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2011年3月27日 四旬節第3主日 「それは、私である・・出会いの恵み」

ヨハネによる福音書4章5〜26節
説教:五十嵐 誠 牧師

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた.すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書4章5〜26節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように アーメン

 

世界各地で起こっていることに「差別」があります。 人種差別、宗教的差別、同じ民族による階級的差別・インドのカースト制度、日本では部落問題などです。一昔前の「ルーツ」というアメリカの黒人奴隷の映画が印象的でした。今はアメリカの大統領にオバマさんがなる時代ですから、大部変わったとは言えますが、去年の中間選挙で、ティー・パーティとか言う集会の影響で大敗しましたが、その根底に人種差別があると言います。やはり根深いなと思いました。イエスの時代にもありました。かつては同じ仲間でしたが、お互いに付き合わない状態でした。「サマリア人」と「ユダヤ人」でした。サマリア人(サマリアじん)はユダヤ教に対抗して特別な教派を形成していた、サマリア地方の人々を指した。今のパレスチナの半分の上部がサマリアで、下方がユダヤになります。死海がある方です。
紀元前721年アッシリアの王サルゴン2世のサマリア攻略後、アッシリアの各地から集められた人々がサマリアに移住し、自分たちの宗教とユダヤ教とを混ぜ合わせたものを信じました。(列王下 17:24-34)。独自の聖書(モーセの五書)と神殿を持っていました。そのことからユダヤ人はサマリア人を正統信仰から離れたものと見なし(ヨハネ:4:8参照)、交わりを絶っていました。(ヨハネ 4:9)。福音書にもしばしば現れ(ヨハネ 4:39-42、ルカ 9:52,53など)、使徒言行録の中では彼らがイエスの福音を受け入れた様が語られている(使徒 8:5-25)。

今朝はイエスとサマリアの女との出会いから学びたいと思います。出会いの場所は「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町」でした。そこに「ヤコブの井戸」がありました。ヤコブとは旧約聖書ではユダヤ人の祖先とされている人物です。その井戸はサマリヤ人の伝承によるとヤコブが掘ったとされていました。いわば、名所・旧蹟です。今聖地に行くといろんな名所旧蹟があります。
イエスは「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」とあります。疲れたなんてちらっと書いていますが、イエスの人間性を感じます。ヨハネ福音書は特色が合って「時・時刻」を書いています。今日の出来事は「正午ごろ」、「夜」とかです。印象深さを与えます。

会話の発端はイエスが「水を飲ませてください」と言われ、女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですかと言った」所から始まりました。その理由は、先ほどいいました「ユダヤ人はサマリア人とは交際しない」からでした。

イエスと女の人の始まりは「水」の問題でした。砂漠や荒れ地では「水」が大変です。TVでは水源地や井戸に子供が来て、女子がバケツや天秤棒に水かめを吊って、日に何回か遠くまで通うのを見ます。女と子供が水くみ役です。日本NPOが村に井戸を掘って贈る運動をしています。ですから、この女の人も、仕事を減らしたいと思ったのかも知れません。イエスが「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ですから「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」から分かります。蛇足ですが、「主よ」(11節も)という言葉をカトリックの神父は「旦那さん」と岩波書店の聖書は「旅の人」と訳しました。主というのは神的な意味があるからです。

禅問答的な面もありますが、次第にイエスのこと、ふさわしい礼拝へ、そして、彼女が待っていた方との出会いへと進んでいます。キリスト出会うことで起きることがあると思います。彼女はイエスと出会い・・偶然であれ、そうでない場合でも・・コミュニケーションが出来て、誤解やら反感があり、そんな思いを正されて、ついにユダヤ人を避けていては出会うことの出来ないメシア・救い主に心を開かれて、導かれて出会ったのでした。彼女はこの後、「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。この方がメシアかもしれません」と。大事な水がめを放っておいた程の出来事と言えます。

この出来事から、今私たちはなにを学ぶかですが、私は信仰に関して一つ思います。世間では信仰は困ったときのもの・・病気になったとき、困ったとき、追い詰められたとき、年老いたとき、場合によっては、受験や就活、婚活・・今は離活も・・に必要なものだと考えています。だから、今は目の前のことに専念し、楽しみ、自由に勝手に生きようと思うのではないかと思います。しかし、サマリヤの出来事は、日常生活に起きています。信仰とか宗教は、生活の状況に左右されないことを示していると私は思います。信仰とか宗教は、どう生きるかの根底に関わるものですから、順境の時にも、否、順境の時こそ、真剣に向かい合うべきものです。そう思いますが、どうでしょうか。苦しいときの神頼み式の生き方でなくて、信仰は自分の生き方の「中心」においたとき、私たちを生かす力となります。昔、修道女・シスターたちを見たとき、多くの人は彼女は、彼女たちは何か大きな悩みや苦しみをしたからと思ったものです。でもそうではないのです。そんな人はほとんど、いないと言います。あるシスターに会った時、すばらしい方で、活発なかたでした、外の社会で働いたら、もっと良い働き、結婚したら良妻賢母だろうなと見えたかたでしたが、失礼と思いましたが、「あなたなら、もっと良い働きの場所があるのでは・・」と聞きました。すると、そのシスターは「そうなんですけど、神様に会ったから、しょうがないんですね」と淡々と答えてくれました。ある日、ある時、神がその方に出会って、いや、シスターが神と出会ってたのです。そんな時が多くの方にと願っています。

イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と。ちょっと抽象的で分かりにくい表現ですが、イエスを信じる者の持つ信仰の姿を描いているのです。キリスト教は何か暗いと言うか、弱さを言われます。韓国から来たキリスト教の高校生が「日本教会はお葬式の雰囲気がしている」といいました。韓国の教会は元気だそうです。生き生きした雰囲気が一杯だそうです。私がアメリカの教会を訪問したとき、牧師が一段高い説教壇から・・ルーテル教会は説教壇が・・日本のように平面の床にあるか、少し高い祭壇の横・・この教会のようなものでなく、上の方、見上げるような所に・・劇場の貴賓席のように・・高いのです・・身振り手振りで、声だかに説教していました。日本人牧師は原稿を読んでいる感じがします。講義をしているみたいです。また、信徒も、額に八の字をしているような暗い、悩んでいる顔をしているといわれます。真面目過ぎるとも。でも、そういう顔は・・暗い顔は形容矛盾です。本当は「明るい」が正しい形容詞であるはずだからです。

去年の暮れに、秋田の田沢湖で絶滅したと言われた「クニマス」が静岡の「西湖」で発見されました。私もキャンプに行ったことありました。サカナ君がTVに登場して話題を蒔きました。田沢湖に帰そうというのですが、だめだそうです。それは湖に酸性河川水が流入して、湖水が生きていない、つまり死んだような湖らしいのです。水のたまった湖が澱んで、魚も住まない、水も飲めない。死んでいる信仰はそれに似ています。生きている信仰は淀みなく流れる泉に似ています。水はいつも澄んでいます。泉はこんこんと湧き続けます。そのように流れ続ける信仰が生き生きとしています。イエスの「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」からです。また、イエスは「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)とも言われています。泉と生きた水・生ける水とは何でしょうか。

今、私たち信仰者は「泉・井戸」と「生きた水・生ける水」(4:10,7:38)を持つものです。それはイエスご自身と聖霊です。それはこんこんとわき出る泉・尽きることのない井戸を持つことであり、生きるすべての道で、信仰者を導き、助け、励まし、慰め、信仰者を生き生きとした、元気な者に導いてくれるのです。
イエスはご自分のことを、「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」(ヨハネ黙示録1:17-18)と言っていますが、最初の者、最後の者とは聖書では「神」としてのイエスを表します。(黙示録2:8)*参照最初の者にして、最後の者である方、一度死んだが、また生きた方・キリストが、次のように言われる。
しかし、文語訳聖書はこんな風に訳しています。「恐れるな、我はいやさき(最先)なり、いやはて(最後)、生ける者なり」と。私は旧約聖書の言葉の詩人の「主よ、あなたはわたしを知っておられる。・・わたしの道にことごとく通じておられる・・前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる」(詩編139:1-4)を思い出しました。皆さんは列車が高い山や峠を喘ぎながら上る時、スイスのアルプスや日本では前と後ろに機関車を連結(重連)しました。時には機関車三台の三重連もありました。徳川家康は「人の世は重荷を負って行くようなもの」と言いましたが、恐れや苦難、心配などの中で、生きているイエスが、私たちを引っ張り、押し上げてくださるという信仰と信頼を持つとき、一歩を踏み出す勇気が出るのです。

今年(2010)の1月7日の朝日新聞の「天声人語」におもしろい記事がありました。岡本眸さんという方の俳句に「温めるも冷ますも 息や日々の冬」というのがあります。息というものは重宝なもので、かじかむ指を温められるし、熱い雑炊を冷ますことも出来ます。生きることのささやかな幸せを感じさせる名句です。寒い季節ほど、人は「幸せ」への感度をふくらませるように思う。その幸福感は、収入が多いほど大きいものでもないらしい。米国で調査したら、日々の幸せを感じる度合いは年収7万5千ドル(620万円)で頭打ちになるという結果が出たと言います。プリンストン大のカーネーマン名誉教授でノーベル賞受賞者が45万人を電話で調査しました。教授は「高い年収で満足は買えるが、幸せは買えない」と結論づけました。幸せ者とは小さな喜びを十分に味わえる人、ということになろうと言います。人は幸せを願っています。どのような状態を幸せと見るかは、人によって違ってきます。有り余る程の財産があっても、不幸と見るし、そうでなくても幸いと見ることもあります。

聖書は幸せをどう見るかですが旧約聖書から見ます。ヘブル語で幸いは「アシュレー」と言います。それは43回使われ、詩編26回と箴言7回で、77パーセントが二つの文書で占められています。人生の哀歓や知恵を語る本にあります。幸いとはですが、長くなりますから、纏めて行きます。1,主を神とする人・神の所有とされた人*(詩編33:12。2)。2,主に身を寄せる人*(詩編34:9)。3,主に信頼する人*詩編40:5)。4,主を畏れ、主の戒めを愛する人*(詩編112:1)。5,主の律法に歩む人*(詩編119:1-2)。6,知恵に到達した人*(箴言3:13)。7,罪を赦された人*詩編32:1-2)。これが「幸い観」です。

新約聖書では、イエスは「山上の説教」のはじめで、クリスチャンの幸福一覧表を述べています。八つの「さいわいである」(マタイ5:3-12。ルカ6:20-26))を揚げています。1,貧しい人、2,悲しむ人、3,飢え渇く人、4,憐れみ深い人、5,心の清い人、6,平和を実現する人、7,迫害を受ける人、8,キリストのために悪口に合う人です。旧約聖書とは違った新しさ・・常識的には幸いとは結びつきそうもない人が幸いだとされていることが言われています。一方、ルカは富んでいる人、豊かな人への、それは「不幸」だと言う言葉があります。私は常識的に幸福と思えないのが幸福とはなぜかと思いました。それは神が彼らを・・悲しむ人、飢え渇く人を・・慰め、満たし、憐れむからです。貧しい人を慰め、飢え渇きを満たす神が、その人を包み込むから幸いなのです。

人生はジグソーパズル・Jigsaw puzzleだと言います。このゲームは何十、何百のピースをはめ込んで完成します。私たちは日々、完全な絵が出来ることを願いながら、ばらばらのピースをつなぎ合わせて生きています。しかし、ピースが足りないと思うことがあります。それは合わないピースを探していたのかも知れません。神を中心としない人生は、最も大切なピースを欠いた人生です。もしも、自分の人生には何か足りないと感じたら、感じているなら、唯一の神だけが豊かに、そして完全に満足させる方であることを思い出して、人生というジグソーパズルを、神に完成してもらうようにしたいと思います。神は預言者イザヤを通して、私たちに訴えています。聞きましょう。
「なぜ、あなたがたは、糧にもならぬもののために金を費し、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる」。(イザヤ55:2)。 アーメン
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私の礼拝担当は本日で終了します。担当牧師としての約一年でしたが奉仕が出来て幸いでした。楽しく出来ました。私の貧しい説教に耳を傾けてくださって有り難うございました。この年になって今までにない勉強をしました。私には、この教会の前身の教会に最初の牧師として赴任した教会でしたが、今、最後の牧師としての奉仕を、その教会で終わるのは、不思議なことでしたが、それは恵みでした。そんな機会をくださった神と六本木教会の役員、会員に心から感謝します。有り難うございました。来週から新しい牧師の下で進んでください。神の大いなる恵みを心から祈ります。本当の有り難う、感謝します。

2011年3月20日 四旬節第2主日 「上昇志向」

マタイによる福音書20章17〜28節
説教:安藤 政泰 牧師

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書20章17〜28節


この世の価値観と聖書の価値観

春は人の出入りが多くあります。 転勤の季節でもあるからです。栄転、左遷とその人々により受け取りかたは様々です。都会に転勤になれば、栄転で地方に転勤になれば左遷と単純に人は考えるようです。

この世の価値観です。

この世の価値観を否定したり 悲観的に考えたり、自分の現状を厳密に考え、自分の罪を、自分の業の深さに悩む、それは、この世の価値観に捉われることになります。

自分が否定的に感じたり、自分のマイナスと感じることを、肯定的に、積極的に向き合うことが出来ると時、それを 乗り越えたこたとになります。

それに 捉われ悩むとき、私達はこの世の価値観の支配下にあります。

先日女優の大竹しのぶの話をテレビで見ました

父が教職で アシシの聖フランシスを日本に紹介し、彼を尊敬し清貧生きた方との事でした。

貧しい事を誇る生き方、物にこだわらない生き方をされたそうです。

彼女がある神父と話した時に、この世的な「欲望が無いのですが」「嫌いな人はいないのですが」と尋ねたそうです。そのとき尋ねられた神父は「欲望はありますが」それを「希望」と呼びます。「嫌いな人もいますが」それは その人の「個性」ですと答えたそうです。

一般的に「欲望」はそれを満たした段階で次の欲望が生まれます。

しかし それを得たいと望んでいるときが最も良い時ではないでしょうか。

その人は「自分とは全く違う個性の人」と考えるときに、嫌いな人と向き合うこともできるかもしれません。

聖書ではイエスと共に生活した直接の弟子も又、その弟子の家族も、この世的な価値観をもっていたことを記しています。ゼベダイの子の母は自分の息子の出世を考えてイエスに特別にお願いしています。この願いは私達に取ってみたらば、天国でその指定席をイエスに予約するようなもの、と受け止められます。

宮殿ではなく馬小屋で、都会エルサレムではなくナザレの田舎で、栄光の王座ではなく、罪人を罰する十字架で、これがイエスが身をもって示された道です。イエスは本当に尊い方は仕えられる者ではなく、仕える者であるとしめしておられます。

この母のイエスへの願は、イエスを自分なりに信じ、確信したからこその願であり、子を思う母の願でもあったのでしょう。

自分なりに信じ、それを イエスにぶつけ、願っても良いのです。

それが 唯一のイエスに従う道ではないでしょうか。

「給仕する」と言う言葉のギリシャ語はディアコネオです。

このディアコネオは「塵」コニアと通ってディア、塵にまみれる行為、です。

愛はけっして奇麗事では済みません。塵にまみれ、身を汚す事もしばしばあるはずです。それは、イエスの受難がその事を語っています。

聖書の教える、ひとに仕えると言う事とこの世にしきたりとの間には。ある場合には大きな襞たりがあります。

しかし、私たちはこの世の価値観を否定するのではなく、その向こうに主が示しておられる道を見ようとするとき、私たちはこの世の価値観を超えることができます。

受難の主を裏切った弟子たちは、その現実の向こうに主が希望を示してくださいました。

それが 復活の主であり、昇天の主です。

2011年3月13日 四旬節第1主日 「誘惑をどうする・・・」

マタイによる福音書4章1〜11節
説教:五十嵐 誠 牧師

◆誘惑を受ける

4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」4:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」

4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

マタイによる福音書4章1〜11節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから 恵みと平安が あるように  アーメン

(今朝は、始めに東日本大地震のことを覚えています。TVで地震と津波による災害の大きさを見まして、災害に遭われた方がたを思い、心が痛んでいます。その方々の上に、平安があるようにと祈ります。

今日から教会の暦が「四旬節」にかわります。前には「受難節」と言いました。四旬とは40日の意味です。今日から復活祭の前日まで、主の受難・・十字架を覚えて過ごします。十字架の主を見上げて、悔い改めの生活を送ります。そしてキリストの「復活祭」を迎えます。教会のカラーは「紫」になります。祭壇、牧師のストールも紫です。紫は悔い改めを意味しています。

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悪魔・・もしいるとすれば、悪魔の最大の勝利は、人々が悪魔というものは存在しないと、悪魔の存在を否定したことと言えます。現代人は天使的存在を・・良いにつけ、悪いにつけ・・信じません。結婚式を挙げる方に私はオリエンテーションで「天使があなたがたと共にいますように」と祈りますといいますが、はじめきょとんとしています。無理もありません。で私は天使論を述べますが、皆さんはどうでしょうか。いると思いますか。天使の存在は信じるが、悪魔はどうもという人が多い。

でも、私は両方の存在を信じています。天使の働きを言うと、結婚する方は喜んでいました。一寸メルヘンチックですから、良い天使がいて二人のために働いているなんてです。悪魔という存在を私は信じます。そうとかしか思えないような事が起こるからです。犯罪ですが、想像を超えるような凶悪な犯罪があります。最近の犯罪には・・あげませんが、殺人事件で、人間のすることかというようなのがあります。バラバラにしたり、火をつけて殺傷したり、無差別に刃物で襲ったりです。裁判になると、弁護士はたいてい、心神耗弱とか心神喪失とかで責任能力ないと無罪を主張します。

しかし、やはり、何か異常な力が、悪魔的な力が働いているという感じは捨てきれません。聖書でもユダ・・イエスを裏切ったイスカリオテのユダはイエスの弟子でしたが、「銀30枚」でイエスを売るわけですが、悪魔は彼の中に入って、イエスを売ったと言われています。(マタイ、ヨハネ福音書から)。悪魔が入ると言いますが、そう思うことがあります。

人が悪魔に誘われるのは、どんな場合かをイエスは、今日の福音書から教えています。

人間はいろんな欲望を持っています。名誉欲、権力欲、金銭欲、所有欲、性欲などです。人間が死ぬまで無くさないものは、名誉欲と食欲と性欲だと言います。他にあるかもです。

誘惑とは人に罪を犯させるように仕向けることを指します。聖書はあくま・サタンがその原因です。誘惑の手段は「肉の欲,目の欲,暮らし向きの自慢」(ヨハネⅠ・2:16)だと警告しています。アダムとエバもそうですし、キリストもそうです。(創世記3:1-13、マタイ4:1-14)。しかし、キリストはその全てに勝利・克服しました。

私たちの周りには誘惑の手が伸びていますし、内には自分の中にも誘惑の種がありますから、私たちは日常でも、誘惑との戦いがあります。人間は楽なこと易しいことを求めますから、それに悪魔が乗じる事になります。エバは蛇・悪魔の耳によいささやきに負けました。

イエスが受けて誘惑は三つ(ルカとは順序が違っています)ですが、1,名誉欲、2,権力欲、3、自己顕示欲でしょうか。これ誰でもあります。イエスは洗礼を受けて、いよいよ自分の使命に進むのですが、適性検査を受けているようです。もちろん神からです。仕事の免許状を神から与えられるためのテストです。イエスは合格して、メシア・世の救い主、はっきり言えば「世の中の人を救う方」としての働きに立つのです。ある意味では、イエスが誘惑に負けていたら、イエスの十字架も復活もなくて、人々から拍手喝采で迎えられたと思います。イエスは悪魔にひれ伏したら、大きな権威、力を持つ王として、期待していたメシア・王として、ユダヤ人は迎えたでしょう。イエスが期待に反したから、殺されたのです。

イエスは誘惑にあったとき、一言でかたづけました。議論はしませんでした。エバのように。(創世記3:1以下)。神の言葉・聖書の言葉です。「人はパンだけで生きるものではない」、(申命記8:3)、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、(申命記6:13)「あなたの神である主を試してはならない」(詩編91:11-12)です。

*「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記8:3)

*「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。(申命記6:13)

*「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。(詩編91:11-12)

このイエスの聖書の引用は旧約聖書の「申命記」と「詩編」です。読んでみると、二つの点が分かります。それは、神第一にして、その言葉を聞き、その神に信頼していることです。イエスはご自分の経験を示していると思います。イエスという方は別世界に済んだ方ではなく、人間と共にいる方でした。イエスは人間の弱さ、もろさ、悩み、苦しみ、強がりなどを知っている方です。イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練(誘惑)に遭われたのです」。(ヘブル4:15)。私は思いますが、そういうイエスだからこそ、イエスに聞くことが出来るのです。体験なしに言っているのではないからです。

パウロは教会の信者にこう言っています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と、続けて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と。「神の武具」とはパウロは続いて書いています。ナイト・騎士のスタイル・服装をあげています。彼の言葉で聞きましょう。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェソ6:11-18)。完全武装です。

私たちは完全装備をするほどの誘惑や罪に出会った事はないと言えます。初代教会でも「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」。(ヘブル12:4)とありました。平和ですから誘惑なんかないと思っています。

いろいろとパウロは述べていますが、信仰・信頼と神の言葉と祈りになります。神は世界に介入して、創造の業をしているのです。神は悪と戦っているのです。

その戦場に私たちはいるのです。しかし、絶望はありません。なぜなら、その戦いの結末が分かっているからです。パウロはそれについて書いています。ローマの信徒にです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができません。・・・他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(8:31-39)。

一体誰が私たちの将来を握っているのかを、私たちは知っています。だから、私たちは様々な出来事に遭っても、忍耐をし、戦うことが出来るのです。私の好きな聖句の一つですが「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください(口語訳)(詩編31:15)。新共同訳と違います。

注・「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し、「あなたこそわたしの神」と申します。(新共同訳)

神のみ手の中にあるから、私たちは信仰の道を歩くことが出来るのです。

パウロはこんなすすめをフィリピの教会の信徒に勧めています。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょ」。(フィリピ4:-7)。

ある先生は私たちは「祈ることで悪魔や誘惑から解放」言いました。はじめ私はよく理解できなかったのですが、それは自分が膝を屈めている相手・悪魔より強い、大きな力のある方・・神・キリストに向かっているし、必ず助けてくださるという安心があるからです。それは「虎の威を借る狐」ではなく、また、空元気ではなく、「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって」、歩くことが出来るからです。(エフェソ3:12)。また、神が私たちの中に計画したことは。必ず「その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しているからです。(フィリピ1:6)。

キリストはゲッセマネの園で弟子たちに言われました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」からと。(マタイ26:41)。また、ペトロも自分の経験からですが勧めています。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。(ペトロ5:7-9)。悪魔が・・誘惑するものがほえ猛る獅子のようにとは大げさですが、悪魔がそんな姿で来たら構えて、用心しますが、美しい天使のようだと負けます。悪魔は天使の姿で来ると言いますからです。パウロも「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです」と言いました。(コリントⅡ11:14)。

今日の説教は少し時代遅れの感があるように思いますが、神の良き国に抵抗する陰謀のようなものが存在していること、そして悪魔という人格を持った存在がいるということを意識して、信仰を全うしたいと思います。            アーメン

2011年3月6日 変容主日(顕現節最終主日) 「人はみかけによるのでしょうか」

マタイによる福音書17章1〜9節
説教:安藤 政泰 牧師

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
マタイによる福音書17章1〜9節


私たちの日常生活は小さな出来事の繰り返しです。そして、その小さな出来事につまずきます。風邪がなおらないと何か悪い病気にかかっているのではないかと考えます。特にある年令に達しているとよけいそうです。

主はこうした日常生活の中にいつでも来ておられることを思い出してください。
日常生活の中で私たちがあまり意識してない行動や言動を主は、聖なるものと結びつけて下さるのです。私たちは同じ行動や言動でも、それを否定的に受け止める時も、肯定的に受け止める時もあります。

教職や信徒は誰によって養育されるのでしょうか。それは、もちろん神により導かれ育てられます。具体的には人を通して実際には行われることがあります。
教会を通して、信徒を通して、教職も信徒も養育されます。相互に養育しあう関係です。人がそれを行うのではなく、神が介在して行われます。

さて、主の変容は私達に隠れた主の姿を見させてくださいます。この主イエス・キリストの姿は私達には顔覆いで隠されているのではなく、主イエス・キリストの受難によって隠されているものです。
16章21節以下に、「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

主はご自身の受難について弟子たちに明らかにされていますが、弟子はそれと理解することはできない。しかし、この主の変容で弟子達は主の蘇りの姿を知る事ができたはずです。しかし、本当に弟子たちは理解したのでしょうか
残念ながら聖書を読む限りそのようには読み取れません。
17章9節で「一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。」

主はこの事を秘密にするように弟子に命じています。何故イエス・キリストはこの事を秘密にされたのでしょうか。私達にとって日常的な事と非日常的な事があります。主イエス・キリストの変容の出来事はこの両方を持っています。それゆえに、人は誤解をする可能性があります。外見によって判断したり、自分の解釈で不思議、不可思議な事を解釈してしまう危険性があるからです。
弟子たちも同じようにこの変容の出来事を本当に理解できたのでしょうか。
ペテロの言動を見ても、決して本当に理解したとは考えにくいです。その時起こった現象に目を奪われてその背後の真実を見ることが出来ないのが通常です。

いわば現象に目を奪われてしまい、真実を見ることが出来ないのです。見かけで判断してしまうのです。
「人は見掛けによらない」と言います。このことの本当の意味は「人は見掛けによる」と言うことです。見掛けで人を判断するのがこの世の中の常です。

この外見で、見掛けで判断する事の危険は、自分のイメージでその人を判断することです。特に外見から判断してしまいがちになることです。自分の中にあるパターンにその人を照らし合わせて、判断するのです。自分の過去の経験を照らし合わせて 理解しようとします。
変容の現状に立ち会った弟子たちがそうであったようです。旧約の記述、自分の見聞、経験などを 尺度に考え判断してしまします。

しかし、こうした誘惑を乗り越えて本当の姿を見ることが出来るようになるのは信仰の目 聖霊の導きにより開かれた目でしか見ることができません。

変容日主の真実は 復活の主の姿 昇天の主の姿です。
それを 主のご受難の前に示された神の恩寵を私たちは知るべきです。
しかも 日常生活の中で、聖霊の導きになりのみ神の恩寵を受けられます。