タグ Archives: ルカ

2019年7月28日 聖霊降臨後第7主日の説教 「あなたの安息」

「あなたの安息」 ルカによる福音書10章38~42節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

 

今日はマルタとマリアの物語から福音書の言葉を聞きました。ここに「もてなし」という言葉が出てきます。私たち日本人にとって「おもてなし」という言葉は非常に身近に感じるのではないでしょうか。賛否両論ありますが、トランプ大統領が日本に来日した時の安倍首相の対応はおもてなし外交と言われたのが記録に新しいかと思います。そして、来年はいよいよオリンピックです。この六本木教会にも外国からのお客さんがいつもより多く礼拝に来られるかもしれませんので、これからオリンピックに向けて、役員会でその対応を協議してまいります。お客さんが教会に来て下さることはうれしいことですが、教会は何よりも共にその方々といっしょに賛美し、聖書の言葉を聞き、祝福をいただく礼拝の恵みを恵みとして喜びと感謝の内に共に過ごせることをまず願っております。

この「もてなし」と訳された言葉は、原語のギリシア語ではディアコニアと言い、これは「仕える、奉仕」と訳される言葉です。英語ではサービスです。そして、サービスと言えば礼拝のことを指します。私たちが礼拝をする、礼拝を守るというと、私たちが神様にお仕えし、神様に奉仕する。または神様をおもてなしするということを思い浮かべるかもしれませんが、ルターは礼拝のことをドイツ語でゴッデスディーンスト「神奉仕」と言いました。私たちが奉仕する以前に、神様が私たちを奉仕してくださる、それが礼拝だと言いました。何よりもまず私たちが神様の奉仕、もてなしに与っているのだということ。その姿勢を今日の福音書は私たちに伝えているのです。

主イエスと弟子たちはある村に入って、マルタとマリアの家に迎えられました。歩いて行くうちとありますが、口語訳聖書では「旅を続けているうちに」とあるので、結構な距離を歩いて旅していたのでしょう。彼らを迎え入れたマルタとマリアは主イエスと顔見知りで、以前から交流があったのかもしれません。長旅の中、ようこそ我が家にお越しくださいましたと、主イエスたちを迎え入れ、もてなしました。この時代に宿屋やホテルと言った施設はほとんどなかったので、埃まみれで、空腹の旅人をもてなすということはユダヤの社会でとても大切にされていました。旅人はもてなしを受けて、身も心も安息を得ることができたでしょう。

姉妹は主イエスと弟子たちをもてなしますが、妹のマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」と言います。「聞き入っていた」というのは、夢中になって聞いていたということです。夢中になっていて、主イエスの言葉を、神の言葉を聞いていました。一方で姉のマルタは尚も彼らをもてなすためにせわしく立ち働いていたと言います。もっとお料理をださなきゃとか、あれもしないとこれもしないと、という具合に忙しくしていたのでしょう。ところが、彼女のもてなしの心は違う方向に向いていました。自分の手伝いをしない妹のマリアに、不満を抱いていたのです。主イエスの前に座して神の言葉を聞くマリアを、もてなしをしない怠け者と映ったのかもしれません。なぜあなたはもてなしをせず、ただ座って話を聞いているのか。

そこで彼女は、マリア本人にではなく、主イエスにこう言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」不平不満だと言います。せっかくのおもてなしの心が、自分だけがやらされている感があって、彼女は訴え出ました。そして、あなたからマリアに手伝うように言ってくださいというのです。このマルタの思いには、マリアに対する非難以上に、主イエスに対する非難があったのでしょう。そして非難であるのと同時に、自分のもてなす行為を認めてほしいという気持ちがあったのでしょう。私はこれだけあなたをもてなして、あなたに仕えているのに、マリアは何もしてません。何もしていないマリアになぜあなたは何も言わないのですか。私だけに働かせて、マリアに何も言わない主イエスに腹を立てているのです。

このマルタの心情を明らかにするように、主イエスは彼女に「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言われました。心を乱すというのは、心を配っているということです。彼女は主イエスと弟子たちをもてなすために一生懸命に心配りをしているのです。真面目に、真剣にやっているのです。しかし、その心配りは、多くのことに思い悩み、今や心を乱すという彼女の心が主イエスに映し出されています。自分の判断で、自分の力量で、あれもこれも心配りをして、もてなしをしようとしている。それがマリアの姿を見て、自分のもてなす行為を手伝わないという不平不満に心を支配され、もてなしがもてなしではなくなってしまっている。やられている感があり、彼女は不自由で窮屈な思いに縛られているのです。

マルタの姿は私たちの姿と重なりやすいかと思います。敢えて何か事例を出すまでもないでしょう。皆さん一人一人、思い当たることがあり、経験されていることかと思います。マリアの態度が、その姿が許せないのです。なぜ私だけがこんなに役割を背負わされているのか。私のことは誰も評価してくれないのか。自分はこんなにやっているのに。そして、なぜ手伝いもしないマリアは咎められないのかと。不公平だと思う。マルタの姿、思いは決して自分とは無関係だとは言い切れないどこか共感できるものがあるでしょう。また、逆にマルタは自分のことだけに気が向いていて、本当のもてなす心になっていないという非難もあるかと思います。主イエスを心からもてなそうとはしていない。自分の力量に過信して、自分の思い通りにもてなそうとして、自分の側に喜びを見出そうとしている。だからマリアの姿が許せず、挙句の果てにはもてなしの対象である主イエスにその不満をぶつけている。マルタこそ自分勝手な人物だという思いもあるでしょう。

ところが、主イエスはマルタに対して、あなたは喜びをもって真のもてなしをしていないからだめだと言われたのではないのです。マルタのもてなす行為を責めたのではないのです。主イエスはこう言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」必要なことはひとつであって、あれやこれやではなく、またそれらに心配りをするのではなく、ただ一つであると。それはマリアが選んだものであるというのです。それを取り上げてはならないというのは厳しい言葉に聞こえますが、だからこそそれがマルタにとっても必要なただひとつのことであり、主イエスはマルタもまたそのひとつのことに彼女を招こうとされているのです。

マリアの「足もとに座って、その話に聞き入っていた」という姿は、律法学者などの神様の律法、掟を教える人から、教えを聞く姿勢を表しています。ただ、これは男性に限られたことであって、女性がこのようにして神様の教えを聞くという姿、習わしはありませんでした。ですから、マリアのこの行為自体が驚くべきものでありました。けれど、主イエスは彼女の行為を非難することなく、良いほうを選んだというのです。男性とか女性とか子供とか関係なく、ただマリアは主の足元に座って、神様の言葉に聞き入っていたのです。申命記33章3節で、モーセは神様にこう言っています。「あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。彼らはあなたの足もとにひれ伏し/あなたの御告げを受ける。民とはイスラエルの民を指します。そして、主の言葉を聞くのは主に男性を対象としていました。マリアは壁を破って、主イエスに信頼し、神様の言葉に耳を傾け、聞いているのです。自分もまた神様の慈しみの内にあり、神様から愛されている。自分を窮屈にする言葉としてではなく、真にこの私の人生に語りかけているその命の言葉として、マリアは主イエスの言葉を聞いているのです。マリアは良いほうを選んだ、それは彼女が主イエスを自分の心に招き入れ、み言葉を通して彼女をもてなしている主イエスの姿があるのです。

あなたは民らを慈しみ/すべての聖なる者をあなたの御手におかれる。」この愛と命の言葉は、この私に語られている。この私の人生のひと時ひと時、決して途絶えることなく、私に語り続けてくださっている。この私はあなたの御手の内に合って、真に安息を得ることができる。マリアの確信と信頼の心はここにあります。み言葉を通して、私の人生に語りかけ、決して私を見捨てることなく、私を常に気にかけてくださっている神様の愛と慈しみに満ちた手でこの私を包み、支えてくださっているのだと。そのようにして私をもてなしてくださっている主イエスの姿がここに映し出されているのです。マリアは自分のもてなしの自分の業にではなく、主イエスの御業の内に、自分の人生があり、自分自身を振り返っているのです。真の安息を得ているのです。マルタは自分のもてなしの業に信頼して、主イエスをもてなし、主イエスを迎えようとしました。一生懸命に真面目に。それこそマルタの働きを非難する資格など毛頭ありません。しかし、マルタのもてなしは思い煩いと背中合わせでした。自分のもてなしの業に委ねるあまり、マリアの姿に思い煩い、心を乱してしまったのです。マリアの姿を受け入れる心の持ちようがありませんでした。それほどまでに、彼女の心は縛られ、不自由にされていたのです。マリアという相手を裁いて傷つける以上に、その思い煩い故に、マルタ自身が傷ついていたのです。主イエスはそのマルタを招き入れようとしているのです。実はあなたが一番心乱し、思い煩い、傷ついているのではないかと。縛られ、不自由の中を苦しんでいるのではないかと。あなたの中にではなく、神様の、主イエスのみわざの中にあなたの人生があって、そこであなたは生かされているのだと。この神様からのあなたへのもてなしを受けてほしい。それが主イエスを自分の心に招き入れ、主イエスの言葉を聞いて主イエスと共に生きていくことなのです。

聖書の言葉、神様の言葉は私たち一人一人に語られています。日ごとの様々な働きに心を乱し、疲れ切っているこの私に聖書は語っています。あなたの働き、あなた自身のもてなしの行為があなたを自由にするのではなく、この私があなたをもてなし、あなたを自由にするのだと。それは主イエスが片時も私たちの歩みの中に働きかけてくださっているからです。その神様の愛のご意志を私たちは聖書から聞いていくのです。その言葉に聞いて歩むところから、私たちのもてなしの働きは生まれます。自分に委ねて、他者の姿を気にして裁いてしまうその不自由さから解放され、自分ではなく、神様の御業によって自分がもてなされ、生かされている喜びを知るところから、私たちの他者へのもてなしが生まれるのです。自由にもてなす心が主によって養われ、そこに生きることができるのです。私たちのもてなしは主の足元に座り、み言葉を聞くところからまた新たに始まります。始めることができるのです。主イエスと共に、互いにもてなし、互いに他者を思いやって、歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月14日 聖霊降臨後第5主日の説教「惜しみなく注がれる神の愛」

「惜しみなく注がれる神の愛」ルカによる福音書9章51~62節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の冒頭に『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。』(51節)とあります。天に上げられる時期というのは、主イエスが昇天される出来事だけを指しているのではなく、それは以前、弟子たちに証ししたように、ご自身の死と復活を予告し(ルカ9:21~27)、エルサレムで遂げようとしておられる最期について(9:31)証ししている出来事を指します。エルサレムで遂げようとしておられる最期、それは十字架の死を指しますが、その死を受けるために決意したのがエルサレムへの旅路であり、十字架への道なのです。

その主イエスの決意を阻むかのように、道中、準備と休息を取るために立ち寄ったサマリア人の村で、サマリア人たちから拒絶されました。そこには数百年に及ぶ民族同士の深い対立が背景にあります。お互いに交流はなく、嫌な印象をお互いに抱いていました。だから、ユダヤ人である主イエスを歓迎する気など毛頭ないのです。その憎しみに拍車をかけるように、弟子のヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)と主イエスに言います。自分たちにとっての敵である、主イエスの旅路を阻むこの者たちを、神様の裁きで排除してしまえばよいではないかと考えたわけです。

このヤコブとヨハネの声は、現代版のヘイトスピーチであると言えるのではないでしょうか。「彼らを焼き滅ぼしましょうか」、それは憎悪をむき出しにし、自分の正しさに立つ発言です。この時代であればサマリア人がその対象なのです。しかし、主イエスは彼らを戒められました。それには及ばないということではなく、彼らを叱って、それは違うとはっきりと言いました。それは、彼らの思いから来る発言がエルサレムに向かう主イエスの決意ではなかったからです。主イエスの決意から外れていたのです。ユダヤ人であるこの弟子たちから見て、サマリア人は神様からの救いの対象から離れていたという印象がありました。彼らを罪人と見なし、裁きの対象に見ていたという思いがここで顕になったのです。主イエスの戒めは、ご自分の決意から遠ざかっているのはむしろこの弟子たちであり、サマリア人への憐れみを持てない彼らの思いというより、自分たちはサマリア人よりも神様の救いに近く、正しいものであるという彼らの思いに向けた戒めであったと言えるしょう。私たちも自分の価値観に基づいた正義を振りかざし、他者の救いのためではなく、裁いてしまうということがないとは言い切れません。そして、本当の意味で救いから遠ざかっているのは、そのような価値観に縛られている不自由さからくるものではないでしょうか。主イエスの戒めはそのことに向けられ、主イエスの決意からは遠ざかっているのです。

この後、3人の弟子志願者が登場します。一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)と言う人でした。対して主イエスの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58節)と言われます。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣、それらは命を、存在を、生活を守るものです。ところが人の子である主イエスにはそれがないと言います。それは、主イエスが人々によって片隅に負われ、枕するところを奪われる救い主だからです。枕するところを自分のためにではなく、人々のために、人々に与えるということなのです。どこへでも従って参りますという主イエスに続く道は、主イエスご自身がそのように辿る道であり、その決意に従っていくことなのです。

主イエスは二人目の人には従いなさいと言われます。すると、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言います。父親が亡くなられたばかりだったのでしょうか、今は葬儀をまずしなくてはいけないという彼の心境は最もなことだと思います。しかし、主イエスは言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)死の世界に行ったものをこの世に生きるものではどうにもならない、死んでいるものたちにまかせるしかないと。けれど、主イエスはここで葬儀に出るな、葬儀などする必要はないと言っているわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」神の国を言い広める、他の訳では明確に「神の国を宣べ伝えよ」となっています。この神の国、神のご支配する領域の中に死者も含まれているのです。この神の国という言葉は神様のご支配する領域という意味において、神の愛とも言える言葉です。神の愛がそこにある、神の愛によって、亡くなられた者は神と繋がっている。それは死から復活する主イエスにおいて明らかになることで、この復活の主イエスに繋がることにおいて、先に亡くなられた愛する者たちとも繋がっているという慰めを与える。それが主イエスに従い、神の国を言い広めて、神の愛を明らかに告げることです。

パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(83539)神の国を言い広める、それは神の愛が及ばないところはないということ、この愛によって私たちは生きている、死の力も、この愛の前には無力であるということです。命の望みはつきることがないのです。

  さて、最後の三人目はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)ようするに、家族に別れの挨拶をさせてくださいと言います。しかし、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と厳しいことを言われます。鋤は土を掘り起こす道具ですが、その仕事は主イエスと出会ったときから与えられているので、もはや後ろを振り向いている時などないと言われるのです。家族のことを心配するのは誰もがそうです。主イエスに従っていくと、もう会えないかもしれない、だから正式にお別れをさせてほしいと頼むのはよくわかります。しかし、主イエスはそれは神の国にふさわしくないと言われます。ただしてはならないと言っているわけではありません。神の国にふさわしくない、ようするに、あなたとあなたの家族は神の国に生きているのであるから、神の国、すなわち神の愛におけるあなたがたの交わりが、交流がある。神の愛を抜きにして、あなたがたの関わりはないのだと言っているのだと思います。だから、神の国にふさわしくないと主は言われるのです。家族との関わりを二度ともつなとか、絶縁しろと言っているわけではないのです。そして、主イエスに従うことが、神の国に生きるということであれば、家族のこともそれは、この私以上に主イエスが気にかけ、心を砕いてくださっているということではないでしょうか。もちろん家族の心配は誰だってします。しかし、心配や不安から神の国が揺らぐことはないのです。私が気にかける以上に、主イエスが気にかけてくださっている、主がその愛の御手で包んでくださっている。大切な私たちの家族を、神の国は生かされるのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ57家族との関わりも、この神の国において、結ばれている。だから、神の国をもたらす主イエスの後についていくのです。

この3人の志願者が弟子になったかどうかはわかりませんが、ヤコブとヨハネを含めて、主イエスの決意から離れていた姿がありました。主イエスの言葉は確かに厳しいものでありますが、この厳しさの中に主の決意があります。それはエルサレムで、十字架を通して成し遂げる神の愛の実現であり、赦しと愛に基づく主イエスの決意です。この決意は、さきほどパウロの言葉から言いましたが、絶対に私たちを引き離さない神の愛です。だから、神の愛に示される神の国とはどこか遠い理想郷ではなく、理想郷とは言えないような弟子たち、また私たちの小ささ、弱さ、惨めさの中に、起こしてくださるのです。

主イエスは同じルカによる福音書でこう言われます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(172021実にあなたがたの間にあるのだと。そう、今を生きている私たちの只中に。それこそ厳しいこの現実世界、ヘイトスピーチなどが飛び交うこの世に、主イエスは神の国をもたらされるのです。主イエスの決意に私たちも従い、私たちの都合や不安、悩みと共に歩んで下る主イエスに信頼して、この神の国を、神の愛を広めていきたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日の説教 「救いの道」

「救いの道」 ルカによる福音書9章18~26節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前「キリスト新聞」に日本基督教団前総幹事の内藤留幸先生という方が、キリスト教の『救い』についてこういう記事を書かれていました。

「・・・・その(この世の)救いの内容は簡潔に言えば、『この世で生きている間は幸福でありたい』ということであり、また『できれば社会的差別・経済的不公平・政治的抑圧などから解放されて、皆が健康で安定した生活をしたい』ということであろう。そこで求められている『救い』は極めて人間主義的傾向が強い。それはキリスト教会が長い歴史を貫いて語り伝えてきた『真の救い』すなわち『永遠の救い』とは異なっている。・・・・『真の救い』とは実に永遠の命を与えられることによって完結・成就する『救い』である。・・・・永遠の命を与えられた者(信仰者)たちは、そのことをどのように自覚し、どのように世にあって生きるのだろうか。端的に言えば『信仰と希望と愛』に生きるのである。そのことはわたしたちが救い主キリストの復活を記念して守る主日礼拝で語られる神の言葉を聴き、主キリストとつながる喜びに満たされ、永遠のみ国への希望と救いの確信が新たにされるとき実現するのである」と、このように語っておられます。

今日の福音はまさに、この「真の救い」について、主イエスが私たちに語っておられることなのです。内藤先生は、信仰、希望、愛に生きること、キリストにつながることだと言われました。それは具体的にどういうことかと言いますと、「自分の十字架を背負う」ということに他なりません。自分の十字架を背負う、その響きからして、重く受け止めてしまう私たちの姿があります。自分の十字架を背負うことがなぜ「真の救い」なのか。主イエスの厳しい言葉です。しかし、「十字架を背負う」ということは、何か悪いことをした罰として与えられるということではありません。「わたしに従いなさい」と言われる主イエスの招きの言葉であります。十字架を背負って、主イエスに従う歩みの中にこそ、「真の救い」が示されているからです。

本日はペトロが信仰を告白する場面から、福音のストーリーは始まります。主イエスが祈っておられたところに、弟子たちも共にいました。彼らは常に群衆たちに取り囲まれる日々を送っていたでしょう。今は祈りを通して、父なる神様と交わりを共にし、あたりにしずけさだけが漂っている雰囲気を彼らの姿から感じ取ることができます。そして、主イエスが弟子たちに尋ねました。「群衆はわたしのことを何者だと言っているか。」主イエスの噂は、もうこの時には、ユダヤ全土に知れ渡っていたことでしょう。数々の奇跡や癒しを垣間見てきた群衆は、主イエスに力ある預言者としての期待を抱いていました。洗礼者ヨハネやエリヤ、その他の預言者が生き返り、再び自分たちのところに来てくださり、自分たちを救ってくれるという期待です。世間一般では、今最も注目の的であるお方であったということでしょう。そして、主イエスは弟子たちにも聞きました。即座に答えたのがペトロでした。「神からのメシアです」そう答えたのでした。

「メシア」、これはそのまま「救い主」と訳せますが、元々の意味はヘブル語で「油注がれし者」と言います。サウルやダビデなど、イスラエルの王様となる人物が授かっていた称号でした。ギリシア語では「キリスト」という意味です。

「あなたこそが私たちの救い主です」。ペトロはそう答えたようなものです。しかし、主イエスはペトロたちを戒めました。メシアということを人々に知れ渡らないようにするためだったからです。それはなぜか、人々が願う「この救い」を与えるために、主イエスは来られたということではなかったからです。ペトロたちもそうでした。この「メシア」がどういう救いをもたらすのか、分かってはいなかったのです。そして、主イエスは言います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」このことを聞いて、弟子たちは大いに落胆したかと思います。同じお話のマタイ福音書16章22節では、十字架の死に向かう主イエスを、ペトロはいさめ、留まらせようとします。主イエスはその時ペトロに言いました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」激しい言葉です。ペトロの行為は人間の行為、神に反する行為だと言われる。神の真の救いを妨害する人間の救いの行為なのです。十字架という苦難から逃れようとするこの世の救いです。しかし、主イエスはその救いをもたらすためではなく、父なる神の御意思、つまりこの世、全被造物への滾ることのない愛、真の救いをもたらすために、サタンを振り切り、この世の救いという誘惑を振り切り、十字架への道を歩まれていくのです。

この主イエスの後に従う道について、主イエスは言われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」なぜそのような道を私たちに示されるのか、主は私たち人間を愛され、私たちに平安な道を示して下さる方ではないのかと思うかもしれません。今ある苦しみから全て開放してくださる方ではないのかと。弟子たちや人々が抱くメシア像は現代の私たちと何ら変わりないのです。ここで主イエスは自分の十字架と言います。主イエスが担う十字架というより、私たちひとりひとりの十字架です。これを重荷と捉えるなら、敢えて自分の十字架とは何かと問うことはありません。生きている限り、自分の十字架を背負って、誰しも歩んでいるからです。主はこの重荷を取り除くとは言われません。それを背負って行けと言います。しかし、その歩みは私に従うということ、キリストと共に歩んでいくということです。

そして命ということを言われます。自分の命を救うとはどう言うことでしょうか。その言葉の反対がキリストのために命を失うことですから、命を救うとは、命を失わないように、命を安全な場所にしまいこんでおくようなものです。安全な場所とは、自分が意のままにできる場所です。自分の価値観で、自分に有利と思えるものを受け入れ、不利益なもの、忌み嫌うものは受けいれないことです。ですから、苦難や困難なんてものは尚更受け入れたくないでしょう。自分の十字架を背負っていきたくはないのです。そういう苦難と困難な状況の中において、命は蝕まれ、失われてしまうと考えるのが私たちの価値観です。しかし、主は、それらを避ける道こそが命を失うものであると言われるのです。命の輝きを封じ込めてしまう、命の可能性を狭めてしまうのです。逆に、主イエスのために命を失うものは、それを救うのです。それは命の可能性を広げることです。苦難や困難の中で大いに力を発揮する命、とうていそこでは命が育まれないという絶望の中にあっても、輝く命なのです。その命とは、単にその苦難や困難を味わいなさい、そこに命を救う源があるということではありません。単純に苦難や困難の中にあれば、命の危険性はますだけであって、苦しみは苦しみのままなのです。そこには何の希望もありません。主イエスが言われる命を救うとはそういうことではなくて、わたしのために失う命、ようするにキリストのために命を失う者が、それを救うということなのです。キリストのためにというのは、キリストに生きる命です。だから自分自身の中では命を失うのです。心地よいところ、安全な場所における限られた命は限られた命なのです。そうではなくて、キリストに生きる命とは、自分の十字架を背負い、苦難や困難の中にあってこそ、命の可能性が広がるということです。

ここで主イエスが私たちの救い主となるために歩む道は、ただ死に向かって歩む道ではないということを今日の御言葉から聞いていきたいと思います。わたしのために命を失う者は、それを救うという根拠は、この主イエスキリストこそが命の救い主であり、私たちに命を与えてくださる方だからです。主イエスの予告の言葉をよく聞いていただきたい。殺された後、三日目に復活することになっているとあります。この復活の命こそ、キリストに生きる命なのです。それは決して死なない命ではありません。死ぬのです。苦難の後に殺されてしまうのです。しかし、その死に勝利されることをすでにここで予告されているのです。それは、主イエスがこれから歩む道のゴールが死の先にある命だからです。命の道なのです。

わたしに従いなさい。しかしそれは、自分の命を捨てて、それで終わりというわけではなく、それを救うと言います。私たちの人生の嵐は激しく、常に揺れ動き、不安、悩みは絶えず、苦難が待ち受けているかもしれません。しかし、その苦難を通して、私たちはキリスト、永遠の命をもたらすキリストという土台の上で、生きながらえるのです。どんなに揺れ動かされても、私たちの中にあるキリストの土台が支えてくれるから。神の愛ががっしりと私たちを掴んでいてくださるのです。だから、私たちの土台となってくれるキリストが共にいてくださる。いつ崩れるかわからない自分自身という土台を払って、このキリストの土台を受け入れること。それこそが、自分の命を失い、キリストが与えてくださる命に生きることなのです。

今日の第2日課でありますガラテヤの信徒への手紙で、パウロはこう言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(32628

神の子として、キリストを着ている。パウロはこう表現しました。そう、キリストに覆われているのです。この覆いが私たちを支えてくれる。さらに、この覆いに入っているのは、あなた一人ではないということ。キリストによって、ひとつされている私たち相互間の歩み、愛し合う友がいつもいてくれるということであります。男も女も、人種という壁を突き破って、キリストに連なる私たちの姿があります。ここに真の命があり、その喜びを分かち合いましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年6月30日 聖霊降臨後第3主日の説教 「安心して行きなさい」

「安心して行きなさい」ルカによる福音書7章36~50節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

以前、教会だよりなどでも紹介したことがあるのですが、イエスキリストの十字架による罪の赦しとは何か。ということについて考えていた時に、三浦綾子の小説「道ありき(青春篇)」を読んで、ヒントを得たシーンがあります。

彼女は学校の教師をしていましたが、敗戦を迎え、教師として教えてきた、信じてきたことを否定されてしまいます。さらに、彼女は若くして、当時死の病と恐れられていた肺結核を患い、療養所での闘病生活を余儀なくされてしまうのです。信じることを恐れ、虚無的になっていた彼女は、そこでお酒を飲み、煙草を吸うなどして、治療に専念できませんでした。そんな時、この療養所で前川正という、後に彼女をクリスチャンに導く青年と出会います。彼は心から彼女の行く末を案じ、何かと気にかけるのですが、当の本人は心を開くことができず、生きることに意味を見いだせない自虐的な言葉を彼にぶつけます。ある日、彼は彼女を春光台の丘という場所に散歩に誘います。2人で景色を眺めていた時、生きることに消極的な発言ばかりをする彼女に対して、前川正は彼女に諭します。しかし、そんな彼の発言に反発するかの如く、彼女は身体に悪影響のあるたばこに火をつけて、たばこを吸おうとします。その時、彼は彼女の健康を心配する言葉を発しながら、深いため息をつき、そして、傍にあった小石を拾って、突然自分の足に打ち付けました。彼は涙を流して、自分の足を打ち付けながら、自分がいくら神様に祈っても、自分には彼女を救う力がないということを悔やみます。彼女はそんな石を打つ付ける彼の姿、涙を流す姿に呆然としつつも、彼の姿から、己の生きる道を指し示されました。小説の中で、彼女はこう語っています。

「自分を責めて、自分の身に石打つ姿の背後に、わたしはかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと、わたしは思った。それは、あるいはキリスト教ではないかと思いながら、わたしを女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを、わたしはわたしなりに尋ね求めたいと思った。」

前川正の姿にキリストを見出した彼女の人生は大きな転機を迎えます。その後、このキリストが彼女の人生の土台となっていくのです。心を開き、現実を受け入れて、前向きに生きていく彼女の姿が描かれていきます。彼女に生きる力を与えた前川正の姿を通して示されたキリスト。石を打つ付ける前川正の姿の中に、私は十字架の贖いを見出したような気がしました。キリストの十字架は、かたくなな私という存在を受け入れてくださり、生きる道を指し示してくれる神の愛であると知った時、「救い」とはこういうことなのかと。罪赦されて、神様と向き合い、自分を神様に委ねるという新しい命に自分も与っているのだという導きを、改めて今も感じております。

主イエスはファリサイ派のシモンの邸宅に招かれ、食事の席に着きました。ここイスラエルでも食事は親密の証しです。相手との信頼関係を深め、交わりを豊かにするものです。その時「一人の罪深い女」(37節)がシモンの家に入ってきました。当時のユダヤでは、客が招待されている席に他の人が入って来るのは、ごく当たり前のことでした。けれども、入って来たのはシモンの忌み嫌う罪深い女性だったのです。この女性は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(3738節)とあります。これはお客さんに対するもてなしの態度だったと言われます。家の主人であるシモンではなく、この女性が、しかも涙でぬらしながら主イエスをもてなしたのでした。「足を涙でぬらし始め」とある「ぬらす」という言葉は「雨を降らせる」とも訳せる言葉です。つまり、雨が降るかのように、女性は激しく泣き続けていたということでしょう。

この光景を見ていたシモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と思っていました。シモンたちファリサイ派の人々はわかっていたかもしれませんが、この女性がどのような罪を犯して、罪深い女と言われるようになったのかはわかりません。そして今、この女性が、罪深い者が主イエスに触れていることが問題であると言うのです。もし預言者なら、そういうことは許されないはずだと。しかし、この人はこの女性のしていることを注意せず、させるままにしておかれる。この人は私たちが求めている方ではないのか。罪人を裁き、神様の律法を忠実に守る人を救われる方ではないのか。そのような期待を抱いていたのでしょう。彼らファリサイ派と呼ばれる人はそれほど真面目に、人々の模範となるぐらいに、神様の教えを守り、人々に教え、そこに生きていた人たちなのです。ですから、彼らはその女性に裁きの眼差しを向けつつ、さらにその厳しい眼差しはあの罪人を野放しにしておかれる主イエスに対しても向けられ、主イエスに対して疑問といらだちを覚えていたのでしょう。

主イエスはシモンたちの眼差しをおそらく受け止めていたのだと思います。だから、彼らにある話をしました。借金のお話です。金貸しからある人は500デナリオン、ある人は50デナリオンを貸りますが、両者ともお金を返せず、金貸しは彼らの借金を帳消しにするというお話です。そして主イエスはどちらがこの金持ちを多く愛したかと質問します。質問に対し、シモンは500デナリオン借りた人の方が、多く金貸しを愛すと答え、主イエスは彼の答えを肯定しました。

ここで主イエスは「借金を帳消しにしてもらって、どちらが多く喜んだか」と言っているのではなく、「愛する」という言葉を使っています。帳消しにしてもらった人が、喜びに満ちて終わるということに留まらず、金貸しと「愛する」という関係性にまで発展しているのです。また主イエスは「多く」という言葉を使っています。愛するということに多さ、少なさということがあるのかと思われるかもしれません。そういう疑問を抱く私たちに、敢えて主イエスは私たちに言われるのです。それはなぜか、次のシモンへの言葉でわかります。44節です。主イエスは女性の方を向いて、シモンに「この人を見なさいか」と言われました。「この人を見ないか」。印象深い言葉です。主イエスに言われなくとも、シモンはこの女性を見ていた。何を見ていたのか。この女性の罪深さです。涙ではなく、裁きの眼差しで見つめていたのです。そして、彼女を見て、自分の立ち位置を確認し、彼女は自分より罪深いと思っていたのでしょう。しかし、彼自身は主イエスを見てはいないのです。神ではなく、自分ばかりを見ていた。そこで主イエスは言われたのです。「この人を見よ」と。見方を変えろとまで言っているかの如く。シモン、あなたは私を見ていなかったと言われるかのように、自分に対するもてなしは一切しなかったと、シモンに言われます。それでも主イエスは尚自分を見ろとは言っていないのです。この人を見よと言われる。何を見るのか、「愛の大きさ」を見よと言われるのです。

この女性は涙を流しました。涙で主イエスの御足を濡らしました。主イエスをもてなしたのは、この涙です。この罪人の涙なのです。この涙が表すのは、悲しみ、苦しみからくるものだったのでしょうか、それとも喜びや感謝から来るものだったのでしょうか。この涙にはそれらすべての思いが詰まった彼女の存在そのものが突き動かされるものだったのではないかと思います。雨を降らせるほどに激しい彼女の思いが込められている涙です。主イエスはこの涙を通して示された愛の大きさを、彼女が多く赦されたことに対する実りであると言います。

愛の大きさに見られる罪赦された彼女の姿を、愛に生かされて、新しい歩みを成そうとしている姿に目を向けなさいと、主イエスはシモンに言われるのです。それは彼女の主イエスへの愛の大きさに示された彼女の姿の中に、主イエスはおられるということなのです。神の御心がそこに示されているのです。主イエスは彼女の涙を受け入れ、その涙の中に留まれた。涙に示された罪深さの中に、共におられたのです。シモンは彼女の涙の中におられるキリストを見てはいなかった、いや見出すことはできなかったのです。

主イエスは最後に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。あなたは救われたと言っただけではなく、彼女の信仰によってと言います。あなたは愛されている、赦されているから大丈夫だと、それだけを言っているのではないのです。彼女の涙と共におられる主イエスによって、彼女自身が愛するものとして新しい生き方へと導かれているということを表しているのです。

エフェソの信徒への手紙3章18~19節でパウロは言います。「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ、実に豊かな表現です。これだけ多くの人を助けた、これだけ多くのことをして、役に立つことができたという目に見える大きさ、上だけを見る直線上に縛られる愛の範囲ではありません。また自分の立場、環境によって、ファリサイ派の人であろうと、罪人であろうと、愛の大きさを表せるかどうかということは計ることができないのです。私たちの側ではなく、人の知識をはるかに超える愛の実りが、今まさに彼女の涙の中に、愛と赦しの涙として表されているのです。その信仰を彼女の涙に見られます。ただ泣きじゃくった涙ではなく、キリストが受け止めてくれた涙です。その涙の中に示された彼女の罪深さと赦し、そしてキリストへの愛。この涙こそが彼女の信仰であり、彼女自身を救ったのです。

私たちは、彼女の涙を通して、その涙に示された罪深さの中に共におられるキリストを仰ぎ見たいものです。教会讃美歌307番「まぶねの中に」の4節の歌詞にこう書いてあります。この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ 人となりたる 活ける神なれ。

私たちは何を見るのか、何を見て自分の土台を築くのか、人生を歩んでいくのか。他人の落ち度でしょうか。失敗でしょうか。弱点でしょうか。そこにしか目を向けられないところに、人間の盲目さが現されます。人間の弱さ、みじめさ、無力さの中に、嘲りを見出しますか、それとも、神の憐れみを見出しますか。問われているのは私たち一人一人です。しかし、私たちがどのような目で、何を見ようとも、キリストは私たちに十字架による赦しの愛を示してくださいます。この罪深い女性のため、またシモンのため、そして私たち一人一人のための十字架なのです。だから、あなたは赦されている。愛に生きることができるとキリストは言われます。愛の招きが私たちに向けられています。神への愛の大きさは、神への信頼です。この信頼へと思いを委ねて、自分自身の土台を築いていきたい。「この人こそ 人となりたる 活ける神。」私たちの只中に宿られ、私たちの涙、労苦と共に歩んでくださる方です。どこまでも一緒に。終わりの時まで。この神様と共に、平安の内に歩んでまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。