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2019年9月1日 聖霊降臨後第12主日の説教 「神の慈しみの高さ」

「神の慈しみの高さ」 ルカによる福音書14章7~14節 藤木 智広 牧師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

本日の福音の御言葉である14章7-14節は、14章1節で主イエスが安息日の日に、食事のためにファリサイ派の議員の家に招待された場面からの続きです。ファリサイ派の議員というのは、同じファリサイ派の人々の中でも、最高法院という宗教と政治を司る最高議会に所属している権力者たちのことを指します。そして、このファリサイ派の議員の人は、他のファリサイ派の人々の頭として、安息日に食事会を催し、彼らファリサイ派の人たちと主イエスを自分の家に招待したのでした。その食事会の席で、招待された彼らファリサイ派の人たちは、自分たちの座る場所を決めているのですが、彼らは上席といういい場所を選んでいます。彼らは、自分たちの権威に誇りを持ち、自分のほうが他の人よりも上席に座るのにふさわしい人物であるという自信があったのかも知れません。上席を巡って、彼らの間でのちょっとした権力闘争を見ていた主イエスは彼らにふたつの譬え話をされます。

一つ目は、自分から上席に座れば、自分よりも身分の高い人によって、末席に追いやられ恥をかき、逆に、自分から末席に座れば、招待された人によって上席へと招かれ面目を施すという内容です。私たちの日常生活でもこのようなことをよく経験していることかと思います。食事会、宴会などの席では、自分よりも偉い主人や上司に上座を譲り、自身は下座に着くという謙遜な態度をとることがあるかと思いますが、それは席上でのマナーとして、当然の認識として把握しているでしょう。だから、この譬え話は、私たちにとって、当然のことを語っている内容かと思えるかもしれませんが、実は単なる教訓として、謙遜な態度をとりなさいと主イエスは言っているのではないのです。なぜなら、11節で主イエスは『だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』と語っています。これは食事会での席のことに限ったことではなく、私たちの姿勢に向けられて語っていることでもあるからです。それはまさに今上席を選んでいるファリサイ派の人々に直接向けられている言葉であって、だれでも、すなわち私たちにも向けられている言葉なのです。上席を選ぶ彼らファリサイ派の人は、自分が上席に着くものにふさわしいと自身を誇り、高ぶっていました。その態度は、18章9―14節の、『ファリサイ派の人と徴税人』の譬え話の中でも見られます。ふたりが神殿の前で、すなわち神様の前で祈っている時、ファリサイ派の人は祈りの中で、横にいる徴税人よりも自分のほうが正しいことをしていて、全うな生活をしていることを誇っていますが、その一方で、罪人として悔い改め、神様の前にへりくだった徴税人のほうが義とされて高められたと主イエスは語り、14節で同じことを言っているのです。私たちは、他人に良く見られたい、思われたいという気持ちがどこかにあります。そして、神様の前ではなおさら自分を高くみせようと思いたくなるものです。そのために他人と比較して、自身を誇り、高ぶることだけにしか目がいかない姿がある。謙遜な態度も表面だけで、実際は自分をよくみせようとしているだけで、真の謙遜な態度を出さない自分が時々いるのではないでしょうか。

続く二つ目の譬え話も同じことが言われているように思えます。今度は招待をする主人に向けられて語っています。主イエスは次のように言います。宴会を催す時は、友人、兄弟、親類、近所の金持ちといった親しみのある人たち、または自分の偉大さ、誇りを見せられる人たち、お返しを期待できる人たちを招くのではなく、むしろ貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人などの自分にとって親しみがなく、自身の偉大さや誇りを見せようがない、また、お返しが期待できない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだと。他者を歓迎するために宴会を催す準備をし、接待しつつも、内心ではやはり、これだけの宴会が開ける自身を誇示し、それに見合ったお返しを期待するために、招待する人も自分の都合がいい人を選ぶ。それは客が上席を選ぶかのように、主人もまた既に宴会が催される前の段階で、お返しという期待をする、そのような人間の高ぶる態度や気持ちを顕わにしているように受け取れるのです。

二つの譬え話を通して、彼らファリサイ派の人たちは、客としては宴会の席で上席を選び、自身を高ぶり誇るように、また招待する主人としては、誰を招き、そしてお返しされるという自身の偉大さ、誇りを示すことができるかということにこだわっているようです。しかし、11節の御言葉は、誰の手によって低くされ、高められるのかということを具体的に語ってはいませんが、ヤコブの手紙4章10節にはこう書かれています。『主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。』11節で主イエスが強調しているのは、主なる神様によって、低くもされ、高くもされるということではないでしょうか。ですから、主なる神様の御前でへりくだらない者は、いくら自分たちの誇れるものを誇示したところで、その人間的な価値によっては決して高められことがないということに気付かされます。ファリサイ派の人たちが誇りを示すことにこだわる姿勢は、まさに主なる神様の前にへりくだらずに、人間的な価値を追い求めて、自身を高ぶっているだけの姿を表しているのです。

そして、本日の第一日課であるエレミヤ書9章22-23節では次のように書いてあります。『主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。』人間の知恵、力、富、そういったものを誇るのではなく、そのような考えから目を覚まして、主を知ることこそが、本当の誇りとするものであると記されています。そういう意味でも、この目覚めるということは、主の前にへりくだることを言っているのではないでしょうか。自分自身の知恵や、力、富といったものをいくら誇っても、いづれは朽ち果ててしまうものなのです。その事から目を覚すのです。この地上で、真の慈しみと正義と恵みの御業を行われる神様は、今も私たちの内に働いているのです。この御業を通して、真の知恵、力、富が与えられるということを知るには、自分自身の誇りから目覚めて、へりくだって、そのような御業を行われる神様を知るということ。このことを本当の誇りとすることができるのです。

聖書はそのように、神様を知り、へりくだれることを真の誇りとして記していますが、しかし尚私たちは、自分の誇りを捨て切れず、自分だけの知恵、力、富に頼ろうとしてしまうのではないでしょうか。なぜなら、それはやはり他者と比較し、優位に立ちたいと願っている私たち自身の姿があるからです。私たちはなかなかそこから目覚めることができません。しかし、私たちがへりくだる以前に、私たちのためにこの地上に遣わされ、真の人間としてへりくだった神の御子主イエスの御姿が、今この聖餐という食事の席にあり、私たちを食卓に招いてくださるということを忘れてはなりません。ですから、主イエス自身が何よりも、私たちのお返しなど期待することなく、私たちを招待してくだる真の主人ではないでしょうか。主イエスはそのような幸いをもたらす方であり、へりくだる方でもあります。それはさらに十字架という最大のへりくだりによって示された罪の赦しという幸いではないでしょうか。私たちはそのことを知り、主イエスを信じるこということを誇りましょう。

神様を知り、信じる誇りは、自分だけに向けられたものではなく、他者への思いやりとなって、神様に喜ばれる奉仕へと変えられるのではないでしょうか。お返しを期待するということ以上の真の幸いがここに与えられているように思えるのです。そのことを求めて、人間の誇りから、私たちは目覚めて、主を知るという誇りへと変えられていきたいものです。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年8月25日 聖霊降臨後第11主日の説教「時と所」

「時と所」ルカによる福音書13章22~30節 小杉 直克 兄

 

 今日の御言は「主よ、救われる者は、少ないのでしょうか」という、イエス様に問いかけることから始まります。イエス様はガリラヤから伝道を始められ、方々の町や村を巡り神の国について教えておられました、そうしてエルサレムへ向かって歩みを進めていた時の出来事でした。それは、また十字架へ繋がる旅でもあったのです。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」とイエス様に訊ねた人は、イエス様の弟子の一人なのか、それともイエス様に従って付いて来た人々の一人なのかは、ここでは判然(はんぜん)としません。
 
 「救われる者は、少ないのでしょうか」という、この問いかけは、この人だけの問いかけでしょうか。
今に生きる私たちの内にもこのような問いかけを心の中で問いかけることはないでしょうか。
「救われる者」とは、どのような者なのでしょうか。それが自分自身にどのように関わっているのでしょう。私の心の中にも時として、このような思いが湧く時があります。 この問いかけは、弟子達だけではないでしょう、人々の心の中にもある問いかけではないでしょうか。
この問いかけは、イエス様の時代だけではありません。今日の私達の時代にも共通する事でもあります。
 
 イエス様は「救われる者」という問いかけに「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは、原語の訳では「門」という意味もあります。イエス様は譬話のなかで時折、ご自分を「門」に譬えられる事があります。
それは、ヨハネの福音書10章7節に「わたしは羊の門である」と言われ、自らを「門」に譬えておられるのです、この「戸口」即ち「門」とはイエス様ご自身の事を言われているのです。
 
 また、マタイ書の7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この御言は神の国について語られたものであり、主イエスがご自身について語られたものなのです。
 
 更に、「狭い戸口(門)」から入るように努めなさい」と言われます。
「戸口」とは立体的、物資的、即ち目に見えるものを意味しているのではありません。なぜならばそれは、主イエス御自身の事を言われているからです。
 
 「狭い戸口(門)」から入る」とは、主イエスを受け入れ、主イエスこそが救い主、その人であり、「戸口から入る」とは、主イエスに従うという事なのです。
 
 
 私は、この「狭い門」と聞いた時に、ある事を思い出しました、それは大学受験です。今から50数年前は、殆どの高校生が大学進学を目指しました。目指す大学に入入れるのは十分の一、二十分の一なのです、それは猛烈な勉強をしなくてはなりません、自分以外には全てが競争相手であり、味方ではありません。自分が合格するためには、それは正しく「狭き門」と言っていいでしょう。
主イエスが言われる「狭き戸」とはそのようなものではありません。それは、当時の律法学者やファリサイ派の人々の様に自分達は聖書に精通し、神の国に最も近い者と自負していました、しかし、その実態はそれとは全く反対方向を向いたものでした。それは思い上がった行動でした。「私は、聖書を読み、精通している、だから、主に従っているのだ」と思ったとしても。主の御言を実践しなければ、それは、主イエスに従っていると言えるでしょうか。思い上がりや、自負する事ではないのです。主イエスに従うとは、心の中心に主イエスがおられるという事なのです。「あなたの心の中心には何があるのですか」そうして「何に従っているのですか」という事ではないでしょうか。故に「戸口・門」は狭いと言われるのです。
 
 その様な時代に在って人々は主イエスをどのように受け入れたのでしょう、人によってはイエスは先生、預言者、大祭司だと理解していたのでしょう。ナザレに生まれ、大工の息子として育ったイエスを救い主であると信じることが出来たでしょうか。ですから主イエスは自ら神の国を人々に伝え自ら御自分が救い主であることを人々に伝えたのです。しかし、このような時代に在って、現在も同じかもしれませんが。イエス・キリストが救い主であると信じる人は少ないのではないでしょうか、即ち信仰を得るのは数少ない人達ではないでしょうか。
ですから、主イエスは「狭い戸口(門)から入るよう務めなさい」と言われるのです。
 
 この「狭い戸口」を入るにはどうすればよいのでしょう。
ヘブライ書に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事柄を確認する事です」(11:1)とあります。イエス・キリスト、この方こそが救い主であることを確信する事であり、主イエスこそが、そこへ導いて下さるのです、そう確認する事です。
 
 救いに至る道は、主イエスという戸口以外に、入る戸口はないのです。主イエスの言葉を信じて従う人であり、そう努めることであります、そう導いて下さるのが、主イエスご自身なのです。主イエスは、招いておられるのです。ですから、主イエス・キリストその戸口から入る者となりなさいと。この門のほかには悔い改めて救いに至る道はないのです。
 
 
 更に、御言は続きます「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが、外に立って戸をたたき、『ご主人様、戸を開けてください』と言っても『お前たちが、どこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」この御言は厳しい御言にも聞こえます。
更に、『御一緒に食べたり、飲んだりしました』また『広場で教えを受けた』と言います。しかし答えは『どこのものか知らない』と言われます。ますます、厳しい御言です。
 
 今日の御言の少し前、ルカ12章35節から始まる、「目を覚ましている僕」のお話を覚えていると思いますが。婚礼に出かけた主人が帰ってきた時の譬話です。主人が真夜中に帰って来ても良いように、即ち、主人がいつどんな時に帰って来ても良いように目を覚まして主人の帰りを待っている僕の、話です。
神の国が何時どのような時に来ても良いように、常に用意をしておきなさいということです。
又、ガリラヤから始められた主イエスの宣教の数々を思い起してみましょう。多くの人々に神様について語られました、そうして多くの人々と食事を共にしました、空腹の五千人の人々に食事を与えた奇跡の話、その他色々な出来事を思い出してみましょう。
主イエスと親しく食事をしたとしても、主イエスの教えを熱心に聞いたとしても、それだけで何もしないならば、主イエスに従っているとはいえないと主は言われるのです。
 
 マタイ書の山上の説教のなかに「わたしに向って、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主イエスは言われます。
 
 さて、今日の礼拝に参加するために、皆様も教会の入り口を入ってこられたと思います。その扉が、建設から約15年が経ち壊れてしまいました、毎日何人もの人が開け閉めするでしょう、それはかなりの数になると思います、ですから壊れるのも無理からぬことです。そこで業者に見てもらったら部品が壊れているため取り換える必要があるとのこと、さもないとドアーが動かず、開け閉めできなくなる、とのことでしたので、すぐに修理する事にしました。私は、今日の御言に接した時、この出来事と重なる思いを感じました。
私の心のドアーが壊れたら、あるいは悔い改めることを怠ったとしたら、それは「どこのものか知らない」と言われるでしょう。
 
 「礼拝に参加する」とは、自分自身が参加する様に思いますが、そうではないのです、それは神様が、主イエスが、私たちを礼拝に招いて下さるのです。そのように導いて下さるのが聖霊なのです。
主に従う者は、何時も心は何を見ているのかを。
 
 「戸を閉めてしまってからでは」とは、それは「時」を意味しています。主イエスにただただ付いて行くだけだは、主に従うとは、ただ漫然と過ごすという事ではないのです。それには「時」があるということです。その時は「今」という時なのです。
 
 主イエスはガリラヤの湖畔を歩いておられる時、二人の漁師、即ちペテロとその兄弟アンデレに「わたしに、ついてきなさい」と声を掛けられました。それに対してペテロ達はどう行動したでしょうか、二人は直ぐに網を捨てて、主に従いました。  声を掛けられたペテロは「直ちに」従いました。仕事を済ませたら、とか家族に事情を話してかとかではなく。ペテロは何も躊躇せずにすぐさま従ったのです。
主イエスに従うとは、このような事ではないでしょうか。このことが済んだらとかこのことが出来たらとかではないのです。それは今がその時なのです。
 
 神の国を知るとは、主イエスという戸口を通らなければ知ることは出来ません、この戸口以外にはないのです。そうして、主イエスが知らされた時が、悔い改めの時であり主に従う時なのです。
 
 私達が何かをするので無く。主イエスがいつでも私達を神様へ導いて下さるのです。
 
 在天の父なる神様、今、あなたの御言を聞くことが出来ましたことを感謝します。又、新しい週が始まります、どうか私たちを、守り、導いて下さい、御子主イエスの御名においてお願いします。アーメン

2019年8月18日 聖霊降臨後第10主日の説教 「精錬された言葉」

「精錬された言葉」 ルカによる福音書12章49~53節 藤木 智広 牧師

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。
 
 主イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」また、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが分裂だ」。非常に厳しい言葉を語っておられる、いや、むしろ聞く者が拒絶したいと思うほどに、受け入れがたいことを、主イエスは語っておられるように思えます。主イエスがこのようなことを語られたのかと疑いたくなるほどの言葉です。「地上に火を投ずる」、「平和ではなく分裂をもたらす」。地上、それは私たちが暮らしているこの地上に火の雨を降らせて、焼きつくすということなのでしょうか。また、平和ではなく分裂ということは、争い、戦争を引き起すということなのでしょうか。主イエスがそれらのことを成し遂げるために、この世界にご降誕された、私たちの只中に宿られたなどと信じることができるでしょうか。主イエスがご降誕された理由、それはヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とありますように、神様が私たち人間を愛するがために、この世を愛されたという御心が主イエスを通して顕されたということに他なりません。また、私たちは、主イエスはこの世に平和をもたらす平和の君、支配者として、来られるというよき知らせを、アドベント、クリスマスのメッセージから聞きます。その平和の君が「平和ではなく分裂をもたらす」と言われるのですから、やはり主イエスはこの上なく矛盾なことをここで言っていると思えてしまいます。
 
 しかし、ヨハネによる福音書14章27節で、主イエスはこう言われるのです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」平和を与えると言われる。しかしそれは「世が与えるように与える平和」ではないということ。平和の君として、平和をもたらす者であり、この世の平和、人間が造り上げる平和ではないということです。ではなぜ、キリストの平和の内にあって、分裂が生じるのか、対立が生じるのかということが私たちの率直な疑問であります。主イエスは真の平和とは言わず、むしろ分裂だと強調するわけです。
 
 この分裂を生じさせるきっかけが、火を投ずると言われた主イエスの言葉にあります。この火がきっかけになるわけです。この火とは何でしょうか。聖書には神様の臨在を表し、また神様の裁きを表す言葉として多くの箇所に記されていますが、今日の第1日課のエレミヤ書に注目すると、23章29節にこうあります。「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」(エレミヤ23:29)わたしの言葉、神様の御言葉は火であるというのです。それは岩をも打ち砕く槌のような力です。それが神様の御言葉、聖書の言葉であると言えます。火のような激しさがあるわけです。
 
 このエレミヤ書は主イエスが生まれる約600年前の預言者エレミヤが書いたものですが、神様に罪を犯し続けるイスラエルの民には、神様の裁きが迫っていました。預言者はその神様の御言葉を人々に伝える責務があったわけです。しかし、エレミヤと同じ時代に生きていた預言者たちは、人々を安心させるために、神様が言ってもいないことを人々に語り伝えるのです。23章16節~18節で神様はこう言われます。「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの/言葉を聞いてはならない。彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ/主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。わたしを侮る者たちに向かって/彼らは常に言う。「平和があなたたちに臨むと/主が語られた」と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって/「災いがあなたたちに来ることはない」と言う。誰が主の会議に立ち/また、その言葉を見聞きしたか。誰が耳を傾けて、その言葉を聞いたか。」(23:16~18)自分たちにあるのは神様からの平和や祝福であって、災いではないということです。ようするに人々に都合のよい神様の御心、人々から絶賛され、人々を満足させることを、あたかもそれが神様の御言葉であると言わんばかりに、預言者たちは人々に語り伝えていたわけです。それが、「主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る」ということです。預言者自身も神様の言葉に聞かなくてはならないのに、それを自分の都合のよい解釈にしてしまい、神様の御心からかけ離れた人間の都合に置き換えてしまっていたわけです。
 
 先ほどの29節の言葉には「岩を打ち砕く槌のようではないか」という表現があります。火のような神様の御言葉が岩をも打ち砕く槌であるというのです。この岩というのが、私たち人間の思い、こうであってほしいという自分の思いと都合を表しているものではないでしょうか。または、岩のような自分自身の頑固さです。岩は硬いものです。なかなか打ち砕かれるものではありませんし、打ち砕かれたくないというのが、私たちの姿ではないでしょうか。
 
 そのような自分の岩のような頑固さ、自分中心の思いを神様の御言葉は火のように激しく打ち砕かれるのです。安易な平和や平安を願う、その心地よさだけでは生きてはいけないのです。私たちを真に生かすために、神様の御言葉は今の自分に必要なこと、安易な慰めや喜びではなく、人生の本質を私たちに問うているのです。主イエスが言われる「平和ではなく分裂である」ということは、それ故の分裂であります。火のような御言葉によって、自分自身の中に分裂が生じる。その分裂は、神様なぜですか、なぜそのようなことをされるのですかという自分からの問いかけもあるでしょう。自分の頑固さを打ち砕き、本当の自分を見いださせようとする御言葉の火を、私たちにもたらされるために、主イエスは私たちの只中に来られたのです。
 
 しかし、主イエスはこう言われます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」洗礼とは一度溺死して、生まれ変わるということです。主はそれをどんなに苦しむことかと言われました。その苦しみ、人々の頑固さ、それ故の罪を担って、主は十字架によって死に、そして復活の命に与るということです。それが、主イエスが受ける洗礼であり、十字架と復活を通して、御言葉の火は私たちの中に灯されるのです。
 
 自分の頑固さ故に、心地よさだけを求め、変わらない自分に対して、主は火を投じられます。それは厳しいものでもあるでしょう。しかし、それは自分自身を滅ぼす火ではないのです。私たちを真に生かし、再び新しい歩みへと立ちおこし、導いてくれる火であります。この主が投じる火を通して分裂が起こり、自分の岩のような頑固さが打ちくだかれて、本当の自分がそこで見出されるのです。主イエスは、その自分の人生を、そのままに御言葉を通して導いて行かれるのです。平和ではなく分裂だ、それは本当の自分が主イエスにもたされる主の愛の火によって、本当の自分が灯され、この火によって生かされていくことにおいてなのです。
 
 ルカによる福音書にエマオの復活物語があります。二人の弟子がエマオへの道の途上で、復活の主に出会い、共に歩くのですが、最初は気づかないという物語です。主イエスの姿が見えなくなった後、彼らはこのように語っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか(ルカ24:32)」。聖書、つまり御言葉を聞いていた時、彼らの心は「燃えていた」というのです。その火は、焼き尽くす滅びの火ではなく、「心が燃えていた」誠に彼らを生かす火であります。
 
 主イエスは御言葉と言う火を投げかけられました。それは、焼き尽くす滅びの火ではなく、誠に生かす火、永遠の命という火として、私たちの心の中に燃え盛る火であります。私たちがこの世の価値観に激しく揺れ動されていようとも、この火は消えないのです。火のような神様の御言葉という土台は揺れ動くことがないのです。この火が主イエスキリストとして、私たちの只中に宿られ、御言葉として、つまり私たちは聖書を通して、主イエスと出会うのです。
 
 主イエスは火を投ずるために、来られます。それは永遠の命という誠に私たちを生かす火として、来られる。この主イエスに心を開いて、激しく人間の価値観が変動する混乱の只中に、真実を見つめていきたいと願います。
 
 人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

2019年8月11日 聖霊降臨後第9主日の説教 「魂の満足」

「魂の満足」 ルカによる福音書12章13~21節 藤木 智広 牧師

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

わたしたちは物がたくさんあれば安心し、幸福だと思うかもしれませんが、物がなければ心配し、不安になります。食べるもの、飲むもの、着るもの、住む土地、財産、そういったものを多く持ちたいと思いますし、多くあれば、それらのものに安心を抱くかもしれません。

そんな私たちの思いに対して、今日の聖書箇所で主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)と言われました。貪欲というのは、欲がとまらないこと、もう十分に持っていても、尚欲しいと求め続ける心の有り様です。十分に持っていて、それでも尚求め続ける心というのは、今持っているものでは不十分であり、不満を抱いている思いから来るものでもあります。常に自分の満足するものを所有し、安心を得たいという私たちの姿があるのでしょう。

しかし、この15節の主イエスの言葉は、ただ貪欲に気をつけろとは言っていません。財産がいくらあっても、命はどうにもならないとも言われました。命は財産ではどうすることもできない、買うことはできないということ。これはそのまま理解できます。命はお金では買えない、他のどんな価値あるものとも交換できない。まさにその通りです。命はその財産ではまかなえないわけです。

そして、主イエスは16節から、とてつもない収穫という財産を一気に手にしたある金持ちのお話をします。金持ちの畑が豊作となりますが、彼はその収穫をしまっておく場所をどうしようかと思いめぐらし、そしてその保管方法を思いつきます。そして、やっと全ての穀物や財産をそこにしまいこむことができました。そこで自分に言い聞かせます。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』。(19節)一休みしてというのは、安心して休みなさいという意味です。自分に安心せよといい聞かせているわけです。自分はこの収穫の恵みによって、これから何年も生きていくことができる。見に見える余りあるものに安心せよ、これらが自分を生かすものであるというのです。ところが、この金持ちに不幸が訪れます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」(20節)なんというタイミングでしょうか、安心したのも束の間、そして彼が頼りにしていた収穫の恵みは彼を生かさないのです。一生懸命蓄えていたもので、安心することができないのです。

今夜、お前の命は取り上げられる。なぜこのタイミングで主はこう言われるのかということを考えたとき、この金持ちが貪欲で、それを独り占めしたから、神様が裁きを与えたということではありません。強いて言えば、彼に収穫の恵みを与えのは、主ご自身です。彼はそれを無駄にしたわけではなく、むしろ賢く用いて、それを生かすわけです。計画が立てられる賢い人でしょう。よくやった、賢い生き方だと賞賛を得てもおかしくありません。ところが、彼の賢さの中に主は愚かさを見出されるのです。この愚かさとは、どうせ今夜、あなたは死ぬことになっているのに、なぜ財産や穀物を貯蓄するのか。そんなことをしても無駄だ、どうせ死ぬのだから。どうせ死ぬのなら、それらを全部派手に、自分が、満足が行くように使い切ればいいのに、それをしなかったという愚かさではありません。財産や穀物に自分の命を見出したことです。それが真に自分を生かし、安心を得るものであるという根拠とした愚かさでした。

この金持ちのような生き方に自分自身を重ねるとき、私たちはどうすれば良いのでしょうか。どこに安心を見出せば良いのでしょうか。今夜死ぬというこの境遇をただ不幸な出来事として、不安をもったまま生きていくしかないのでしょうか。今夜とはいわずとも、いずれは死ぬ定めにあって、いったい何を根拠として生きていけば良いのか、安心していいのか。どうせ死ぬとわかったら、働く気も起きなくなりますし、目の間にある恵みにも感謝することができなくなるのでしょう。

主が言われる愚かさ、それは主が弟子たちに対して、なぜ信じないのか、信仰の小さきものよという言葉と重なってまいります。この金持ちは収穫と財産を全部無駄なく、貯蓄し、それを保管して、確実に自分のものとするために、時間と労力を惜しまず、働き続けてきたのでしょう。そして、彼が安心を確信し、食べたり飲んだりして楽しんだのは、全てが完璧に自分の手の内に収まり、それを糧にこれからは生きていけるという後から起こった確信でした。畑が収穫にあったとき、彼の第1声はどうしようと思いめぐらした言葉であり、喜びではなかったのです。その恵みを確実に自分のものにしたいという執着から、彼は働き、やっと自分のものにできたという確信を得て、そこに安心と喜びを見出したわけです。これから先の人生の安心と喜びの方に目がいって、今の自分の安心と喜びに目が届いてはいなかったわけです。その直後に、自分は死ぬということが示され、未来の安心と喜びが、もろくも崩れ去ってしまったわけです。

今は自分には何もないけれど、神様はいずれ自分にすばらしい恵みを与えてくださる。私たちはそのように考えてしまうことがあるのではないでしょうか。今与えられている恵みを恵みと見ないで、いずれすばらしいプレゼントが神様から与えられるという期待を抱いてはいないでしょうか。この金持ちは収穫が与えられた時の安心と喜びではなく、もっと後で、確実にそれが自分に有益となる、自分の命をこの蓄えが保証してくれるという時にあって、安心と喜びを抱いたわけです。この人間の賢さに私たちは生きている姿があります。しかし、神様の御心の原理は逆転するのです。私たちにとっての賢さが愚かさとなる逆転です。私たちの貪欲は執着を生み、執着は目の前の恵みに気づかせなくしてしまう盲目さがあります。

しかし、私たちは、神様からの恵みがいつ与えられるのかということに不安を抱きながら、歩むことはないのです。主イエスは最後にこう言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」神様の前に豊かになりなさいと言われます。この豊かさとは何でしょうか。先ほど主が言われる愚かさを信仰の小ささ、なぜ信じないのかという言葉と重ねました。なぜ信じないのか、それはこうしなければ神様からの恵みに与れない、安心を得て、喜べないという思いがあるからでしょう。されど、神様からの恵み、それは驚きであるのと同時に、恵みを受けるのにふさわしくないこの自分が、この自分に対しても神様は恵みを与えてくださっている、与え続けてくださっているということが見える恵みであり、神様の前における豊かさではないでしょうか。収穫は与えられているのです。あなたの人生は神様によって実りが既に与えられているのです。喜びと平安は確かにあるのです。自分で作った倉では収めきれないほどの恵みが与えられているのです。これを無理に収めようとして、貯蓄する必要はないのです。貯蓄するのではなくて、その恵みを共に喜び祝えば良いのです。私もあなたも今既にこの恵みによって生かされている。この恵みに共々生きよう、この恵みに感謝して生きていこうと。この恵みの主のもとに今また立ち帰り、そこに真の安心と喜びを見出そうと。この豊かさに生きていくのです。

主イエスが私たちに示している道は「神の前に豊かになる」ということです。これはどういうことでしょうか。単純に貪欲になるなと言っているのでしょうか。私たちは、貪欲を抱かずに、貪欲に目を奪われることなく、歩んでいく。本当にそのように生きていくことができるのでしょうか。

今日の福音は21節までですが、次の22節からの内容と今日の内容は繋がっています。12章22節から主イエスはこう言っています。「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。思い悩むなと言われます。「思い悩む」、これも自分の魂に語りかけていることです。「安心だと」言うのとは反対に「不安でしょうがない」と自分に言い聞かせているようなものです。そして烏を例に挙げて、この烏が神様の養いの下で、生きていることを弟子たちに話しています。この烏は「納屋も倉も持たない」とあるように、あの金持ちの人とは全く正反対な生き方をしている、生き方と言っても人間と烏とでは比べようがないのですが、烏は貪欲でも、思い悩んでもいない。ただ神様の養いの下で、自分の命を委ねて生きている、いや生かされているということです。また、27節、28節では、野にある花ですら、美しく装って下さる神様の愛が語られています。だから、あなたがた人間はなおさら、神様の養いのもとにあるではないか、神様の愛が向けられているではないか、そのように主イエスは言われるのです。

神の国という愛のご支配の中で、私たちは生かされています。貪欲を抱く必要はないのに、飽きることのない執着に支配されている私たちの姿があります。貪欲は偶像崇拝、偶像崇拝は神様から離れること、いわゆる罪の只中にあるということです。キリストは、貪欲という罪の只中にある私たちを救うために、この世界に降誕され、十字架に架かられました。私たちの貪欲という罪がキリストを十字架につけた、しかし、それこそが神様の愛なのです。貪欲から解放され、キリストの命に生きる新しい道を、この十字架が指し示しているのであります。この新しい道を歩む、キリストの命に生きる者こそ、神の豊かさに生きる者であります。

神の豊かさに生きた者たちの証を聞いてまいりたいと思います。使徒言行録4章32節から35節にはこう記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」初代教会に生きた人々の姿がここにあります。現代に比べて、物資も少なく、格差社会の激しい時代です。その中で、彼らは心も思いも1つにして、持ち物を分かち合い、そして貧しい人は誰一人いなかったと言われています。彼ら一人一人が、神様から与えられた賜物を分かち合うこの神の豊かさに生きる姿、神の豊かさを分かち合う歩みを証ししているのです。

将来の不安を見通して、有り余るほどの食糧、財産に安心感を求めていく私たちの姿があります。しかし、私たち人間は、本当は貪欲では生きられない、自分にどれだけ富を積んで備蓄し、安心感を得ても、いつ命を失ってしまうでしょうか。むしろ、貪欲に縛られて、真の「命」、生の歩みを見失っているのではないでしょうか。目に見える豊かさはいづれ朽ち果てます。私たち人間が自分の魂に語りかけるように、人間の判断で、豊かさの価値観は変動するのです。

神の豊かさ、それは神様が有り余るほどの糧を私たちに与え、私たちに安心感を与えるという豊かさではありません。神様は「必要な糧」を与えて下さるのです。むしろ、私たちの命そのものが神様から与えられ、神様の愛の中にあるのだから、安心して、食べて飲んで、人生を楽しみ、喜びを抱けば良いのです。新しい一週間をこの豊かさの中に生きてまいりましょう。

人知では到底計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。