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☆☆卵探し(Egg Hunts!)☆☆

4月21日(日)のイースターに、9時50分から10時20分まで教会の屋上で、小学生までを対象にした卵探し(Egg Hunts!)をします(雨天時は中止です)。教会屋上には、エレベーターで3階まで上がり、3階から階段を上ってお越し下さい。1階から階段で行くこともできます。どうぞお越し下さい。

Microsoft Word - エッグハント2019(日本版)Microsoft Word - Egg Hunts2019(英語版)

2019年3月24日 四旬節第3主日の説教「実りを信じて」

「実りを信じて」ルカによる福音書13章1~9節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書で主イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と、2回も言われています。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われると、私たちはびくついて、不安な思いに駆られるかもしれません。ちゃんと悔い改めないと、自分は滅びてしまうかもしれない、救われないかもしれない、そんな強迫観念にも駆られて、滅びないように悔い改めをしなくてはいけないと思ってしまうかもしれません。しかし、主イエスはここで私たちを脅し、暗い顔でこのようなことを言われているわけではありません。悔い改めなければ、皆同じように滅びる。それはまた、あなたがたが滅ぶことを私は良しとしてはいない。滅ぼすことを神は目的としているわけではないのだという愛の眼差しで私たちに語られているのです。それは続く「実のならないいちじくの木のたとえ」の話で明らかになってくる主イエス、神様の御心であります。

悔い改め、ギリシャ語でこの言葉はメタノイアと言います。メタノイアとは方向転換するという意味です。それも、180度転換するということですから、全く向きが真逆になるのです。突き詰めて言えば、自分の考えや思いがひっくり返るということです。人の考えや思いに立つのではなく、神様に祈り求め、導かれて神様の御心に立つということです。だから、時には自分の期待や願望が打ち砕かれるという体験をもします。自分の側には、自分を立たせるものはなく、空っぽにされるという体験でもあります。自分にではなく、向きを変えて自分を受け止め、自分を包んで下さる方が待っていてくださる。またそこに、自分の存在を肯定してくれる命、場所があるのだということに気づかされることでもあります。ですから、悔い改めるとは、神様のもとに立ち返るということです。そのままの姿で、帰っていくのです。そして、帰っていけるところがある、帰りを待っていて下さる方がいるのです。それは非常に嬉しいことでもあります。来週の福音書の日課である放蕩息子のたとえ話は、そのテーマを私たちに深く伝えている物語であります。帰る場所、自分を待っていてくれる父親の姿は、神の愛を深く現しているのです。

さて、主イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われました。このあなたがたもというのは、群衆のことを指しますが、あなたがたではない誰かの存在と重ねて、あなたがたもと語られていることがわかります。それがまず、1節で言われている、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難に合った人たちの存在があります。ガリラヤ人も同じイスラエル民族でありますが、エルサレムに住むユダヤ人から見れば田舎者として映っていたようで、そのガリラヤ人の中には総督ピラトを始め、ローマ帝国に反逆して、過激な行動をしている人たちもいたようです。そして、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難とは、彼らが礼拝をして動物の血で犠牲の捧げものをしている時に、ピラトが不穏分子である彼らに軍隊を送って襲撃し、犠牲の動物の血に襲撃された彼らの血が混ざって起こったことではないかと言われています。そういう災難、惨劇は歴史上、ローマ帝国の占領下にあるイスラエルの各地で起こっていました。そのひとつの知らせが主イエスと群衆に届けられたのです。そこで主イエスは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」と言われました。罪深い故に、そのような災難に見舞われたなどということではないと言います。ことはそういうことではなく、この知らせを聞き、直接災難に遭っていないあなたがたも悔い改めなければ、滅びると言われたのです。災難に合う、合わないということは、罪深い云々ということではないと言うのです。

そして、もうひとつの話は4節で、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」という主イエスの言葉です。シロアムとはエルサレムの水源地のひとつで、ここから水道が引かれていたのではないかと言われるところです。シロアムの塔とは、その水道を確保する建物であって、その塔の建設工事中に起きた事故のことを指しているのかもしれません。ただ、主イエスはここでも同じく、犠牲になった18人は、罪深い者だったと思うのか。と、具体的な人数を現して、そう問いかけます。罪深い18人だけが犠牲になったという話ではない。そのこととは関係なく、また繰り返して、悔い改めなければ滅びると言われたのです。

罪深いから災難に遭ってもしょうがない、逆に正しい者なのに、なぜあのような災難に遭うのかという、群衆の思いを主イエスは知っているのです。私たち日本人は因果応報の思想を思い浮かべたり、罰が当たるということを身近に聞いたりするかと思います。災いの根拠というものを探したりします。逆もあるかと思います。なんであんな罪深い者が、祝福されているのか、優遇されているのかと。自分や他人の幸せ、不幸を何かの因果関係に照らし合わせて、そう受け止めるという思いもあります。

ただ主イエスはここで、単に因果応報等の人間の考えを拒絶しているわけではありません。ピラトが起こした災難やシロアムの塔の事故の話の中に、人間的な思いが見出されています。そういうことが起こったのは、あなたが罪深いと、要はその人に原因があると考えるのです。そういう事故が起こったのは、人間の欲が勝っていたからで、その人間の我欲を罰するために、事故は起こったのだという人もいます。けれど、この群衆に言われた「あなたがたも」という主イエスの言葉は、災難や事故に遭ったあの人たちを罪深いという眼差しで見つめるなら、あなたたちも同じ罪深いものであるということです。彼らもあなたたちも全く同じであるいうことです。災難や事故、または逆に成功や安全ということが罪深さや正しさの証拠ではないということです。彼らも含め、あなたがたも、悔い改めさないと言われるのです。災難や事故が悔い改めのきっかけ、動機になるということではなく、常に、そして今すぐに悔い改める、神様の方に向きを変えなさいと、主イエスは言われるのです。

災難や事故などの不幸の有無に関わらず、全ての人に悔い改めさないと呼びかける主イエスは、その言葉の意味を明らかにするために6節からたとえ話をされます。ぶどう園にいちじくの木を植えるというのは違和感を覚えるかもしれませんが、ぶどうを上手に栽培するために、ぶどう園に敢えていちじくの木を植えるという方法があったとも言われています。それで、このいちじくの木はなぜか3年待っても実を結びませんでした。土地の主人は、土地をふさがせておくわけには行かないから、切り倒せと園丁に命じます。成果、効率を重視するなら、当然の判断とも言えるでしょう。他のぶどうの実に影響がないようにするための処置とも思えます。しかし、園丁は言います。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」この園丁は、いちじくの木を必死に守ります。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」いちじくの木を最期まで見捨てず、実がなるようにと心を込めて、また一からお世話していくのです。実がなるかならないか、その原因はわかりません。ただ、自分がいちじくの木の立場に立たされて考える時、実がなる、ならないというのをどう考えるでしょうか。先ほどの災難や事故の話で言えば、罪深いから実がならなかったということになります。だから、切り倒されて滅んでしまうと受け止めてしまうかもしれません。

主イエスが語る園丁はそういう眼差しでこのいちじくの木を見つめているのではないのです。このいちじくの木に責任を押し付けて、見捨てているのではないのです。実がなるかならないかで、その木の存在を肯定するか否定しているかということではないのです。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。とそのいちじくの木をお世話する。いちじくの木を殺すのではなく、命の実を結んでほしいと必死にお世話し、守り続けるのです。いちじくの木と重ねる自分に、園丁である主イエスは、木の周りを掘って、肥やしをやってくださるように、私たちに絶えず、恵みを与えてくださり、命の実を結んで、共に歩んでほしいと願ってくださるのです。あなたに期待しているから、失望しているから、ということではなく、あなたが神様の恵みと愛の中で生きてほしいというただその思いの中で、主イエスは私たちを支え、守り、導いてくださるのです。実を結ぶというのは、その信頼の中で生きていくことです。何か評価されることや、成果を発揮したから、実を結んでいるということではなく、私たちの人生を大切に思って、養い続けてくださる方が待っていてくださり、招いていてくださるということに安心し、悔い改めてそこに帰っていくところに、私たちの命の実りをもたらしてくださる神様の愛があるのです。

木の周りを掘って、肥やしをやってくださる、それは私たちの日々の歩みの中で、絶望し、倒れてもう立ち上がることができない私たちの心の闇の中で輝く、神様の命の光です。罪深いというレッテルを貼られ、劣等感故に実を結べないという絶望感、不安感の中で、終わりを告げるのではないのです。その中で、私たちに希望と命を与えてくださるために、主イエスが共にいてくださることに信頼したいと願います。悔い改めて、待っていてくださる主イエスと共に。命の道を歩んでいきたいと願います。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」皆同じところに立っています。ひとりひとりがいちじくの木でもあります。実を結ばないという厳しい現実に打ちのめされているかもしれない。主イエスはその私たちの原因を探り、罪を指摘して、切り倒そうとはなさりません。私たちに帰るところを指し示してくださっています。いちじくの木を今日も世話してくださる主イエス、その姿に顕される神の愛の懐に私たちは立ち返って行けば良いのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月17日 四旬節第2主日の説教「見えるようになれ」

「見えるようになれ」ルカによる福音書18章31~43節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

人間の行動の8割は視覚に制御されていると言われています。そのことから、いかに私たちはこの視覚を頼りにして生きているのかということがわかります。ただ、パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節でこう言います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぎなさいとパウロは教えます。私たちは時には目に見えるものに束縛されて、本当に大切なこと、真実が見えていない自分の盲目さに気づかされることがあります。またパウロはフィリピの信徒への手紙1章9節から10節でこう言います。「知る力と見抜く力を身に着けてあなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」見えないものに目を注ぐのは、重要なことを見分けて、愛がますます豊かになるためです。愛の豊かさは見た目にはわからない「愛」を知る経験から育まれるものではないでしょうか。その愛を知るということが、愛を見つめるということ、見えないものに目を注いでいくことです。

エルサレムへの途上にあるエリコの町で、道端に座って物乞いをしていた盲人がいました。盲人と記されているだけで、この人が全盲なのか、または生まれつき目が見えないのかはわかりませんが、物乞いをしていた彼の姿から、働くこともできず、一人で生活することもできず、人々からの助けがないと生きてはいけない状況にあったのでしょう。彼にとって、この道端とは自分の生活圏とも言える領域です。その自分の生活圏の中に、エルサレムへ上っていく主イエスがお通りになるという情報を彼は聞きます。そこで彼は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。彼には主イエスの姿が見えなかったでしょう。今どこを通っているのかもわからなかったはずです。しかし、主イエスが自分の近くに来ていることは確かであるから、彼は力いっぱいに、先に行く人々が叱りつけようとするぐらいに、叫び続けました。この叫び声は単にボリュームの大きさだけではなく、彼の苦しみがその叫び声に現されているのでしょう。声の大きさだけでなく、苦しみの大きさが現れているのです。彼は神様の憐れみに全てをかけました。

主イエスは立ち止まり、盲人が言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。すると主イエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」ということが起こりました。主イエスに視力の回復を願い出て、視力を回復してもらったということではなく、主イエスはあなたの信仰がと言われ、盲人の信仰が盲人を救ったと言われているのです。この盲人の信仰とは一体何なのでしょうか。盲人は一体何が見えるようになったのでしょうか。

「わたしを憐れんでください。」この一言を盲人は叫び続けただけでした。いや、そう叫ぶことしかできなかったのです。「ナザレのイエスのお通りだ」と聞いて、人々の反応は様々だったでしょう。主イエスに期待をもっていた人で賑やかになっていたと思います。盲人は目が見えない故に、生きていくことの大変さを噛み締めています。物乞いをして、やっと自分の生活を支え、それを頼りにしていました。自分自身に頼れるものは何もないのです。「わたしを憐れんでください。」この叫び声は、自分の中には何もない、何も頼れるものがないという者の声です。ですから、主イエスはその彼の叫び声に応えられた、憐れみを求める彼に憐れみをもってして応えたということです。

ユダヤ人にとって忘れられない、神様の大いなる救いの出来後であるあの「出エジプト」は、まさにエジプトで奴隷状態にあって、苦しみ抜いていたユダヤ人の叫び声から始まったのです。そのことを出エジプト記にはこう記されています。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。/神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。/神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。(出エジプト記22325助けを求める叫び声に、神様は応えられ、モーセを遣わして、彼らをエジプトから、奴隷状態から救い出されたのが出エジプトの出来事です。彼らはただ助けを叫び求めた、いやもう叫ぶことしか出来なかったのです。あのユダヤ人たちも、この盲人も、自分に持てるものは何もない、その無力さの中で苦しみを背負っていました。彼らの叫び声はその全貌を明らかにしているのです。

主イエスは盲人の叫び声に応えられました。そして、その叫び声をあなたの信仰と受け止められたのです。彼自身は本当に必死に叫んだだけでした。その叫び声は自分の力ではどうにもならない者の叫びであり、自分に土台を据えることはできない声でした。それがあなたを救う信仰であると主イエスは言われたのです。それは神様が憐れみに必ず応えてくださる方であり、その叫び声を無視する方ではないということです。盲人の信仰が盲人を救ったというのは、神様の憐れみが先行して盲人に応えてくださっているからです。この憐れみにおいて、主イエスはこの盲人を愛し、受け止めておられるということが明らかにされているのです。

盲人は見えるようになり、そして主イエスを賛美して、主イエスに従ったと言います。目が見えるようになって喜んだだけではないのです。主イエスを賛美して、主イエスに従った、盲人はそういう生き方へと変えられていったというのです。盲人は主イエスに従って信じる自分の人生を見つめているのです。このことはまた、何を見て、何が見えるようになって、主を賛美し、主に従っているのかということを私たちに問いかけているのではないでしょうか。

この出来事の直前で、主イエスは3度目の受難と十字架、復活の予告を弟子たちに告げられました。3度目にも関わらず、弟子たちはそのことが全く理解できなかったと言います。その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあったということですが、それは弟子たちですら、主イエスが成し遂げられようとしている救いの御業を人間的な期待の中で理解しようとしていた節があったからでしょう。少なくとも、主イエスがエルサレムで死ぬということを弟子たちは到底受け止められなかったはずです。なぜ神の子である救い主が理不尽な死を迎えるのか、そのことが私たちの救いとどう関わるのかということです。この時弟子たちは主イエスの御業が隠されていて、それを見ることができませんでした。十字架の理不尽な死という現実だけが彼らに見えていたのでしょう。この後、弟子たちは主イエスのもとを離れて、逃げ出してしまいます。弟子たちもまた主イエスの救いのみ業に対して盲目であったということです。しかし、敢えて、「その言葉の意味が隠されていたという神様の働きがあった」ということは、その弟子たちの弱さ、小ささ、いや無力さが明らかにされる必要があったということです。主イエスを信じて従っていくということは、自分の力や知恵で歩んでいくことではなく、自分が空っぽにされ、あの盲人と同じように、叫ぶことしかできないほどに、自分の中には何も頼れるものはないということが明らかにされる必要があったのです。神様はその叫び声を通して示される無力さの中に、憐れみを示してくださる、憐れみを持って応えてくださる方なのです。それはやがて、十字架と復活を通して成し遂げられる神様の人間への憐れみとなるのです。

この盲人が真に見えたものとは、神様の憐れみでした。十字架と復活における神様の働きはまだ彼にも隠されています。しかし、「見えないものに目を注ぐ」というように、実際に見たからということではなく、主イエスと自分との関わりにおいて、自分の叫び声に応えてくださった主イエスの中に、それを見出したのです。主イエスが彼に見せたものはその憐れみでした。自分のことを絶対に見捨てない愛であり、盲人をそのままに受け止めてくださった慈しみでした。その神様の憐れみと愛が見えるようになったから、主イエスを賛美し、主に従っていったのです。盲人の信仰による救いがその彼の行動に現れています。彼自身の自分の力における神様に対する正しい自分の生き方、姿勢ではなく、無力なままに神様によって肯定され、愛されていることに信頼していけるという喜び示されているのではないでしょうか。

「見えるようになれ」。主は私たちひとりひとりにこう言ってくださいます。私たちも現実の中で叫びます。苦しみを大にして叫びます。声にはならない叫び声もあります。その声に必ず応えてくださる神の憐れみがあなたを見捨てず、あなたを救い出す、その神様の憐れみと愛が見えるようにと、主は御言葉を通して私たちに語られます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」見えないものに目を注ぐことによって、見えてくる神の憐れみと愛があるからです。その憐れみと愛によって生かされて本当の自分の姿が見えてくるからです。だから、私たちは自分を偽る必要はないのです。神様の前に叫び続けていいのです。いや、主に従うものとは、主に叫ぶものでもあるのです。自分を拠り所とせず、神を拠り所とするものの歩みだからです。見えるものだけに縛られている私たちの目を回復され、神様の憐れみによって生かされる歩みがこれからも守られるように願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。