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2019年7月21日 聖霊降臨後第6主日の説教 「痛みを共に」

「痛みを共に」ルカによる福音書10章25~37節 藤木 智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

  皆さん、「友人」がいらっしゃると思いますが、自分が信頼して、どんな悩みも打ち明けることができ、どんな時にもいっしょにいてくれて、どんな時にも助けてくれる人がいるならば、大きな支えになるでしょう。しかしそういう意味で、本当に互いに信頼しあうことの出来る友はいるか、それは切実な問題です。

しかし今朝、私たちが問われているのは、私たちが他者のために本当の友人になれるのか、ということです。他方、聖書は真の友となることについて語っています。

この福音書の「善いサマリア人」のお話もそのひとつです。これは大変有名な箇所です。みなさんもよく読まれるでしょう。このお話はとてもわかりやすく、人を愛することの大切さを伝えています。誰もが冷酷なレビ人や祭司ではなく、サマリア人のようになりたい、分け隔てなく人を愛する人になりたい、そういう理想のようなものが描かれているからです。しかし、実際に難しいのは、この譬えの中に示されている愛の戒めを実行することではないでしょうか。

さて、この譬え話に入る前、ひとりの律法の専門家が主イエスにいかにすれば永遠の命が得られるか問うています。しかし、その問いの背後には、主イエスを罠に落しいれる意図があるので、わざわざ聖書は「イエスを試そうとして」問うたと示しています。主イエスの答えは、実に明瞭でした。ふたつの律法を守ることが永遠の命を得るために必要なのです。第一の律法は申命記6章4節から5節です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5)そして、もうひとつの律法はレビ記19章18節からの引用です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)すなわち、神を愛し、隣人を愛することであり、このふたつは切っても切れないほど結びついているというのが主イエスの主張なのです。これらは、ユダヤ教の根本的精神ですが、同時に主イエスはクリスチャンに対する愛の戒めとして教えているのです。大切なのは、それらの戒めを理解するだけでなく、実践することにある、と語ったところに主イエスの教えの根本があるのです。

この主イエスの教えに対して、律法の専門家は次のように答えました。「私の隣人とは誰ですか」と。神さまを愛することはもちろん当然のことであり、いわれるまでもなく自分は隣人を愛していると、胸を張って主張するのです。自分は、人々の模範でありこれ以上に誰が、私の隣人なのか、自分を正当化しようとして、主イエスに反論しているのです。まさにこれは神様の御前にあって、とてもある傲慢な姿であり、ある意味で開き直りです。自分だけが正しい、そういうエゴイズムがこの反論の中に見え隠れています。このような硬直化したひとりよがりの、誤った信仰の態度に対して、主イエスは今や譬え話を用いて語るのです。愛と勇気と信仰の、あるべき姿、生き方を具体的に指し示したのがいわゆる後半にある「善きサマリア人」の譬え話なのです。

  ここで譬えの筋についてはもはや詳しい説明は不要でしょう。神様を愛すること、隣人を愛することが信仰の本質であると人前では胸を張って主張している人が自らの身の安全を最優先して、倒れている者を見捨てしまうのです。危険を冒してまで助ける勇気も、また他人への関心すらもない。そういう人間の身勝手さ弱さが描かれているのです。ここで描かれた人物こそまさしく今、主イエスを罠に落としいれようとしている律法の専門家彼自身なのです。

他方、そのようなわがままな見栄っ張りの登場人物たちとは全く対照的な、あのサマリア人は登場するのです。サマリア人というのは、もともとはユダヤ人とはライバル関係にあったイスラエル人です。国が滅んだ後、他民族との混血が進んだゆえに、純潔主義のユダヤ人からは汚れた民として蔑視され、差別されていた人々だったのです。そのようなサマリア人が倒れていたユダヤ人を、自らの危険を冒して介護し、近くの宿屋に連れて行き、宿代まで支払っていった。この予想もできないサマリア人の愛と勇気が見事に描かれている。これぞ、神様を愛し、隣人を愛することの実践であると語りきったところに、この譬え話の本質がある。ではいったいなぜ、どんなメリットがあって、あるいはどのような動機で自らのリスクを冒し、自らの費用でサマリア人はこの倒れたユダヤ人を助けたのでしょうか。聖書はたった一言、その動機について語っています。それは、彼がユダヤ人を憐れんだということです。サマリア人にとってこのユダヤ人を助けることには何のメリットもない、見返りもまったくない。まさに無償の愛こそが勇気あるサマリア人の行動を特徴づけているのです。

主イエスは最後に律法の専門家にこう問いました「あなたはこの三人の中で、誰がおいはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と。大事なことは誰が私の隣人かではなく、誰が隣人になったかということです。つまり、神様を愛し、隣人を愛することを実践したのは誰か。律法の専門家がまさに、言ったように、「その人を助けた人です」

さて、今朝この善きサマリア人の譬え話を通して、私たちに求められていることは何でありましょうか。それは主イエスが律法の専門家に37節で語ったように、「行ってあなたも同じようにしなさい」ということなのではないでしょうか。もし私たちの交わりが単なる気休めや、不満の捌け口の場ならば、私たちの交わりは律法の専門家と同じように、やがては自己正当化、自己満足の手段と化してしまうでしょう。神様に仕え、隣人に仕える使命があるからこそ、教会にはキリストの体としての価値があるのです。地の塩、世の光としての役割があるのです。しかし、どうしたら私たちが神様に仕え、隣人に仕えることができるのでしょうか。愛と勇気を持つことができるでしょうか。

その解決の鍵は、やはり聖書の中にあるのです。サマリア人のほうから倒れている人を憐れみ、サマリア人のほうから近寄る愛の姿勢。この愛の姿こそ実はキリストの十字架からあふれ出る憐れみと無償の愛を写し出してはいなのではないでしょうか。

実は、この「憐れむ」という言葉は、ルカによる福音書ではこの箇所以外ではもっぱらキリストの憐れみを描き出すのに用いられているのです。例えば、放蕩息子の譬え話で、神やキリストに譬えられている父親が、悔い改めた息子を憐れに思って家に迎え入れた箇所(ルカ15・20)や、ナインの村で息子を失った一人のやもめの話(7・13)などには、キリストの愛や神の愛を表すのに用いられているのであります。放蕩息子の譬え話にはこうあります。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(15:20)そして、ナインのやもめの話にはこうあります。

 「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。(7:13)したがってこのサマリア人の愛の行為の背後には、キリストの愛が暗示されている、主の憐れみ深さがその行動の中に刻まれているのであります。

この真実の善きサマリア人となりえた人物こそまさしくナザレのイエスではないでしょうか。主イエスこそが私たちの隣人、真実の友となってくれたのです。それがまさしく、十字架の真実なのです。この方こそが私たちを憐れみ、どんな時にもあなたに寄り添い、あなたが信頼できる唯一の友となってくれたのです。だからこそ、私たちはこのキリストの愛に応えて、神様を愛し、隣人に仕えることができるのです。

主イエスは私たちひとりひとりに、やはり同じようにキリストの大いなる憐れみの下で語りかけています。「行ってあなたも同じようにしなさい。」と。みなさん、これは新しい戒めではなく、わたしたちに近づき愛してくださるリストの愛に応えて生きる、新しい人生への招きの声であります。私たちはただその御声に聴き従うのであります。ただ、キリストを仰ぎつつ、神様に仕え、隣人に仕えることを願いたいのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

☆☆集会お休みのお知らせ☆☆

8月は以下の集会がお休みです。

・中高生礼拝

721()28()

お休みです。

・聖書を分かち合う会

・カトリナ会

 

9月1()10時より

中高生礼拝、

9月5()11時より

聖書を分かち合う会、

9月15()315分より

カトリナ会をそれぞれ再開します。

2019年7月14日 聖霊降臨後第5主日の説教「惜しみなく注がれる神の愛」

「惜しみなく注がれる神の愛」ルカによる福音書9章51~62節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書の冒頭に『イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。』(51節)とあります。天に上げられる時期というのは、主イエスが昇天される出来事だけを指しているのではなく、それは以前、弟子たちに証ししたように、ご自身の死と復活を予告し(ルカ9:21~27)、エルサレムで遂げようとしておられる最期について(9:31)証ししている出来事を指します。エルサレムで遂げようとしておられる最期、それは十字架の死を指しますが、その死を受けるために決意したのがエルサレムへの旅路であり、十字架への道なのです。

その主イエスの決意を阻むかのように、道中、準備と休息を取るために立ち寄ったサマリア人の村で、サマリア人たちから拒絶されました。そこには数百年に及ぶ民族同士の深い対立が背景にあります。お互いに交流はなく、嫌な印象をお互いに抱いていました。だから、ユダヤ人である主イエスを歓迎する気など毛頭ないのです。その憎しみに拍車をかけるように、弟子のヤコブとヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)と主イエスに言います。自分たちにとっての敵である、主イエスの旅路を阻むこの者たちを、神様の裁きで排除してしまえばよいではないかと考えたわけです。

このヤコブとヨハネの声は、現代版のヘイトスピーチであると言えるのではないでしょうか。「彼らを焼き滅ぼしましょうか」、それは憎悪をむき出しにし、自分の正しさに立つ発言です。この時代であればサマリア人がその対象なのです。しかし、主イエスは彼らを戒められました。それには及ばないということではなく、彼らを叱って、それは違うとはっきりと言いました。それは、彼らの思いから来る発言がエルサレムに向かう主イエスの決意ではなかったからです。主イエスの決意から外れていたのです。ユダヤ人であるこの弟子たちから見て、サマリア人は神様からの救いの対象から離れていたという印象がありました。彼らを罪人と見なし、裁きの対象に見ていたという思いがここで顕になったのです。主イエスの戒めは、ご自分の決意から遠ざかっているのはむしろこの弟子たちであり、サマリア人への憐れみを持てない彼らの思いというより、自分たちはサマリア人よりも神様の救いに近く、正しいものであるという彼らの思いに向けた戒めであったと言えるしょう。私たちも自分の価値観に基づいた正義を振りかざし、他者の救いのためではなく、裁いてしまうということがないとは言い切れません。そして、本当の意味で救いから遠ざかっているのは、そのような価値観に縛られている不自由さからくるものではないでしょうか。主イエスの戒めはそのことに向けられ、主イエスの決意からは遠ざかっているのです。

この後、3人の弟子志願者が登場します。一人目は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)と言う人でした。対して主イエスの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58節)と言われます。狐にとっての穴、空の鳥にとっての巣、それらは命を、存在を、生活を守るものです。ところが人の子である主イエスにはそれがないと言います。それは、主イエスが人々によって片隅に負われ、枕するところを奪われる救い主だからです。枕するところを自分のためにではなく、人々のために、人々に与えるということなのです。どこへでも従って参りますという主イエスに続く道は、主イエスご自身がそのように辿る道であり、その決意に従っていくことなのです。

主イエスは二人目の人には従いなさいと言われます。すると、その人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言います。父親が亡くなられたばかりだったのでしょうか、今は葬儀をまずしなくてはいけないという彼の心境は最もなことだと思います。しかし、主イエスは言います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」(60節)死の世界に行ったものをこの世に生きるものではどうにもならない、死んでいるものたちにまかせるしかないと。けれど、主イエスはここで葬儀に出るな、葬儀などする必要はないと言っているわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」神の国を言い広める、他の訳では明確に「神の国を宣べ伝えよ」となっています。この神の国、神のご支配する領域の中に死者も含まれているのです。この神の国という言葉は神様のご支配する領域という意味において、神の愛とも言える言葉です。神の愛がそこにある、神の愛によって、亡くなられた者は神と繋がっている。それは死から復活する主イエスにおいて明らかになることで、この復活の主イエスに繋がることにおいて、先に亡くなられた愛する者たちとも繋がっているという慰めを与える。それが主イエスに従い、神の国を言い広めて、神の愛を明らかに告げることです。

パウロはローマの信徒への手紙でこう言います。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。(83539)神の国を言い広める、それは神の愛が及ばないところはないということ、この愛によって私たちは生きている、死の力も、この愛の前には無力であるということです。命の望みはつきることがないのです。

  さて、最後の三人目はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」(61節)ようするに、家族に別れの挨拶をさせてくださいと言います。しかし、主イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)と厳しいことを言われます。鋤は土を掘り起こす道具ですが、その仕事は主イエスと出会ったときから与えられているので、もはや後ろを振り向いている時などないと言われるのです。家族のことを心配するのは誰もがそうです。主イエスに従っていくと、もう会えないかもしれない、だから正式にお別れをさせてほしいと頼むのはよくわかります。しかし、主イエスはそれは神の国にふさわしくないと言われます。ただしてはならないと言っているわけではありません。神の国にふさわしくない、ようするに、あなたとあなたの家族は神の国に生きているのであるから、神の国、すなわち神の愛におけるあなたがたの交わりが、交流がある。神の愛を抜きにして、あなたがたの関わりはないのだと言っているのだと思います。だから、神の国にふさわしくないと主は言われるのです。家族との関わりを二度ともつなとか、絶縁しろと言っているわけではないのです。そして、主イエスに従うことが、神の国に生きるということであれば、家族のこともそれは、この私以上に主イエスが気にかけ、心を砕いてくださっているということではないでしょうか。もちろん家族の心配は誰だってします。しかし、心配や不安から神の国が揺らぐことはないのです。私が気にかける以上に、主イエスが気にかけてくださっている、主がその愛の御手で包んでくださっている。大切な私たちの家族を、神の国は生かされるのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ57家族との関わりも、この神の国において、結ばれている。だから、神の国をもたらす主イエスの後についていくのです。

この3人の志願者が弟子になったかどうかはわかりませんが、ヤコブとヨハネを含めて、主イエスの決意から離れていた姿がありました。主イエスの言葉は確かに厳しいものでありますが、この厳しさの中に主の決意があります。それはエルサレムで、十字架を通して成し遂げる神の愛の実現であり、赦しと愛に基づく主イエスの決意です。この決意は、さきほどパウロの言葉から言いましたが、絶対に私たちを引き離さない神の愛です。だから、神の愛に示される神の国とはどこか遠い理想郷ではなく、理想郷とは言えないような弟子たち、また私たちの小ささ、弱さ、惨めさの中に、起こしてくださるのです。

主イエスは同じルカによる福音書でこう言われます。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(172021実にあなたがたの間にあるのだと。そう、今を生きている私たちの只中に。それこそ厳しいこの現実世界、ヘイトスピーチなどが飛び交うこの世に、主イエスは神の国をもたらされるのです。主イエスの決意に私たちも従い、私たちの都合や不安、悩みと共に歩んで下る主イエスに信頼して、この神の国を、神の愛を広めていきたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。