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2012年11月11日 聖霊降臨後第24主日 「最も重要なおきて」

マルコによる福音書12章28〜34節
高野 公雄 牧師

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

もはや、あえて質問する者はなかった。
マルコによる福音書12章28~34節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン

地上におけるイエスさまの生涯最後の週、日曜日にエルサレムに到着してから、金曜日に十字架に付けられるまでの六日間は、日付が書き入れられています。三日目の火曜日の出来事がマルコ11章20~13章31に描かれていますが、きょうの福音である律法学者とイエスさまの対話個所もこの日の出来事とされています。

《あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか》。一人の律法学者がイエスさまにこう尋ねることから、きょうの話は始まります。「最も重要なおきて」は何かとい問題は、当時のユダヤ教において大いに論じられていたものでした。これはキリスト教徒にとっても重要な問題であって、この出来事はマタイ22章34以下とルカ10章25以下にも書かれています。これらの個所は礼拝において毎年交代に読まれます。

《第一の掟は、これである。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない》。

これが律法学者の問いに対するイエスさまの回答です。第一のおきてとされたのは、きょう旧約聖書の日課として読まれた個所の引用であり、第二のおきてとされたのは、レビ記19章18です。律法学者は「どれが第一でしょうか」と一つのおきてを求めたのですが、イエスさまは神を全身全霊でもって神を愛すべきことと、隣人を自分のように愛すべきことという二つのおきてでもって答えています。神への愛は「信仰」、そして、隣人への愛は「倫理」と言い換えることができるでしょう。イエスさまは、信仰とその具体的な生き方である倫理とは、次元の異なることではあるが、深く関係することであると見ておられます。

《わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(Ⅰヨハネ4章19~21)。このように、神への愛と隣人への愛は互いに別々の愛ではなくて、二つの愛は一つと言えるほどに深く関わり合っている。これが聖書の見方です。

そして、結びとして、「この二つにまさる掟はほかにない」と言います。聖書には、これこれをしなさい、あれそれをしてはいけないという教えがたくさん記されていますが、それらはみな、神と隣人への愛の下位にあるものであって、すべては二つで一つの愛のおきてのもとにあることを、イエスさまは明らかにしておられます。愛は、キリスト者の生活の本質であって、それなくしてはキリスト者でありえない必須の条件です。

第一のおきては申命記6章4~5節の引用ですが、第一朗読ではこれに続いて次の言葉を聞きました。《今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい》(申命記6章6~9節)。これでこのおきてがいかに大切にされていたかが分かります。これが最も重要なおきてであることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。

ところで、「愛しなさい」と言われていますが、神への愛は義務ではありません。神に愛されていることを知った者が、感謝して返す自発的な応答の愛です。聖書に証しされている神は、《わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない》(出エジプト記20章2~3)、と人々に自己紹介をしています。神は、エジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエルの民を憐れみ、強い力で救い出してくださいました。民は喜びと感謝をもって神への信頼をはぐくみました。そして、新約の時代になると、《実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました》(ローマ5章6~8)とあるように、神はイエスさまの言行において、とくにも十字架の死において人に対する愛と信実を明らかに示してくださいました。人はこの福音を信じることを通して自分の救いを手にすることができます。その信仰は神に対して自分の愛と信実をもってする感謝の応答です。そして、その感謝が私たちを神のおきてを喜んで果たすことへと導き、神を愛するだけにとどまらず、隣人を愛すること、神のおきてを喜んで果たすことへと導きます。

次に、第二のおきて「隣人を自分のように愛しなさい」について学びたいと思います。このおきてはレビ記19章18の引用ですが、この章には自分の隣人をどのように愛すべきかという実例がいろいろと示されています。その中心となる考え方は、《主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である》(レビ記19章1~2)というものです。

このおきてについては、自分自身への愛をどう考えるかによって、二つの考え方があります。

ひとつは、宗教改革者たちが支持しており、いまでも有力な考え方なのですが、このおきては隣人愛だけを命じているのであって、自己愛は命じられていないと理解します。この場合、「ように」というのは、「同じ仕方で」という意味ではなくて、「同じ程度に」という意味だとされます。人は自分を深く愛して関心を持続し、熱心に幸せを求めます。自分には寛容であり、たくさんの言い訳をし、自分に多くの時間を費やします。このような自己愛は、愛の堕落した姿なのですが、このおきてはこの自己愛と同じほどの熱心さで隣人を愛することをと求めているという理解です。

もうひとつの考えは、これも昔からあった考えではあるのですが、とくに現代心理学の発達に後押しされて、現代人には受け入れやすい考え方です。隣人を正しく愛するためには、まず自分自身を正しく愛することを身に付けなければならない、という理解です。口語訳聖書の《自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ》という翻訳は、こういう考え方にもとづいています。この場合は、「ように」は、先ほどの場合と違って、「同じ程度に」ではなく、「同じ仕方で」という意味に理解します。このような「ように」の使い方はイエスさまもしておられます。《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》(マタイ5章48)。この「ように」は、「同じ仕方で」という意味だと考えられます。

どちらの考え方を選ぶにしても、イエスさまは、人は神と隣人とを愛する生き方においてこそ、自尊心を正しくもち、自己実現を成し遂げられると教えておられることは明らかです。

このおきてについては、パウロも《律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです》(ガラテヤ5章14)と述べていますが、イエスさまにはこれとは別に、黄金律(おうごんりつ Golden Rule)と呼ばれるイエスさまの言葉があります。《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》(マタイ7章12)。この言葉の場合、「人にしてもらいたいと思うこと」つまり、人として何を本当に欲するべきことなのかを、イエスさまに従う歩みの中で見出していくことが前提となります。それが明らかになった上ではじめて、そのことは「何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉が、本当に意味ある教えとなります。私たちが独りよがりで自分勝手でわがままな願いを抱いたまま、この言葉を実行したとしても、それは決して本当に他者を生かし、共に生きていく救いの道にはつながりません。私たちは、イエスさまに聞き従う歩みを続ける中で、本当に欲するべきものを見定めていきたいと思います。

「正しく自分を愛する」ということについても同じことが言えます。イエスさまは弟子たちに《それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか》(マルコ8章34~36)と諭されました。私たちは本当に私たちを生かすことの出来るお方、イエスさまと共に歩んで参りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年11月4日 全聖徒主日 「今、分かりました」

ヨハネによる福音書16章25〜33節
高野 公雄 牧師

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書16章25~33節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうは教会の暦で「全聖徒主日 Sunday of All Saints」といいます。聖徒 Saints という言葉は、聖書ではキリストの贖いを受け取って罪を清められた者という意味であって、すべてのキリスト信徒を指していました。それが迫害の時代に次第に殉教死した人々を指し、迫害が終わると、信徒の模範となるような偉い人を指す言葉となりました。そして、11月1日がそれらの人々を崇敬して記念する日となりました。その日は、全聖徒の日 All Saints’ Day と呼ばれます。

宗教改革者マルチン・ルターは、この日に大勢の人々が教会に集まるので目につくようにと、その前日10月31日に教会の扉に「95か条の提題」を貼り出して、議論を呼びかけたのでした。のちにこれが宗教改革の始まりと見なさます。それで宗教改革記念日は10月31日なのです。

プロテスタントの教会は、カトリック教会が聖人として特別に定めた人々を崇敬する習慣を否定し、この日を信仰の先輩たちを記念して、彼らを私たちに送ってくださった神の恵みに感謝し、信仰弱い私たちも彼らのように信仰の生涯をまっとうできるように祈る日としました。聖徒という言葉の意味が聖書で使われていた意味に戻ったわけです。

その後、近代になって人々の生活が忙しなくなってくると、ウィークデイに礼拝に集うことが難しくなり、11月の第一日曜にこの日の礼拝を守るようになりました。

ちなみに、アメリカでは四年ごとの大統領選挙は全聖徒主日の週の火曜日に行うと決まっています。それで、あさってその投票が行われます。

きょうは、キリストを信じて神の御許に召された信仰の先輩と何らかの形でかかわった方たちが礼拝に招かれ集まってまいりました。本日私たちに与えられたみ言葉は、ヨハネ福音16章からの一節です。これは、イエスさまが十字架に掛けられる聖金曜日の前日、最後の晩餐の席で行われたイエスさまと弟子たちとの対話です。

《わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く》。

弟子たちにとっても、私たちにとっても、問題は、イエスさまとは誰なのかということです。私たちが神に出会うこと、神に救われることに、イエスさまがどう関わっているのかということです。ここでイエスさまはご自身について謎めいた言い方をやめて、はっきりと「わたしは父すなわち神のもとから出て、この世に来た」と言っています。イエスさまはもともとは神の御許におられたのですが、私たちを救うためにこの世に遣わされたのでした。そしてガリラヤ地方を中心に神の国の福音を宣べ伝えました。ニケア信条はこれを「私たち人間のため、また私たちの救いのために天から下り、聖霊により、おとめマリアから肉体を受けて人とな」ったと定式化しています。

そして、「今、世を去って、父のもとに行く」と言います。今は弟子たちと会食をしていますが、もう間もなく逮捕され、大祭司と総督ピラトの裁判に付され、翌日には十字架につけられて息を引き取ります。しかし、それで終わりではありません。イエスさまは三日目に復活し、父の許へと帰って行きます。ふたたびニケア信条によると、イエスさまは「ポンテオ・ピラトのもとで私たちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書のとおり三日目に復活し、天に上られました」。

このように、イエスさまは、ご自分の地上における生涯の使命、その言葉と振舞いの意味を弟子たちに語ります。弟子たちはイエスさまに応えて言います。

《あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます》。

イエスさまのご自分についての言葉を聞いて、弟子たちは、イエスさまがすべてをご存じであって、彼になにも質問をする必要がないことを今理解したと答えます。そして、イエスさまが神の御許から来たことを、つまりイエスさまは神の子であることを信じます、と告白します。

人が洗礼を受けるとき、信仰に入るとき、聖書の知識は乏しく、教義の詳細を理解できていないでしょう。しかし、イエス・キリストが誰であるかを理解し、イエス・キリストを愛し敬い信頼すること、このことだけは信仰にとって欠かすことはできない大事なポイントです。イエスさまは二千年前のパレスチナにおとめマリアから生まれ、すべての人のしもべとなって、人々に仕えて、人々の重荷を担い、人々の罪の汚れを負って十字架刑で死にました。彼はそういう歴史上の実在人物です。イエスさまは人としての地上の歩みをとおして、神がすべての人一人ひとりを愛し、守り、救いへと導いてくださることを身をもって証しされました。ここまでは、現代人も理解し、受け入れることができるだろうと思います。

現代人である私たちの問題はここからです。今述べたことを視点を天に移して見てみます。すると、こうなります。神はイエスさまの言葉と行いを通して、ご自身を、そしてご自身の人に対する信実の心を明らかに現わしてくださいました。神は自らイエスという人となって地上に降り立ち、ご自身の愛と信実を人々に啓示されました。イエスさまは人となった神なのです。イエスさまは私たちと変わらぬ歴史上の人物であると同時に、イエスさまは神が人となった方であって、歴史を越えた永遠の神ご自身であります。これが、イエス・キリストは誰であるかという問いに対するキリスト教会の見出した答えです。私たちは祈りの度ごとに、その結びで「あなたは聖霊と共に、ただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります」と唱えます。そのとおり、イエスさまは私たちの主であり、永遠に生きて治められるみ子なる神でありますが、このイエス・キリストの神性ということが近代的な教育を受けた人は受け入れられなくなってきているのです。私たちは頭の中からも心の中からも神の働く余地を閉めだしています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12)。現代人は、イエスさまについて、こうはっきりと言えなくなっています。キリスト者であっても例外ではなく、この信仰が崩れる危険をつねに抱えて生きています。しかし、イエスさまは、このことをもご存じです。

《だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》。

「今、分かりました」「わたしたちは信じます」と答えた舌の根も乾かぬうちに、弟子たちはイエスさまを見棄てて逃げ去り、イエスさまはひとり苦難の道を歩かれることになります。しかもイエスさまはそういう弱い弟子たちを責めるどころか、「あなたがたには世で苦難がある」と弟子たちの負うべき労苦、困難を気遣い心配してくださっています。イエスさまは十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分で何をしているか知らないのです」(ルカ23章34)と言って、「十字架につけよ」と叫ぶ群衆、逮捕し裁き処刑するユダヤ人とローマ人の罪の赦しを父なる神にとりなしておられます。

このように、最後まで徹底して罪人を愛し赦し、彼らの救いのために命を差し出されるこのイエスさまのあがないの業において、人に対して慈しみ深い神の思いが明らかに現わされています。この事実こそが、「わたしは既に世に勝っている」とおっしゃる言葉の内実です。イエスさまの神の子としての強さは、あらゆる誘惑を退けて、死にいたるまで人のために仕え尽くした、人にご自分を与え尽くしたことになるのです。そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と言われます。私たちはみな弱いです。けれども優しく強いお方が共におわれるから、私たちは心強いのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」とあるとおりです。

イエスさまからいただくこの平和のゆえに、私たちもまたイエスさまと共に「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言うことができるのです。そう言うことができるように、私たちの頭と心のうちに信仰の余地を、神が働かれる余地を開けているように心がけましょう。私たちがきょう記念している信仰の先輩たちにならって、遺された私たちも、こういう信仰に生きたいものです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年10月21日 聖霊降臨後第21主日 「天に富を積む」

マルコによる福音書10章17〜31節
高野 公雄 牧師

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マルコによる福音書10章17~31節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

場面は先週に続いて、ガリラヤ地方から都エルサレムに向かう旅の途上のできごとです。金持ちの男がイエスさま一行に走り寄って、ひざまずいて尋ねました。《善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか》。この男との会話のテーマは、イエスさまの弟子の生き方についてです。

「永遠の命を受け継ぐ」は、「神の国に入る」とか「救いを得る」と同じ意味です。「受け継ぐ」つまり「相続する」という表現は、永遠の命は昔からユダヤ人の先祖たちに約束されていたものですから、それを自分たちは遺産相続するように受け継ぐのだという感覚です。イエスさまは、何をすればよいかという掟についてならばあなたは知っているはずだと言って、十戒の後半を数え上げます。すると彼は《先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました》と答えます。彼が言うとおり、彼はユダヤ教の倫理をまじめに守って生活してきたし、人々からも善い人として高い評判を得ていたのでしょう。

だったら、なぜ彼はイエスさまに教えを乞うのでしょうか。たぶん彼は何か善い行いをもう一つプラスして、相続者の資格を確かなものにしようと願っているのでしょう。イエスさまは答えます。《あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい》。金持ちの男が予感していたとおりです。十戒を守っていても、まだ欠けているものがあったのです。「持っている物を売り払って、貧しい人々に施しなさい。そして、わたしに従いなさい」。この言葉を、《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた》とあります。「慈しんで」は神の愛を指す言葉アガペーの動詞形が使われています。イエスさまは厳しいことを言いますが、それは彼を拒否したり軽んじたりしてのことではないことは明らかです。しかし、彼は《この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである》。彼に欠けている一つのこと、それは財産を手放すことができなかったことでした。

ルターは、神を信じるとは何ものよりも神を畏れ、愛し、信頼することだと言いました。そして、唯一のまことの神よりも、畏れ、愛し、信頼する人や物、それが当人にとっての他の神々つまり偶像だ、とルターは言います。きょう登場した金持ちの男にとっては、財産が、律法を守ってきたことが、良い評判が最終的な信頼を置く彼の神または偶像ということになります。彼はイエスさまの言葉を聞いて、今初めて自分の内面を見ることになりました。そして、今初めて彼は自分が頼りにしてきたものが実は神ご自身ではなく偶像であることを悟ったことでしょう。この人に限らず、私たちは神の救いは善行の報酬として与えられるものだと考えがちです。そうすると、この人のように、神の救いを確かにするために、自分の側の拠り所をその保証としてしっかりと握っていることが大事だと考えてしまいます。しかし、自分が持っているものを救いの拠り所にすることは、本当の神信仰ではありません。救いを神の恵みとして、人に対する神の信実から出た無償の賜物として待ち望むこと、それが真の神を信じることであり、また神の信実にのみ救いの確かさがあるのです。

ですから、仮に彼が持っている物を売り払うことができたならば、その善行のゆえに永遠の命の相続人の資格を得ることができるのでしょうか。そうではありません。その場合でも、イエスさまの招きに応えて、空の手でもって神の救いをいただく信仰をもってイエスさまに従うことが求められるのです。その場合、従うことは自分の資格や能力によるのではなく、従うこと自体がすでにイエスさまの招きの力、イエスさまの恵みです。このことに気づくことによって、人ははじめて持ち物を手放すことができるようになるのです。手放すことができないのは、貪欲のためだけではありません。他に拠り所となるものを知らないから、神の恵みを知らないからです。

弟子たちもこの金持ちと似たような状態だったようです。《ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした》。マルコ福音ではこれだけの文章ですが、マタイ福音ではペトロがこう言い出した訳がもっと露骨に書き込まれています。《すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」》(19章27)。これに対して、イエスさまはご自分に従う者への報酬を約束なさいます。しかし、ほんとうは人の功績が問題でなく、ここでもイエスさまはすべての人に対する神の愛を説いているのです。使徒のパウロはこう書いています。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》(Ⅱコリント8章9)。

この金持ちが悲しみながら立ち去ったあとのことに、話を少し戻します。イエスさまは弟子たちに言われます、《財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか》。山上の説教でも《あなたがたは、神と富とに仕えることはできない》(マタイ6章24)と言っておられます。神さまを信じることと、神ならざるもの(この世の人や物)を頼りにすることとは両立できません。

しかし、神と富とは両立するという考えもあります。事実、イエスさまの時代、富みは神の祝福だという見方もありました。むしろ、それが一般的な見方でした。弟子たちの中に金持ちは少なかったと思いますが、やはりそのように考えていたようです。イエスさまの言葉に驚いて《それでは、だれが救われるのだろうか》と互いに言ったと書かれています。

日本のことわざに「衣食足りて礼節を知る」とあります。生活に余裕ができて初めて礼儀や節度をわきまえることができる、という意味です。その反対に、「貧すれば鈍する」、貧乏すると生活の苦しさのために精神の働きまで愚鈍になる、という言葉もあって、貧乏を貶める見方がある一方で、少数派ではありますが、清貧の思想というのもあって、金の有る無しにかかわらず私欲を捨てて質素な生活を理想とする見方もあります。心豊かに暮らすためには、金品に固執しない生活をすることが必要だという考えです。物質的な生活が安定すると、神への感謝の心を失う危険が増大するのは事実ではないでしょうか。これが人の現実ですから、イエスさまの言葉にこういうのがあります。《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》(マタイ4章4、申命記8章3)。また、《どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである》(ルカ12章15)。

《弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」》。これらの聖句はすべて、救いの根拠は、「人間にできること」ではなく、人に対する神の信実、一人ひとりの人を大切に配慮する神の大いなる愛にあることを強調するものです。イエスさまの言行のすべてはそのことを証ししています。イエスさまを信じることによって、確かな救いを得られることを、それが心豊かに生活する基であることをしっかりと受けとめたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2012年10月14日 聖霊降臨後第20主日 「男女創造の原点」

マルコによる福音書10章1〜16節
高野 公雄 牧師

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
マルコによる福音書10章1~16節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

《イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた》。

イエスさまは弟子たちにご自分の死と復活の予告を三度なさいましたが、9章で二度目の予告をなさったあと、きょうの個所10章では、いよいよガリラヤ地方を去って、ヨルダン川の東側を通ってユダヤ地方にあるエルサレムへと南下する旅が始まったと記されています。

この旅の途上で出会う人々との対話を通して、福音書はイエスさまに従うとはどういうことかということを描いていきます。きょうの福音は、新共同訳聖書では、「離縁について教える」と「子供を祝福する」という小見出しがついていますが、このふたつの段落は、社会的な弱者である女と子供に対する神の篤い配慮と、私たちのとるべき態度について教えるという共通点をもっています。イエスさまはその言葉と行いにおいて、弱い者に配慮する神の信実を伝えようとしました。きょうは両方を取り上げる時間がありませんので、最初の段落だけを取り上げます。

《ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った》。

結婚・離婚・再婚にかかわる諸問題は、いつの時代でも人の幸・不幸を左右する重要なテーマです。イエスさまの時代も同じで、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚したことに端を発して、洗礼者ヨハネがその結婚を律法違反であると強く批判したために、かえって領主に捕えられ、首を刎ねられるという事件が書かれています(マルコ6章16~28)。

イエスさま時代には、どんな場合に離婚が許されるかについて、律法学者たちは活発に議論していました。離婚についての聖書の規定は、《人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる》(申命記24章1)です。条件は二つ、妻の恥ずべき行為つまり不倫と離縁状を渡すことです。この聖書の規定は、家父長制のもとで弱い立場に置かれた女性を保護するものでした。当時は協議離婚などありえず、離婚とは夫が一方的に妻を追い出すことでした。聖書は離婚理由を限定し、また家を出された女性が再婚できるように離縁状を渡すことを求めています。離縁状は再婚許可状でした。夫と離別した女性がひとりで生活することは非常に困難であったからです。

律法学者たちの間では、この律法の「何か恥ずべきこと」という言葉の解釈をめぐって、シャンマイ派とヒレル派の意見が分かれていました。シャンマイ派はこれを妻の結婚前の不品行と結婚後の不倫と限定して解釈しましたが、ヒレル派では離婚理由を「何か」と「恥ずべきこと」の二つに分け、「何か」には夫が離婚理由と考えることはどんな些細なことも該当すると解釈していました。こうなれば、第一の条件はあってもないのと同じで、第二の条件つまり離縁状を渡しさえすれば良いことになります。事実、律法学者たちの答えには、第一の条件が欠けています。

ファリサイ派の人々が「イエスを試そう」としてこの議論を仕掛けたのは、イエスさまがシャンマイ派に近いのかヒレル派に近いのか明らかにして、反対派からの批判を強めさせようとしたのかも知れません。または、イエスさまから離婚を認めないという、モーセの律法に反する答えを引き出して、批判の材料にするつもりだったのかも知れません。

《イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」》。

イエスさまの答えはこうです。人は心のかたくなさのゆえに神のおきてを守れず、離婚は必ず起こってしまう。しかしその場合でも、できる限り弱者を救済しようという意図で離婚の律法が定められているのだ。したがって、離婚はその合法性を堂々と主張できるようなことではなく、神が離婚を認めるのは、おきてを守れない人間に対する寛大なる譲歩なのだ、ということです。神のおきてを守れないのは、ユダヤ教徒であろうとキリスト教徒であろうと誰であろうと同じです。

イエスさまは、モーセの律法ができる前に、神が結婚を定められたもともとの意図からこのことを見ています。きょうの第一朗読、創世記2章18~24は、神が《人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう》と言って、人からあばら骨をとって女を造り、彼女を人のところへ連れて来ると、人は《ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉》と叫んで、自分に合う助け手を与えられたことを喜んだ、と伝えています。昔から「助け手」という訳語を当てているので、聖書は女を男の助手と見ているように読まれますが、これは伴侶、パートナーと訳すべき言葉であって、この個所は上下関係ではなく、男女を対等の関係として書いています。

イエスさまは男女の創造と結婚の制定について創世記の1章と2章の言葉を引用して語ったあと、最後に「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、ご自分の言葉で神の原初のお心を示しています。人が離婚とか不倫をしないことができないという現実から出発するのでなく、この点における神のおきてが何であるかに立ち戻るべきことをイエスさまは主張しました。こうした議論の仕方によって、ファリサイ派の人々も沈黙を余儀なくされたのです。

《家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる》。

ファリサイ派との論争から場面が変わって、弟子たちに教えを述べる場面です。ここでは再婚の問題性が説かれています。イエスさまは、法のレベルでの良し悪しをいうのではありません。別れた人との人格的関係の側面を見て、再婚は前の妻、前の夫の人格を無にする不品行だと言います。律法に適ったことだとはいえ、離婚・再婚は神の創造の秩序に反することなのです。これは弟子たちにとって考えてもみなかったことでした。マタイ福音によると、《弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った》(19章10)とあります。

《監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません》(Ⅰテモテ3章2)。

ここの「一人の妻の夫」という言葉は、一見してそう考えるように重婚を否定しているのではありません。キリスト教徒が重婚をしないのは当然のことで、この言葉は、離婚ではなくて妻が先立った場合でも再婚を禁じるものでした。結婚は一回限りのことと考えられていたのです。結婚は双方が生きている間にだけ有効な契約であって、配偶者の死によってその契約は解消されるという理解は、あとになってから生じた考え方です。

《神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない》、この言葉にかぎらず、イエスさまの言葉が、人に希望と励ましを与えるのは、罪ある人間の現実を超えて、神の根源的意志を語るからだと思います。「まず神の国と神の義を求めよ」、「何を食べようか何を着ようかと思い悩むな」、「己のごとく隣人を愛せよ」、「すべての人に仕える者となれ」、「持ち物を売り払って、貧しい人々に施せ」、「己を捨て己が十字架を背負って我に従え」などなど。こう言い切って神の恵み深い計画と人間の価値ある目標を示すイエスさまの言葉を聞くと、人間として背筋がしゃんと伸びるように感じます。私たちは現実にはこれらの言葉を実行できなくて、罪に沈んでいますが、これを言うイエスさまを仰ぐとき、わたしたちは人間にはまだ希望があることを示されます。歩むべき道を示されて、目の前が明るくなり、足取りが軽くなる気がします。ヨハネ福音16章33でイエスさまが弟子たちに、《あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている》と言われた言葉を思い出します。

夫婦のあり方について、《夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい》(Ⅰペトロ3章7)という言葉があります。男と女が「命の恵みを共に受け継ぐ者」として共に生きること、これにまさる幸福な人間関係はないのではないでしょうか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン