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2010年4月25日 復活節第3主日 「神殿回廊にて・・・」

ヨハネによる福音書10章22-30節
五十嵐 誠 師

◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」 ◆ユダヤ人、イエスを拒絶する
10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。10:23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。10:24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。10:26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。10:28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。10:29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。10:30 わたしと父とは一つである。」

(説教要旨)

冒頭に「神殿奉献記念祭」がありますが、それはエルサレムでは、毎年12月、冬の季節にありました。これは紀元前168年にシリヤの王によって汚された神殿を紀元前165年にユダ・マッカバイオスが問い返し、再びきよめて奉献したことを記念する行事です。(Ⅰマカベア4:59),新約聖書では「宮きよめの祭り」(ヨハネ10:22‐23)がこれに当ります。

その神殿の回廊でイエスはユダヤ人と問答をしました。ソロモンの回廊というもので、500メーターくらいの長い廊でした。回廊を歩いていたイエスを捕まえてユダヤ人達は、イエスの正体を問いただしています。「あなたは私たちが待望しているメシアであるかそうでないのか」と。私たちに余り気をもませないでほしいと迫りました。イエスのことは人々の口にのぼっていました。イエスはメシアだという意見とそうではないというかたがありました。

イエスは簡潔明瞭に答えています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」と。イエスは今日の福音書少し前で「私はよい羊飼いである」という話をしていますが、それに対しても「なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか」と反対しています。ですから、彼らが気をもんでいるのは、イエスがご自分について明らかに語らなかったからでなくて、不信仰のために、明らかにされていることを見分けられないからだったのです。で、イエスはご自分が目の前で行っている業・行いを見なさいと言います。そうすれば分かると。言葉が信じられないなら、行為・業を見よです。そうすれば、イエスが神から来た方と知るはずだと。しかし、それもユダヤ人は信じませんでした。イエスは陰に陽に自分が何者かを語ったいますが、ユダヤ人やファリサイ派は信じなかった。

ユダヤ人全てがイエスを拒否したわけではありません。メシアを待望してイエスに出会って喜ん人もいました。こんな人がいました。シメオンですが、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。(ルカ2:25以下)

イエスに会っから死んでもいいとさえ言っているのです。驚くべき言葉です。普通は立派な働きをし、財産を築き、子孫を残して、天寿を全うして死を迎えたいが、願いだろうと思います。とにかく死ぬ前にイエスに出会うことが願いでした。凄いと思う。

ユダヤ人がパレスチナに国家を作らない前、一つの願いがありました。死ぬ前にエルサレムに行き、そこで死にたいでした。老人は死ぬためにエルサレムに来たのでした。1948年パレスチナにイスラエル国家が出来たときに、世界各国からユダヤ人がエルサレム目指して帰ってきました。飛行機で空輸されたので、「空飛ぶじゅうたん作戦」と言われました。ある日、年老いた病気の老人が少年に負ぶわれて飛行機から降りて来ました。老人は背中から降ろされました。老人は地にひざまずき、大地に接吻して、死にました。エルサレムで死にたいが願い・信仰でした。それが実現しています。

論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」と言うのがありますが、信仰とはそういうものとも思います。人間の生き方やあり方を知ることは、それほど重大なのだと言うことです。

今日私たちは聖書の中でイエスに出会います。どこでイエスの言葉を行いを見るかと言えば聖書です。聖書はイエスに出会い、共に歩き、イエスの話に耳を傾け、イエスの行いの全てを目で見た弟子たちの言葉です。それは証言です。信じるに値する言葉です。作り話・フィクションではなく、真実の・ノンフィクションです。聖書というか、弟子たちが私たちに語っているのは、生けるイエス・キリストに出会ました、そのイエスはあなたに力を与えますよ、そのイエスに信頼して生きていきなさい、これが、聖書の言うところです。ですから 、余り知らなくても、「イエスさま、私は余り知りませんが、でも、あなたを信じて生きて行きます」という一言が大事なのです。

生けるイエスに出会い、力をうけて、新しい出発が始まります。そこからなにが起こるかと言えば、それは不可能が可能になるということです。神、イエス・キリストが生きているから、不可能と思われることが可能になるという生き方が生まれてきます。信じるものには、全てのことが出来るという信仰が起こって来ます。だから、信仰者は強いのです。そういう生き方を聖書は約束しています。

イエスは羊でさえ羊飼いの声を知っていて、その声を聞き分け、ついていくのに、あなた方、ユダヤ人は真の羊飼いであるイエスを知らず、従って来ないと非難しています。が一方、イエスはイエスとイエスを信じる者との信頼の堅いきずなで結ばれていることを強調しています。イエスは「わたしと父とは一つである」(30)と言っています。これはユダヤ人に取っては神を汚す言葉でした。イエスは神だということだからです。ユダヤ人には神は唯一だからです。だから、ユダヤ人は石を投げようとしたのです。(10:31節)。

しかし、イエスが神と等しい方だからこそ、私たちは信頼出来るのです。神の救いの目的のためにイエスは送られて来たイエスです。従って、だれもイエスの働きを、力を妨げられないのです。イエスと結ばれている者は神の大きな笠の下に、腕の中にあるのです。私の好きな聖句に「My times in His hand」というのがります。(詩編32:15・口語訳) 「私の全ては神のみ手に中に」です。
イエスは人生は悲しいとか空しいものだとかあきらめを説きませんでした。イエスはいつでも希望を、歓喜を、光明を説きました。だから、イエスはよく、天国を宴会に譬えました。一杯ご馳走のある、豊かな振る舞いです。(ルカ14:15以下、15:22以下)

現在もいろんな声が聞こえて来ます。大きな声も、小さな声もあります。耳障りのいい声も、欲望をそそるような声もあります。しかし、私たちは聖書からイエスの声を聞く者でありたいと思います。イエスの声に従った人はクリスチャンです。クリスチャンとはなにかと言えば、ただ座って天を見上げている人ではありません。ある先生が言われたように、クリスチャンとはキリストと共に冒険・アドベンチャーの旅に歩む人に与えられた名称なのです。ですから、クリスチャンとは、古い生活から抜け出して、身支度をして旅を歩む者となることです。私たちがクリスチャンになるとは、神の国に向かって歩く冒険の旅に加わるように選ばれることを意味しています。この冒険の旅に加わることによって、私たちは恐れから解放されます」ということです。この旅に加わり、喜びと確信の日々を過ごしたいと思います。

2010年4月18日 復活節第2主日 「良い木は良い実を結ぶ」

ルカによる福音書 24章36-43節
安藤政泰 師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。
どうして心に疑いを起こすのか。
わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。
亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、
わたしにはそれがある。」
こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、
イエスは、 「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

「良い木は良い実を結ぶ」と言う聖書の言葉があります。マタイの7:17ですが。
自分は良い木でありたいと願うのは誰でもおなじです。または自分は良い木である信じられれば、それほど幸いなことはないかもしれません。私達の心には、良い事をしていれば、よい結果がある、と言う価値観があります。しかし、本当にこの世の中でそうでしょうか。私達は良い木になれるのでしょうか。

同じように人を善人と悪人と分けた場合自分は善人の方に入ると信じたい。
しかし、自分は本当に善人なのでしょうか。よくよく自分を見詰めて、自分は善人と言い切れる人が何人いるでしょうか。嘘をいわない、人の悪口を言わない、人を軽蔑しない、人の幸を妬ましく思わない、そのような人が、この世の中に居るでしょうか。自分の行い、考え言っている事をもし、全部VTRに取って見るとしたら、それを見る事に私達は堪えられるでしょうか。
今日は主の復活について考えたい。
主の蘇りと昇天については、理解するのがなかなか難しいと申し上げました。
主の受難はどちらかと言えば、理解しやすいが、主の復活とその後の昇天はなかなか理解出来しくのです。

これは、当時の弟子たちにしても同じであったわけです。
37節に弟子たちは霊をみている、と思っていたと記されています。
一人の男の人が無実でありながら、死刑になった。今でいえば、再審裁判を要求するところでしょう。 その男の人が復活した。これは新聞記事TVのニュースになるようなセンセーショナルな事件です。そのようなセンセーショナルな事件を現実のものとして信られるでしょうか。

主イエスの蘇りを信じるかどうかは、大切なことですし、この主の蘇りが信じられなければ、信仰に入ることも出来ません。しかしどのように私達は信じているのでしょうか。その実体はどうなのでしょうか。確かに信じているのです。しかしそれだけで良いのでしょうか。

「生きている言葉」と言う表現があります。これは言葉そのものが人間に行動を起こさせるような、そのような言葉の事です。聞いているが、柳に風と受け流してしまう、そのような言葉はその人達に取って生きている言葉とは言えません。

主イエスの蘇りが、この私にとってどのような意味があるか、を問う事が求められています。しかし、その前に、主はあなたの為だけにも十字架に懸かりたもう、と言う事を信じる事から考えはじめると、主の蘇りが自分にどのようにかかわるかを見る事が出来るのではないでしょうか。

自分に一番大切な事は何でしょうか。
そのために自分は何をしているのでしょうか。

始めに「良い木」の話をいたしました。 良い木になれる人間はいないのです。
聖書で言っている良い木とは主イエス・キリストの事です。

その良い木が結んだ良い実に預かる、これが私達です。その良い木が、本当に言われていた通りの良い木であった事は、主の復活が証明しているのです。

この主の復活に預かるのは、生きている者だけでなく、すでにみもとにある者も共に預かるのです。しかも、この良い木であるキリストのみ言葉を日々の糧
とする時に、私達は主の復活にあずかる栄光も受ける事ができるのです。

主は生きている者の主です。だから、先に召された者の主でもあるのです。
先に召された者がこの世での生命に生きた時、主は彼らの主でもあったのです。
主は時間を越えて、「良い木」として私達に働いておられます。
主よあなたの与えられる恵が時間を越えて働かれる事を感謝致します。

2010年4月11日 復活節第1主日 「イエスを信じて生きる・・・エマオの道から」

ルカによる福音書 24章13-35節
五十嵐 誠 師

◆エマオで現れる
24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、24:14 この一切の出来事について話し合っていた。24:15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。24:16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。24:17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。24:18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」24:19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。24:20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。24:21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。24:22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、24:23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24:24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」24:25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、24:26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。24:28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。24:29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。24:33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、24:34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。24:35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(説教要旨)

先週はイエスの復活を祝う「復活祭・イースター」でした。それぞれ各自、その喜びを受けられたと思います。その復活の日の夕方の出来事を今日の福音書は伝えています。普通は「エマオへの途上で」というタイトルで知られています。二人の弟子の復活の日の夕暮れの失意と驚き、そして、喜びが書かれています。そこからの学びをしましょう。

この日の二人の道は悲しみと失意の歩みでした。彼らは一切の出来事を話し、論じていたのですが、それはイエスのこと、特に十字架と死、復活についてでした。でもそれは彼らにとっては分からないことでした。イエスに信頼して、希望と期待を寄せたが、失望に終わった。復活の出来事も・墓が空であったが、その意味を悟らなかった。

彼らが話しあっていると、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言いながらよってきた方がいました。二人は驚いています。あの大きな出来事を知らないなんて!二人は自分たちが話していたことを・とまどいと失望を語りました。するとその人は 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のでした。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とその人、つまりイエスは言いました。

彼らはイエスの復活を話しながら、悲しそうな顔をしていたのです。イエスの復活が彼らにとって力にならなかったのです。自分と関係ないと出来事として、また理解できない出来事と話している時は、復活はなんの喜びにもなりません。信じることの出来ないそんな弟子たちをイエスは嘆いたのです。そしてイエスはなにが事柄の中心・核心かを、彼らが再確認するようにしています。イエスは十字架と復活こそ、まさしく救い主キリストの受難と栄光をあらわすものではないか、「聖書」(旧約聖書)に記されている内容そのままではないかと「説明された」のです。聖書は素晴らしい内容に満ちています。だけど自分とは関係ないという人は、悲しい顔をして立ち止まります。しかし、本気で信じる者には希望が与えられます。うれしい顔して踊り出す力になります。

私はイエスの十字架と復活の意味を初め理解しなかった弟子たちが、その意味を知り、その後、十字架と復活を、堂々と力強く述べ伝えていますが、その理由がここにあります。イエスは弟子たちに聖書・・旧約聖書からご自分のことを説明したのです。イエスは復活後、40日間地上におりましたから、その間弟子たちを教育された思いますし、弟子たちも旧約聖書やいエスの生前の言葉を思い起こして、イエスの意味を学んだと言えます。今はこう言えるのです。実に「新約聖書は旧約聖書に隠されており,旧約聖書は新約聖書に現されてい」という緊密不可分の関係にあるのです。ですから聖書は・・旧約と新約は共に、イエスキリストを証しするといえるのです。旧約聖書39冊がイエスを指し示すことを、弟子たちは知ったのですが、一方、新約聖書はその弟子たちが、その旧約聖書が示すキリストこそ、まことに神からのキリスト・メシア・救い主と言うことを示すために、証言するためにかかれたのです。

キリスト教とは何か。変な質問ですが、どう答えますか。それはこう言えます。「キリスト教とは、救い主・イエス・キリストにおいて、キリストを通して、神がいのち・命と救いを与えらるものです」。このいのち・命とは、今の肉体の命ではなく、それを超える命・いのち、普通には「永遠のいのち・命」です。現代は救いなどと言いますと、人気がありません。救いはいらないとか、そんなに弱くないとか言います。「救いとはなにか」ですが、ある先生は救いとは「変えることchange」と言いました。あなたをイエスは変えるのです。変えられるのです。ギリシャ語では救うという言葉は「変えるという意味があります。私たちはいろんな思い、悩み、恐れ、希望などで、心が揺れ、定まりません。そんな私たちを造り変えてくださるのです。イエス・キリストは・・死から復活して、その力があることを明白にしたのです。だから、復活祭・イースターは喜びなのです。聖書はその神・キリストの言葉です。

今日のエマオへの出来事に目を向けます。彼らはなにか引かれたのか、強いてイエスに一緒に泊まるようにお願いしました。イエスは泊まるために家に入りました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」のでした。イエスの言葉か仕草かで彼らはイエスと悟った。道々語ったイエスの言葉が彼らの目を開いたと言えます。

それを彼らはこう表現しています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。 聖書は私たちに、心が燃えるような思いをあえるのです。

イエスは今も私たちと共にいるし、歩いています。人生の歩みをしているとき、近付いてきて、一緒に歩いてくださる。聖書を通して、私たちの問題に解き明かして、私たちの内の心を燃えさせてくださるのです。今日は、今日の聖餐式でも私たちは、イエスが共にいて、祝福しくださるのを知るのです。イエスは約束を守られる方です、私たちの信頼に十二分にお答えくださるのです。

聖書はなにを書いているかですが、それは「イエスに出会った、キリストは生きています」ということを書いているのです。生ける主キリストに出会ったという証言・証しが聖書です。生けるイエスに出会いさえすれば、聖書は読めるし、分かります。その時、聖書が本当に分かったと言えます。そのキリストは今も生きていて、私たちに力を与えます。そのイエスに信頼して生きて生きなさい。そう勧めています。「イエスさま、あなたを信じて生きて生きます」と今朝も告白したい。

2009年10月11日 聖霊降臨後第18主日

マルコ 10章1-16節
大和 淳 師

イエスはそこから立ち上がって、ユダヤの地方とヨルダンの向こうに行かれた.再び群衆が彼の所に集まって来たので、彼はまたいつものように、彼らを教えられた。
すると、何人かのパリサイ人がイエスの所に来て、人は妻を離縁してもよいかと質問し、彼を試みようとした。
イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたに何と命じたか?」
彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」。
イエスは彼らに言われた、「彼は、あなたがたの心がかたくななので、この戒めをあなたがたのために書いたのである。
しかし、創造の初めから、神は人を男と女に造られた。
このゆえに、人はその父母を離れて、その妻に結び合わされる.
こうして二人は一体となる。それだから、彼らはもはや二人ではなく、一体である。
こういうわけで、神がくびきを共にさせたものを、人は引き離してはならない」。
家に入ってから、弟子たちはこのことについて、再び彼に尋ねた。
イエスは言われた、「だれでも自分の妻を離縁して、他の者をめとる者は、彼女に対して姦淫を犯すのである。
またもし彼女が、自分の夫を離縁して、他の者に嫁ぐなら、姦淫を犯すのである」。
さて、人々はイエスの所に小さい子供たちを連れて来て、彼に触っていただこうとした.ところが、弟子たちは彼らをしかった。
しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである。
まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。
イエスは彼らを腕に抱き、手を置いて、熱く祝福された。

今日は、順序が逆になりますが、最初に13節以降からまずみ言葉を聴きたいと思います。そこで主イエスはこう言われます、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10章14-15節)

わたしどもは今日、この主イエスの言葉を、まずわたしたち自身に語られているみ言葉として聴き取りたいと思うのです。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」 ― これは他ならないわたしに語られている言葉であり、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 ― そのようにわたしたち一人ひとり招かれているのです。

しかしながら、わたしどもはここで戸惑いながら、こう問うかも知れません。ここでの「子供のように神の国を受け入れる」とはどういうことだろうか?子どものような純真無垢な心で、ということなのだろうか?と。おおよそそのような意味で、「子供のように」と言われるのなら、それはむしろ、わたしどもにとっては真に戸惑い、絶望しなければならならない言葉なのではないか、と。

わたしたちがそのように考えるのは、しかし、明らかに誤解があるのです。何故なら、そもそも聖書は、決して子どもを純真無垢な存在そのものと見てはいないからです。子どもは天使ではないのです。その意味で言えば、子どもと言えども、大人の人間と同じ神の憐れみがなければ、神から遠く離れた人間、言い換えれば助けが必要な存在なのです。

そもそも発端は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」(マルコ10章13節)ことに始まります。「イエスに触れていただくため」とは、祝福を受けるため、当時の名高いラビ、教師に触ってもらうことは、その人の徳、祝福にあずかる、そう信じていたからです。しかし、わたしたちは、ここで「人々が子供たちを連れて来た」、何よりそう記されていることに心を留めたいのです。ここでの子どもは、自分からイエスのもとに来たのではないのです。人々、親の手に引かれて来たのです。フランソア・モーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言っていますが、まさしくそのような子どもなのです。ここで言う子どもとは、その手を取ってくれる人が必要な存在なのです。その手をとってどこまでも共に歩いてくれる同伴者なしには生きられないのです。「神の国はこのような者たちのものである」と言い、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われ給う、その子どもとは、そのように手を差し出すこと、「子どもであるということは、手を差し出す」存在なのです。しかし、それは、わたしたち大人となった者もまた、手を差し出す存在、この手を握り、抱き留め共に歩いてもらわなくてはならない者であるのではないでしょうか。悲しみ、痛みの中でわたしどもの手を、わたしどもの差し出す手をしっかりと常に握ってくださる方が必要なのです。

先のモーリャックは「子どもであるということは、手を差し出すことだ」、そう言うのです。決して、「子どもとは」、そういう者だという風に言っているのではないのです。「子どもであるということ」なのです。「子どもとなるということ」と言ってもいいでしょう。言い換えれば、わたしどもが信頼する者に向かって手を差し出すとき、わたしたちもまた「子どもであるということ」なのです。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そうです、それがまたあるがままのここでのわたしたちなのです。決して純真無垢ではなくても、そうであるからこそ「子どもであるということは、手を差し出すこと」、共に生きる人を求めて、受け止めてくださる方を求めて手を差し出す、主イエスに手を差し出すのです。しかし、それはよく言われる苦しい時の神頼み、そのような安易な、単なる気休めのようなことではありません。わたしたちの生きる力そのものなのです。

その上で最初の出来事での主イエスのお言葉、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」、この主イエスの言葉を考えましょう。まず、このイエスの答えの第一の意図は、単なる「離婚」の是非の問題などではなく、イエスがここではっきりと否定しているのは、夫による「離縁」の問題、夫、つまり男による横暴、身勝手な論理です。それ故、「神が合わせたものを、人は離してはならない」とは、まず「被造物である男が勝手に離してはならない」と言っておられのです。

しかし何より大事なのはここで主イエスは「神がつなぎ合わせたものを、人が分離してはならない」(9節)、明確にそうお答えになっていることです。この「神がつなぎ合わせた」という「つなぎ合わせる」という言葉は、もともとは「くびきにつなぐ」という意味の言葉です。くびきというのは、本来畑を耕すために牛やロバなどの二頭の家畜の首と首をつなぐ道具のことですが、実はこの「くびきにつなぐ」、共に「くびきを負う」ということは、実は単に夫婦観、結婚観だけに限って言われるべきことと言うより、実は人間の存在の在り方そのものに関わっていくことです。わたしたちは、「くびきにつなぐ」「くびきを負う」と聞いただけで、何か束縛され、自由のない生活だけを思い浮かべてしまう、だからわたしたちにとって自由とは、このくびきのようなものをなくすことにある、そんな風に思っているわけです。しかし自由とは、むしろ、わたしの人生のくびきを喜んで負えることにある。つまり、人間は、たとえ王さまであろうと奴隷であろうと、男であれ女であれ、老人であれ若者であれ、大人であれ子供であれ、結婚していようとしまいと、この地上に生まれた限りどんな人でもくびきを負うているのだと言っていい。つまり、くびきを負うとは、先の「子どもであるということは、手を差し出すこと」、そのような者として生きることです。

また「くびきを負う」こと、それは同時に、その人その人なりに生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、ということです。わたしたち一人ひとりには能力の違いもある、あるいは身体的、また環境などの条件の違いが当然あるでしょう。しかし、根本のところでは、それらのわたしの能力や条件に一切よらない、いわばその人がその人である、たとえどんな悪人であったとしても、あるいはどんな障害、ハンディを負っていようと、その人なりに、その人にしかない生きる目的と、そのためにすべきことが与えられている、それが人間なんだということ。

でもわたしたちはしばしばそのことを見失います。一体何のために自分は生きているんだろう、何で私はこんなことをしなくてはならないんだろう、あるいは一体何で私だけがこんなことをしなくてはならないのか、こんな目に遭うんだろう、そう思うことの方が多いのです。そのとき、わたしどもはいわばひとりでくびきを負っている。あるいは自分のためだけを考えて負っている。それが「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と主が言われ給うことです。しかし、くびきとは誰か自分以外のものと共に負うものです。「手を差し出すこと」です。

自分ひとりでそれを負うならば、それはただ重荷に過ぎないものになる。しかし、くびきとは最初に申し上げたように、自分以外の者とつなぐもの、つながるものです。「手を差し出すこと」です。誰かが共に負ってくれるから負える、軽くなる。つながっているからこそ、わたしはわたしでいられる。そして、わたしのためにくびきを負うてくれる人がいる、それ故、わたしはわたしでいられるのです。だから、そのくびきを重荷とし、苦しみとするもの、それは「くびき」重荷そのものではなく人間の「心の頑なさ」なのです。そして、「心の頑なさ」とは、固さと同時に脆さという意味ももっている言葉です。

もうお気づきのことと思います。これらの言葉の背後におられるのは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28以下)、そのように招いてくださる、共に負ってくださる主イエス・キリストなのです。四国のお遍路さんは、巡礼を同行二人と呼ぶそうですが、まさしくそのようにわたしと一体となり、すなわち「くびきにつなぎ合わさり」、一緒に歩いてくださる方、それが主イエスなのです。そうしてこれらの離縁問答に続いて、イエスが子供を祝福した話につながっていくのです。

ところでみなさんの中には旅行、旅はお好きなお方も多いでしょう。旅行は楽しいものです。しかし、そもそも旅をあらわす英語のトラベル、あるいはフランス語のトラヴァーユの語源は、実は苦しい目に遭う、骨を折る、と言う意味のラテン語から来ているのです。それは、昔、教会に対して何か罪を犯した者を、そこから遠いところにある教会に行かせ、そこで礼拝して改心させる、そう言う苦行、回心の旅から来ているのだそうです。文無しで行かなければならないので、それこそ苦労の連続であったでしょう。でも、本当に困ったときに、宿を貸し、食べ物を分けてくれる人に出会う。そうしたことが改心につながったのでしょう。人生もまさに旅、トラベル、トラヴァーユです。主イエス、このお方に出会い、手を差し出し、このお方とと共に歩む旅なのです。

「子どもであるということは、手を差し出すこと」、人は誰も「手を差し出す」者となる、どうすることもできない苦しみの中で泣きながら悲しみの中で、痛みの中で手を差し出していいのです。そこでこそ喜んで神の愛、この主イエスの懐の中に身を任せること、そこに立ち上がっていく力があるのです。