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2011年7月24日 聖霊降臨後第6主日 「安らぎを見出す」

マタイによる福音書11章25〜30節
説教:高野 公雄 牧師

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイによる福音書11章25〜30節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

最初に、きょうの福音が置かれている聖書の流れを見ておきましょう。

マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスさまを受け入れなかった人々のことが語られています。まず2~19節では、投獄されたヨハネが自分の弟子たちを遣わして、イエスさまに「来たるべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせます。イエスさまはその質問に対して直接には答えず、こう事実を指摘します。《行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである》(4~6節)。イエスさまが来て、こういう事態を作り出しているのに、人々はその意味を理解できずにいます。神に立ち帰り、神の国の福音を信じることをしません。そのような「今の時代」をイエスさまはとがめて、こう評しています。《今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』。ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う》(16~19節)。

それだけではありません。続く箇所では、イエスさまのガリラヤ伝道の中心地であった町々、コラジン・ベトサイダ・カファルナウムを名指しして、そのかたくなな態度を非難します。《それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」》。

ガリラヤ湖畔の町カファルナウムは、イエスさまがガリラヤ湖の漁師であった兄弟のペトロとアンデレ、それともう一組の兄弟ヤコブとヨハネを最初の弟子として召した町であり、またイエスさま自身がガリラヤ伝道の拠点とされた町でもありました。この町の大多数もまた、病気の治療などの御利益(ごりやく)だけをありがたがり、自らの生き方を変えることはかたくなに拒む、といういつの時代の人々にも通じる宗教との付き合い方だったのです。

実際、イエスさまを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいました。しかも、受け入れない人の方が圧倒的な多数だったのでしょう。きょうの福音は、そのような状況の中でのイエスさまの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができます。

イエスさまはこう神さまをほめたたえて祈ります。《天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした》。「これらのこと」とは、イエスさまが言葉と業とで人々に告げ知らせた神の国の福音です。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスさまを受け入れなかった。しかし、「幼子のような者」がイエスさまを受け入れた、と言われています。「知恵ある者や賢い者」とは、学のある人、当時においては、律法についての知識を持っている人のことでした。「幼子のような者」とは、貧しい無学な人のことです。つまり、当時、世間的な評価の高かった祭司長や律法学者たちは、自分たちの知識や力を頼みとし、そのためにイエスさまの福音を理解できなかったけれども、世の評価が低く、社会の片隅に追いやられていた人たちがかえって、イエスさまの福音を受け入れたのです。そして、そのことは神さまのみ心にかなうことなのだというのです。「知恵ある者や賢い者」が心を閉ざし信じないことも、「幼子のような者」、世間的な評価を受けない人々がかえって心を開いてイエスさまを迎え入れ、神に頼ることも、神のみ心であるとして、そういう神さまをほめたたえます。これは、イエスさまが神の国を宣べ伝えても聞かれない事態、人間的に見れば伝道の失敗ともいえる厳しい現実に直面して、深い祈りの中で聞き取った神さまのみ心だったのです。

イエスさまは、以上の賛美の言葉に続けて、祈りで得た確信をこう言い表します。《父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません》。ここで「子」とはもちろんイエスさま自身のことであり、「子が示そうと思う者」とは、前出の「幼子のような者」のことです。神のみ心と一致して、ご自分の思いもこれら社会の片隅に追いやられている人びとに向けられていることを言い表しています。

この確信にもとづいて、イエスさまは人々に対して大いなる招きの言葉を発します。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》。なんと慰め深い呼びかけでしょう。一体、誰か疲れていない人、重荷を負っていない人がいるでしょうか。私たちは皆、どれほどこの招きの言葉を必要としていることでしょう。

当時の人々は、宗教指導者に重い荷を負わされ、疲れ果てていました。このことについて、イエスさまは後にこのように言っています。《律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。》(マタイ23章2~4)。当時の人々の負っていた重荷は、単なる仕事上の重荷ではないし、単なる罪の重荷のことでもありません。律法学者たちやファリサイ派の人たちが、人々に課した戒律という重荷です。人々は貧しい生活のゆえに彼らの課した戒律を守ることができず、劣った者と見なされ、社会の片隅に追いやられていたのです。《彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない》のでした。

しかし、イエスさまは律法学者たちとはちがいます。イエスさまは「あなたにわたしの手を貸しましょう。あなたの重荷をわたしが共に担いましょう」と言って呼びかけておられます。《わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。

軛(くびき)とは、荷車や犂(すき=畑を耕す農具)を引かせるために、二頭の牛またはロバを横につなぐものです。「わたしの軛」も「わたしの荷」も、負うべき荷であることは変わりありません。宗教指導者たちの重荷を降ろしたとしても、今度はイエスさまの軛または荷を負うのであれば、同じことだと思うでしょうか。キリスト教に好意的と見られる人でも、よくこう言うのを聞きます。「キリスト教にもいろいろ戒律があるのでしょう?私はとうていそういう戒律を守れるような人間ではありません。私にはキリスト教は無理です」と。

そういう人たちは、この軛が二頭立てであることに気づいていないようです。この軛が二頭立てであることの意味合いについては、パウロがコリントの信徒への手紙で、こう書いていることが参考になります。《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか》(Ⅱコリント6章14)。これでお分かりのように、軛が二頭立てであるということは、自分と誰かが一対となって軛につながれるということです。そして、イエスさまが「わたしの軛」と言ったら、それは一つの軛に、イエスさまと私が一対となってつながれて重荷を引く、すなわちイエスさまが私の重荷を私と一緒になって担ってくださるということを意味しているのでした。ですから、イエスさまを拒み、自分はどんな軛からも自由でいたいという人は、決して重荷を負わずに「安らぎ」を得ている、ということにはならず、旧態依然として自分ひとりでは負いきれない過大な荷を負い続けるということになるのです。

《だれでもわたしのもとに来なさい》という招きに応えて、イエスさまにお願いして、私と一緒に歩んでもらいましょう。私の重荷を一緒にを担いでいただき、荷を軽くしていただき、安らぎを得させてもらいましょう。そして、《わたしの軛を負い、わたしに学びなさい》と言われているように、共に荷を負ってくださるイエスさまから、荷の負い方、人生の歩み方を学びましょう。イエスさま自らが《わたしは柔和で謙遜な者だ》とおっしゃっておられるように、荷も軽く柔和で謙遜な歩みをできますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月17日 聖霊降臨後第5主日 「平和ではなく剣」

マタイによる福音書10章34〜42節
説教:高野 公雄 牧師

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

マタイによる福音書10章34〜42節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音書も、マタイ福音書10章の、12使徒を派遣するにあたってイエスさまが語った長い説教の続きで、その結びの部分です。先週の箇所では、迫害が予告されましたが、この個所も迫害下の宣教という状況を引き継いでいます。

きょうの福音書は、《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》という、意想外の言葉から始まります。イエスさまは《平和の君》(イザヤ書9章6)と称えられる方であり、《キリストはわたしたちの平和》(エフェソ2章14)であると信じられる方です。また、ご自身が山上の説教で《平和を実現する人々は、幸いである》(マタイ5章9)と教えられたのですが、きょうの言葉は、それとは反対のことを言っているように見えます。きょうはまず、このことからよく見ていきましょう。

イエスさまは初めに引用した言葉に続けて、《わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》と話しています。どうやら、イエスさまはキリスト教の伝道活動が、家族間の平和を壊すことにもなるであろうと、家族の平和を問題にしているようです。

イエスさまの預言のとおり、マタイたち使徒の時代から現代にいたるまで、ユダヤ人がクリスチャンになることは家族との別離、ユダヤ人社会からの追放を意味することになりました。

日本でも同じようです。先週は、江本真理牧師の父親である江本正幸牧師の葬儀について報告したとき、彼が長野県の農家の長男であって、家業の跡を継がずに牧師になる決心をしたことで、親から勘当されたということを話しました。私自身は三男でしたからどうなっても構わなかったのですが、それでも熱心に教会に通い始め、日曜日に家族と一緒に行動しなくなると、母から「きみちゃん(私は大学生でしたが、家族からそう呼ばれていました)、家族がばらばらになって良いものなのかねえ」と心配そうに訴えられました。そのことは、洗礼を受けるときにはある意味で出家する腹が必要な大きな決断なのだと悟らされました。私の生家の周りには高野姓の家がたくさんあったのですが、天理教の家がいわば村八分になっていました。また後に、牧師になってから、家族で自分ひとりがクリスチャンである女性が年を取って家族の世話になったとたんに、教会に通うことを禁じられた例を経験しています。

聖書に《あなたの父母を敬え》(出エジプト20章)という戒めがあり、また《あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章5)という戒めもあります。余程のことがなければ、この二つの戒めは両立するはずです。でも、「イエスさまを信じるのか、肉親を取るのか」と二者択一を迫られる時が来るかもしれない。そのときには、イエスさまを固く取って離さないように願い、勧めておられるのです。でも、《わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない》だなんて、まるでカルト宗教の言い分のようではありませんか。

では、二者択一の矛盾はどうして起きるのでしょうか。それは、イエスさまの教える「愛」が「肉親の情」を超える広さをもっているからです。《「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」》(マタイ12章48~50)。この言葉に示されたような、家族の絆よりももっと大切な真実に目覚めたとき、新しい生き方のもとで本当の意味で家族を愛せるようになるのではないでしょうか。

しかしまた、「平和」という言葉は、肉親という身の回り範囲のことだけでなく、もっと広い国家の問題、またもっと深い個人の魂の問題をも含んでいます。そのことをきょうの旧約聖書の日課(エレミヤ書28章5~9)は示していました。

この箇所には、旧約時代の預言者エレミヤと偽預言者のハナヌヤという人が出てきます。エレミヤは自分で首に木の枷(かせ)をつけた姿でいました。この首の枷は、ユダ王国は強大なバビロニア帝国に降伏して、バビロンに捕虜として引かれていくことを表します(これは「バビロン捕囚」と呼ばれます)。神はユダの人々の背信行為のゆえに災いを降しますが、70年の後にはまた約束の地に帰らせてくださるつもりだ、とエレミヤは言うのでした。反対に、偽預言者ハナヌヤは、70年ではなく2年で自分たちを苦しめているバビロンのネブカデネザルを追い払い、連れて行かれたエホヤキン王と奪われた宝は全部返ってくると言うのです。これはユダの人々が喜ぶ言葉です。この二人の預言のどちらを民衆が信じたでしょうか。もちろん偽預言者ハナヌヤです。

イスラエルの人々は互いに「シャローム」とあいさつを交わします。「あなたに平和があるように」、との祈願と祝福の言葉です。「平和」という言葉は、聖書の基本的な観念のひとつです。それは、単に国と国との間に戦いのないことではありません。神と人との間、人と人との間、人の心の中、人と自然の間に充実した平和・平安をもち、人が人として本来の姿をかちうることなのです。預言者エレミヤは人々の平和を願って、そのためには神に背信したことを認め、悔い改めなければならないと説くのですが、偽の預言者は偽りの平和を預言しています。《彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う》(エレミヤ書6章14)。私たちは人々の歓心を買おうとする偽預言者の言葉に惹かれ、本物の預言者の耳に痛い言葉を遠ざけるのです。《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの真実の言葉に耳を傾けましょう。パウロも、《人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです》(Ⅰテサロニケ5章3)と警告しています。

《平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》というイエスさまの使徒たちに対する、そして私たちに対するチャレンジはまだ続きます。それは、《また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない》という言葉です。

「十字架」つまり「磔刑」は、ローマ帝国の極刑でして、皇帝への反逆罪に対して課されるものでした。ローマ総督のピラトにとって、イエスさまが「ユダヤ人の王」つまりローマの支配を排除し、ユダヤの独立を図る者であることが罪状でした。イエスさまの左右に十字架に上げられた二人の強盗も、単なる物取りの強盗ではなく、独立運動に献身したゲリラ兵たちでした。「自分の十字架を担う」とは、弟子たちが、このゲリラ兵たちのように身命を賭してイエスさまに従うことを求めておられるのです。

ここで、「命あってのものだね」とばかり、保身に走ろうとする者に対しては、《自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである》と警告しておられます。自分を守ろうとする人、何ものからも自由であろうとする人は、玉ねぎのようにいくら皮をむいても芯に至らず、結局は守ろうとする自分が空であることに気付くことになろう。むしろそういう己を捨てて、イエスさまの福音に献身することによってこそ、本当の自分を見出すであろう。これは警告であると同時に、約束でもあります。

40~42節は結びの結びになります。ここに出てくる「預言者」、「正しい人」、「この小さな者」は、皆イエスさまの弟子のことです。ユダヤ教の思想に「使者は、遣わした者自身である」というのがあります。誰であれイエスさまによって福音宣教のために遣わされた者は、遣わした方自身と見なされます。リベリアの大使であるヤンガーさんは、リベリアという国またはリベリアの大統領を代表する方として受け入れられるのです。《あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである》とは、そういうことです。あなたがたは小さな者、弱い者であってもイエスさまの使者である。だから、あなたがたに《冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》。別の箇所でイエスさまは、《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイ25章40)とおっしゃっておられますが、イエスさまはあなたたちを、私たちをご自分の代理、いやご自分自身と見なすほどに大切に見ていてくださる。だから、不信仰な世にあって恐れずに宣べ伝えなさい、と私たちを励ましておられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年7月3日 聖霊降臨後第3主日 「弟子を派遣する」

マタイによる福音書9章35〜10章15節
説教:高野 公雄 牧師

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

マタイによる福音書9章35〜10章15節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

きょうの福音は、《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》という、要約記事から始まります。ところで、これと同じような言葉は4章23にもあって、そこでは《イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた》と書かれています。マタイによる福音書の5章~7章では山上の説教と呼ばれるイエスさまの教えの言葉がまとめて集められており、8章~9章ではイエスさまが行ったさまざまな奇跡や癒しの業がまとめて書かれているのですが、4章の言葉は、これから語られるイエスさまの言行を導入する言葉として置かれており、きょうの9章の言葉は、5章から9章まで語られてきたイエスさまの言葉と業のまとめの言葉として置かれているのです。

イエスさまが町々村々を巡り歩いて、福音を解き明かし、民衆をいやしたのは、《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》ためでした。群衆が弱り果て、打ちひしがれている様子を《飼い主のいない羊のよう》と言い表していますが、このような比喩は、福音書を書いたマタイの独創ではなくて、旧約聖書の時代の預言者たち以来の伝統的表現なのです。たとえばエゼキエル書34章です。預言者エゼキエルの時代、ユダヤ人は今のイラクに栄えたバビロニア帝国と戦って敗れ、エルサレム神殿は廃墟と化し、バビロン捕囚と呼ばれますが、多くのユダヤ人が帝国の都バビロンに捕虜として引かれていったのです。

《人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない》(エゼキエル34章2~6)。

つまりエゼキエルは、一方で、指導者たちが良い羊飼いではなく、本来なすべき務めを果たさなかったから、このような災いが起きたのだと責めますが、他方で、悲惨な状況におかれて弱り果てている羊の群れ、すなわち民衆を主なる神は憐れんでくださると預言します。

《わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る》(エゼキエル34章23~24)。

神さまが将来良い羊飼いとしてダビデを立ててくださると言うのですが、歴史上のダビデ王自身は預言者エゼキエルよりも300年も前の人です。では、ここで言われている「わが僕ダビデ」とは誰のことでしょう。マタイは、イエスさまが《群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》と書いています。つまり、マタイはイエスさまこそが「わが僕ダビデ」として神から立てられた、イスラエルの待望したメシア、良い羊飼いであると言っているのです。ここに、私たちはイエスさまが旧約聖書のメシア預言を成就されるお方であることを見ておきたいと思います。

《そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」》。

5章~9章でイエスさまの言葉と行いによる福音宣教が描かれた後、10章に移ると、いよいよ弟子たちもまた宣教活動に送り出されることになります。これから、イスラエルの12部族を象徴する12人の弟子を福音を宣べ伝える者として送り出そうとしている場面で、その弟子たちに《働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい》と命じるのは、不自然な感じがしないでもありません。しかしここでマタイは、イエスさまが弟子たちを派遣したという過去の歴史を記録するだけでなく、これを読む自分たちの教会の人々への呼びかけをも意図しているのです。21世紀のいま、日本ルーテル教団だけでなく、世界中の教会が司祭や牧師のなり手が少なくて、牧者のいない教会が増えている実情があります。私たちの教会では、礼拝の終わりに祈る「教会の祈り」の中で、月の第一日曜には必ず「牧師・宣教師を召し出してください」と祈っています。私たち自身がイエスさまの弟子として招かれ、派遣されるにあたって、自分たちの数も力も足りないことを痛感しながらこう祈るのです。イエスさまが目の当たりにしている群衆も、そしてこの教会に集う私たちも、無力で価値がないように見えるかもしれませんが、「飼い主」と「収穫のための働き手」がいれば、豊かないのちを得、大きな実りとなるはずなのです。

《十二使徒の名は次のとおりである》と、ここで初めて「弟子」ではなくて「使徒」という言葉が出て来ました。使徒という言葉は、イエスさまの生前には使われていなかったのですが、初代のキリスト教会の指導者に対して与えられた称号となりました。ギリシア語ではアポストロスですが、特別な使命を委託され、代表者として「派遣された者」とい意味です。イエスさまの十二人の弟子たちのほか、パウロやバルナバまた主の兄弟ヤコブが使徒と呼ばれています。

ここで十二人の名が二人一組で挙げられているのは、《(イエスは)十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた》(マルコ6章7)ということが背景にあるのでしょう。皆さまもエホバの証人の戸別訪問とかモルモン教会の伝道者たちが二人組で活動しているのに出会ったことがあると思います。十戒の中に《隣人に関して偽証してはならない》(出エジプト20章16)という戒めがありますが、公正を期するために、証人は必ず2人以上でなければならないと定められていました(民数記35章30、申命記19章15)。

《イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい》。

イエスさまご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(15章24)と言われますから、地上のイエスさまの目は、まず第一にユダヤ人同胞に向けられていました。この限定は、復活後の派遣命令《あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい》(28章19)で取り払われます。マタイは救いの段階を考えていました。福音はまずイスラエルに宣べ伝えられるけれども、彼らはイエスさまを否定する。そのあとで異邦人への宣教が開始されるとしています。8章11~12にこうあります。《言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう》。

神の憐れみは、それを心から受け入れる器を求めて、ユダヤの村から遠く地の果てまで歩き回っています。教会は自分たちのためにではなく、全世界のためにあるのです。「失われた羊」は群れから離れ、孤立してしまっている人と言ってもいいでしょう。わたしたちのごく身近にも「失われた羊」がいるのではないでしょうか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2011年6月26日 聖霊降臨後第2主日 「神の憐れみ」

マタイによる福音書9章9〜13節
説教:高野 公雄 牧師

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

マタイによる福音書9章9〜13節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 

聖霊降臨後の季節を迎え、きょうから聖卓の掛布も牧師のストラも緑色に変わりました。この緑の季節はきょうから11月の第3日曜まで丸5か月の間続きますが、この季節に、私たちは、イエスさまの言行、話された言葉や行われた業を通して、信仰と生活のあり方について学んでいくことになります。この季節の典礼色・緑は、教会と個々の信徒の「成長」を促す季節であること表すと共に、神にあって与えられる「希望」を表わしています。

本日与えられている福音は、マタイ9章9節から13節までですが、これから、この記事が私たちにとってどのような意味があるか、ご一緒に考えていきたいと思います。

マタイ福音9章ではまず、イエスさまが住んでおられた町、カファルナウムに戻られて後に、中風の人をいやすという出来事が語られます。そしてきょうの9節からの段落は、そこからふたたび旅立とうとした時に、《マタイという人が収税所に座っているのを見かけ》たことから始まります。徴税人マタイの出来事は、中風の人のいやしと同じく、そしてペトロやヨハネたちの召命のときと同じく、彼がまだ何も行動していないうちに、まずイエスさまがマタイに目を留め、マタイを招かれました。《私に従いなさい》。すると、マタイは立ち上がって、すぐにイエスさまに従ったということです。

マルコ福音2章13~17では、この徴税人はアルファイの子レビ、ルカ福音5章27~32では、ただレビとなっています。名前がふたつあったのでしょうか。マタイ10章3節では、十二弟子のなかに、《徴税人のマタイ》と出てきます。伝統的には、十二弟子の一人であるこのマタイが著者であると考えられて、マタイによる福音書は、その名が冠されています。

《収税所》というのは、主な街道に設けられていて、そこを通る人からローマ帝国の通行税を徴収する場でした。そこで収税業務を行う人が《徴税人》です。徴税人は直接にローマ帝国に雇われていたわけではなく、収税所で徴税する権利を買い取ったユダヤ人の「徴税人の頭」に雇われたのです。「徴税人の頭」の中には、ルカ19章のザアカイのように金持ちになった人もいたようですが、彼らに雇われた「徴税人」は、人々から徴収する通行税に自分の手数料を上乗せして収入を得る下積み労働者でした。ほかの仕事が見つからないから仕方なしにする仕事です。彼らは、一般に「不正な取立て」をしていると考えられていましたが、徴税人が「罪人(つみびと)」の代表のように言われる理由はそれだけではありません。神の国であるはずのイスラエルにローマ帝国が税を課すこと自体が神に反することであり、そのローマ帝国の徴税に加担していることが罪深いことだと見なされていたのです。彼らは、ユダヤ民族に対する裏切り者として同胞から嫌悪されていました。

このように見てくると、《わたしに従ってきなさい》というイエスさまの呼びかけが、マタイにとってどれほど大きな喜びであったかを感じるとることができるでしょう。「こんな私でも呼んでくださる」。イエスさまに招かれたことは、彼にとって重荷や負担ではなく、自分の存在に意味を見いだす大きな恵みの体験だったはずです。マタイはイエスさまへの感謝の思いから食事に招いたのでしょう。そこに《徴税人や罪人も大勢やって来》ます。

《ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と》非難します。イエスさまを非難してこういう見方をするファリサイ派とは、当時のユダヤ教の一派で、律法を細かく解釈し、厳格に守ろうとしていた人々でした。律法に熱心な彼らからすれば「律法を学びもせず、守ることもしていない人」は皆、「罪人」の部類に属しました。

さて、イエスさまはなぜ、罪人のレッテルを貼られている人たちと一緒に食事をするというような、当時のエリートたちの批判を招くような行動をとったのでしょうか。それが、きょうの福音のポイントです。

「一緒に食事をする」ということは、人々の絆を生み出し、その絆を確かめ合うという重要な意味を持っています。ユダヤ人にとって一緒に食事をすることは、さらに特別な意味を持っていました。地上で人間同士が共にする会食は、神のもとでの祝いの宴の先取りだと考えられました。地上で共に食事をする共同体は「神に救われる者の共同体」を表していたのです。ですから、ファリサイ派のような熱心なユダヤ人は決して罪人というレッテルを貼られた人とは食事をせず、イエスさまの行動につまずきます。マタイ11章19で、イエスさまは《見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ》とまで言われています。

一方のイエスさまは、だからこそ、罪人と一緒に食事をしたのです。非難に対して、まず、このように答えます。《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である》。イエスさまは「罪人」を「病人」にたとえます。「罪人は救われないダメな人間だ」と見るのではなく、「罪人こそ、救いといやしを必要としている人だ」という見方です。ですから、付け加えて、こうも言います。《わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。「正しい人」とは、「自分は律法に忠実に生きていて、神の前に落ち度がない、当然救いにあずかれる人間だ」と自負している人、「罪人」とは、神からも人からも断ち切られ、救いにあずかる資格はないと感じている人のことでしょう。神はそういう人をも祝宴に招待したいのです。

ところで、イエスさまの二つの格言のような言葉にはさまった13節前半の《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》という言葉は、先ほど読んでいただいた本日の旧約聖書の日課、ホセア書6章6からの引用です。新共同訳ではこうなっています。《わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない》。このように、旧約聖書そのものと新約聖書のおける旧約聖書の引用は、しばしば一致しません。それは、新約聖書が書かれた時代の人々は、ヘブライ語で書かれた原語の聖書ではなく、当時の世界共通語であったギリシア語に翻訳された旧約聖書を用いていたために、言葉に多少のずれが生じているのです。

さて、本題に戻ります。イエスさまは、後に18章10~14で、神にとって「イスラエルの家の失われた羊」がいかに大事かを、「迷い出た羊」のたとえで語っています。羊飼いは迷子になった一匹を救い出すために、九十九匹を野に残して捜し回ります。このたとえは、《そのように、これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない》と締めくくられます。私たちの天の《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》方なのです(5章45)。
ルカ福音書でも15章で、罪人との食事の意味を三つのたとえで説明しています。マタイ18章と同じ「見失った羊」のたとえと、「無くした銀貨」のたとえと、ご存じの「放蕩息子」のたとえです。良い羊飼いであるイエスさまは、忠実な残りの者だけではなく、群れ全体のことを配慮してくださるのです。
イエスさまは神の憐れみを言葉で表現するだけでなく、行動でもって実演して見せました。それによって、すべての人々に神の愛を告げたのです。聖書は、永遠の神のみことばです。みことばを読みましょう。書かれた文字の背後から、神は、そしてイエスさまは、あなたに直接に語りかけてきます。そのとき、時間空間を越えて活けるイエスさまがあなたの味方として、あなたと共にいることを実感するでしょう。いま、私たちもまた、罪人を招かれたこのイエスさまの招きを、自分に向けられた招きとして、喜んで受け入れたいと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン