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2019年4月14日 受難主日の説教「立ち直るために」

「立ち直るために」ルカによる福音書22章31~34節 藤木智広 牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。あ

受難主日を迎え、本日から聖週間を過ごしてまいります。長い受難主日の福音書の日課から、今日はルカによる福音書22章31~34節のみ言葉を中心に受難物語を聞いてまいります。

今日の福音書の32節で主イエスは「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われます。わたしはあなたのために祈った。この主イエスの祈り、この恵みが私たちの信仰、私たちの歩みの土台になっていることを改めて覚え、受け止めてまいりたいと思うのです。祈ったといいますから、既に祈られているのです。既に主イエスの祈りのうちに私たちは主に生かされ、支えられているのです。しかも、信仰が無くならないように、と言われています。信仰とは信頼とも言えます。それは信じる対象がいるわけですから、一方的なものではなく、互いの関係性によるものです。自分と他者がいるように、神様と自分との関係を指します。だから、信仰が無くならないようにと言われる主イエスのほうから、その相手との関係を大切になさってくださっている。無くならないようにというのは、相手との関係、関りを断ち切るということを決して望んではおられないということであります。ですから、主イエスの祈りの内にあるということは、主イエスが絶えず私たちと共におられ、関わられ、共に生きていてくださるということを私たちに告げておられるのです。

この主イエスの言葉は、最後の晩餐の席上で言われました。晩餐ですから、食卓の恵みです。この食卓の恵みを弟子たちは繰り返し主イエスと共に与ってきました。そして今その最後の時を迎えているということです。この恵みを共にしながら、主イエスはこれから起こることを言われます。少し前の22章21節、22節にこう記されています。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。主イエスは既に裏切るものがいると言われ、弟子たちはその言葉に動揺します。次の24節では「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。とあります。主イエスを裏切ることなく、最後まで主イエスと共にいて、主イエスの弟子にふさわしい人物は誰か。弟子たちはそのような議論をしていたのかもしれません。しかし、主イエスはその弟子たちを咎めてはいません。むしろ、28節で主イエスは「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。22:29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。とまで弟子たちに言われたのです。主イエスはそのように弟子たちに約束をされました。あなたがたもまた給仕するものたちとして、神の国をのべつたえていくものとなる。その大きな役割を弟子たちに約束され、その使命を与えているのです。

ところが、その後に、弟子たちのリーダー格であるシモンに主イエスは言われるのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」あなたがた弟子たちがと言われるので、サタンにふるいにかけられるのは弟子全員ですが、ここでは明らかにシモンを中心に主イエスはそのように言われています。シモンはペトロのことです。ペトロとは主イエスから与えられた名です。マタイによる福音書で主イエスはペトロに言います。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)と言われました。その言葉の通り、教会の礎をペトロは築いていく中心人物となります。そのペトロたち弟子が今サタンからふるいをかけられると言い、しかもそれは神に願い出たものでした。ふるいをかけるとは、多くの中から良いもの、基準にかなったものを選び出すという意味があります。サタンは誘惑するものであり、ペトロたちの信仰をふるいにかけ、揺さぶってくると主イエスは言われるのです。選び出すという意味合いから、そのことによって真の信仰が明らかになるとも言えますが、続く主イエスの信仰が無くならないようにという言葉から、そのサタンのふるいの前に、弟子たちの本当の姿が明らかにされ、選び出すどころか、何も残らなくなるという意味合いのほうが近いようです。今まで見えなかったものが、ふるいにかけられることによって、見えてくる。砂をふるいにかけて揺さぶると、小さな砂利がそこに残って、それが見えてくるように、見えなかったもの明らかになってくるのです。

けれど、信仰が無くならないようにという主イエスの言葉から、そこで真の信仰が残るどころか、何もなくなってしまうかもしれないというということが言われています。今までよく一緒に耐えて従ってきたけれど、サタンのふるいの前に、あなたがたの信仰が揺さぶられてしまう。それは、あなたがた自身の力で耐えることはできず、ふるいにかけられ、あなたがたの本当の弱さ、無力さが明らかになってくると主イエスは言われるのです。ふるいにかけられ、見えてくる砂利は、彼らの信仰の粗さであり、もろくも崩れやすいものです。

ペトロは非常に驚いたかと思います。そして自分はそのふるいにかけられても、最後まで主イエスへの信仰を貫きとおす決心と強さがあり、他の人とは違うという気持ちがあったでしょう。主イエスに「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とまで言いました。主イエスと共に名誉の死を遂げる覚悟であったかと思います。自分は踏み絵をふまない。主イエスとならどこまでもついていく。ついていける。そんな思いであったでしょう。

主イエスはペトロに言います。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」この後すぐ主イエスは捕まり、裁判にかけられていきます。ユダヤの宗教指導者や群衆たちのほとんどが、主イエスをひとりの罪人として裁きのまなざしを向け、誰も主イエスのもとにかけよるものはいなくなります。弟子たちの足並みもそろわなくなります。そして、ペトロは主イエスが捕まっている大祭司の邸宅の中庭で、ひとりの女性から、あなたは主イエスの弟子ではなかったかという質問に対し、いや自分は違うと、ペトロは答えてしまうのです。サタンのふるいにおける結果がそのペトロの答えであったとも言えます。ペトロの信仰が、その姿が明らかになりました。

しかし、この時、ペトロは主イエスの姿を見ています。先の22章61節、62節にこうあります。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。主イエスのまなざしを見て、主の言葉を思い出し、そして激しく泣いた。ペトロの涙は自責の念からくるものにも思えます。自分は主イエスを裏切ってしまった。自分に誇れる信仰なんて何もない。ここにきてそれが目に見える形で明らかになってしまった。そんな思いもあったかと思います。けれど、同時に主イエスが自分のほうを振り向いて、まなざしを向けた主イエスの姿を生涯目に焼き付けたはずです。恨みに満ちたまなざしではなく、それが本当のあなたの姿。そのあなたを私は愛しているという赦しのまなざしをペトロはこの後も生涯忘れなかったでしょう。

なぜ、そう思えるか。それは既に、ペトロがまだふるいにかけられる前に、主イエスの約束と恵みの祈りが彼を支えたからです。あなたの信仰が強くなるようにとか、立派な信仰者になるようにとか、そういうことではない。信仰が無くならないようにと言われた。自分の信仰を、自分自身で守り、耐え抜いていくことではなく、主イエスの祈りが自分の信仰の最後の砦、むしろそれが全てであると言わんばかりに、主イエスは共にいてくださる。その真実が明らかにされていくのです。

主イエスは続けてこう言われました。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」立ち直るというのは、」もとの状態に戻るという意味です。ようするに立ち返るということです。帰えるべきところに帰っていくのです。ペトロが帰るところは主イエスの愛と赦しの眼差しによって生かされている本来の自分自身です。主イエスと共にある本当の自分の姿です。立ち直るとは、もう二度とあんな罪を犯さないと反省することではありません。常に罪をおかし、信仰が揺さぶられてしまうそんな自分とどこまでも共に生きて歩んでくださるかたと共に歩んでいく新しい出発への旅路を指します。立ち直るとは、自分はひとりではないということ、主のまなざしの中にある自分を見つめ、自分の人生が主によって再び整えられ、備えられていることを受けとめていくことなのです。

それは主イエスが今も祈り続けてくださっているかに他なりません。信仰が無くならないようにと祈ってくださっているからです。自分たちの思いや気持ち、環境の変化などで、信仰の強さ、弱さがはかれるものではないのです。それよりも、あなたの信仰が無くならないようにと祈り続ける主イエスがひとりひとりと共におられることを私たちは喜びとしたいのです。

マタイの福音書18章13、14節で主イエスは言われます。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」この神様の心こそが私たちの信仰の土台なのです。立ち直れず、滅びてしまうことを主は望まれません。立ち直れるようにと、主が私たちを探し出してくださり、共にいてくださるからです。そして、岩の上に建てられた教会は、その神様の心を表す器です。ペトロの立ち直りは教会に表され、私たちもまた立ち直ることができるのです。

イースターまでの聖週間を、十字架への道のりを覚えつつ、信仰が無くならないように祈り続けてくださる主イエスの祈りの中で、共に歩んでまいりたいと願います。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

2019年4月7日 四旬節第5主日の説教「無駄なものはない」

「無駄なものはない」ルカによる福音書20章9~19節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

四旬節も半ばを過ぎ、来週からはもう受難週、また聖週間と言われる主イエスのこの地上での最後の一週間の歩みを覚える季節に入ります。十字架の死を前にして、今日与えられました福音書は、ルカ福音書における主イエスの最後のたとえ話しです。最後に人々に語られたこのたとえ話は、非常にインパクトのある、衝撃としか言い様がない厳しい物語です。袋叩き、侮辱、傷を負わせる、そして殺してしまう。そういう人間の闇を描いている物語です。戸惑いを覚えるでしょう。

話の舞台はぶどう園での出来事です。イスラエルではぶどうが至るところで栽培されていたので、聖書の中にはたくさんぶどう畑に関する話が出てまいります。豊かなぶどうの実が成るぶどう園は、神様の恵みと祝福の象徴であり、それは神の民であるイスラエルの国を表します。神様によって与えられた土地であり、豊かなぶどうの実りは日々の糧でした。主人からぶどう園を貸してもらった農夫たちは、せっせとぶどう園を耕しました。たとえ話には記されていませんが、収穫をもたらすまでには、多くの苦労を重ねたことでしょう。知恵を使い効率的な作業を作案したり、または飢饉などの被害に合うことがあったかも知れませんが、彼らは一生懸命に働きました。そしてその結果が表れました。収穫が実ったというのです。きっと大いに彼らは喜んだはずです。ところが、収穫の時、収穫を納めるために主人から遣わされた僕を袋叩きにし、何ももたせないで追い返すという悪行を行います。困った主人はまた僕を遣わしますが、最初の僕と同様に、袋叩きにし、さらに侮辱して、また追いかえしてしまいます。また主人は僕を遣わしますが、この僕は傷まで負わせられて、ほうり出されます。それでも主人はあきらめず、最後の手段として、自分の愛する子を遣わすことにします。しかし、農夫たちはさらに悪知恵を働かして、土地の相続を企んで、この息子を殺して捨ててしまったというのです。主人は最後まで現れませんが、主イエスはこの農夫たちが主人に殺され、与えた土地を取り上げて、他の人に取り上げるという結末を話されて話を終えました。

この農夫たちの姿から、彼らの心境として、主人は見えていなかった、いないものとしていたと思えます。僕や息子は来ても、主人は来ない。主人がこなければ恐れることはない。これだけの収穫を得ることができたのは、自分たちの努力や力、工夫によるものだという確信があったでしょうし、もうこの土地で、自分たちだけで生きていけるという思いがあったでしょう。

農夫たちがぶどう畑を一生懸命に耕したように、私たちも自分の人生を一生懸命に耕して生きています。自分を磨いて整え、培ったものを存分に発揮しているでしょう。ただそれは何のために、誰のために発揮する自分の人生なのでしょうか。それは自分の幸せと他者への感謝、社会貢献のためだと言えるのかもしれません。しかし、そこには常に自分の正義が土台としてあるように思えるのです。自分を軸とし、自分の思うがままに力を発揮している自分の姿がある。自分の気に入らないものは切り捨てたり、無視したりする。また感謝への気持ちを忘れてしまうこともあります。自分の力量に対して、与えられて当たり前だと思っている、どこかにそういう自分の姿があるのではないでしょうか。むしろ、その力量を培うことのできるこの人生という土台は自分自身で得ることができたわけではないでしょう。気づかないところで、この土台がすり替えられている、自分の正義という土台にです。それは何とも限定されている自分の視野に基づいた狭いものでしょうか。それだけ私たちは盲目的になってしまう危険があるのです。

このたとえ話自体は、息子が殺された場面で終わっています。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」(1516節)当然のことと言えば、当然のことでしょう。しかし、これを聞いた民衆は主イエスに言います。「そんなことがあってはなりません」(16節)と。これは決してそうではない、断じてそうではないという言い回しです。この民衆の言葉は、同じマタイ、マルコの同じたとえ話には出てきません。ルカ福音書にしかない言葉です。民衆がこの農夫のことを悪く思い、非難したともとれますし、自分たちはこんな人間ではないと否定したとも考えられます。解釈は様々ですが、民主の中でこのたとえ話の意味に確実に気付いた人たちが律法学者や祭司長たちでした。彼らは民衆の指導者たちです。イスラエルの権力の中にいる人たちです。聖書の専門家であり、礼拝を司る彼らは、この農夫の姿を自分たちへの当てつけ、すなわち主イエスがこの農夫の姿はあなたがたそのものだと言われたと自覚したのです。

農夫たちの姿が彼らイスラエルの民であれば、ぶどう園を貸してくれた主人は神様です。その土地は神様のものですが、彼らは神様への感謝どころか、収穫を独り占めにします。神様から遣わされた僕という御使いや預言者の言葉に耳を貸さず、彼らは神様から離れ、神様の目から見て悪いことばかりをすると言う罪を犯し続けます。最後に神様である主人は愛する息子をぶどう園に遣わされました。もうお気づきでしょうが、この息子は主イエスです。たとえ話にはこの息子が殺害されることまで記されていますから、これは主イエスの十字架を予告していると言えます。ですから、私はあなたがたに殺されるとまで主イエスは律法学者や祭司長たちに向かって言っているようなものなのです。

農夫たちは悪意に満ちた人間に見えますが、彼らは恐れを知らない知恵ある者たちです。確かに収穫をもたらしました。苦労だってたくさんしたでしょう。努力しているはずです。彼らは自分たちの才覚を信じて疑わなかった。主人の愛する息子を見て、相続財産を頂こうと企みます。息子にはその価値があった。またその価値しかなかった。自分たちの利益、必要な物だけが欲しい。

息子を遣わした主人の思いは、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」ということです。息子に対する愛もさながら、この主人は尚も農夫たちを愛してやまなかったのです。3人の僕に対する仕打ちを見ても、そうでした。農夫たちとの関係を断ち切ろうとは為さらなかったのです。農夫たちというイスラエルを含めた全世界の救い主と、この世界を愛するために来られた主イエスは、無力な、飼い葉家に寝かされているみすぼらしいみどりごとして、私たちの間にきてくださいました。

そして今、主イエスが殺される、それも捨てられたかのように。誰からも必要とされないかの如く無残にです。そう、主イエスは十字架を語っているのです。十字架に自分をつける者たちの前で。また私たちの前で。農夫たちに捨てられる姿を、御自身に重ね合わせて言われます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」建築現場の隅に放り出されて、無視されている石です。石屑です。特に必要とされない石です。その石に自分が譬えられている。神様の福音がそこで示されている。主イエスの生涯は、見捨てられた者たちとの交わりでした。愛の交わりでした。徴税人や罪人と食卓を囲みました。律法学者や祭司長たちから罪人だと嘲られ、社会に必要ないかのように見られていた彼らは、主イエスと交わり、神様の愛の大きさ、自分という存在を取り戻していったのです。自分はこの方に委ねて生きていいのだと。

律法学者や祭司長たちは主イエスをメシアとはみなしません。自分たちは聖書を教える立場、礼拝を司る立場にあり、ここにいる民衆を導かなくてはならない。模範とならなくてはならない。決して農夫のような存在ではいけないのです。自分こそが正しくあらねばならないと、本当の自分を何ものにも委ねることができないのです。主イエスの存在が、彼らにとってつまずきの石、妨げの岩としてはばかっています。自己中心的な生き方に、この石は立ちはだかるのです。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」主イエスは人々に見捨てられたかのように、十字架につけて殺されます。弟子たちは恐れて逃げて行きました。絶望に打ちひしがれ、彼らも主を見捨てて、暗闇の中に留まっていきました。主イエスの十字架の御前に立つことは出来ず、自分という存在を隠して、神様との関係を拒絶しようとするのです。この弟子たちの姿は私たち教会の姿です。教会の歴史は、彼らの姿に見えるように、暗闇から始まるのです。挫折し、絶望の淵からです。

しかし、主イエスキリストの十字架、人々に捨てられ、殺された、闇という象徴を滾らせるこの十字架こそが隅の親石となるのです。建物を支える命の柱として、息づくのです。私たちの目には見えなくとも、通り過ぎてしまうものであっても、根本的な土台となるものです。なぜか、この隅の親石こそが、罪を打ち砕く神様の不思議な御業だからです。

神様が与えて下さったぶどう園というこの世界で、この命が与えられ、私が私として生かされる。私を知り、私を知る神様を私たちは知るのです。神様の恵みの中で喜びの内に生きるようにと、主イエスはあなたの心の内に語られています。

私たちはこの世界で生きるもの、生かされているものです。私たちは主イエスの十字架につまずいた者たちを知っています。律法学者、祭司長、民衆を含むイスラエルの民全体、弟子たち、そして私たち自身。しかし、この十字架は私たちのための救いのための隅の親石として、私たちの内にあります。私たちの罪はこの隅の親石に打ち砕かれたのです。もはや自分を閉ざす必要はないのです。私たちの生き方はこの方に変えられます。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月31日 四旬節第4主日の説教 「帰るところ」

「帰るところ」 ルカによる福音書15章11~32節 藤木智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

マザーテレサがこういうことを言っています。「わたしたちはとてもすばらしいことのために創られました。それは生きて愛されるということです。」愛されるために人は創られた、生まれてきた。「君は愛されるために生まれてきた」という有名な韓国の賛美歌もあります。誰から愛されるかというと、もちろん私たちを創られた神様です。神様から愛されて生きる、それは神様の愛のご支配の中で私たちは生きているということです。

神様の愛、それは人間が思いつく気分的なものでもなく、条件づけられた縛られたものではありません。パウロはローマ書で「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と、その計り知れない神様の愛を語っています。しかし、私たちは本当のところ、神様の愛をどのようにして知ることができるのでしょうか。それとも私たちはこの愛を見失ってはいないでしょうか。「愛されている」、実はその言葉だけがむなしく先走ってはいないでしょうか。言葉だけが先走って通り過ぎてしまい、自分の中に何も残らないということがあります。最も大切なことを、最も大切な自分の心の奥深くに迎え入れることができないというもどかしさを私たちは経験します。

本日の福音である放蕩息子のたとえ話は、ふたりの兄弟の視点を通して、遠いのに気付かされ、近いのに気付けないという不可思議さともどかしさに包まれた神様の愛について主イエスが語られる愛の物語であります。

愛の物語というからには、スポットライトが当てられているのは、放蕩息子の弟だけではなく、25節から登場する兄にも同様に当てられています。ふたりは似ているのです。人生の道は違っても、やはり兄弟です。父親の財産を分け与えられる兄弟であり、父親から両方とも同じように愛されている兄弟なのです。

弟は父親の財産の分け前を、父親が生きているにも関わらず、父親に頼んで貰い受けます。あたかももう父親が死んだかのように、彼は自分の都合で財産を相続しました。そして旅に出て、放蕩の限りを尽くす、すなわち自分勝手にありのままに人生を歩み出したのです。彼は豊かであったでしょうし、父親から離れることによって、父親のしがらみから抜けて、自由を得たという思いにあったかと思います。もう父親、家のために働かなくていいのです、奉仕しなくていいのです。さらに、父親からの助けも必要ないし、愛も必要ないと感じたでしょう。彼は独立して、気ままに暮らしたかった、それで生き続けられるという自信があったのです。

しかし、彼の境遇は一変します。財産を使い果たし、彼が住んでいた地方で飢饉が起きて食べることにも困り果て、挙句の果てに、ある地主の家の豚の世話をし、豚の餌にありつこうとしてまで、飢えを満たそうとするのです。豚、それはユダヤ人にとって忌むべき家畜です。その豚の世話をする、豚の餌を求めるということは、彼がどれほど落ちぶれたのかということがよくわかります。そんな彼を助けてくれる人は誰もいなかった。彼はこの時ほど孤独を感じたことでしょう。財産で何でもそろうことができた、孤独感をまぎらわすことだってできたでしょうし、そのような安心感の中で生き続けることができるという自信があったでしょう。しかし、今まで彼と共にいた人は皆彼の下を去って行ったのです。結局誰も助けてくれず、愛してくれなかった。この世界の常識が、彼の現実そのものを表している。放蕩の限りを尽くし、自由を得た生活は、一気に崩壊したのです。

私たちの生きるこの現実世界、富みのあるところに人も集まり、富が無くなるのと同時に、人も去っていくという現実の姿があります。それを非情と捉えるか、いやそれはごくあたりまえのことかも知れない。あたりまえだけど、認めなくてはいけない現実の姿ではあるが、そこで気付かされるのです。生きていくとはどういうことかと。放蕩の限りを尽くし、自由気ままに生きられるという生き方、裏を返せば、その生き方しかできないということです。限りあるものへの執着は、限りある生きざまに縛られるということです。「私」という生きざま、その人生を見失うのです。

しかし、彼は全てを失い、見失いつつある己の生きざまに向き合い、我に返って、父親を、父親の愛を慕い求めたのです。私は罪を犯したという告白をする、すなわち悔い改めたのです。悔い改め、そう方向転換です。主なる神様に立ち返るように、彼は父親の下に立ち返るのです。放蕩の限りを尽くし、好き勝手に生きた揚句、全てを失った自分は、もはや父親の息子とも呼ばれる資格はないというけじめをつけるのです。彼の決意はごく普通の筋の通った理屈です。さらに言えば、彼がそのけじめをつけても、父親が彼を許してくれるという保証は全くないのです。雇人として迎えられるどころか、門前払いをくらい、追放されてもおかしくないのです。父親の愛の懐に自分が入れる隙間すらあるのだろうかという心境です。

しかし、彼は父親の愛の懐に全身全霊包み込まれる体験をするのです。父親は彼を見つけ、彼に走り寄って、接吻します。そして、弟の弁解を聞くまでもなく、父親は弟に良い服を着せ、指輪をはめるなど、彼を愛してやまない父親の愛が彼をしっかりと包み込んでいるのです。弟息子の弁解も筋の取ったものでしょうが、そんなことを超える喜びが祝宴という形で催されています。

物語はここで終わりません。兄が登場します。15章の1節から3節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。」と記されています。ファリサイ派と律法学者は、徴税人や罪人と交わる主イエスに対する不満を「不平」という態度で示しているのです。彼らは主イエスその人より、徴税人や罪人を気にしています。自分たちではなく、神様の前で罪深い徴税人や罪人を迎えるとは考えられないし、筋が通っていないという気持ちがあったのでしょう。その気持ちがこの兄の気持ちとシンクロしているかの如く、弟への接し方に不満を抱くのです。それは弟に対する不平でした。父親に訴え出ます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』兄は弟に対する父親の態度が許せないのです。しかるべき筋を通すやり方で、弟を戒めるべきであるのに、父親はむしろ弟を愛しているのだから。父親の弟に対する愛が納得いかないし、理解できない。兄は、むしろ長年仕えてきたこの私こそが、真っ先に愛されて、それ相応の報いを受けるべきではないのか、という思いを父親にぶつけるのです。そう、この兄も、弟と同じように、父親からの財産という報いが欲しかった、その証が欲しかったのです。

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。父親は兄にこう言います。兄に対する特別な配慮でもなく、あなたは私と共にいて、私の愛がわかるはずではないかと語るのです。一緒にいる、全部お前のものだ。その父親の計り知れない愛の懐に、兄も招かれているのです。ここで一緒に生きようと。しかし、兄は、父親の弟に対する愛の深さ、非常識な愛に躓いた。自分の筋、自分の良心にそぐわない神様の愛にこそ、兄は反発を抱く。不平をいう。近くにいるのに、その愛に躓くという罪を犯している兄の姿が垣間見えるのです。そう、それは今このたとえ話を聴いているファリサイ派や律法学者が不平をいうように。主イエスが語られる神様の愛に、彼らも躓いているのです。そして、彼らは、その躓きから、主イエスを十字架につけて殺してしまいます。彼らは彼らなりに、自分たちの良心を通そうとするために、筋を通すために、主イエスを十字架への道と追いやるのです。この兄の思い、非常識だとも思える父親の愛を受け入れることができないという罪の姿を、私たちも担っています。主イエスの十字架は、そんなかたくなな私たちの思いを打ち砕く、赦しの愛そのものです。主イエスは、私たち自身の良心という筋を通そうとする自分の思いを打ち砕いて、私たちを神様の愛の懐に招いて下さる愛を示してくださるために、この世界にご降誕されたのです。

兄は父親に悔い改めたのか、弟と一緒に父親の祝宴に出て共に喜んだのかとうことはわかりません。父親は兄を招き続けたでしょう。お前はいつも私と一緒にいる、私の愛の懐にいて、安心して生きていきなさいと、その恩寵の愛を示し続けたことでしょう。わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

私たちは神様の愛のご支配の中で生かされ、その時と場が与えられています。どんな境遇にあり、その心が様々な方向を向いていようとも、主に立ち返るようにと、神様の愛は私たちを引き離すことはありません。そして、教会は地上における神様の愛の御国を指し示し、私たちの信仰が養われる場であります。今そのことを新たに確信して、今日も神様の愛の懐に招かれ、返ってきた私たちひとりひとりを神様が迎えてくださっています。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年3月24日 四旬節第3主日の説教「実りを信じて」

「実りを信じて」ルカによる福音書13章1~9節 藤木智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の福音書で主イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と、2回も言われています。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われると、私たちはびくついて、不安な思いに駆られるかもしれません。ちゃんと悔い改めないと、自分は滅びてしまうかもしれない、救われないかもしれない、そんな強迫観念にも駆られて、滅びないように悔い改めをしなくてはいけないと思ってしまうかもしれません。しかし、主イエスはここで私たちを脅し、暗い顔でこのようなことを言われているわけではありません。悔い改めなければ、皆同じように滅びる。それはまた、あなたがたが滅ぶことを私は良しとしてはいない。滅ぼすことを神は目的としているわけではないのだという愛の眼差しで私たちに語られているのです。それは続く「実のならないいちじくの木のたとえ」の話で明らかになってくる主イエス、神様の御心であります。

悔い改め、ギリシャ語でこの言葉はメタノイアと言います。メタノイアとは方向転換するという意味です。それも、180度転換するということですから、全く向きが真逆になるのです。突き詰めて言えば、自分の考えや思いがひっくり返るということです。人の考えや思いに立つのではなく、神様に祈り求め、導かれて神様の御心に立つということです。だから、時には自分の期待や願望が打ち砕かれるという体験をもします。自分の側には、自分を立たせるものはなく、空っぽにされるという体験でもあります。自分にではなく、向きを変えて自分を受け止め、自分を包んで下さる方が待っていてくださる。またそこに、自分の存在を肯定してくれる命、場所があるのだということに気づかされることでもあります。ですから、悔い改めるとは、神様のもとに立ち返るということです。そのままの姿で、帰っていくのです。そして、帰っていけるところがある、帰りを待っていて下さる方がいるのです。それは非常に嬉しいことでもあります。来週の福音書の日課である放蕩息子のたとえ話は、そのテーマを私たちに深く伝えている物語であります。帰る場所、自分を待っていてくれる父親の姿は、神の愛を深く現しているのです。

さて、主イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われました。このあなたがたもというのは、群衆のことを指しますが、あなたがたではない誰かの存在と重ねて、あなたがたもと語られていることがわかります。それがまず、1節で言われている、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難に合った人たちの存在があります。ガリラヤ人も同じイスラエル民族でありますが、エルサレムに住むユダヤ人から見れば田舎者として映っていたようで、そのガリラヤ人の中には総督ピラトを始め、ローマ帝国に反逆して、過激な行動をしている人たちもいたようです。そして、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難とは、彼らが礼拝をして動物の血で犠牲の捧げものをしている時に、ピラトが不穏分子である彼らに軍隊を送って襲撃し、犠牲の動物の血に襲撃された彼らの血が混ざって起こったことではないかと言われています。そういう災難、惨劇は歴史上、ローマ帝国の占領下にあるイスラエルの各地で起こっていました。そのひとつの知らせが主イエスと群衆に届けられたのです。そこで主イエスは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」と言われました。罪深い故に、そのような災難に見舞われたなどということではないと言います。ことはそういうことではなく、この知らせを聞き、直接災難に遭っていないあなたがたも悔い改めなければ、滅びると言われたのです。災難に合う、合わないということは、罪深い云々ということではないと言うのです。

そして、もうひとつの話は4節で、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」という主イエスの言葉です。シロアムとはエルサレムの水源地のひとつで、ここから水道が引かれていたのではないかと言われるところです。シロアムの塔とは、その水道を確保する建物であって、その塔の建設工事中に起きた事故のことを指しているのかもしれません。ただ、主イエスはここでも同じく、犠牲になった18人は、罪深い者だったと思うのか。と、具体的な人数を現して、そう問いかけます。罪深い18人だけが犠牲になったという話ではない。そのこととは関係なく、また繰り返して、悔い改めなければ滅びると言われたのです。

罪深いから災難に遭ってもしょうがない、逆に正しい者なのに、なぜあのような災難に遭うのかという、群衆の思いを主イエスは知っているのです。私たち日本人は因果応報の思想を思い浮かべたり、罰が当たるということを身近に聞いたりするかと思います。災いの根拠というものを探したりします。逆もあるかと思います。なんであんな罪深い者が、祝福されているのか、優遇されているのかと。自分や他人の幸せ、不幸を何かの因果関係に照らし合わせて、そう受け止めるという思いもあります。

ただ主イエスはここで、単に因果応報等の人間の考えを拒絶しているわけではありません。ピラトが起こした災難やシロアムの塔の事故の話の中に、人間的な思いが見出されています。そういうことが起こったのは、あなたが罪深いと、要はその人に原因があると考えるのです。そういう事故が起こったのは、人間の欲が勝っていたからで、その人間の我欲を罰するために、事故は起こったのだという人もいます。けれど、この群衆に言われた「あなたがたも」という主イエスの言葉は、災難や事故に遭ったあの人たちを罪深いという眼差しで見つめるなら、あなたたちも同じ罪深いものであるということです。彼らもあなたたちも全く同じであるいうことです。災難や事故、または逆に成功や安全ということが罪深さや正しさの証拠ではないということです。彼らも含め、あなたがたも、悔い改めさないと言われるのです。災難や事故が悔い改めのきっかけ、動機になるということではなく、常に、そして今すぐに悔い改める、神様の方に向きを変えなさいと、主イエスは言われるのです。

災難や事故などの不幸の有無に関わらず、全ての人に悔い改めさないと呼びかける主イエスは、その言葉の意味を明らかにするために6節からたとえ話をされます。ぶどう園にいちじくの木を植えるというのは違和感を覚えるかもしれませんが、ぶどうを上手に栽培するために、ぶどう園に敢えていちじくの木を植えるという方法があったとも言われています。それで、このいちじくの木はなぜか3年待っても実を結びませんでした。土地の主人は、土地をふさがせておくわけには行かないから、切り倒せと園丁に命じます。成果、効率を重視するなら、当然の判断とも言えるでしょう。他のぶどうの実に影響がないようにするための処置とも思えます。しかし、園丁は言います。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」この園丁は、いちじくの木を必死に守ります。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」いちじくの木を最期まで見捨てず、実がなるようにと心を込めて、また一からお世話していくのです。実がなるかならないか、その原因はわかりません。ただ、自分がいちじくの木の立場に立たされて考える時、実がなる、ならないというのをどう考えるでしょうか。先ほどの災難や事故の話で言えば、罪深いから実がならなかったということになります。だから、切り倒されて滅んでしまうと受け止めてしまうかもしれません。

主イエスが語る園丁はそういう眼差しでこのいちじくの木を見つめているのではないのです。このいちじくの木に責任を押し付けて、見捨てているのではないのです。実がなるかならないかで、その木の存在を肯定するか否定しているかということではないのです。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。とそのいちじくの木をお世話する。いちじくの木を殺すのではなく、命の実を結んでほしいと必死にお世話し、守り続けるのです。いちじくの木と重ねる自分に、園丁である主イエスは、木の周りを掘って、肥やしをやってくださるように、私たちに絶えず、恵みを与えてくださり、命の実を結んで、共に歩んでほしいと願ってくださるのです。あなたに期待しているから、失望しているから、ということではなく、あなたが神様の恵みと愛の中で生きてほしいというただその思いの中で、主イエスは私たちを支え、守り、導いてくださるのです。実を結ぶというのは、その信頼の中で生きていくことです。何か評価されることや、成果を発揮したから、実を結んでいるということではなく、私たちの人生を大切に思って、養い続けてくださる方が待っていてくださり、招いていてくださるということに安心し、悔い改めてそこに帰っていくところに、私たちの命の実りをもたらしてくださる神様の愛があるのです。

木の周りを掘って、肥やしをやってくださる、それは私たちの日々の歩みの中で、絶望し、倒れてもう立ち上がることができない私たちの心の闇の中で輝く、神様の命の光です。罪深いというレッテルを貼られ、劣等感故に実を結べないという絶望感、不安感の中で、終わりを告げるのではないのです。その中で、私たちに希望と命を与えてくださるために、主イエスが共にいてくださることに信頼したいと願います。悔い改めて、待っていてくださる主イエスと共に。命の道を歩んでいきたいと願います。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」皆同じところに立っています。ひとりひとりがいちじくの木でもあります。実を結ばないという厳しい現実に打ちのめされているかもしれない。主イエスはその私たちの原因を探り、罪を指摘して、切り倒そうとはなさりません。私たちに帰るところを指し示してくださっています。いちじくの木を今日も世話してくださる主イエス、その姿に顕される神の愛の懐に私たちは立ち返って行けば良いのです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。