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使徒パウロの日

 パウロは小アジア南部キリキア州タルソス出身のローマ市民権を持つユダヤ人として誕生し、主に小アジアを中心に、ユダヤ人以外の異邦人に向けた世界伝道に生涯を尽くしました。その彼の生涯から、異邦人の使徒とも呼ばれています。

 パウロは最初、サウロと名乗っていました。パウロはギリシア・ローマ名で、サウロはユダヤ名です。サウルとも言います。パウロはユダヤ人であることを誇りに思い、律法学者ガマリエルのもとで、神の掟である律法について厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていました(使徒22:3)。イエスの死後は、キリスト教徒最初の殉教者であるステファノの殺害に賛同し、エルサレムの教会を迫害しました(使徒8:1)。更に、ダマスコにいたキリスト教徒をも迫害するため、ダマスコの街道を歩いていた時に、突然天からの光が彼の周りを包み込み、彼は地に倒れ込みました。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)という復活のキリストの言葉を聞き、視力を失って、自力で歩くことができませんでした。彼は従者に伴われてダマスコに着きますが、3日間、食べることも飲むこともできませんでした。この出来事はパウロ(サウロ)の回心と言われています。

 ダマスコで、パウロはアナニアという使徒に出会い、神の託宣を受けたアナニアはパウロの目が見えるように祈ります。すると、「目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり目が見えるようになりました。」(使徒9:18)という体験をします。目からうろこが落ちるという表現はこのパウロの体験からきています。一連のパウロの回心の出来事は目からうろこが落ちるような驚きそのものでした。パウロはアナニアから洗礼を受け、キリストの使徒として、新しい生涯を送っていきます。

 パウロはダマスコで伝道を開始し、その後、使徒たちに会うためエルサレム教会を訪ねます。この時、使徒たちとの仲を取り持ってくれたのが、バルナバでした。後に2人は仲違いしてしまいますが、パウロはバルナバを信頼して、共に伝道の旅に出かけます(パウロの第1回伝道旅行)。

 紀元48年、エルサレムで使徒たちによる教会会議にパウロも参加し、その後彼は使徒たちと別れて、再び伝道旅行に赴きます(パウロの第2回、3回の伝道旅行)。彼は地中海沿岸の小アジアを巡り、他の民族宗教との問題や教会の問題など、様々な困難と向き合いながらも、異邦人への伝道に尽力していきました。しかし、56年頃、エルサレムに帰還したパウロはユダヤ人に訴えられ、カイサリアに軟禁されます。2年後、パウロはローマに移送され、ローマ人の監視のもと(番兵が1人つけられ)、家を借りてそこに住み、ローマでの伝道活動に勤しみました。

 この頃から、皇帝ネロによるキリスト教徒への迫害が激しくなり、その矛先はパウロにも向けられました。そして67年、パウロはローマ郊外で斬首刑に処せられて殉教したと言われています。

 パウロは使徒ペトロと並んで、キリスト教会に大きな影響を及ぼしたキリスト教徒、または伝道者、神学者として教会の中で語り継がれてきました。この使徒パウロを記念する祝祭日は6月29日で、ペトロと同じです。この日は特に、カトリック教会では2人の使徒を記念する重要な祝祭日としてミサが執行されています。祝祭日とは別に、パウロの回心を記念する日として、1月25日がパウロの回心を記念する祝日となっています。

全聖徒の日

 先に亡くなられた召天者を記念する日で、毎年11月1日に守られています。(召天者記念礼拝)古くから「諸聖人の日」(All Saints’ Day)として、多くの教派で守られてきた祝祭で、その起源は9世紀頃だと言われています。

 聖徒(聖人)とは、16世紀の宗教改革以前の教会(ローマ・カトリック)におきましては、敬虔な信仰に生き、善行を積んで社会に大きく貢献した徳の高い人を指しますが、宗教改革者たちはその概念を取り除き、キリスト者は全て聖徒(聖人)であると主張したので、先に召された全キリスト者を記念する日として、この日には多くの方が故人の写真を持って(または会堂に飾られ)礼拝に集い、礼拝の中で故人を偲び、祈りが捧げられます。

 先に召された方には、使徒パウロがテサロニケの信徒への手紙Ⅰ4章13~14節で「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」と言っているように、神様の御許で眠りにつき、やがて「イエスと一緒に導き出してくださいます」とありますように、復活の初穂となった主イエスに続いて、死者が眠りから覚め、復活に与ることが約束されているのです。

 近年では、特に日本ではキリスト者でなくても、愛する人を偲んで、キリスト者と一緒にこの日に記念礼拝を守ります。洗礼を受けずして召された方はどうなるのかという問いがありますが、その答えは私たち人間の側ではなく、天の神にのみ委ねられた答えでありますから、死後において、キリスト者であったからどうなったか、キリスト者でなかったからどうなったかということを認識するのではなく、この召天者を覚えての全聖徒の日を守るということは、キリスト者であろうとなかろうと、共に愛する故人を覚えるということにおいて、故人がただ神の御慈しみと愛のご支配の下におられるということに委ね、信頼して、祈りの時を持つということを意味するのです。

 また、この全聖徒の日には、多くの教会で聖餐式が執り行われますが、この聖餐の恵みに与るのは、今を生きる者だけではなく、先に召された方も、共に与るのです。それは死を滅ぼして復活を遂げた神の御子イエスキリストにおいて、今この世に生きている者も、天の御許におられる召天者も結ばれているからです。この日は特にそのことを覚えて、共に神の恵みを頂くのです。

 ですから、この日は召天者を供養するのではなく、全ての召天者が復活の主イエスキリストにおいて結ばれ、天の御許にあるという平安に感謝するひと時なのです。

 「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15:55~58)

宗教改革記念日

 宗教改革記念日は、1517年10月31日に、ドイツの修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルクの城教会に『贖宥の効力をめぐる討論』と題された『95箇条の提題』を掲示したことを契機に始まった宗教改革を記念する日です。この記念日は、宗教改革が起こった世紀から守られ、当初はルターの誕生日である11月10日、あるいはルターの死去した2月18日に守られていましたが、17世紀になって、『95箇条の提題』が掲示された10月31日が宗教改革の記念日と定められ、現在に至っています。いくつかの国及び、ドイツの一部の州では、この日は祝日とされています。また、多くのプロテスタント教会では毎年10月31日に近い日曜日を宗教改革主日として、礼拝を守っています。

 宗教改革は当時のローマ・カトリック教会からプロテスタント教会が独立した運動、記念行事と見られがちですが、この改革の根本的な意図は教会組織の改革ではなく、信仰の改革でした。すなわちそれは、聖書の御言葉に立ち返る運動であり、聖書のみが証しする神の恵みによって、人は救われ、その恵み深い神への信仰(信頼)によってのみ人は義人とされるということでありました。(信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ)

 ただ、宗教改革、すなわち教会(当時のローマ・カトリック)は改革される必要があるという風潮は、ルター以前の時代から既にありました。その只中で公に提示された『95箇条の提題』は、『贖宥の効力をめぐる討論』という題が付けられていますように、当時教会が推奨していた「贖宥状(免罪符)」の効力を否定する内容のものでありました。教会が発行し、推奨していた贖宥状を購入することによって、魂は救われるという宣伝文句のもと、民衆はこの贖宥状を買わされ、大きな負担を教会から強いられていました。ルターはそのような人間が作った贖宥状に魂の救済を得られるという根拠は全くないと解き、その救済はただ恵みの神にのみあり、その愛する独り子であるイエスキリストを信じることにおいて与えられるということでした。さらにルターは、この贖宥状は、人々の魂の救済ではなく、人々への搾取であると非難しました。このルターの声に民衆は賛同し、民衆に広く受け入れられ、改革運動の発端となっていったのです。

 そして、ルターを始め、多くの改革者が改革運動を推し進め、プロテスタント教会は誕生しました。この改革運動に対して、ローマ・カトリック教会もただ指をくわえて静観していたわけではなく、対宗教改革運動を引き起こして、教会の指針を明確なものにしていきました。

 以来、宗教改革記念日は毎年の記念礼拝に加えて、記念日から100年ごとに大きな祝祭が催されてきましたが、その内容は両教会への非難を伴うものでありました。しかし、20世紀に入って公に展開されていったエキュメニズム運動(教会一致運動)は、教派間の教理を分かち合い、互いに主においてひとつの教会であるという相互の交わりを持つ大きな転機を迎え、今日においても対話が成されています。それまで、両教会の非難の機会となっていた宗教改革記念日の祝祭にも大きな変化が起こり、近年にはカトリック教会とルーテル教会がこの宗教改革記念日に、合同の礼拝が執り行われました。

 数百年に及んで、宗教改革記念日はこのように守られてきましたが、この日は、その改革運動を記念として記録に留めるだけではなく、現代に生きる者の信仰もまた改革され続けていくことを新たに思い、神に向き合うひと時なのです。

三位一体主日

 聖霊降臨祭(ペンテコステ)の次の主日(日曜日)に来るのが三位一体主日です。聖霊降臨祭から待降節(アドベント)までの長い期間を聖霊降臨節(聖霊降臨後の季節)と呼びますが、三位一体主日そのものが独立して守られているわけではなく、聖霊降臨節の中にある主日として守られているので、聖霊降臨節の第1主日(聖霊降臨後第1主日)が三位一体主日となります。

 三位一体主日の起源は10世紀頃の西方教会だと言われ、14世紀に入って祝日と定められましたが、「三位一体主日」という名称はあまり浸透せず、「聖霊降臨後の主日」としてこの主日が守られてきました。

 「三位一体」という言葉は聖書には記述がなく、また歴史的な出来事にも基づきません。この言葉は4世紀のニカイア公会議(325年)で確定したキリスト教の教理(三位一体論)で、後のキリスト教会において、三位一体の神を信じるというキリスト教信仰の中心的教義となりました。今日、多くの教派に分かれているキリスト教会は、この三位一体の神を信じるという共通の信仰理解を持っています。すなわち、三位一体の神を信じる教派であれば、他の教理との違いがあっても、それはキリスト教会であるということです。

 三位一体とは、神が「父なる神、子なるキリスト、聖霊」という三つの位格(面)を有する唯一の神として存在する教理で、三人の別々の神がいるわけではなく、唯一の神の中に三つの位格が相互に浸透し、三つにして一つの神であるということです。三つの位格から人間に対する三つの交わり、関わりを持つ唯一の神が三位一体の神です。
 三つの位格における神の働き(人間への関わり)について、父なる神は天地創造の創造主なる神、子なるキリストは、父なる神から生まれたまことの神であるのと同時に、おとめマリアから生まれたまことの人であるイエスキリストで、十字架のあがないにおいて、人間の罪を赦してくださる救いの神、聖霊は人間の内面に働きかける神の力であり、人間をきよめ、救いの完成へと導く神、というそれぞれの位格における神の働きがあるのです。

 また、聖書に「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19)という言葉があるように、洗礼の恵みはこの三位一体の神の名によって与えられるということが言われていますし、同時に、三位一体の神の名を覚える時、それは既に洗礼を受けている人にとっては、洗礼の恵みを思い起こすことでもあるのです。洗礼は生涯で一度限りのことではありますが、日々の歩みの中でこの恵みに立ち返ることが、悔い改めであります。

 三位一体の神との関わり、人間への働きかけは生涯に及ぶものなのです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(Ⅱコリント13:13)