「実りを信じて」ルカによる福音書13章1~9節 藤木智広 牧師
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
今日の福音書で主イエスは「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と、2回も言われています。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われると、私たちはびくついて、不安な思いに駆られるかもしれません。ちゃんと悔い改めないと、自分は滅びてしまうかもしれない、救われないかもしれない、そんな強迫観念にも駆られて、滅びないように悔い改めをしなくてはいけないと思ってしまうかもしれません。しかし、主イエスはここで私たちを脅し、暗い顔でこのようなことを言われているわけではありません。悔い改めなければ、皆同じように滅びる。それはまた、あなたがたが滅ぶことを私は良しとしてはいない。滅ぼすことを神は目的としているわけではないのだという愛の眼差しで私たちに語られているのです。それは続く「実のならないいちじくの木のたとえ」の話で明らかになってくる主イエス、神様の御心であります。
悔い改め、ギリシャ語でこの言葉はメタノイアと言います。メタノイアとは方向転換するという意味です。それも、180度転換するということですから、全く向きが真逆になるのです。突き詰めて言えば、自分の考えや思いがひっくり返るということです。人の考えや思いに立つのではなく、神様に祈り求め、導かれて神様の御心に立つということです。だから、時には自分の期待や願望が打ち砕かれるという体験をもします。自分の側には、自分を立たせるものはなく、空っぽにされるという体験でもあります。自分にではなく、向きを変えて自分を受け止め、自分を包んで下さる方が待っていてくださる。またそこに、自分の存在を肯定してくれる命、場所があるのだということに気づかされることでもあります。ですから、悔い改めるとは、神様のもとに立ち返るということです。そのままの姿で、帰っていくのです。そして、帰っていけるところがある、帰りを待っていて下さる方がいるのです。それは非常に嬉しいことでもあります。来週の福音書の日課である放蕩息子のたとえ話は、そのテーマを私たちに深く伝えている物語であります。帰る場所、自分を待っていてくれる父親の姿は、神の愛を深く現しているのです。
さて、主イエスが「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」と言われました。このあなたがたもというのは、群衆のことを指しますが、あなたがたではない誰かの存在と重ねて、あなたがたもと語られていることがわかります。それがまず、1節で言われている、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難に合った人たちの存在があります。ガリラヤ人も同じイスラエル民族でありますが、エルサレムに住むユダヤ人から見れば田舎者として映っていたようで、そのガリラヤ人の中には総督ピラトを始め、ローマ帝国に反逆して、過激な行動をしている人たちもいたようです。そして、ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことにおける災難とは、彼らが礼拝をして動物の血で犠牲の捧げものをしている時に、ピラトが不穏分子である彼らに軍隊を送って襲撃し、犠牲の動物の血に襲撃された彼らの血が混ざって起こったことではないかと言われています。そういう災難、惨劇は歴史上、ローマ帝国の占領下にあるイスラエルの各地で起こっていました。そのひとつの知らせが主イエスと群衆に届けられたのです。そこで主イエスは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」と言われました。罪深い故に、そのような災難に見舞われたなどということではないと言います。ことはそういうことではなく、この知らせを聞き、直接災難に遭っていないあなたがたも悔い改めなければ、滅びると言われたのです。災難に合う、合わないということは、罪深い云々ということではないと言うのです。
そして、もうひとつの話は4節で、「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。」という主イエスの言葉です。シロアムとはエルサレムの水源地のひとつで、ここから水道が引かれていたのではないかと言われるところです。シロアムの塔とは、その水道を確保する建物であって、その塔の建設工事中に起きた事故のことを指しているのかもしれません。ただ、主イエスはここでも同じく、犠牲になった18人は、罪深い者だったと思うのか。と、具体的な人数を現して、そう問いかけます。罪深い18人だけが犠牲になったという話ではない。そのこととは関係なく、また繰り返して、悔い改めなければ滅びると言われたのです。
罪深いから災難に遭ってもしょうがない、逆に正しい者なのに、なぜあのような災難に遭うのかという、群衆の思いを主イエスは知っているのです。私たち日本人は因果応報の思想を思い浮かべたり、罰が当たるということを身近に聞いたりするかと思います。災いの根拠というものを探したりします。逆もあるかと思います。なんであんな罪深い者が、祝福されているのか、優遇されているのかと。自分や他人の幸せ、不幸を何かの因果関係に照らし合わせて、そう受け止めるという思いもあります。
ただ主イエスはここで、単に因果応報等の人間の考えを拒絶しているわけではありません。ピラトが起こした災難やシロアムの塔の事故の話の中に、人間的な思いが見出されています。そういうことが起こったのは、あなたが罪深いと、要はその人に原因があると考えるのです。そういう事故が起こったのは、人間の欲が勝っていたからで、その人間の我欲を罰するために、事故は起こったのだという人もいます。けれど、この群衆に言われた「あなたがたも」という主イエスの言葉は、災難や事故に遭ったあの人たちを罪深いという眼差しで見つめるなら、あなたたちも同じ罪深いものであるということです。彼らもあなたたちも全く同じであるいうことです。災難や事故、または逆に成功や安全ということが罪深さや正しさの証拠ではないということです。彼らも含め、あなたがたも、悔い改めさないと言われるのです。災難や事故が悔い改めのきっかけ、動機になるということではなく、常に、そして今すぐに悔い改める、神様の方に向きを変えなさいと、主イエスは言われるのです。
災難や事故などの不幸の有無に関わらず、全ての人に悔い改めさないと呼びかける主イエスは、その言葉の意味を明らかにするために6節からたとえ話をされます。ぶどう園にいちじくの木を植えるというのは違和感を覚えるかもしれませんが、ぶどうを上手に栽培するために、ぶどう園に敢えていちじくの木を植えるという方法があったとも言われています。それで、このいちじくの木はなぜか3年待っても実を結びませんでした。土地の主人は、土地をふさがせておくわけには行かないから、切り倒せと園丁に命じます。成果、効率を重視するなら、当然の判断とも言えるでしょう。他のぶどうの実に影響がないようにするための処置とも思えます。しかし、園丁は言います。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」この園丁は、いちじくの木を必死に守ります。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」いちじくの木を最期まで見捨てず、実がなるようにと心を込めて、また一からお世話していくのです。実がなるかならないか、その原因はわかりません。ただ、自分がいちじくの木の立場に立たされて考える時、実がなる、ならないというのをどう考えるでしょうか。先ほどの災難や事故の話で言えば、罪深いから実がならなかったということになります。だから、切り倒されて滅んでしまうと受け止めてしまうかもしれません。
主イエスが語る園丁はそういう眼差しでこのいちじくの木を見つめているのではないのです。このいちじくの木に責任を押し付けて、見捨てているのではないのです。実がなるかならないかで、その木の存在を肯定するか否定しているかということではないのです。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。とそのいちじくの木をお世話する。いちじくの木を殺すのではなく、命の実を結んでほしいと必死にお世話し、守り続けるのです。いちじくの木と重ねる自分に、園丁である主イエスは、木の周りを掘って、肥やしをやってくださるように、私たちに絶えず、恵みを与えてくださり、命の実を結んで、共に歩んでほしいと願ってくださるのです。あなたに期待しているから、失望しているから、ということではなく、あなたが神様の恵みと愛の中で生きてほしいというただその思いの中で、主イエスは私たちを支え、守り、導いてくださるのです。実を結ぶというのは、その信頼の中で生きていくことです。何か評価されることや、成果を発揮したから、実を結んでいるということではなく、私たちの人生を大切に思って、養い続けてくださる方が待っていてくださり、招いていてくださるということに安心し、悔い改めてそこに帰っていくところに、私たちの命の実りをもたらしてくださる神様の愛があるのです。
木の周りを掘って、肥やしをやってくださる、それは私たちの日々の歩みの中で、絶望し、倒れてもう立ち上がることができない私たちの心の闇の中で輝く、神様の命の光です。罪深いというレッテルを貼られ、劣等感故に実を結べないという絶望感、不安感の中で、終わりを告げるのではないのです。その中で、私たちに希望と命を与えてくださるために、主イエスが共にいてくださることに信頼したいと願います。悔い改めて、待っていてくださる主イエスと共に。命の道を歩んでいきたいと願います。「悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」皆同じところに立っています。ひとりひとりがいちじくの木でもあります。実を結ばないという厳しい現実に打ちのめされているかもしれない。主イエスはその私たちの原因を探り、罪を指摘して、切り倒そうとはなさりません。私たちに帰るところを指し示してくださっています。いちじくの木を今日も世話してくださる主イエス、その姿に顕される神の愛の懐に私たちは立ち返って行けば良いのです。
人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。