第1日課 エレミヤ書17:5-8
主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。
第2日課 コリント人への第1の手紙12:27-13:13
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行なう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行なう者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。幼子だった時に、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくてとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で、最も大いなるものは、愛である。
福音書 ルカによる福音書6:17-26
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群集は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じ事をしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなた方はもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
説教 「中途半端でない将来。」
ルカによる福音書の六章17節から26節のお言葉でございます。
主イエスさまのお言葉も、また最初の旧約聖書の言葉にも、完全に逆で、違う立場にある人々について話しておられます。そして、勿論わたしたちは良い方に属したいと思っておりますが、このことについて、わたしたちは今日考えさせられるのでございます。
言葉としては、「幸いと不幸」となっております。旧約聖書の言葉はもっと厳しく、「呪われる人と祝福される人」という言葉を使っております。どちらにしても、正反対ですから、ある程度ということではなく、こっちか、あっちかとはっきりとしております。私たちの世の中では難しいこともあり、悲しいこともあって、何時も私たちは[ある程度]ということを考えています。この時と、あの時とはいくらか違う。それほどではない。或いは、もっとすごいというように考えるのですが、ここでのイエスさまのお言葉では、[幸い]とは完全な幸いです。完全な幸福です。わたしたちは、少しはこちらで良い、またあちらではそれほど大変ではないと考えがちですが、この言葉は今の時の話ではないようです。勿論、今からそういうことが私たちに関連しているのですが、でも、本当に幸いである時が来るのです。それは限りの無いものであって、本当に祝福される時です。わたしたちが天国へ移されて、イエスさまの兄弟として、神さまの家族となる時のことです。
イエス様がいらっしゃった国は地中海に面していたところです。地中海の柔らかい良い風が普段は吹いているのです。でも、たまに東側からアラブの、今はサウジアラビヤとなっているところですが、砂漠を通る風が吹いて来るのです。すると、青いものが全部焼けてしまってその年は植物が駄目になって人々は飢饉で苦しむのです。そのことを、譬えとしてイエスさまは用いられています。また、エレミヤもその当時の人たちに聞かせています。だから、ある程度ではなく完全に駄目と言うことなのです。東から風が吹いて来たら。そしてまったく砂漠のようなところになるというのです。土地が駄目になることです。実際にそのようなところがあるのでしょうかと思いましたが、わたくしはそれには会っていないのですが、第二次戦争中、日系人たちは太平洋側から他のところに移されてしまったのです。わたしの母や親類の人たちが移されたところは、土地の塩分が多くて雑草も生えないところでした。少し風が吹くとわあっと埃が立って嫌なところでした。日本人は一生懸命に働いて工夫をして上手に畑を作ることが出来たのですが、ラデッシュを植えたら余り塩分が強いので、塩をつけなくても食べられると冗談を言ったほどでした。また、もう少し木陰が欲しいと男たちは大きな葉っぱがあるエルムという木陰を作る木をそこへ植えたのですが、土地が悪いので小さい葉っぱしかならないで、全然木陰は出来なかったのです。
エレミヤ書の中でそのような飢饉が起こる状態のところでも、そばに水かが流れていたらそこから根が水分をすって木が何時までも青々としていると聞かせています。そのように全然違うということです。
わたしたちの信仰のことを考えれば、わたしたちが救われるか、または、救われないかという大きな差があるということ。救われる者は、完全に救われる。そのある程度までと言うことではない。天国へ行ったら完全なものに変わっているということです。イエス様の兄弟となっているのです。でも、もしもわたしたちが、不幸の方になれば、不幸といったら、日本の言葉では死ぬと言う話になってしまうのですが、その通りに本当に苦しい時が来るのです。それには、終わりのが無いのです。今の世の中でしたら、一時は苦しいでしょう。痛いでしょう。でも一時的なことです。永遠の時でしたら、どっちかという本当に幸福であるか、あるいは不幸であるかをイエス様が聞かせておられるのです。
その中にいろいろな例がございますが、その「幸せ」の基になることは何かといいますと、パウロはわたしたちに愛というものを考えさせるのです。愛というものは限度がないものです。最後には信仰と希望と愛と三つのものが残るのですが、天国へ行ったら、もう希望は既に与えられて、完全な者ですので、これからもっとよくなるということはないのです。希望は必要なくなる。信仰は先への大きな望みを持って信じることです。でも、現実が完全であったら信仰はいらないのです。わたしたちは当然愛し合っていますので、残るものは愛であると、パウロの言っていることでわたしたちに愛ということを考えさせます。そのように、わたしたちが愛を考える時は神様の愛を考えるべきです。
勿論、人間にも愛はありますが、最近は余り聞きません。わたしの若い時代でしたら、愛というものは、愛国であったのです。あるいは親を愛しなさいという命令だったのです。戒めだったのです。愛国もそうでしたが、必ずしも美しいものではなかったのです。ただ、恋愛の内にも使われています。男と女が心を寄せ合って、夫婦となり一緒に生活をすることを意味するものですが、それもここに、コリントの十三章にある愛とは大分違うものでないでしょうか。はじめは恋愛をして、ボーイフレンドかガールフレンドに心を寄せているのです。余り好きでないところもあるが、人はみな欠点があるのですから、完全ではない。それはおぼろげにちょっと思っているのですが、でも心を寄せているのですから、恋愛をしている時には夢中になっているのです。結婚をして、しばらくは続くのですが、だんだんに相手のいけないところが目立ってくるのです。そのうちに嫌に思って最近は随分離婚が多く行なわれているようです。その愛というものとは全然わたしたちの今言っている愛とは違うものと考えなければなりません。ただ、感情的に神様がある人を好きと言っているのではないのです。かえって、聖書によりますと、わたしたちはまだ罪人である時に神様が愛してくださって、独り子をこの世にお送りになってわたしたちの身代わりをなさったのです。それによってわたしたちの払うべきものをイエス様が受けてくださって払ってくださったから、わたしたちは一文も払う必要がないのです。そういう神様の愛とはわたしたちが普段考えている愛とは、例えば恋愛というものとは全然違うのでないでしょうか。わたしたち人間は本当に愛というものがわかっているのでしょうか。
コリントへの手紙の中にある愛についての一つ一つの言葉も、愛は決して滅びない、終わることはない。預言や異言や知識は廃れるが、わたしたちは良い話を聞いたり、どんな素晴らしい話を聞いてもそれは無くなるが、愛はそうではない。愛は一部分ではなく完全なものです。わたしたちにはその一部しか分かっていないのです。人に聞かせることも一部分だけです。パウロは子供を例にして、幼い時に考えていたことは、いろいろ夢のようなものがあったのでしょうが、大人になったら現実にぶつかってそれほど甘いものではないと私たちも分かってくるのです。だから、昔の鏡は今のとは違って、ガラスは当時ありませんので、おそらく鉄分や銅を磨いてそれを鏡として使っていたようです。それで、完全には映らなかったのです。ですから顔と顔を見合わせれば本物がわかるのですが、当時の鏡でしたら自分の顔もよくわからないのです。はっきりと分かる時、その時は、永遠の命が始まった時で、その時、わたしたちははっきり知ることになるでしょうと、そういう大きな希望を与えてくださっているのです。そして、希望ばかりではなく、わたしたちの信仰も大事にしているのですが、最後は愛しか残らないものだと。わたしたちは神様の愛に包まれて永遠に生きることであって、それには限りがなく何時までも続くと、わたしたちは今日聞かされて、その素晴らしいことを心に留めておきたいと思います。
皆さん、この基になるものは、わたしたちの主イエス様が教えてくださったことでございませんでしょうか。主のお言葉を良く聞いて心に留めておきましょう。今のところは、全部は分かりませんが、信じて希望を持っていましょう。その信じることと希望を持つということの基は愛である。神様の愛であると覚えておりましょう。