タグ Archives: ヨハネ

2011年5月15日 復活後第3主日 「良い羊飼い」

ヨハネによる福音書10章1〜16節
説教:高野 公雄 牧師

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書10章1〜16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭後の第三主日は、中世以来、「良い羊飼いの主日」と呼ばれて、この聖書個所が読まれてきました。私たちはその伝統を受け継いで、毎年、この日にはイエス・キリストが「良い羊飼い」であるという福音を聞きます。復活していまも生きておられるイエスさまと、今のわたしたちとの関わりを、羊飼いと羊の関係の比喩を助けとして、より深く味わおうとするわけです。

《わたしは良い羊飼いである。》

イエスさまは11節と14節でこう繰り返していますが、「わたしは○○である」というイエスさまの自己紹介は、ヨハネによる福音書にいろいろ出てきます。6章に「わたしはいのちのパンである」とあり、8章に「わたしは世の光である」とあり、11章に「わたしは復活であり、いのちである」とあります。まだほかにも、14章の「わたしは道・真理・命である」とか、いろいろな表現が出てきます。これらは、単なる自己主張ではなく、そのときそのときの出来事に即したイエスさまの自己紹介であり、そのイエスさまに出会った人々の信仰告白でもあるのです。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。》

羊飼いと羊の比喩では、羊飼いの羊たちに対する愛情、羊たちの羊飼いに対する信頼が、つまり相互の親密な交わりが表されています。羊飼いと羊の群れはパレスチナの人々には身近な光景で、その比喩の意味することはすぐに分かったと思います。ところが日本では羊が飼育されることは少なく、なじみのない話になってしまいます。犬好きと犬、猫好きと猫との関係に置き換えてみたら、その親密さ想像できるのではないでしょうか。それはともかく、この比喩は当時の羊飼いの実際の姿が背景にあって話されたものです。

当時のパレスチナでは、羊は広い牧場の柵の中で飼われていたのではありません。羊飼いは遊牧生活でありまして、50頭から100頭の羊の群れを、草のあるところを求めて旅していくのでした。羊は弱い動物なので、羊飼いは野獣や盗人から守りながら、草のあるところに導くのでした。夜になると、各地に設けられた囲いの中に入れます。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊たちが混じって夜を過ごしたということです。朝になると、囲いから出すのですが、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いの方でも、一匹一匹の羊を見分けることができたそうです。

羊飼いはラテン語でパストールと言います。それは、「家畜に餌を与える人」を意味しています。それがのちには、教会で牧師に対する呼び名となり、ひとの魂を配慮する人を意味するようになりました。

羊飼いは羊の群れを導く強い指導力と一匹一匹の羊の状態を見分けで世話をする愛情を表す象徴です。それゆえ、古代オリエントでは、政治的な指導者、王は自分が羊飼いとして表されることを好みました。旧約聖書でも王や指導者を指す場合が多いですが、また先ほど交読した詩編23編のように、羊飼いは神さまを象徴することも少なくありません。そのように神さまを象徴する言葉を、イエスさまに適用しているのが、この個所です。

《わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。》

イエスさまが良い羊飼いだという根拠は、イエスさまが神さまと愛と信頼の関係において一体であることにあります。この一体の関係に基づいて、イエスさまと信徒たちの愛と信頼の関係が作られるのです。良い羊飼いは他にもいるかもしれませんが、神との一体のゆえに、イエスさまは唯一無比の良い羊飼いだと言えるのです。

《わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。》

15節にもありましたが、11節にも羊のために命を捨てるのが良い羊飼いだということが言われています。これは、イエス・キリストの十字架の意味を知らないと理解できない言葉だと思います。実際の羊飼いは、強盗に殺されてしまっては、羊を守れません。ですから、これは、イエスさまの死が、羊たちの運命をより良くしたというイエスさまへの信仰が根底にあって言われているのです。

《人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。》

これは、マルコによる福音書10章45節の言葉ですが、弟子たちが、イエスさまは私たちのために死んでくださったのだと信じたことを伝えています。

《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。》

これはコリントの信徒への手紙一15章3~5節の言葉です。あとからクリスチャンになったパウロは、先輩たちから、「キリストは聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」と教えられたと言っています。

《ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。》

長い引用になりましたが、これは、ローマの信徒への手紙3章21~26節の言葉です。イエス・キリストの十字架上の死という謎を、イエスさまの弟子たちは、古代世界ではどこででも行われていた動物犠牲の祭儀にかたどって理解し、それはわたしたちの救いのためであると受けとめたのです。

このような信仰を背景にすると、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という意味が分かってくるでしょう。

《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》

マルコによる福音書6章34節には、こういう言葉があります。良い羊飼いであるイエスさまは、飼い主がいない羊のように、道に迷ったり、危険にさらされたりしている私たちの有様を見て、深く憐れんでおられます。

《わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。》

イエスさまは、私たちが羊飼いの声に耳を傾け、羊飼いに従うように招かれています。教会は、イエスさまが私たちを彼と共に生きる羊にしてくださることを知るところです。この良い羊飼いイエスさまを自分の人生に迎え入れてください。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月8日 復活後第2主日 「トマスの反応」

ヨハネによる福音書20章24〜29節
説教:高野 公雄 牧師

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネによる福音書20章24〜29節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

きょうの福音は、こう始まっています。ここからトマスには「疑うトマス」という枕詞がお決まりになってしまいました。おかげで、トマスは大きな教会のステンドグラスに飾られることの最も少ない聖人だと言われます。しかし、きょうの記事は、トマスを描くことを通して、ヨハネによる福音書の結論と言ってもよい、大事な、大事なメッセージを伝えています。

まず、トマスの人となりから見ていきましょう。トマスはイエスさまの十二弟子のひとりとして、マタイ10章3、マルコ3章18、ルカ6章15にその名が載っています。しかし、これら最初の三つの福音書には名前だけしか伝えられていません。トマスの人となりがはっきりと描かれているのは、ヨハネ福音書だけなのです。

《十二人の一人でディディモと呼ばれるトマス》と紹介されています。新約聖書の言葉ギリシア語でディディモスは固有名詞ではなく、「双子」という意味の普通名詞です。トーマーもイエスさまたちユダヤ人が話したアラマイ語で同じく「双子」の意味であって、名前ではありません。アラマイ語の意味が分からなり、のちにトーマース(トマス)は名前となったのでしょう。彼にもちゃんとした名前があるはずですが、その名前は福音書には出てきません。新約聖書の正典に採用されなかた信仰書を外典といいますが、外典に「トマス福音書」と「トマス行伝」があって、そこではトマスの名前はユダと出ています。では、誰と双子なのかと言いますと、驚いたことにトマスはイエスさまの双子の兄弟とされています。これは事実ではないでしょう。でも、そういう伝説ができるくらいに、人々はトマスがイエスさまと特別に近い関係にあったと感じていたのでしょう。

さて、トマスは最初にラザロの復活の物語に現れます。ラザロとマルタ、マリアの姉妹は兄弟ラザロの病気が危険な状態になり、使いを送って、イエスさまに頼ります。しかし、彼ら三人が住んでいるベタニア村はエルサレムに近く、巡礼者が泊まる村でした。そんなところに行くのは非常に危険です。

《ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」・・・すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った》(ヨハネ11章6~7)。

他の弟子たちが尻込みしているところで、トマスは死に至るまで師に忠実であろうと決心し、仲間を励ます人でした。

次に現れるのは、最後の晩餐の席です。イエスさまは弟子たちにお別れの説教をして、「あなたがたのために場所を用意しに行くのだ」と言います。

《行って、用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》(14章3~6)。

トマスは疑問をやり過ごすことのできない人のようです。そのために、イエスさまの偉大な答えを引き出しました。イエスさまの答えは、こういうことだと思います。「あなたたちが何も分かっていないことは承知している。けれども、わたしはいつもあなたがたと一緒にいるから、それでいいのだ。わたしを信じなさい。あなたがたもしっかりとわたしにつながっていなさい」、と。

そして、最後にきょうの箇所に来ます。トマスは殺されても師に忠実であろうとする人でした。そうできなかった自分を恥じて仲間から身を隠したのでしょうか。あるいは、自分と同じように弱い仲間に失望して、去ろうとしたのでしょうか。ともかく、トマスは復活の日には弟子たちの集まりから離れていました。そのために、せっかく復活の主イエスさまが弟子たちに会いに来てくれたのに、トマスは会うことができませんでした。

《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

トマスは、自分の納得できる方法で事柄を確かめようとします。自分が出題するテストに合格すれば、そうしたら信じようと考えています。それは合理的・理性的な主張ではありますけれど、そういう証明できることだけを真実なものとすることには限界があります。それは、実験ができない領域、すなわち信仰の問題・人生の問題・愛の問題のように、繰り返しが効かず、他人に代わってもらうことのできない事柄には当てはまりません。

《さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った》。

復活のイエスさまは、弟子たちの真ん中に来られ、「シャローム、平和あれ」と言われます。「平和あれ」とは、イエスさまを見捨てて逃げ去った者を赦す、親しい交わりを回復しようという意味です。トマスに対しては、確かめようとすることをとがめないということであり、《信じない者ではなく、信じる者になりなさい》という呼びかけです。十字架にかかった方が復活して、いまここに来て自分を招いてくださっている。手の釘あと、わき腹の傷は自分のせいであり、また自分のためであることを悟ったトマスは、信仰の人となります。そして、《わたしの主、わたしの神よ》と言って、イエスさまを神として礼拝しました。

トマスは知的に確信を得たのではなく、イエスさまの臨在に出会い、イエスご自身を信じました。だから、もはや釘あとを自分の指で触れる必要はなくなりました。自分の目や手による確信に頼る必要はなくなりました。一切をイエスさまに、神さまにお任せすればよい。神を信じるとは、そういうことだということが分かった。自分の確信にたよる必要はない。神さまにのみ頼るわけですから。それは、不安と言えば不安です。でも、本当の信仰とは、本来そういうものなのです。自分が確かと考えるその基準に合う神さま像を追い求めるのではなくて、自分の確信を根拠とするのではなくて、真実の神さまと出会うことを通して、神さまご自身が確かさの保障となることです。

そういう信仰を祝福して《イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」》、と。同じ意味のことを、イエスさまは復活の日にマグダラのマリアにもおしゃっています、《わたしにすがりつくのはよしなさい》(ヨハネ20章17)、と。

イエスさまの死と復活を通して、神はご自身を私たちと共に苦しむ方、私たちを罪の縄目から救い出す方として啓示された。そのようにして神は弟子たちに「見ないで信じる信仰」を生み出してくださった、与えてくださった。それがヨハネ福音書の結論です。トマスは信じる者たちの集いに戻ることで、集いの真ん中に立たれた復活の主に出会い、その信仰をいただきました。私たちもまた、週の初めの日ごとに共に集い、み言葉を聞き、賛美と祈りを献げるとき、復活の主からその「見ないで信じる信仰」をいただけるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年5月1日 復活後第1主日 「復活日の夕刻に」

ヨハネによる福音書20章19〜23節
説教:高野 公雄 牧師

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
ヨハネによる福音書20章19〜23節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

復活祭から一週間が経ちましたが、きょうの福音は、《その日、すなわち週の初めの日の夕方》とありますように、復活の日の夕方に起こった出来事です。きょうはこの記事から学びたいと思います。ヨハネによる福音書20章に記された出来事はすべて、同じ日の朝と夕方に起こった出来事です。このことからも分かるように、イエスさまの「復活」という出来事の全体像を把握するためには、先週読んだ「空の墓」の出来事(マタイ28章1~10、ヨハネ20章1~10)に目を留めるだけでなく、きょう読んだ「弟子たちへの顕現」(ヨハネ20章11~23)も含めて考える必要があります。

弟子たちはイエスさまの墓が空になっているのを見ただけで、まだイエスさまにまだ再会する前に、イエスさまの復活を信じたのでは、おそらくないでしょう。そうではなく、きょうの記事にあるように、弟子たちは復活したイエスさまと出会う経験を通して、イエスさまが十字架にかかって死んだこと、自分たちがイエスさまを見捨てて逃げ去ったことで、イエスさまとの関係が終わったわけではないと知り、復活を経験したのです。しかもイエスさまは、ただ弟子たちに現れただけではなく、弟子たちの裏切りを責めたりせず、むしろ弟子たちに「平安あれ」と言ってくださった。つまり、イエスさまは弟子たちの罪を赦して、共に歩む関係を修復してくださったのです。《弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた》とあります。弟子たちは、迫害への恐れと裏切りの後ろめたさで縮こまっていたけれど、復活の主と出会うことによって、新たな力を与えられ、再びイエス・キリストの教える道を歩みつづける力を得ました。イエスさまとの繋がりは、死によって終わらなかったのです。空の墓からイエス・キリストの復活を信じたという順序ではなく、復活の主との出会いから逆にさかのぼって、空の墓をイエスさまの復活のしるしと位置づけたのでしょう。そう考える方が分かり易いと思います。

《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》。

イエスさまが弟子たちに呼びかける「シャローム 平和または平安」は、ユダヤ人のごく普通の挨拶です。日本語としては、「こんばんは」と訳すこともできる言葉ですが、ここでは挨拶以上の意味を込めて使っているので、ことば通り「平和」と書かれています。ここでの「平和」は、イエスさまが別れるに際して最後の晩餐の席で語られた言葉、《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない》(ヨハネ14章27)と約束されていた、あの平和です。

弟子たちは身の安全を求めて戸を閉ざしていました。しかし、家の戸を閉ざしても、心は不安と恐れでいっぱいだったでしょう。その不安な心は、復活のイエスさまが共にいてくださると知ることで、本当の「平安」を得ることができます。主が共にいてくださるからこそ、弟子たちは平和・平安を与えられ、恐れを克服して心の扉を開け、家の戸のカギを開けて、外に出て行くことができたのです。

復活したイエス・キリストとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。イエスさまとの関係の回復です。イエスさまを裏切り、見捨てて逃げ去った弟子たちは、弟子として失格者でした。しかし、復活したイエスさまは彼らをふたたび弟子として受け入れ、あらたに福音の宣教に派遣します。イエスさまの復活を信じることは、イエスさまの愛を信じることでもありました。

ここで、《そう言って、手とわき腹とをお見せになった》とあることにも注目しておきましょう。イエスさまは釘あとのついた両手と刺し貫かれた脇腹とを弟子たちに示します。私たちは、イエスさまが十字架に釘づけされたことを当然のことと考えています。先週から新しくなった復活のローソクにも五つの釘を刺して、両手両足と脇腹の傷を表しています。ところが、十字架のはりつけというのは、ふつうはロープや革ひもで縛りつけられたのだそうです。釘あとについて書かれている聖書個所は、ヨハネ20章25のトマスの言葉だけです。《そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」》。

弟子たちの真ん中に現れ、「手とわき腹とをお見せになった」イエスさまは、閉じた戸を通り抜けられるからだ、新しいいのちに変えられましたが、受難に至るまで弟子たちと生活を共にした同一のイエスさまです。復活の主は受難のイエスさまと同一でありながら、別のレベルのいのちに生きています。弟子たちが過去に体験したイエスさまとの交わりは、レベルを高めて、今も継続されるのです。

イエスさまは21節でもう一度「平和」と呼びかけて、《父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす》と、ご自分の任務を弟子たちに分け与えられます。《聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される》。イエスさまはそう弟子たちに約束されます。復活したイエスさまは弟子たちをゆるすだけでなく、そんな弟子たちにご自分の権限をも分け与えてくださるのです。弟子たちの使命の中心は、赦しあるいは愛と言えるでしょう。「ゆるし」は「愛」の典型だからです。ひとは誰でも長所と短所、良い点と悪い点を持ち合わせています。だれかを本気で愛するなら、その人を好悪ともに、まるごと受け入れるほかありません。ひとを愛することは、ひとを赦すことですね。あなたがたは人を赦しなさい。それによって、神の愛がその人の上に実現します。人は他者から愛されることを通して、神の愛を実感するものです。

私たちは、聖霊の力によって罪を赦す者たちの群れです。私たちは日曜日ごとに主の復活を祝って礼拝していますが、みことばと聖餐を通して、イエスさまは私たちのうちに生きて働いてくださいます。イエスさまは私たちに「平和」を与え、私たちを聖霊の息吹で新しくし、私たちに愛とゆるしの任務を与えて世に送り出すのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年4月10日 四旬節第5主日 「死を招く復活」

ヨハネによる福音書11章17〜45節
説教:高野 公雄 牧師

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。

マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、

イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

ヨハネによる福音書11章17〜45節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

いま私たちが過ごしている教会の暦の季節は、「四旬節」と言います。四十日間という意味です。むかし、復活祭に洗礼を受ける志願者は、その前の四十日間を特別な期間として守り、断食や節制をして信仰の学びと祈りに打ち込み、信仰の決断へと導かれることを待ち望みました。ヨハネ11章の話は、そういう人たちの決断を助ける聖書箇所として読まれました。長い話ですので、読むときは始めの部分と終わりの部分を省略していますが、きょうの説教は11章全体の話が前提になります。

今、この場に集まっている私たちは、すでに洗礼を受けた者と、まだ洗礼を志願するに至っていない者が多いと思いますが、私たちもまたこの聖書箇所を学ぶことを通して、イエスさまを救い主と信じることの意味をより深く理解できるように願っています。

さて、聖書の話の筋をたどっていきましょう。エルサレムに近いベタニア村に、マルタとマリアという姉妹が住んでいました。この姉妹は、すでにイエスさまと出会っており、イエスさまの弟子となっていたと考えられています。この姉妹にラザロという兄弟がいますが、重い病気にかかって死にそうです。姉妹はイエスさまに使いを送って、早く助けに来てくださいとお願いしました。しかし、イエスさまが到着する前に、ラザロは息を引き取ってしまいました。ユダヤにおける当時の埋葬の仕方は、火葬でも土葬でもなく、洞穴の中に寝かせるものでした。墓穴は大きな石でふたをします。暑い地方ですから、腐臭を消すにおい物、つまり没薬(ミルラ)をたくさん入れて布にくるんで寝かせます。

イエスさまが到着したとき、ラザロの死を悲しむ人々の泣き叫ぶ声は、あたかも絶対的な力をもつ「死」を称える賛美の歌声のようでありました。イエスさまははげしく心を動かされました。35節に《イエスは涙を流された》とあるとおりです。悲しむ人々に対してイエスさまが深く共感されたことを表す出来事です。イエスさまはラザロの眠る墓に行くと、「死」を叱りつけるかのように、大きな声でラザロに命じます。

《「ラザロ、出て来なさい。」》

すると、死人が起き上がり、布にくるまれたまま墓穴から出てきたというのです。

これが「ラザロの復活」と呼ばれる記事のあらすじです。この記事は、イエスさまが死人を蘇生させるという奇跡を伝える物語のような体裁になっていますが、じつは、ヨハネ先生はこの出来事を物語ることを通して、もっと深い話をしているのです。

ヨハネ先生はラザロのよみがえりの奇跡を題材にして、古いいのちの復活ではなく、新しいいのちの誕生について話しているのです。この世のいのちだけを見るならば、復活したラザロはいずれまた死にます。しかし、イエスさまを信じ、新しいいのちに目覚めた人は、《死んでも生きる》または《決して死なない》とイエスさまは言います。マルタとの対話に聞いてみましょう。

《イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」》。

私たちがまことの神を信じ、神さまのみ心を体現するイエスさまを信じ、神さまの愛に包まれていることを信じると、私たちはイエスさまから古い自分を脱がされ、新しいいのちを着せられるのです。この新しいいのちのために、死の手前のこの世にありながら、すでに死を超えて神さまの世界に生きるのです。死後の復活ということも、この新しいいのちがあればこそ信じられるのです。ですから、《終わりの日の復活の時に復活する》と信じることは、間違いではありませんが、それは真理の半分です。イエスさまは、信じれば、今ここで、新しいいのち、復活のいのちをいただける、と言うのです。《このことを信じるか》と問われて、マルタは答えます。

《マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」》

これがマルタの信仰告白です。イエスさまは「主」であり、「世に来られるはずの神の子」であり、「メシア(キリスト)」であると、三つの称号で答えます。ヨハネ福音書には、他の福音書にあるペトロの信仰告白「あなたこそ生ける神の子メシアです」という記事はなく、女弟子マルタが弟子たちを代表して信仰の告白します。

イエスさまは、そのようなメシアとして、これからどのような道を歩まれるのでしょうか。この点に関しても、ヨハネ11章は私たちに大事な真理を伝えています。

ヨハネ福音書はこのあとの12章で、このラザロの復活の出来事がエルサレム入城のときに人々が「ホサナ、ホサナ」と歓呼して迎えたことの理由だと述べています。

《イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。》(ヨハネ12章17~18)。

しかし、祭司長たちが、イエスさまを殺さなければならないと決心するのも、ラザロの復活がきっかけでした。

《マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ》(ヨハネ11章45~53)。

つまり、ヨハネ先生は、他人にいのちを与えるという奇跡が、イエスさまに死をもたらすという皮肉な結果を招いた、と言っているのです。マルコによる福音書によると、この矛盾ないしは逆説を突いて、人々はイエスさまをあざ笑ったといいます。

《そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》(マルコ15章29~32)

この「他人にいのちを与えるという奇跡が、イエスさまに死をもたらす」ことの中に、大切な真理が隠れて現れているのです。ときの大祭司カイアファは言います。

《「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである》。

これが、神の救いの真理、十字架の論理です。イエスさまは救い主として私たちにいのちを与えるために自らを犠牲になさいます。この真理について、ヨハネ3章16節はこう言っています。

《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊によって、あなたがたを望みに溢れさせてくださるように。アーメン