(テモテⅠ・6:7)。

イエスは山上の説教で「さいわい」・・信仰者の・・幸福のリストを述べていますが、そこでは「さいわい」は地上の富み、財産にかかっているとは言っていないのである。改めて気づきました。

*参考:マタイ・5:3ー11。(The Christian’s chart to happiness)。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

5:9 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。

イエスがいう「神の前に豊かになる」とは何か。以前、ある方が、その前に「愚か者」とは何ですかと聞いてきました。今は、「馬鹿」とか「愚か者」は大ぴらに言えない言葉ですが、聖書で「愚か者」とは、普通では、思慮、分別、また、判断、判断力の欠如ですが、聖書では「愚か者は心の中で、「神はいない」・(詩編14:1)、「神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と(詩編53:2)。愚か者とは「神はいない」「神などいない」という人を言います。この金持ちはユダヤ人?ですから、この場合、神など存在しないように振るまい、全てを自分の力のせいにする自己中心的な姿を、神は「愚かな者」と言われたのです。

「神の前に豊かになる」とはどういうことでしょうか。この金持ちは反面教師ですから、いくつかの学びあります。一つは彼が余りにも自己本位、自己中心的であることです。自分の意のままに、欲しいままに振る舞った。また、彼は受けた富みに対して神に感謝をしなかった。彼は周りにいる貧しい人達を顧みなかった、助けもしなかった。彼の生き方特色は、何かをするということより、何にもしないという罪によって際立っています。法律では作為、不作為の罪と言います。最後に彼は神なしで将来の安全を手にしようとしています。

さらに、 「神の前に豊になる」とはこの金持ちの行き方を・・反面の教師として見て見ると、簡潔な学びを知ります。イエスはある時、学者の質問にこう答えました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、また、「隣人を自分のように愛しなさい」と。(ルカ10:27)。これが神の前に豊になる生き方です。神と隣人が金持ちには存在しませんでした。彼はただ、自分のことのみ考えていました。

「神の前に豊になる」生活を一人一人が、今日も主によって生かされていることを明白に知り、T、P、O・・つまり、時・場所・場合にあった方法で表したいと思います。キリスト教信仰は、さまざまな思い悩みから、私たちを自由にします。解放します。自分のために富を積むことの思いわずらいから自由にされ、解放されて神に対して富む、新しい生き方へと導いてくれるのが、キリスト教信仰です。

イエスは地上の富や楽しみや安心を遠ざけるようにとは言いません。イエスはピューリタン・清教徒ではないからです。

*「一六世紀後半、イギリス国教会の宗教改革をさらに徹底させようとしたプロテスタントの一派。キリストの教えの遵守と清純な生活を理想とした。ピューリタン」。

イエスは譬えを「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言う勧めで終わっています。この時代の中、心を開いて聞きたいと思います。この教えはイエスが山上の垂訓・説教で教えていたことでもあります。

「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるらである」(マタイ6:21)。これが今日の結論です。

アーメン

2010年7月25日 聖霊降臨後第9主日 「愛の表し方と必要なことは一つであるを考える」

ルカによる福音書10章38-42節

説教: 五十嵐 誠牧師

◆マルタとマリア

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が  あるように アーメン

今朝は二人の女性信者に目を向けて見たいと思います。マルタとマリアの姉妹の話です。どちらが姉で、どっちが妹か不明です。これは結構有名で、また論議のある所でもあります。よく、あなたはマルタ型、マリア型ですかと聞かれます。血液型と似ています。私はA型ですから、その特徴を満たしています。几帳面で、固いとか、規則を守るとかです。マー自分はそんなタイプかなとも思います。意外と当てはまること多いです。女性の方もいろんなタイプがあります。で、マルタ型は活発で、働き者 、マリアは静的なタイプと言われます。ここにお出での方はどうですか。自分はどのタイプかです。

論議のある話と言いましたが、昔から解釈が難しいのです。どちらかと言えば教会はマリアタイプを重視してきました。女性は教会では静かにしているべきだと。しかし、現代のような時代・・特に女性の地位や権利が向上している時代、男女共同参画社会では教会でも、男性と同等の権利を持つべきという意見が強くなりました。

子どもの聖書物語の挿絵にこんなのがありました。イエスとマルタとマリアの絵ですが、イエスの足下にマリアがいます。イエスの話を聞いている様子が出ています。しかし、イエスの背後の女の人が立っています。その目は不機嫌で厳しい目つきで、マリアを見ているのです。イエスやマリアに対して、不満で、気づいて手伝って欲しいという目です。我慢が出来ずに、遂に、イエスに言いました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と。こんな情景ありますね。私たちも経験しています。三角の目をして、不満を現して、以心伝心で悟ってほしいと思います。口で直接言えないからです。なんて気のきかない人間だと思います。マルタは気が強い性格でした。

また、イエスがマリアを弁護していますから、しかもマルタを非難しているように見えるからです。マルタは先に言いましたが、活動的、現世的、勤勉で有能な面が大きい。マリアはどことなく高貴で、控えめで、人の言葉に耳を傾けると言うような面を思います。

ある先生はマルタは役に立ち、なくてはならない人ではあるが、模範的で心なぐさむ理想的な女性はマリアの方なのでと言いました。

こんなに評価が異なる受けとりをされている物語を見ましょう。さっき読んだ福音書を思い起こして下さい。

イエスが、ある村ですが、ベタニアです。ベタニアはギリシャ語では 「悩みの家」「貧困の家」という意味であると考えられています。エルサレムの南東約3キロ(ヨハ11:18によると15スタディオン),オリーブ山の東麓にあった村(マコ11:1,ルカ19:29)です。イエスはこの村をよく訪ね,特にその生涯の最後の週には,ここからエルサレムへ通われたと思われる(マタ21:17,マコ11:11‐12等).この村にはラザロとその姉妹マルタとマリヤ(ベタニヤのマリヤと呼ばれている)が住んでいました。ここが今日の舞台です。

イエスはマルタとマリアを訪ねました。マルタは・・女主人は客をもてなすために、準備のために、台所に立ちました。一方、マリアはイエスの話を聞くために、イエスの足下に座っていました。(因みに、当時はイス生活でなく、座って、体を支えるものに寄り掛かり、、横になっていたようですから・・ゆったりした風景ですから、宗教絵画でイスで座っている絵は違っていると言われます)。 マリアが手伝わないのの気がつき、イエスに不平を言った。するとイエスは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」と言ったのです。

で、一見すると、マルタのやっていることが価値が低く、マリアの態度には見習うべきであるように思われたのです。  イエスは本当にそう言ったのでしょうか。考えたい。

牧師はどんなタイプの女性がいいのかと思いましたら、ある牧会学の本に「牧師の妻とは、マルタであると同時にマリアである者」とありました。牧師の妻はこれが理想だと言うのです。私の亡くなった家内は・・と思いましたが、仲間の牧師を見ると、どちらか一方が強いと言えます。余り活動的だと出しゃばりとか言われますし、静かだとなにもしないとかになります。しかし、どちらかと言えば、マリアタイプが教会では好まれました。これは一般社会でも見えますが、男性はおとなしいタイプの女性が好みです。

教会の歴史で、どちらかと言えば、マリアタイプが好まれました。これは一般的に男性優位の考えがあるからです。男性原理の社会だからです。女性は教会の中で活発に振る舞うことは歓迎されませんでした。ですから、女性の教会の主要な役員とか牧師は認められませんでした。私たちの教会も宣教師がいた頃はそうでした。今は女性の役員がいますが、それは例外的な意味だと言えます。会員が少ないという原因です。また、女性牧師も認めていません。女性牧師を認めようという動きもありますが、聖書解釈や教会の伝統などから実現は難しいと思います。ともすれば、時代の動きや思想で、女性の権利の向上や男女平等主義などの考えで、後に聖書解釈を変えるのは難しいからです。聖書にこう書いてあるというと、それで「判断停止」になります。「原理主義」的な傾向が教会にあります。

私は聖書解釈をパラダイムで便宜的に変更のは反対です。パラダイムとは最近に良く聞きますが、思想史でしばしばいわれる「パラダイムの転換」とは、思考のパターンの転換のことを言います。今までの聖書解釈を、現代の考えで解釈し直す・転換と言うことです。同じことを「ポスト・モダニズム」と言います。時の流れに流されるのはどうかなと思います。私はどちら言えば、古いタイプの考え方の牧師です。かといって男性優位を盾にとって、女性を低く見る気はありません。

マルタとマリアの問題も、私は二つの方法で考えたらいいと思います。一つは神が人間を創造したときの意味です。神が創造の六日目に、人間を・・「男性」を造りました。「神は神にかたどって創造された」のです。アダムでした。その後に「人が独りでいるのは良くない。彼に合う(ふさわしい)助ける者を造ろう」と言い、「女性」を造られたのです。(創世記1:27など)。この場合「女性」は男性の助け手・Helperに取れます。女性が男性より劣り、低く、また、恵みを男から頂く者と言うように取れますが、そうではありません。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、その翻訳がよくありません。その原文をある英語訳はこう訳しました。「I do make to him  a helper as his counterーpartner」で、日本語では「私・神は彼に合う(ふさわしい)助け手を・・彼のカウンター・パートナーとして造る」です。ヘブライ語の原文の意味はこうなのです。「カウンター・パートナー」とは「面と面とを合わせる、向かい合う、同じ平面に立つ」相手という意味です。(日本語の聖書にはそれがない)。上から何かを与えると言うのではなく、悲しみは悲しみとして、共感してくれる相手、一緒に涙を流してくれる相手、誰かが側にいることは、人間存在にとって大事だという意味です。男と女もお互いに大事な存在としてあると考えたい。

二番目には、マルタとマリアの、行為・した業の優劣の問題としてでなく、「愛」の問題として見ることです。マルタはイエスのために甲斐甲斐しく働くいている。一方、マリアはイエスの足下に座ってその話を聞いている。単純に見ればいい風景です。端からも、いい姉妹だなと思います。マルタも喜んで台所仕事に、甲斐甲斐しくしていたと思いますし、仕事でイエスの側にはいなかったが、その心はイエスの側にいたのです。また、マリアも、仕事を手伝うのをしたくなかったから、座っていたのではなく、イエスの声を聞くのを喜んで座っていたのです。喜んで働く、喜んで聞くというのは、共にイエスを愛することの一つの表現だと言えます。愛する方、好きな方のために、一所懸命食事を作るというのと、そのかたの側にいたいというのとは、どちらも、女の尊敬し、愛する人への愛の表現だと理解したいと、私は思います。簡単に言えば、二人は「愛」を別な形で示したのです。ただ、マルタは愛の価値判断をしたと言えます。パウロは愛について書いています。愛は「寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。自分の利益を求めないと」。(コリントⅠ13:4-5・口語訳、新改訳)。正にそうです。

一見マリアを弁護しているように見えますが、イエスはマリアの行為がマルタより優っているとは言っていません。もしそうならイエスはマルタにも、座って聞くように言われたと思います。イエスに聞き入っていることが、マリアにとってイエス・主を愛する行為でし、それがイエスになすべきことでした。だから、マリアから取り上げてはならないのです。もし、マリアが自分の行為が接待より優っていると思ったら、マルタと同じことをしていることになります。自分の業を誇ることになるからです。

ですから、私は主の教会では、一人一人が自分の思いにおいて、主とともにいるために、自分にとって、最も主イエスのためになる思う働きをしたいと思います。自分は主イエスのためにしているのだという確信に立てば、比較して怒りをもち、ねたましく思うことがなくなります。

最後に「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」はどういう意味かを考えたい。私はイエスが単純にイエスの言葉を聞くことをほめてとは思いません。もっと大事なことを言ったともいます。それを、私は「神の言葉を聞くこと、神の恵みに生きていること」だと思います。だから、それをマリアから取り去ってはならないとイエスは言われたのです。信仰者という者は神の恵みと祝福の下に生きている者です。神と共に生きている者です。私たちは神の言葉・聖書から神の真理と力を頂くのです。イエスは、その信仰が「なくてはならないもの・必要な唯一のものだ」だというのです。ある牧師が私にいいました。「神と共にいます」信仰がなくてはならないものだ」と。正しいと思います。

私たちの現在の社会は、競争と能力社会に置かれています。弱肉強食です。失敗すれば格差が付く社会です。ですから、多くのことに思い悩み、心を乱しがちです。また、人を羨んだり、妬んだり、憎んだり、けなすようなことをしているのです。そんな中にいる私たちに、もっと大事なことがあるのでは・・という問をしているのだと思います。クリスチャンというのは、例え、つまずいても、失敗しても、倒れても、心にゆとりを持ち、明日もあるさと、新しい生き方に取り組む勇気を与えられるのです。

私は、西遊記で思い出しましたが、孫悟空はキント雲という高速の雲に乗って大空を世界中を走り回っていましたが、それはお釈迦様の手のひらの上でしたという話があります。

◆中国の長編小説「西遊記」で、孫悟空が乗る雲。ひと飛びで10万8000里を行く。

私は「信仰者という者は神の恵みと祝福の下に生きている者です。神と共に生きている者です。私たちは神の言葉・聖書から神の真理と力を頂くものだと言いましたが、「信仰者の人生が神の大きな両手の上に、保たれていることが、私たちの生きる上で、最も大切な、信頼すべき、なくてはならないもの」ではないかと思います」が、どうでしょうか。「なくてはならぬもの」を是非、見つけて欲しいと思います。

アーメン

2010年7月11日 聖霊降臨後第7主日 「イエスに従うこと・・・救いの3時制」

ルカによる福音書9章51-62節

説教: 五十嵐 誠牧師

テキスト ルカ9:51-62   (マタイ8:19-22)
サマリア人から歓迎されない
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。9:56 そして、一行は別の村に行った。

◆弟子の覚悟

9:57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」9:59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。9:60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」9:61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」9:62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

私たちの父なる神と主イエスキリストから 恵と平安が あるように アーメン

イエスの弟子はいろんな人がいました。職業から見ても、漁師、取税人、国粋主義者(熱心党)、商人(会計係)などです。性格も様々です。短気でせっかちな者、怒りっぽい者、疑い深い者などです。ですから、時には感情が出ます。今朝の福音書にもありました。私はせっかちですし、仕事が早いほうです。

イエスとその一行はエルサレムに行く途中、サマリアを通りました。「しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」。サマリアの住民がイエスを歓迎しないのは当たり前でした。付き合いがなくて、交際をしていなかったからです。歴史的、宗教的反目がありました。まして、イエスがエルサレムへ行くと聞いたからです。サマリア人は自分たちの神殿をゲリジム山に持っていたからです。イエスが自分たちの神殿に参拝するなら歓迎したでしょうが。(参考・わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(ヨハネ4:20)。この山とはゲリジム山です。

それを見て、イエスを歓迎しないのを見て、ヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。「主よ」と言い、忠義立てしたつもりです。旧約聖書のソドムとゴモラを心の中で考えたと思います。「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ」たのです。(創世記)19:24)。罪深い町でした。旧約の故事を思い出してのことです。

*「ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた」。「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされた」(9:28)。「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。)(9:26)で有名です。あるいはエリヤがサマリアのの王の部下を天からの火で滅ぼしたことからでしょうか。(列王記下・1:10,12,14)。

*「エリヤは五十人隊の長に答えて、「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう」と言った。すると、天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした」。

ヤコブとヨハネとはあだ名を「雷の子ら」といいました。「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた」。(マルコ3:17)。おそらく性格を現しています。激しい気性のゆえでしょう。イエスは「振り向いて二人を戒められた」。イエスはなんと言われたか不明ですが。イエスは昔の人のように天罰を下さず、弟子たちをたしなめて、そこを立ち去りました。性急は判断を避けたのでしょう。

次に、イエスは弟子の覚悟について語りました。有名な所です。3人の人がイエスに従いたい、あるいは呼ばれています。弟子志願です。従うとはギリシャ語で「アコルーテオウ」ajkolouqevwと言います。3人とも同じ言葉でイエスに語りかけています。意味は「誰かの弟子として従うこと」です。ですから、3人は「イエスの弟子となりたい、弟子としてきなさい」と言う願いや呼びかけでイエスに出会っています。イエスの名前を聞いてでしょう。

日本では牧師の所や教会に明白に「クリスチャンになりたいのですが」と言う明白な理由で来る人はあまりいない。私もあまり経験ありません。教会に来る理由はなにか。私は英語への関心でした。昔は(と言うと何ですが)、教会は若い人がいましたから、結婚目当てもいました。お金や物品を目当てもいました。やがて、教会に来ていて、キリスト教を学びませんかとか、洗礼を受けませんかというと、そこでイエスかノーが出てきます。今日の人のようなことが起こります。私がこの教会の前身の目黒教会の牧師の時、高校生の女の子が、親に相談してきますと言って、結局、断ってきました。理由は結婚が出来なくなるという親の心配でした。カトリックの修道女が親の念頭にあるようでした。ミッションスクールや幼稚園、保育園に人気があるのは、しつけとかに重点がありまして、信者になるのは困るのです。

この出来事はイエスの約3年間のガリラヤ伝道が終わり、エルサレムに向かう途上で起きました。ですから、充分イエスについて評判があったのでしょう。で、志を持って来たのが3人の若者?かも知れません。

まず、ある人がイエスに言いました。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と。立派な、崇高な決心です。普通は歓迎するものですが、しかし、「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス)には枕

する所もない」。なにか出鼻をような言葉です。私でしたら「そうか、よく決心した

、頑張れ」です。考えてみれば、信仰は一生涯の付き合いです。よくカトリックの修道女は(よくは知りませんが)キリストと結婚する意味で指輪をされるそうです。生涯の結びつきをいうのでしょう。ですから「誓願」まで時間がかかります。思いつきでは出来ないことだからです。イエスは、その人の覚悟を試す意味で、鋭い言葉を掛けたと言えます。弟子になるというのは、いわば、今歩いている道をなげうってもかまわないという覚悟が求められます。信仰に入ることを「悔い改め」とか「回心」と言います。英語では(conversion)ですが、ギリシャ語ではメタノイア)ですが、それは人生における考え方の根本を変える・・180度転換して歩くことです。罪と古い生き方から絶縁を意味します。じゃ、信仰は苦しみだけではないのです。苦しみなら、止めたくなります。今までの生き方を捨てても、それに優る喜びがあるのが、キリスト教信仰です。凄い苦労したパウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」。それは「キリストを得」たためですと。

私が牧師になる時、当時の教会の指導者のTさんが「牧師は食えなくなることを覚悟せよ」といわれたことを思い起こしました。

最近の教会は年配者が多くなりました。牧師は自分の教会は高齢者ばかりでと、こぼしますが、それは間違いです。そうではないのです。その人たちは、信仰の素晴らしさを、豊かさを、喜びを証ししている大切な教会の宝なのです。その生き方で証しをしているからです。信仰に進みたい方がその高齢者を見て、信仰に生きて欲しいと思います。

次にイエスは、ご自分から「別の人に、「わたしに従いなさい」と言われた」。その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。すると「イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と。この答え誤解される言葉でした。親の葬儀なんかほっといて、伝道しろに聞こえるからです。キリスト教は親不孝な宗教ですねと言います。しかし、ユダヤ教は父母の葬儀は大事でして、安息日の規定は免除された程です。もちろん、十戒も父母を敬うことを命じています。(第四戒)。日本では「弟子」とは先生の教えを習い、それを覚えて、独立します。有名なのは内村鑑三の「無教会」です。弟子は先生の教えを受け継ぐものです。イエスの弟子とはイエスの教えにならうというより、イエス自身が中心であり、(だから、イエスの教えをすべて暗記しても、それは弟子の目的ではないと思う)。

イエスの弟子とはイエス自身を信じ、期待し、イエスを弟子の心の中心に置くことなのです。ここでイエスが言いたいことは、この世の常識とされていること要求されたとき、福音のために、私に従うかという問です。キリストの兵士として出征出来るかでしょうか。

3番目は、家にいっていとまごいをしたいからと言うことでした。「別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と。人間的には理解できます。後顧の憂い無く出発したいです。旧約時代、預言者エリヤはエリシャが弟子になるとき、父母へのいとまごいを願うエリシャを赦していました。ですから、この人はイエスに願ったのでしょう。しかし、イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた」。イエスはその願いは「神の国にふさわしくない」でした。弟子にはふさはしくないです。イエスの弟子たちはイエスに呼ばれてすぐ従ったようです。ペトロとアンデレはガリラヤ湖でイエスに呼ばれたときそうでした。「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った」。(マタイ:19)。)ヨハネとヤコブもそうです。

「別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。(マタイ)4:21-22)。マタイ(レビ)の場合もそうでした。「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。(ルカ5:27)。

信仰で家族というしがらみとの葛藤はかってよく聞きました。内村鑑三は父親との凄い闘いがありました。武士階級ですから、刀を突きつけられたと言うことです。この教会の前牧師下舘先生は本の中で、自分がキリスト教に入るというと、お母さんが大変かなしまれたと書いていました。(マタイ説教集)。私は幸いありませんでしたからさいわいでした。皆さんは同ぢいしたか。信仰で息子、娘を取られたと言って、親が教団に押しかけている情況が前にTVにありました。(オーム真理教、イエスの箱船集団など)。イエスもこんなことを言いました。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。・・一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」。信仰は分裂かですが、違います。

でも、考えると信仰を持ってこそ、家族の結びつきが強まるのです。キリスト教はまさにそうです。なにか誤解や噂で、信仰を恐れているような気がします。もちろん、信仰に入った人の生き方、姿が大事なことは言うまでもありません。家族は自分のことをよく知っていますから、なかなか信用されない点はありますね。

私はよく歴史のある教会に行きましたが、羨ましいと思うのは、信仰の二代目、三代目、四代目が多くあることでした。多分、はじめは問題があったと思いますが、苦労したと思いますが、家族が信仰で固く結ばれているのです。このことを忘れてはならないと思います。

この厳しいイエスの言葉がいつ語られたかを見ると、ある程度情況が分かると言います。イエスはエルサレムでのご自分の十字架の死を見ていましたから、差し迫った言葉だと言えます。ですから、厳しいとも言えます。現在はそういう緊迫や差し迫った情況ではないと考えると、余りにも厳しい問・・イエス(YES)かノー(NO)を迫るのは・・は理解でき無いと言う人がいます。ヨハネはこんなエピソードを書いています。イエスが永遠の命について語ると、「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。(ヨハネ6:60)。

しかし、信仰は遠い将来にその決着がつくものではないのです。中世時代、多くの貴族や王たちは、洗礼を死ぬ間際に受けました。そこで救われる・・天国にはいると考えたのです。生きている間は自由に生きるのです。カトリックは「煉獄」という教えがありますから、それを恐れて、避けるためと言われています。「煉獄」とはカトリック教で説く、天国と地獄との間にある所。死者の霊が天国にはいる前に、生前の罪をここで火によって浄化されるという。ですから、煉獄での苦しみを軽減し減免する「免罪符」というお札が売られました。結果、ルターによる「宗教改革」が起こりました。

信ずるか、信じないかは、今、現在の問です。あなたは将来に救われるでしょう(You shall be saved・・未来形でなく)ではなく、あなたは今、ここで救われています(Yuo are saved・現在形)が、聖書の教えです。ヨハネははっきりとイエスの言葉を書いています。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。また、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」。(ヨハネ3:16)。さらに、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」。(ヨハネ3:18)。これらは皆現在形です。信仰とは過去のことでも将来・未来のことではありません。現在・今のことです。だから、イエスかノーかを問われるのです。

聖書を見ると「救いの三時制」(three tennses of salvation)が分かります。英語の時制・テンスの問題ですが、過去、現在、未来のことです。私は救われた。私は救われている。私は救われるでしょう。英語では I was saved.  I am saved.そして、I shall be saved.です。私たちはイエス・キリストによって、キリストを信じる信仰によって救われたのです。(洗礼を覚えていいでしょう)。そして、今、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われている。さらに、私たちはその信仰のゆえに、必ず救われる。(聖書の未来形は確実にそうなるという未来形です)。これは覚えておくことです。

信仰は理論や理屈・知識ではないと言われます。信仰は生き生きした力・パワーです。

大分前に、TVで大々的に宣伝していたCMがりました。「Power for living」と言う本のプレゼントでした。北海道日本ハムファイターズ監督トレイ・ヒルマンさんが文を書いていました。そうしたら、ある方(おそらく、ファンでしょう)が、それに対して抗議をしたと報じていました。キリスト教が嫌いな人でしょうか。おかしな人です。信仰なんか害あって、益はないと思っているのでしょう。でも、「信仰は生きる力」です。ヒルマンさんはそれで、ファイターズを優勝に、日本一にしたのです。

イエス・キリストは「私はあなたに、それを与えるために来た」のだと、私たちの前に立っているのです。「私について来なさい」と言われます。どう答えますか。キリストは答えを待っています。  アーメン