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2019年11月10日 聖霊降臨後第22主日の説教 「恵みを分かち合うために」

「恵みを分かち合うために」 ルカによる福音書19章11~27節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 本日の福音である「ムナ」のたとえ話は、そのまま聞くと、なんとも後味の悪いお話という印象を持つかもしれません。王となった主人から預けられた1ムナを大切に保管して預かっていたのに、利益を上げて増やさなかったために、他の人に取り上げられ、さらに主人が王になることを望まなかった人々を打ち殺せと主人自らが命令して、この譬え話は終わります。王である主人の仕打ちに理不尽さと恐怖感を覚えるかもしれません。
 
 主イエスがこのたとえ話を話された理由は、最初の11節に「人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。」とあります通り、神の国がすぐにでも現れるという人々の思いが根底にあったからです。今日の譬え話の直後に当たる19章28節からは主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入場され、ルカ福音書の物語では、弟子たちが声高らかに賛美している背景があります。メシア、救い主と人々から期待されていた主イエスがエルサレムに向けてもうすぐそこまで来ている。神の国が主イエスによってもたらされ、自分たちに神様の救いが与えられることを期待していた人々の姿と熱狂があったことでしょう。
 
 この人々の期待の只中で、すぐ前の箇所には、有名な徴税人ザアカイの物語があります。人々がこの物語を聞いている時に、今日のムナの話しを主イエスはされました。人々から罪人として嫌われていたザアカイが主イエスと出会い、主イエスがザアカイの家に泊まりたい、すなわちあなたの心の奥底に私は訪ね求めるという主イエスの言葉と思いを聞いて、ザアカイは喜び、今度は人々に施して生きていくという新しい人生を歩み始めたザアカイの物語。そして今日の物語に直前に当たる10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と主イエスは言われました。人の子は救い主、主イエス御自身です。ザアカイも「失われたもの」でした。ですから、この主イエスの救いの宣言が物語っていることは、彼が神の愛を体験し、自分と言う存在が受け入れられ、自らを必要としてくれたという思いに立つことができたことであると言えるでしょう。失われたものを彼は取り戻したのです。神の国は失われたものを捜して救うために来てくださった主イエスによってもたらされる神の愛なのです。
 
 この話に続いて、主イエスは今日のムナの譬え話をされました。ある立派な家柄の人、貴族とでも言いましょうか、彼は王様のくらいを受けるために、他国に旅立ちます。その時、10人の僕に留守を任せると同時に、10ムナというお金を彼らに託して、その利益、成果を期待しながら、旅立ちました。僕たちは10ムナを10人で、一人1ムナを預かります。しかし、この貴族は国民からひどく嫌われていました。彼が王様になることを拒んでいたというほどの拒絶感、嫌悪感を人々は抱いていたのです。わざわざその大きな国に遣いを出して、王位の称号を与えないでほしいと懇願するほどでありました。そして貴族が嫌われていたので、当然この10人の僕たちも嫌われていたでしょう。
 
 国民の期待とは裏腹に、王様の称号を与えられた貴族が帰ってきました。僕たちが早速報告します。1人目、2人目は利益を生み出したことを報告し、王様から良い僕として認められ、褒美が与えられますが、3人目は違いました。彼は与った1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。その理由として、彼はこの王様を恐れていたからだと弁明するのですが、王様は逆に問い返します。「本当に恐れていたなら、何でそんなただの布きれに包んでいるだけなのだ、銀行に預ければ利子を得ることができたのに」と。そしてその僕の1ムナは、10ムナもうけた僕に行き渡ってしまいます。
 
 3人目の僕は預かったムナを無駄遣いしたわけでもなく、横領したわけでもないのです。ちゃんと大切に保管して、そのままの姿で王様に返しているのです。損して無くしたわけでもありませんでした。ただ、1人目と2人目との違いは、彼は何も動くことがなく、主人を恐れていました。1人目と2人目は自分たちも嫌われているであろう人々の只中に入っていき、ムナを使い、ムナを増やしました。ムナを預かって、この世の中でそれを用いていきました。それは、弟子たちがこの世に宣教に赴くかの如く、神様から与えられたムナをという賜物を用いて、神の国という神の愛に全ての人が招かれていることを伝えに出かけていきました。
 
 3人目の僕はそれをしなかったという批判的な見方をされてしまうかもしれません。しかし、この僕が主人を恐れたようのと同じように、人々の憎しみの目もこの僕は恐れていたでしょう。主人の思いよりも、恐ろしさから来る自分の弱さの前に、何もできずにいた姿がありました。
 
 そして、王様は最後に「ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」と言います。王様を憎んでいた人たちに対する報いとして、国民を裁こうする姿があります。自分たちの王様になってほしくないという理由から、王様に対する憎しみや期待外れな姿に憤りを覚えていたかもしれません。
 
 この後に続くエルサレムの入場のお話で、王様としての主イエスの姿があります。人々から期待され、歓呼の声をもって迎えられますが、一週間後には、十字架につけろという人々の大合唱の中で、十字架につけられて殺されてしまいます。主イエスも人々から失望され、憎まれ、最後は人々ではなく、ご自身が打ち殺されてしまうのです。
 
 たとえ話に出てくる王様も国民から憎まれていました。27節の王様の言葉が人々に対する神様の裁きを現すならば、主イエスの十字架はその神様の裁きを、人々の代わりにご自身が受けられたということです。主イエスはこの裁きの言葉を語ると同時に、自ら身をさらけだして、十字架につかれるのです。この十字架を背景にして、たとえ話は描かれているのです。
 
 弟子たちは皆人々の目を恐れて、逃げてしまい、家に閉じこもってしまいます。主イエスに従い、人々のもとに行くことはできませんでした。3人目の僕の姿はこの弟子たちの姿でもあり、また弱さを持っている私たちの姿でもないでしょうか。
 
 王様は僕たちにムナという賜物を与えました。このムナは最初に言いましたが、もともとは10人の僕全員に、そのままに与えられたのです。1人1人というより、10人の群れに与えられたのです。僕たちはそれを分け与え、ある者は利益を生み出し、ある者はそれを損失したのではありませんが、無駄にしました。しかし、それが10人の群れに与えられた共通の「ムナ」という見方からすれば、このムナをどのように用いるかということは、1人目、2人目の僕と3人目の僕、どちらの姿の可能性にも見てとれることなのです。王様はこの群れ全体、一人一人を必要として、ムナという賜物、恵みを与えて、それを用いて分かち合い、生きていくことを呼びかけられているのです。主イエスが失われたものを捜し求めて救われる方であるように、弟子たち、教会はそのキリストを伝えていくものの群れです。神の愛を伝え、この世を愛し、この世に価値観に縛られている者と寄り添い、どんな境遇の中を歩んでいようとも、神様がありのままのあなたを受け止められる、あなたを必要とされる、その御心を伝えるために、教会というムナを神様が用いてくだることに信頼を委ねて、歩んでいくのです。
 
 神の愛は王である主イエスご自身が受けられた十字架と、その十字架を通して示された復活によって明らかとなりました。弱さと虚しさのままに終わったのではなく、復活を通して弟子たちを立ち上げ、教会が与えられました。教会というムナが与えられました。このムナという与えられた教会を布でくるんでしまうのではなく、布から出ていき、恵みを分かち合って、失われたものを捜し求めて救われる方と共に、その方によって生かされている喜びと希望をもって歩んでいくのが教会です。この真の王様である主イエスに喜びを抱き、信頼をもって、心を開いて迎え入れ、この世を歩んでいきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日

午後1時15分から午後2時15分まで、教会3階の集会室で、カトリナがあります。

今回は『現代に語りかけるルター』15.愛がなければ(40~41ページ)を読みます。どうぞお越し下さい。

2019年11月17日 週報投稿用

2019年11月3日 全聖徒主日の説教 「神の愛にとどまりなさい」

「神の愛にとどまりなさい」 ヨハネによる福音書15章1~17節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 皆さん、本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝にようこそおいでくださいました。私たちの教会は先に天に召されました故人を覚えて、1年に一回、このように皆で集まって、礼拝の時を持っております。そして、私たちは先に召された故人を供養し、故人の平安を求め祈るためにこのようにして招かれたのではなく、愛する故人がキリストと共にあって、キリストの恵みの内にあることへの感謝を覚えて、今この礼拝に招かれています。それはまた、生前のこの地上でのご生涯もまた、キリストと共にあって、神様の恵みの内に歩まれたことを思い起こす時であるからです。
 
 そこで今日の聖書の言葉では、このキリストに繋がっていなさいと、有名なぶどうの木のたとえ話を通して、私たちに教えています。5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と言われておりますように、主イエスがぶどうの木で、わたしたちがその木につながっている枝であると言うのです。主イエスというぶどうの木に繋がることによって、木からの養分を受け、豊かな実を結び、生きることができる。木に繋がっていないと、木からの養分を受け取ることができず、枯れてしまうというのです。主イエスはこのたとえを通して、命のありかを私たちに示しておられます。ただ漠然と死と命の話をされているのではないのです。この私につながることにおける命のありかについて話されているのです。人の生死を握っているには、枝自身ではなく、木の幹であります。自分自身の死も命も、自分自身でコントロールすることはできませんから、この自分の命もまた、自分で得ることができるものではなく、与えられ、必要な養分を頂いて、命を生かしていくことができるのです。
 
 このたとえ話を含むヨハネ福音書の13章から16章までは主イエスの告別の説教だと言われています。弟子たちに語られた遺言です。冒頭の13章1節にはこう記されています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」父のもとへ移るというのが、十字架にかかって死ぬことを示していますが、弟子たちを愛し抜いた、弟子たちへの愛を貫いたと言います。今日の福音書でも9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と主イエスは言われます。留まるというのも、繋がるということです。主イエスを愛して信じなさいと言われる前に、まずあなたがたを愛しているこの私の愛に留まりなさい、つながっていなさいと言われるのです。でも、この後弟子たちは、主イエスが捕まり、十字架にかけられてしまう時に、怖くなって、逃げ出してしまいます。裏切ってしまう弟子もいました。弟子たちの弱さという面も伺えますが、死を前にして、死が恐ろしくなった姿をそのままに表しているのだと思います。
 
 主イエスは死における私たちの弱さ、もろさを十分に知っています。わたしにつながっていれば大丈夫なのに、なぜあなたがたは離れていこうとするのか。なぜわからないのか。ダメな人たちだと思われていたのではないのです。むしろわかりきっていたことなのです。だから、弟子たちの姿は私たちの姿と重なります。死の不安、死の出来事からは避けて通りたいというのが私たちの本音であるということを。しかし、主イエスの命を与える愛の約束の中には、十字架の死が含まれているのです。だから、私たちがいずれ迎える死の事実を明らかにしているのです。主イエスは死の事実を無視して、復活の命に目を向けなさいとは言われません。死の事実を通して、自分の死を覚えて、今の自分の命の歩みに目を向けなさいと示されるのです。この死と命の狭間に生きる私たちに主イエスは「わたしの愛に留まりなさい」と言われました。
 
 パウロはローマの信徒への手紙8章35節から39節でこういうことも言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35~39)神の愛から引き離せないものの中に、死と命があります。生きている者も、先に召された者も、この神様の愛の下にある、愛のご支配の中にあるのです。強いて言えば、この愛の中に、先に召されたものも生きているということです。主の身許である天に生きているのです。
 
 それは神様の愛であるキリストご自身が、十字架に死に十字架の死から復活したからです。それはこのキリストも私たちと同じように死なれる方であるということ、そのご生涯を歩まれたということです。私たちと同じように、悲しみ、苦しみ、痛みを経験された方なのです。死の世界とは無縁の、理想郷に生き、そこから、復活の命を私たちに示しているのではないのです。先に召された召天者の方が生きて証ししてくださったように、このイエスキリストはそのように、私たちの人生の只中に来てくださり、私たちと共におられる方なのです。
 
 愛は決して、その人を忘れません。そして、神様の愛、それを顕しているイエスキリストは、召天者の生き様を、その愛をもってして、片時も離すことがなく、召天者の方と私たちと共におられる。それはこの地上での生涯を終えた後も続いているのです。
 
 このイエスキリストは十字架に死に、そして復活された方です。死を避けて、命を全うしたのではなく、死を受けて、死を突き破って、命を現したのです。誰よりも、死の悲しみを、死を前にした人間の弱さを知っておられる方です。だからこそ、命の喜びを知っておられる。私たちの命、人生を良いものとして、尊ばれている。その生き様を見つめておられるのです。この生き様は残る。主イエスが死で終わりではなく、命における新しさをもたらしてくださったからこそ、召天者の方々と私たちはこの神様の愛の中に生き続けるのです。
 
 死ですら、キリストの愛の支配下にあって、キリストの及ばないところはないからです。ひとりひとりの召天者がこのキリストの内に留まっていると信じて、この命を与えてくださるキリストに委ね、今を生きているわたしたちひとりひとりもまた、このキリストが与えてくださっている命に信頼して、生きてまいりましょう。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。