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殉教者ステファノの日

 ステファノは、エルサレム教会が使徒たちの伝道活動(祈りと御言葉の奉仕)を補佐するために立てた7人の奉仕者の一人で、彼らはギリシア語を話すユダヤ人でした。彼らの務めは、エルサレム教会内のギリシア語を話すユダヤ人、特にやもめなどの社会的地位の低い人々の食事、生活の世話をすることでした。彼ら7人は人々から評判を得ていた(霊と知恵に満ちた)良い人たちで、特にステファノは信仰と聖霊に満ちていた人でした(使徒6:1~6)。彼らの活躍もあって、エルサレム教会は「神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」(使徒6:7)と記されているように、大きな発展を遂げていきました。

 その最中、彼は食事の世話に限らず、「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた。」(使徒6:8)とあるように、名が知れ渡るほどに大きな働きをしていきます。しかし、彼と議論をしたユダヤ人たちはステファノの言葉が神の名を汚し、さらに神殿と律法を汚す冒涜者として彼を告発し、ステファノはユダヤ人の議会(最高法院)に連れて行かれます(使徒6:11~15)。

 彼は議会に集まった多くの人々の前で弁明(説教)をします。先祖アブラハムから始まるイスラエルの歴史における神の働きと、神と先祖たちの関わり、そして神の言葉を語る預言者たちを迫害し、殺害したことを批判しつつ、キリストへの信仰を告白し、キリストを拒むことが律法を拒むことであると締めくくります(使徒7:1~53)。

 彼の説教を聞いたユダヤ人たちは大いに怒り、耳を塞いで彼を都の外に連れ出して石を投げつけます。その間、彼は神に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:59~60)と大声で叫び、殉教しました。

 ステファノはキリスト教の最初の殉教者として、また敵をも愛する愛の模範者として、多くの人々から崇敬され、彼を記念する多くの修道院や教会が建てられていきました。彼の聖遺物が5世紀にエルサレムで発見されと言われており、その頃から彼を記念する祝祭日が定められて、記念礼拝が執り行われるようになったと言われています。

使徒トマスの日

 使徒トマスはディディモ(双子)と呼ばれる12使徒の一人です。イエスの復活を疑ったことから、「疑い深いトマス」(「doubting Thomas」)という呼び名までありますが、ヨハネによる福音書には、一途にイエスを愛し、イエスに従っていこうとする彼の姿が描かれています。

 ラザロの死と復活の物語(ヨハネ11:1~44)の中で、ラザロの死について語ったイエスは、彼が住んでいる村ベタニアに向けて出発しようとしますが、それを聞いたトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と言います。最後まで主イエスと共にいるということを決断した彼の一筋な性格が伺えます。また、イエスの受難と十字架の直前に、イエスは弟子たちに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(14:4)と語ります。するとトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができましょうか。」(5節)と訪ねます。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と言われました。ここでも彼はイエスと共にいたい、イエスの行かれるところならば、どこへでも行くという一途な姿が描かれています。

 しかし、彼はイエスの復活をすぐには信じませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)と言い張ります。彼が弟子たちと共にいたある日、彼らは戸に鍵をかけていましたが、イエスは彼らの前に現れて、彼らを祝福します。その時、イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)と言い、十字架の傷跡を彼に見せて、トマスを招きます。そしてトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)と答えて、イエスの復活を告白しました。

 後にトマスはインドとペルシアで宣教し、インドでは自分たちのことを「聖トマスのキリスト教徒」と呼ぶ人たちがいます。彼はそのインドで殉教したと言われています。祝祭日は12月21日ですが、4世紀の7月3日にシリアのエデッサに遺骨が移されたことから、ローマ・カトリック教会ではこの日をトマスの祝祭日として記念しています。

洗礼者ヨハネの日

 ヨハネはイエスの母マリアの親戚にあたるエリサベトと祭司ザカリアとの間に生まれたイスラエルの預言者です。後にイエスが彼のことを「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。」(ルカ7:28)と言っているほど、ヨハネはイエスの生涯とそのみ業に大きな影響を与えた預言者でした。

 ザカリアとエリサベトは老齢でしたが、ある時、ザカリアが祭司の務めで聖所に入っていた時、天使が現れ、妻エリサベトが聖霊の働きによって身ごもり、その男の子をヨハネと名づけなさいと言います。また天使は、そのヨハネは主のみ前に偉大な人となり、イスラエルの人々を神のもとに立ち帰らせるという大きな働きをするとザカリアに告げます。やがて、エリサべトは身ごもり、イエスより六ヶ月早くヨハネは誕生します。その時ザカリアは聖霊に満たされてヨハネの働きを預言し、彼を祝福します。

 成人したヨハネはユダヤの荒野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と神の言葉を語り、人々に悔い改めて罪を告白するように教えます。そして罪を告白したものにヨハネはヨルダン川で洗礼を授けます。人々はヨハネこそが待望していたメシア(救い主)ではないかと噂しますが、ヨハネはそのことを否定し、自分より後から来る方は自分より優れており、履物をお脱がせする値打ちもないと言います。しかし、後からやってきたイエスはヨハネから洗礼を受けるためにやってきたことをヨハネに告げ、ヨハネはイエスに洗礼を授けました。

 その後、ヨハネはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに投獄されます。ヘロデが自分の義兄弟の妻であるヘロディアを妻として迎え入れたという結婚の不道徳(律法の教えに背く行為)をヨハネが非難したからでした。その間、ヨハネはイエスの宣教を噂で聞き、イエスに質問するために使者を送っています。ヘロデは自分のことを非難するヨハネを殺そうと考えていましたが、民衆を恐れて実行に移せないでいました。ところが、自分の誕生日の時、祝いの席でヘロディアの娘サロメが父親である王の前で踊りを披露し、ヘロデを喜ばせます。そして、サロメに褒美を与えるために、何でも願い出るように言います。すると、ヘロディアは娘を唆して、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せてこの場でください」(マタイ14:8)とサロメに言わせ、牢獄に居たヨハネは首をはねられて処刑されました。祝いの後、遺体はヨハネの弟子たちが引き取り、彼らはこのことをイエスに報告しました。

 ヨハネは多くの人々に悔い改めの洗礼を授けたことから、洗礼者ヨハネと呼ばれています。彼はイエスの先駆者として認識され、ヨハネが投獄されたと聞いた時、イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われ、その出来事がイエスの宣教開始のきっかけとなり、また徴となったのです。

 ヨハネの祝祭日は6月24日で、これは彼の誕生を記念する日です。他に、ヨハネの受難と死を記念する「洗礼者ヨハネの斬首」の祝祭日が8月29日に定められています。4世紀以降、教会は洗礼者ヨハネとイエスの誕生を六ヶ月の間隔を置いて定めました、イエスの誕生は昼の時間が一年で最も短い冬至の日、またはそれに近い日である12月25日に定められました。それはイエスがこの世の暗闇を照らす真の光として来られ、その光の輝きを記念するためでした。イエスの誕生の六ヶ月前に誕生したヨハネは、六ヶ月前の6月24日に誕生したとされ、(25日でないのは、6月と12月の長さの相違からと言われています。)この日がイエスの先駆者としての洗礼者ヨハネ誕生の祝祭日と定められたのです。

福音記者ルカの日

 福音記者ルカは新約聖書ルカによる福音書と使徒言行録の著者とされています(ルカ1:1~4、使徒1:1~2)。どちらの文書も文体の整った質の高いギリシア語で書かれ、ギリシア・ローマ世界の歴史記述を明記し、その只中で神の救いの計画(約束)がイエスキリスト、聖霊の働きを通して起こされていることを力強く詳細に記しています。そのため、著者のルカは比較的社会的地位があり、ギリシア文学に教養のある異邦人であったと言われています。

 伝承によると、彼はシリアのアンティオキアで生まれ、ギリシアで活動し、そこでルカによる福音書と使徒言行録を編纂し、84歳で亡くなったと言われています。また、福音書には一度も彼の名前が出てきませんが、パウロ書簡には3度だけ言及されています(コロサイ4:14、Ⅱテモテ4:11、フィレモン24)。彼は使徒パウロの同労者として、パウロの近くにて彼を助け、伝道に従事し、パウロが特に信頼を置いているほどに、親しい関係にあったと言われています。また、コロサイの信徒への手紙4章14節に「愛する医者ルカ」と言及されていることから、彼は医者であったと言われています。しかし、このルカが福音記者ルカと同一人物であるかどうかということは諸説有り、信憑性に乏しいと言われています。

 祝祭日は10月18日です。ルカは9世紀頃から外科医、内科医の守護聖人として崇敬されています。また、彼は聖母マリアの肖像を描いたとも伝えられ、8世紀ごろからは画家とも見なされています。15世紀の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは聖母マリアの肖像を描くルカを題材にした作品『聖母を描く聖ルカ』を描いています。